夜の学校を歩くなんて、はじめてだ。ひとのいない暗い駐輪場やグラウンドは、いつも使っているはずなのに、知らない場所みたいだった。その景色に集中するようにしながら、深く息をする。周囲の音を聞き、通路を進み、足もとのタイルを数える。

 なにも考えるな。思い出すな。息をして。

 大丈夫、ほら、ちゃんと落ち着きはじめているから、大丈夫――。

「柚?」
「……え?」

 いつのまにか、中庭まで歩いてきていた。芝生の上のベンチに凪都がいた。驚いた顔が、月明かりに浮かんでいる。どうして、凪都がここにいるの。

「こんな時間に出歩くとか、柚は不良だな。まあ、俺もだけどさ」

 くすりと笑う凪都は、夢でも幻でもないみたいだ。

「体調悪そう。座れば?」
「あ……、うん」

 本当は、じっとしていたくなくて、外に出てきたはずだった。だけど、なんとなく凪都の言葉には素直に従っていた。息苦しさも、驚きで上書きされて、すこし遠のいた。

「女子のパジャマ、はじめて見た」
「……あんまり、見ないで」

 いまのわたしは、Tシャツと短パン姿だ。面白みもなければ、かわいげもない。どちらかというと無防備すぎて恥ずかしい。凪都も似たようなものだったけど、イケメンはなにを着たってさまになるんだ。うらやましい。

 無言が落ちた。そうなると、またわたしは苦しさを思い出してしまう。うつむいて、意識して呼吸を繰り返す。

 ああ、嫌だな。この苦しさを、嫌だと思う自分が嫌だ。これは、わたしへの罰で、受け入れなきゃいけないものだから、嫌だなんて言っちゃいけないのに。

「大丈夫?」

 答える力がない。だけど心配をかけるわけにはいかなくて、うなずきだけを返す。

 背中に、手が触れた。

「ゆっくり息しな」

 凪都の手だ。

 ……してる。しようとしてるよ。でも出来ないの。

 情けなくて、泣きたくなった。だけど泣いちゃだめだ。

「ゆっくり。柚、大丈夫だから」

 まだ、寒気はしている。でも凪都の手はあたたかかった。背中をさすってくれるのが頼もしい。それに、すこしして、凪都の手の動きにあわせて呼吸をすればいいんだって気づいた。

 ――いつも飄々としてるくせに、なんでいま、そんなにやさしいのかなあ。

 不意打ちに涙腺がゆるみそうになるから、やめてほしい。泣きたくないのに。

 息はすこしずつ、整いはじめていた。ゆっくり、ゆっくり……、大丈夫、息、出来てる。

「……ごめん、ありがとう。なんか眠れなくて、寮出てきちゃった」

 心配させないように笑ってみせると、凪都は「へえ」と大して感情のこもっていない相づちを打った。

「俺も同じようなものだよ」
「凪都も?」
「というか、俺はほぼ毎日出歩いてる。不良だろ」
「それは、不良だね」

 凪都が笑ったから、わたしも笑う。

「柚、これつけて」
「え?」

 すぽっと両耳を覆われて、頭が重くなる。なにこれ、……ヘッドフォン?

 小さな旋律が流れ出す。聴いたことのない、ゆったりとした曲。だけど男性ボーカルの声が心地いい。片耳を外して凪都を見上げると、彼は猫みたいに目を細めた。

「眠れないとき、俺は音楽聴いてると気がまぎれるから」

 気をつかってくれたのかな。なんなの、今日、本当にやさしい。

「……これ、いい曲だね」
「俺のお気に入り」

 凪都は顔をかたむけた。こつん、とわたしと凪都の頭がぶつかる。わ、と思った。顔がじわじわと熱くなっていくのがわかる。なにしてるのと言いかけて、凪都がわたしの顔というより、ヘッドフォンに耳を寄せているんだって気づいた。

 凪都が口ずさむ。その声が、きれいだった。

「うまいね、凪都」
「意外?」
「ううん。凪都って、なんでもできそうな感じあるから。凪都みたいに器用なひと、うらやましい」

 勉強も、苦労している様子がなかった。運動だって得意だ。淡々とすべてをこなしていく印象がある。平均を上回るために必死に頑張っているわたしとは、大違いだ。

 ――もう、五分経ってるよね。

 春野さんが心配しているかもしれないな、と頭ではそう思う。それでも、帰りたくなかった。もうすこし、ここにいたい。ここにいる間は、息ができそうだったから。

「……凪都は、さ」
「ん?」
「なんで、眠れなかったの」

 ヘッドフォンの音楽の向こうで、凪都はすこし考え、空を見上げた。月が出ている。だけど、薄い雲がかかっていて星は見えなかった。

「たいした理由はないよ」

 ちょうど、そこで音楽が終わった。凪都がわたしの頭からヘッドフォンを取る。

「俺の悩みなんて、どうでもいいことだったから、気にしなくていい」

 ……だった?

「過去形? どういうこと? 悩みは解決したの?」
「さあ、どうだろう」

 笑って、凪都が立ち上がる。煙に巻かれた。そうなると、わたしももうなにも言えなくなる。やっぱり凪都は、自分のことを教えてくれないんだ。

「せっかくだし散歩しよ、柚」
「え……? でも、そろそろもどらないと」

 春野さんが寮で待っている。それなのに、凪都はわたしの手を引いた。さっきはあたたかいと思った手が、いまはひやりと冷たく感じた。

「すこしは顔色よくなったけど、まだ無理って顔してる。だから、散歩」

 わたしがぽかんとしている間に、凪都はどんどん進んでいく。わけがわからないまま、引きずられるみたいに、わたしもついていく。というか……。

「手をつなぐ必要、ある?」
「あるよ。だってほら、夜って迷子になりそうだしさ」

 この歳で、こんなに近くにいて、迷子にはならないでしょ。凪都の考えることは、やっぱりよくわからない――、と思ったけど、すこし歩いてから、わたしも納得した。夜の闇の中にいると、凪都の姿が溶けてしまいそうに見えた。ろうそくの火を吹き消すみたいに、ふっと闇に消えて、もうもどってこなくなるような。

「凪都は、うそばっかりだよね」

 一年生のころ出会って、凪都と話すようになってから、彼はずっと憂鬱そうだった。彼の悩みがたいしたことないなんて、うそだ。今日だって、図書室で会ったときからずっと暗い瞳をしているのに。どうしたら、悩みを打ち明けてくれる? 死ぬのを、やめてくれる?

 もう、だれかがいなくなるのは、嫌だよ。