終業式。
ホームルームも終わると、同級生たちは解放された顔で「よっしゃ、夏休みだー」と笑い合って、教室を出ていく。
俺はリュックを持って、図書室に向かった。図書室は、いつだって静かだ。一番奥の席に座って、小説を開く。すこし読み進めてから視線を横に向けると、あちこちを白く輝かせる海が、窓から見えた。
――柚がいなくなって、一年経った。
去年、柚がはじめて夏休みの図書室に来たとき、息が止まるかと思った。最初は夢だと思った。夢でもいいから、柚を見捨てた俺の罪を裁いてほしかった。だけど柚は、俺に怨み言を言うために来たわけじゃなかったし、夢でもないらしくて、驚いた。都合のいい妄想かとも疑って柚に手を伸ばしたら、触れられた。たしかに柚はそこにいた。
あの日、柚のとなりで本を開きながら、なんなんだろうこの状況は、と考えていた。本の内容は頭に入らなくて、ただ、ページをめくっていただけだった。
一度落ち着こうと図書室を出たら、七緒さんに会った。柚とルームメイトの彼女に、迷いながら柚のことを打ち明けた。七緒さんは柚がいる図書室の窓を見上げて、泣いた。
『柚のためなら、凪都に言われなくたって、なんでもするよ』
七緒さんがめちゃくちゃに泣くから、柚に勘づかれるんじゃないかと不安になったけど、どうにか「彼氏と喧嘩した」といううそで乗り切っていた。
あの夏は、苦しいことがたくさんあった。俺が殺した子と、ずっと過ごした。なのに当の柚はなにも知らなくて、俺に笑いかけてくる。俺のためにって、頑張っている。
柚に、なにを悩んでいるのかを聞かれたときは、胸を突き刺された気分だった。
諒と喧嘩して、ひとを信じられなくて、生きるのが面倒くさくて――、そんなどうでもいい小さな悩のために、柚を死なせた。そんな大きな罪の意識。でもそんなこと言えなくて、ごまかした。
柚は、日に日に見えなくなっていた。七緒さんにも相談して、柚が透けてきていることを知られないように、柚と触れ合わないようにした。七緒さんが一時期、柚の髪型を変えなくなったのも、そのせいだった。
柚の声も聞こえなくなってきて、俺はイヤホンをつけるようになった。音楽なんて流さない。ただ柚の声に反応が鈍くなっていることを知られたくなかった。
それでも確実に、柚は消えていく。苦しさはどんどん増えていった。柚が死ぬなら、俺も死ぬべきだった。
だからあの日、言ったんだ。
*
「ねえ、柚。心中しようよ」
夕暮れの図書室に落とされた、空虚なささやき。その返事の前には、すこしの沈黙が生まれた。だけど。
「嫌だよ。わたしは生きる」
東坂柚は、自分の意見を言うのが苦手な女子高生。自分でもそう認めているくせに、きっぱりと返していた。
「そういうこと言わないで、凪都」
「……ごめん。冗談」
ふっと、かすかな笑いをきっかけに、話題は煙に巻かれた。でも、つい思ってしまう。
――うそつき。
わたしは生きる、なんてうそだ。もう死んでるくせに。俺が死なせたくせに。
*
柚の家で、柚の両親と会ったとき、どんな顔をすればいいのかわからなかった。自分を責めているふたりに、全部打ち明けてしまおうかとも思った。あなたたちのせいじゃなくて、俺のせいなんだって。でもできなかった。
柚が死にたくないと言ったとき、泣きたくてたまらなかった。
あれから一年。まだ、ずっと、後悔している。柚がなにを言っても、俺は一生後悔しつづける。それでも、柚が俺に生きろと願ったから。生きていくしかない。
本を閉じて図書室を出ると、七緒さんに会った。
「やっほ、凪都。ちょうど会いに行くとこだったんだよ」
「なに?」
「夏休みの計画立てようと思って。今年も遊びつくさないとじゃん?」
七緒さんは楽しそうに笑って、海と、遊園地と、早朝ランニングと……と、指折り数えていく。
「あと夏祭りもね! 今年は女子寮メンバーと、凪都と諒で行こう。凪都も浴衣で参加してよ」
「あー、うん、わかった」
校舎を出て、ふたりで寮に向かって歩く。
「去年、柚がね、凪都の浴衣も見たかったって言ってて。だから浴衣参加は必須だからね、忘れないでよ」
「はいはい」
ほんのすこし七緒さんの声が沈んでいた。それに気づかないふりをして、俺もうなずく。柚がいないなら意味がないのに、と、きっとお互い思ってる。
「夏祭り行く前にさ、柚のお墓、行こうね」
「……わかった」
蝉の声がうるさい。陽射しが痛い。
「わたしさ」
七緒さんが、前を見たまま言った。
「わりとずけずけしてる性格じゃんか。だからクラスの一軍女子っていうの? そういう子にうざがられること、たまにあってね」
突然なんの話だろうと思ったけど、へえ、とうなずく。
「中学のときもそうだったし、高校入って一年のときも、そんな感じだった。でも柚は、わたしと一緒にいてくれたんだ。柚のとなりって、落ち着くから好きだった」
「……そう」
知らなかった。七緒さんはいつも明るいから。柚はこのことを、知っていたんだろうか。気づいていなかったかもしれない。柚は、そういうところが鈍感だった。生きていたら、いつか知ったのかもしれないけど、柚はもういない。
夏休みに柚と撮った写真も、見返したら、いつのまにか柚だけが消えていた。もう、彼女はこの世界にいないんだ。
「好きだったんだよねえ、柚のこと」
つぶやく七緒さんのとなりを、無言で歩く。
「お、凪都!」
木陰に数人で集まっていた男子の集団から、諒が手をふってきた。バスケ部の集団か。
「凪都さ、この夏もランニングするだろ? 俺も行くから、あとで時間教えて!」
「ちょっと、わたしも行くからねー、忘れないでよ、諒!」
「あ、やっぱ七緒さんも来んの? 七緒さんのスピードえぐいから困るんだけど!」
七緒さんと諒が笑っている。今年の夏も、騒がしくなりそうだった。最初はひとりで走っていたのに、柚が増えて、七緒さんと諒が増えて。柚がいなくなって。
「おい、諒。練習もどるぞ」
「あ、うん。悪い悪い」
バスケ部のほかのメンバーが、不機嫌そうに言った。中学のときに部活仲間だったその男は、俺をにらんだ。相変わらず、嫌われている。面倒くさいな。適当に無視して、通り過ぎようとした。でも、声が聞こえてきた。
「だれっすか、あのひと。めっちゃイケメン。部活入ってもらったら、かわいいマネージャーとか来てくれそうですね」
一年生か。無邪気な声だった。
「やめとけって。あいつ、いい噂ないから。去年、クラスメイト見殺しにしたんだし」
「え……、なんですか、それ」
おい、と諒が止めようとする。だけどその情報を流したのは俺自身だ。そういう陰口を叩かれることは想定していた、というより、そうなってほしかった。馬鹿な俺を責めてほしくて。
「あとあいつ、ひとの彼女とる癖あるから、気をつけろよ」
「――あのさ」
びくりと、元部活仲間がふり返る。俺が反論するとは思わなかったらしい。実際、いままではなにを言われても放置することが多かった。それでも。
「ひとの彼女なんて興味ないよ。俺、好きな子いるから」
呆気にとられるバスケ部メンバーに背を向けて、さっさとその場を後にする。
「お熱いことで」
「まあね」
となりの七緒さんと笑い合う。
おせっかいな子だった。臆病な子だった。やさしい子だった。強い子だった。
柚が死んだあとに彼女を好きになるなんて、苦しかった。
それでも、生きたいと願った彼女が手に入れられなかったこれからの日々を、俺は生きていく。面倒くさいし、つらいと思うことも多いけど、もしかしたらこれから、楽しいとか、生きていてよかったって思える日が本当に来るかもしれないし。柚がそう言ったから、すこしは期待してみてもいいかもしれないと思えた。
そういうふうに、俺は生きたい。
「あー、あっつ」
柚はもういない。
それでも、一日一日、俺は生きていく。
きっとそんな俺に、柚は笑いかけてくれるから。
彼女を思いながら、またここから、夏をはじめる。
(了)
ホームルームも終わると、同級生たちは解放された顔で「よっしゃ、夏休みだー」と笑い合って、教室を出ていく。
俺はリュックを持って、図書室に向かった。図書室は、いつだって静かだ。一番奥の席に座って、小説を開く。すこし読み進めてから視線を横に向けると、あちこちを白く輝かせる海が、窓から見えた。
――柚がいなくなって、一年経った。
去年、柚がはじめて夏休みの図書室に来たとき、息が止まるかと思った。最初は夢だと思った。夢でもいいから、柚を見捨てた俺の罪を裁いてほしかった。だけど柚は、俺に怨み言を言うために来たわけじゃなかったし、夢でもないらしくて、驚いた。都合のいい妄想かとも疑って柚に手を伸ばしたら、触れられた。たしかに柚はそこにいた。
あの日、柚のとなりで本を開きながら、なんなんだろうこの状況は、と考えていた。本の内容は頭に入らなくて、ただ、ページをめくっていただけだった。
一度落ち着こうと図書室を出たら、七緒さんに会った。柚とルームメイトの彼女に、迷いながら柚のことを打ち明けた。七緒さんは柚がいる図書室の窓を見上げて、泣いた。
『柚のためなら、凪都に言われなくたって、なんでもするよ』
七緒さんがめちゃくちゃに泣くから、柚に勘づかれるんじゃないかと不安になったけど、どうにか「彼氏と喧嘩した」といううそで乗り切っていた。
あの夏は、苦しいことがたくさんあった。俺が殺した子と、ずっと過ごした。なのに当の柚はなにも知らなくて、俺に笑いかけてくる。俺のためにって、頑張っている。
柚に、なにを悩んでいるのかを聞かれたときは、胸を突き刺された気分だった。
諒と喧嘩して、ひとを信じられなくて、生きるのが面倒くさくて――、そんなどうでもいい小さな悩のために、柚を死なせた。そんな大きな罪の意識。でもそんなこと言えなくて、ごまかした。
柚は、日に日に見えなくなっていた。七緒さんにも相談して、柚が透けてきていることを知られないように、柚と触れ合わないようにした。七緒さんが一時期、柚の髪型を変えなくなったのも、そのせいだった。
柚の声も聞こえなくなってきて、俺はイヤホンをつけるようになった。音楽なんて流さない。ただ柚の声に反応が鈍くなっていることを知られたくなかった。
それでも確実に、柚は消えていく。苦しさはどんどん増えていった。柚が死ぬなら、俺も死ぬべきだった。
だからあの日、言ったんだ。
*
「ねえ、柚。心中しようよ」
夕暮れの図書室に落とされた、空虚なささやき。その返事の前には、すこしの沈黙が生まれた。だけど。
「嫌だよ。わたしは生きる」
東坂柚は、自分の意見を言うのが苦手な女子高生。自分でもそう認めているくせに、きっぱりと返していた。
「そういうこと言わないで、凪都」
「……ごめん。冗談」
ふっと、かすかな笑いをきっかけに、話題は煙に巻かれた。でも、つい思ってしまう。
――うそつき。
わたしは生きる、なんてうそだ。もう死んでるくせに。俺が死なせたくせに。
*
柚の家で、柚の両親と会ったとき、どんな顔をすればいいのかわからなかった。自分を責めているふたりに、全部打ち明けてしまおうかとも思った。あなたたちのせいじゃなくて、俺のせいなんだって。でもできなかった。
柚が死にたくないと言ったとき、泣きたくてたまらなかった。
あれから一年。まだ、ずっと、後悔している。柚がなにを言っても、俺は一生後悔しつづける。それでも、柚が俺に生きろと願ったから。生きていくしかない。
本を閉じて図書室を出ると、七緒さんに会った。
「やっほ、凪都。ちょうど会いに行くとこだったんだよ」
「なに?」
「夏休みの計画立てようと思って。今年も遊びつくさないとじゃん?」
七緒さんは楽しそうに笑って、海と、遊園地と、早朝ランニングと……と、指折り数えていく。
「あと夏祭りもね! 今年は女子寮メンバーと、凪都と諒で行こう。凪都も浴衣で参加してよ」
「あー、うん、わかった」
校舎を出て、ふたりで寮に向かって歩く。
「去年、柚がね、凪都の浴衣も見たかったって言ってて。だから浴衣参加は必須だからね、忘れないでよ」
「はいはい」
ほんのすこし七緒さんの声が沈んでいた。それに気づかないふりをして、俺もうなずく。柚がいないなら意味がないのに、と、きっとお互い思ってる。
「夏祭り行く前にさ、柚のお墓、行こうね」
「……わかった」
蝉の声がうるさい。陽射しが痛い。
「わたしさ」
七緒さんが、前を見たまま言った。
「わりとずけずけしてる性格じゃんか。だからクラスの一軍女子っていうの? そういう子にうざがられること、たまにあってね」
突然なんの話だろうと思ったけど、へえ、とうなずく。
「中学のときもそうだったし、高校入って一年のときも、そんな感じだった。でも柚は、わたしと一緒にいてくれたんだ。柚のとなりって、落ち着くから好きだった」
「……そう」
知らなかった。七緒さんはいつも明るいから。柚はこのことを、知っていたんだろうか。気づいていなかったかもしれない。柚は、そういうところが鈍感だった。生きていたら、いつか知ったのかもしれないけど、柚はもういない。
夏休みに柚と撮った写真も、見返したら、いつのまにか柚だけが消えていた。もう、彼女はこの世界にいないんだ。
「好きだったんだよねえ、柚のこと」
つぶやく七緒さんのとなりを、無言で歩く。
「お、凪都!」
木陰に数人で集まっていた男子の集団から、諒が手をふってきた。バスケ部の集団か。
「凪都さ、この夏もランニングするだろ? 俺も行くから、あとで時間教えて!」
「ちょっと、わたしも行くからねー、忘れないでよ、諒!」
「あ、やっぱ七緒さんも来んの? 七緒さんのスピードえぐいから困るんだけど!」
七緒さんと諒が笑っている。今年の夏も、騒がしくなりそうだった。最初はひとりで走っていたのに、柚が増えて、七緒さんと諒が増えて。柚がいなくなって。
「おい、諒。練習もどるぞ」
「あ、うん。悪い悪い」
バスケ部のほかのメンバーが、不機嫌そうに言った。中学のときに部活仲間だったその男は、俺をにらんだ。相変わらず、嫌われている。面倒くさいな。適当に無視して、通り過ぎようとした。でも、声が聞こえてきた。
「だれっすか、あのひと。めっちゃイケメン。部活入ってもらったら、かわいいマネージャーとか来てくれそうですね」
一年生か。無邪気な声だった。
「やめとけって。あいつ、いい噂ないから。去年、クラスメイト見殺しにしたんだし」
「え……、なんですか、それ」
おい、と諒が止めようとする。だけどその情報を流したのは俺自身だ。そういう陰口を叩かれることは想定していた、というより、そうなってほしかった。馬鹿な俺を責めてほしくて。
「あとあいつ、ひとの彼女とる癖あるから、気をつけろよ」
「――あのさ」
びくりと、元部活仲間がふり返る。俺が反論するとは思わなかったらしい。実際、いままではなにを言われても放置することが多かった。それでも。
「ひとの彼女なんて興味ないよ。俺、好きな子いるから」
呆気にとられるバスケ部メンバーに背を向けて、さっさとその場を後にする。
「お熱いことで」
「まあね」
となりの七緒さんと笑い合う。
おせっかいな子だった。臆病な子だった。やさしい子だった。強い子だった。
柚が死んだあとに彼女を好きになるなんて、苦しかった。
それでも、生きたいと願った彼女が手に入れられなかったこれからの日々を、俺は生きていく。面倒くさいし、つらいと思うことも多いけど、もしかしたらこれから、楽しいとか、生きていてよかったって思える日が本当に来るかもしれないし。柚がそう言ったから、すこしは期待してみてもいいかもしれないと思えた。
そういうふうに、俺は生きたい。
「あー、あっつ」
柚はもういない。
それでも、一日一日、俺は生きていく。
きっとそんな俺に、柚は笑いかけてくれるから。
彼女を思いながら、またここから、夏をはじめる。
(了)