八月三十一日。夕暮れの波打ち際で、三人が笑っていた。

「さっきのわんちゃん、めっちゃかわいかったね」
「大型犬っていいよなあ! 俺も飼いたい!」
「諒が大型犬みたいなもんだろ」

 七緒がはしゃいで、諒さんが目を輝かせて、凪都が呆れて。

「……犬は、ちょっと勘弁だなあ」

 わたしはみんなの後ろで、苦笑した。

 夏休みがもう終わる。わたしの姿は、みんなには見えていない。あの日、登校日が終わってから、わたしの姿はだれにも見えなくなった。七緒にも、凪都にも。あと一週間はみんなといられると思ったのにな……。

 みんなには見えないし、ひとにもものにも触れられない。わたしはお風呂にも入れないし、制服姿のままで一週間過ごす羽目になってしまって、だいぶ困った。

 一番の心残りだった凪都への不安が消えたから、もうわたしがここにいる意味がなくなったってことなのかもしれない。

 登校日のあの騒動は、チャットもSNSも、自分に罰を与えるために凪都がしたことだった。学校に帰ってから、凪都は先生にひどく怒られていた。名前も写真もSNSで拡散されてしまったから、簡単には消せない。それでも凪都は、全部を背負って生きると決めた。わたしが死んだことも、罪悪感も、全部抱えて、それでも生きるって。

 七緒も諒さんも、そんな凪都のそばにいてくれている。……くれている、っていうのは、おかしいかな。ふたりとも、そうしたいからしているだけなんだと思う。うん。やっぱり、わたしたちの友だちは最高だ。

「じゃ、そろそろ帰ろうか。柚も帰るよー」

 七緒が言って、みんなが寮にもどろうとする。みんな、わたしが見えないのに、わたしがいるようにふる舞っていてくれた。でもそれも、今日で終わりだ。

 わたしたちは海から上がって、学校への坂道をのぼりはじめる。

「あーあ、明日から面倒くさいなあ」
「でもほら、秋は文化祭あるよ。七緒さんたちのクラス、なにやんの?」
「クレープ屋! 凪都を客寄せにしたら、女子の客増えると思うんだよね」
「嫌だけど。接客面倒だから。俺は裏方」

 みんなの後ろを、わたしはついていく。いいな、文化祭。凪都の接客は愛想がなさそうだけど、見てみたい。

 空の色が橙に染まっていく。今日はみんな、いつもより遅くまで遊んでいた。みんなの後ろ姿が、夕陽に染められて輪郭を輝かせる。

「なあ凪都。体育の選択競技、なにする?」

 諒さんが首をかしげる。体育は二クラス合同で受けていて、わたしたちと諒さんのクラスが同じ時間割だった。各自で競技を選択できるから、結構自由な雰囲気だ。

「よかったらだけど、バスケ、一緒にやらね?」
「無理。遊びならいいけど、真面目にやりたくない」
「お前、嫌だ、無理、ばっかじゃん」

 諒さんがむっと眉を寄せて、それを七緒が笑っている。わたしはそれを、見つめている。

 凪都は相変わらず憂鬱そうだった。そんなにすぐ立ち直れるわけじゃないんだと思う。だけどうそつきだから、なんでもないような顔をして過ごす。そのうそが、いつか本当になればいい。きっと、なる。大丈夫。だって凪都のまわりにはみんながいる。凪都だってもう、死にたがりをやめたから。

 みんなの話がつづいている。背後では、夕陽が海に沈んでいこうとしていた。もうすぐ、一日が終わる。夏が終わる。

 さっき通り過ぎた踏切が鳴った。すこしして、電車が通り過ぎていく音がする。カンカンカン……、と音が尾を引いて消えたあと、わたしの耳に、潮騒が届いた。海のにおいが、鼻をくすぐる。

 はっとして、ふり返った。いま、なつかしい声に、呼ばれた気がした。

「……お姉ちゃん?」

 足を止めて、海を見つめる。誘うような、やさしい波の音が耳に心地よく響いた。寄せては返す波の音。わたしを誘う、波の音。自然と心が、海に向かう。ああそうか、って気づく。これが、わたしの終わりだ。

 みんなの声が、遠のいていく。わたしはみんなの背中を見つめる。

「凪都」

 声は届かない。

「七緒。諒さん」

 みんな、わたしを置いて、歩いていく。

 ――わかってた。その時が、きただけだ。

 立ち止まったわたしと、歩いていくみんなの距離が広がっていく。

 寮の荷物は全部まとめてあった。きっと春野さんが、お母さんとお父さんに届けてくれる。春野さんには朝、頭を下げてきた。

 宮先輩、由香ちゃん、未央ちゃんは今朝、海に行く七緒を見て「じゃあ柚ちゃんもそっちに行くだろうね」「先輩、いってらっしゃい」「楽しんでくださいね、柚先輩」って送り出してくれた。わたしも「いってきます」って伝えてきた。

 大丈夫。やりたいことは、たくさんやった。息を吸い込む。

「ありがとう」

 もう、満足だ。歩きつづける三人の背中に、微笑みかける。

「ばいばい」

 わたしは、三人に背を向けた。いま来たばかりの道をもどる。夕陽を受けてやわらかな橙に染まった海を目指す。それはとてもきれいで、わたしが来るのを歓迎しているみたいだった。

 楽しかった。なんてぜいたくな、死んでからの一か月だったんだろう。みんな、すごくやさしかった。幸せだった。大好きだった。みんなのこと、すごく、大好きだった。

 歩きながら、視界がぼやけた。手の甲で目もとを拭う。

 海の香りが強くなる。

「もう、満足だよ」

 踏切を越える。やさしい海が広がっている。砂浜を歩いて、波に足を踏み出す。冷たくはなかった。だけど、心地よかった。一歩、二歩と踏み出す。そのたびに、わたしは海に溶けていくような気分になる。

 ――好きだって、言えなかったな。

 凪都に伝えられなかった。わたしの部屋で言いかけたけど、凪都に「それを聞く資格はない」って途中で止められたから。ひどいな、言わせてくれたらよかったのに。

 満足。……だけど、やっぱりそれは伝えておきたかった。

「凪都のばか」

 涙がこぼれた。

 あとすこしだけ、凪都と話したかった。あともうすこし、一緒にいたかった。ほんのすこしの時間でもいいから、凪都の瞳にわたしを映してほしかった。あともうすこしだけ、一緒に、生きたかった。涙がぽろぽろと、波にこぼれていく。

 夕空を見上げて、目を閉じた。さすがに、もうこれ以上を望むのはわがまますぎる。仕方がない。これでもすごく、神さまはわたしにやさしくしてくれた。

 うん、そうだね。これで、よかったんだ。

 目を開く。やわらかな夕陽と潮騒に包まれる。夢みたいな世界だった。

 ――さようなら。ありがとう。大好きだった。

 そうしてわたしは、海の彼方へ踏み出していく。消えるための一歩を踏み出す。

 そのとき、だった。

 腕をつかまれて、うしろに引かれた。わ、とバランスを崩して、後ろにいたひとの胸に収まる。

「待って」

 耳にふれる声に、わたしは目を見開く。

「……凪都?」

 おそるおそるふり向いて、見上げて、息が止まるかと思った。凪都が、立っていた。その瞳に、わたしが映っていた。

「なん、で……」

 凪都が泣きそうな顔で、すこしだけ笑う。

「柚が、泣いてる気がしたから」
「え?」
「ひとりで泣かせないって、言った。なんで、勝手にどっか行こうとするんだよ」

 夢じゃなくて、幻でもない。凪都だ。ほんとに、凪都がいる。あともうすこし、が叶ったんだ。本当に、ぜいたくだなあ、この夏は。さっきよりももっと涙が落ちて、凪都の指先がわたしの頬をなでた。

「……わたし、登校日にね」

 しゃくりあげながら、わたしは言う。

「泣いたんだよ。凪都が学校から出ていったあと。あのとき、ひとりで泣いてた。あのときは凪都、来てくれなかった。むしろわたしが凪都に会いに行った」
「……そういうこと言う?」

 凪都がちょっと笑う。

「言うよ。根に持ってるから」

 わたしも笑う。

「でも今日は来てくれたから、許すね」

 見上げた凪都の頬を、両手で包む。あたたかさを感じるのも、もうこの時間で終わりなんだ。指先で、凪都をたしかめる。

 夕陽に照らされて縁が橙に輝くやわらかな黒髪も。静かな色の黒い瞳も。薄いくちびるも。平淡に聞こえて、あたたかい声も。全部。全部がね、わたしは。

「凪都」
「なに」

 好き、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もうすぐ消えるわたしのそんな言葉は、迷惑にならないかな。さっきは言いたかったって思ったのに、やっぱり、わたしは臆病だ。すごく好き、なんだけどな。やっぱり、やめておこうかな。

 すぐ近くにある凪都を見つめて、曖昧に笑った。

 ふと、頭の後ろを支えられて、引き寄せられた。え、と思う暇もなかった。ほんの一瞬。ささやかな感覚が、くちびるに触れた。その一瞬が、永遠だった。

「――好きだよ」

 そのまま抱きしめられて、耳もとに凪都のやさしい声がする。

「会いに来てくれて、ありがとう、柚。生きてって言ってくれて、許してくれて、そばにいてくれて、ありがとう。……ごめん、ずっと言えなくて。本当に俺は、遅れて気づくことばっかりだ」

 ぬくもりに包まれて、わたしはまた、泣いてしまう。

「……わたしがいて、つらくなかった?」
「つらかった。でも、会えてよかった」

 腕の力が強まる。

「海でさ、犬におびえてる柚は、面白かったよ。夏祭りの浴衣、似合ってた。諒と仲直りさせてくれて、嬉しかった。俺の悩みをなくしたいって言ってくれて、どこまでやさしいんだろうって思った。夜の散歩もランニングもひとりでいいと思ってたのに、柚がいると楽しかったんだ」
「……凪都が笑ってるところ、わたし、大好きだったから。嬉しいな」

 わたしも、凪都の背中に手を回す。もう迷うことはなかった。

「凪都が好きだよ」

 すこしずつ自分が消えていくのが、わかった。足が、腕が、輪郭を失っていく。潮騒にまぎれて消えていく。でも、あともうすこしだけ、話をさせて。消えないように、凪都にすがりつく。あともうすこしだから。

「凪都がいたから、お姉ちゃんのこと、乗り越えられたよ。お母さんとお父さんも、きっと前を向けた。ありがとう。凪都は幸せになってね。いつか、わたしを忘れてもいいから」
「……忘れないよ」
「え」

 わたしはちょっと黙り込む。

「……うーん、そっか、どうしよう」
「なんで、そこで微妙な反応」
「いや、凪都が一生独身になっちゃいそうで、かわいそうだなって」
「独身って。先の話すぎる」

 ふたりして、ちょっと笑った。

「でも、いつかは来る未来だよ。ちょっと寂しいけど、凪都が幸せになるなら、どんな未来だっていいんだよ。そのためなら、わたしのこと忘れてもいいからね。あ、いやでも、ちょっとは覚えててほしいんだけど。頭のかたすみ程度に」
「どっち」
「どっちの思いもあるの」
「わがまま」
「いいでしょ、こんなときくらい」
「うん。いいよ。ちゃんとずっと、忘れないから」

 凪都の腕の中で、自分が消えていくことを感じる。眠い。休みの日にまどろむみたいな、そんな心地よさ。身体の感覚が消えていく。一秒一秒、たしかにわたしは、世界から消えていくんだ。

「凪都」
「なに」
「好きだよ」
「……知ってる」
「そっかぁ、よかった」

 それが伝えられたなら、もう思い残すことはない。……本当のところ、まだ生きたいと思うけど、でも、これでいいんだ。

 凪都がささやく。

「柚。ありがとう」

 ごめんじゃなくて、ありがとう。それが、とても嬉しい。嬉しくて、泣いてしまう。

 目の前の世界がかすんで、色彩が淡くなっていく。聞こえるのは、静かな波の音だけ。それはわたしを包み込むような、やさしい音。とても幸せな、わたしの一生。とても幸せな、わたしの終わり。

 この夏のことを思い出す。最初から最後まで、凪都にいろいろとふり回されたなあ、って笑えてくる。でもそれも、全部報われたんだ。凪都が生きてくれるなら、それでいい。これからの凪都の未来が、幸せでありますように。

 わたしと凪都のつながりも、いま、静かにほどけようとしていた。意識が潮騒にまぎれて、わたしは透明になり、海にとけていく。

「ばいばい。凪都」

 静かに、海へとけていく。

 遠くで、凪都の声が聞こえた。

「……好きだよ、柚」

 知ってるよ。ちゃんと、知ってる。

 ――ありがとう。

 短くて長かった、すこしいびつな今年の夏が、わたしは大好きだった。とてもとても、大好きだった。

 思い出を抱きしめながら微笑んで、わたしはゆっくりと眠りについた。