わたしたちは校舎をぐるりと回った。手はにぎったままだったけど、凪都はなにも言わなくて、あまりにも静かで現実味のない散歩だった。いまが起きているのか夢の中なのかもわからなくなるような、不思議な散歩。いまなら、すっと眠れるかもしれない。凪都はそんなわたしに気づいたのか、中庭までもどったところで、そろそろ帰ろうか、と言った。

 中庭からは、男子寮のほうが近かった。しんとしている建物を前に、おやすみと言おうとしたわたしを、「ちょっと待って」と凪都が呼び止める。

「なに?」
「睡眠グッズ、貸すよ。一応、念のためにね」

 凪都はわたしを置いて、寮に入っていった。

 ――気まずいんだけど。どうしよう。

 男子寮に女子生徒は出入り禁止だ。しかもいまは消灯時間を過ぎている。見つかったらまずい。こんなところに、ひとりにしないでほしかった。そわそわする。

 ……できるだけ建物の陰に隠れよう。

 そう思ってあたりを見まわしたとき、あれ、と思った。

 明かりのついている部屋があった。一階の、ここからはすこし先にある部屋だ。ベッド脇の明かりをつけているのか、ほのかな橙色の明かりが窓からこぼれていた。凪都の部屋は、たしか二階だったと思う。ということは、あそこはべつの寮生の部屋かな。凪都以外にも、夏休みの居残り組がいるんだ。

 見つかったらまずい、と思うのに、すこしの好奇心もあった。ちょっとだけ……と、わたしは足音を忍ばせて、明かりのついた部屋に近づく。窓を開けているのか、声が聞こえてきた。

「凪都のやつ、また夜歩きしてるよ。先生にちくってやろうかな」

 びくりとした。これ、凪都の話題だ。……しかも、あまり好意的ではない話。陰口、というのが当てはまる声色に、近づいたことを後悔した。悪口なんて聞きたくない。聞きたくないのに、耳が拾ってしまう。

「大体、あいつ調子乗ってるし」
「わかるー。むかし、先輩の彼女を取ったんだろ? まじ、えぐいよな。なあ?」
「あー……、うん、そうだな」

 ……聞かなきゃよかった。

 自分の好奇心を恨んで、また息を殺して、凪都と別れた場所にもどる。

「お待たせ、柚」
「あ……、お、おかえり」
「なに? なんかあった?」

 帰ってきた凪都が首をかしげるから、わたしは「なんでもない」と返した。

 鼻筋の通ったきれいな顔を見ていると、すこしだけ気まずくなった。さっき聞いた陰口を思い出してしまう。恋愛に興味がない、と凪都は言っていた。だけどそういうひとでも、恋人……、というか、女子と親しくなる状況は、あるかもしれない。凪都はもてるし。

 だからって、さすがにひとの恋人には手出ししないよね。きっと、あんなのただの噂だ……と思う。本当の話だとは思いたくなかった。でもそう言い切れるほど、わたしと凪都は仲がいいわけじゃない。

 わたしは、ごまかすみたいに話題を変えた。

「それが睡眠グッズ? 小説?」

 凪都の手には、三冊の文庫本があった。

「夏目漱石に、宮沢賢治、太宰治……、うわあ、難しいの読んでるんだね。すごい」

 でも凪都は肩をすくめて笑った。

「読みはするけど、面白いと思ってるわけじゃない。文学のよさなんて、さっぱり」
「なにそれ。じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろう。でもこの時代の本は、面白いとは思わないけど、結構好きなんだ。暗くて、じめじめしてるし」

 ……それは、ほめてるのかな?

 不思議な凪都の読書趣味が面白くて、ちょっと笑ってしまう。

「とにかく、そういうつまらない本読んでたら眠くなると思うから。試してみなよ」
「わかった、そうする。ありがとう」

 おやすみ、と手をふって、今度こそわたしは女子寮にもどった。

 春野さんは、やっぱり心配そうに待っていた。申し訳なかったし怒られるかなと思ったけど、「もう大丈夫そう?」と、春野さんは眉を八の字にして言うだけだった。

「大丈夫です。すみません、迷惑かけて」
「いいの。ほら、部屋にもどって。ゆっくり休んでね」

 部屋では、七緒が相変わらず眠っていた。ベッドサイドの小さな電気をつけて、凪都に渡された本を見つめる。教科書でしか見たことがない、小説家の名前たち。ふと思い出した。

 太宰治って、自殺したんじゃなかったっけ。いや、心中……?

 思い出したとたん、その本は読めなくなった。

 夏目漱石の本を見てみたら『こころ』だった。中学のときにすこしだけ授業で読んだことを思い出す。たしか、登場人物が自殺するんじゃなかったっけ。

 じゃあ、宮沢賢治は? 『銀河鉄道の夜』……、読んだことはない。ちょっと嫌な予感があって、スマホで調べてみる。結果を見て、小説を手放した。

 だめだ、これも登場人物が死んでるじゃんか。暗くてじめじめしている――、凪都の言葉は、たしかにそうなのかもしれない。この本たちは読めそうにない。凪都はこのこと、気づいてるのかな。死にたいと思うから、そんなじめじめした本を好きだって思うの?

 目が冴えてきた。……全然、睡眠グッズじゃないよ、凪都の馬鹿。

 スマホが小さくふるえた。凪都からのメッセージで、どきりとした。開いてみると、URLだけが送られてきている。タップすれば動画サイトに飛んで、中庭で凪都が聴かせてくれた音楽が流れ出した。こっちのほうが、本よりもよっぽどいい。イヤホンをつけて、目を閉じた。静かな音楽が鼓膜を揺らす。

 自然と、凪都が背をなでてくれたときのあたたかさを思い出した。だけど、さっきみたいに落ち着けない。眠れない頭に、重たい気配がまとわりついている。音量を上げた。いまはとにかく、眠らなきゃ。

 なのに、声が――お姉ちゃんの声が、また、頭にじんと響いた。それはむかしから何度も何度も頭の中で繰り返された声。怒ったような泣いているような、そんな声だ。

『あんたなんて、いなきゃよかったのに』

 身体がふるえて、ぞわりと鳥肌が立つ。

 ……そうだよね、わたしのせいだもんね。わたしがいなきゃよかったんだ。

 ごめんね。ごめんなさい。だからお願い。

 死なないで。