ふり返る凪都のお腹に抱きつく。どこにも行かないように、抱きしめた。
「……柚」
「ばか!」
生まれてからこんなに声を張ったことがなくて、ふるえてしまう。
「死なないでって、何回わたしに言わせる気! ふざけないで!」
「なんで、ここに」
「なんではこっちの台詞だよ! ほんとばか! あほ! 死にたがり! うそつき! 凪都のばか……ばか、ばかっ!」
涙が声の邪魔をする。
もう、本当に。
「……凪都は、うそつき、だよ」
腕に力をこめて、凪都の胸に顔を押しつけた。まだ生きている、凪都のぬくもりを感じる。
「わたし、覚えてるよ。わたしが倒れたとき、凪都がいたこと」
抱きしめる凪都の身体がふるえるのがわかった。
さっき、春野さんから話を聞いて思い出した。倒れたときは視界がぼやけていたし、ほとんど意識もなかったから、頼りない記憶ではあるけど。それでもちゃんと覚えてるんだ。
「倒れているわたしを、凪都は見下ろしてた。冷たい声で、なんでって言ってた」
「……だから、俺は柚のこと、見捨てたから」
「ちがう!」
わたしの声に、また凪都の身体が揺れた。
「あのあと、凪都は泣きそうになってた。それで、わたしに背を向けて、どこかに行った。――春野さんを呼びに行ったんでしょ」
急に、抱きしめていた感覚がふっと消えた。……わたしはまた、触れられない幽霊にもどったみたいだ。凪都のぬくもりを感じなくなった。
「聞いて、凪都」
大丈夫、まだ声は届いてる。
わたしは、凪都から身体を離す。凪都は感情をこらえようとして、でも苦しさをにじむのが止められない顔で、わたしを見ていた。黒い瞳が揺れている。陽射しを浴びて、顔に影が濃く落ちていた。
「あのとき、春野さんが近くを歩いてた。でも、わたしたちには気づいてなかった。凪都が走って、春野さんを呼んで、わたしのところまで連れてきてくれた。だから春野さんは救急車を呼んでくれた」
凪都の顔は必死だったって、春野さんが言ってた。
「わたしを、助けようとしてくれたじゃんか。なんで、うそつくの」
「……うそじゃない」
凪都が顔をゆがめて、うつむいた。
「最初、助けようなんて思わなかった、本当に」
ふるえる手で、凪都は顔をおおった。欄干に座ったまま頭をさげて、わたしを拒絶する。橋の上を風が滑って、凪都の髪があおられた。こんな凪都は、はじめてだった。
「……俺は、どれくらい、柚を放置したのか覚えてない。でも柚の意識がなくなって、本当に死ぬかもしれないって思ったとき……、なにやってるんだろうって怖くなった。俺は自分が消えたいだけで、柚に消えてほしいわけじゃなかった。なのに柚を助けようとしない自分が、怖くて気持ち悪くて、心底軽蔑した」
「でも、春野さんを呼んでくれたんでしょ」
「だめだったんだよ! もう遅かった!」
声が膨らんで、弾けた。驚くわたしに、凪都が手をのばす。頬に触れようとする指先は、空気をつかむだけだ。なにも感じない。凪都がくしゃりと顔をゆがめた。
「……柚は、もう、死んだ。全部、遅かった」
肩で息をして、凪都はまた小さなつぶやきにもどる。
「あの時間がなかったら、柚はまだ生きてたかもしれないのに」
消え入りそうな声に、わたしの胸がにぎり潰されたみたいに痛む。俺のせいで死んだって、凪都は言う。わたしのせいでお姉ちゃんは死んだって、わたしも言った。凪都は、わたしと同じことで苦しんでいる。
「夏休みに図書室に来たとき、責めてくれたらよかったんだ。でも柚は、そんなことしなかった。むしろ、俺のことを心配してた。なんで、って思った」
どんな気持ちだったんだろう。罪悪感か、やるせなさか、後悔か。とにかく、凪都は苦しんでいた。それでも、わたしと夏を過ごした。わたしは、自分が死んだことを思い出した。死にたくなかった、って思った。――きっとそれが、凪都を一番苦しめた。
「生きたいと思う柚を殺したのは、俺だった」
「……凪都のせいじゃないよ」
「ちがう」
凪都が声をあげて、うつむいた。前髪がかかって、表情が見えなくなる。
「俺は、柚に笑いかけてもらう資格なんてなかったんだ。なのに」
苦しげに息をして、つぎの言葉はなかなか出てこなかった。
「――柚と一緒にいて楽しいなんて思った」
わたしは、息を止めた。
「柚が会いに来てくれることが、嬉しいなんて思って。そんなの、許されないのに。どれだけ俺は、自分勝手なんだって、思ったんだ。……ごめん、柚。こんな俺が、柚のそばにいて、ごめん。ごめん」
うつむく凪都の姿が、とても小さく見えた。何度も何度も、凪都は謝った。わたしは、なにも言えなくなった。
死にたくなかった。わたしは生きたかった。でもわたしは、凪都に苦しんでほしいわけじゃない。凪都は自分を責めて、自分で自分に罰を与えようとして、今日を迎えたんだと思う。でも、そんなの嫌だ。わたしは、そんなこと望んでない。
凪都の頬にそっと手をのばした。触れられないけど、凪都は気づいて顔を上げた。その頬に、涙は流れていない。でも泣きそうな顔だ。きっと凪都は、ずっと泣いていた。
「……ごめんね、凪都」
「なんで……、柚が謝るんだよ」
「わたしが死んだのは、凪都のせいじゃないよ。わたしが倒れているのを凪都が見つけて、春野さんを呼んできてくれるまで、そんなに時間はかかってなかった」
おぼろげだけど、そう覚えてる。凪都が動かなかった時間をなくしたとしても、わたしはきっと助からなかった。
「そもそも、わたしが無理したせいで倒れたんだよ。凪都は悪くない」
凪都を見つめた。陽射しに負けて消えてしまいそうなそのすがたを。
どうして、わたしは死んじゃったんだろう。でも幽霊になってよかった。こうして話ができる時間ができて、よかった。
「ねえ、凪都。わたしのお願い、なんでも叶えてくれるんだよね」
凪都がゆっくりと目をまたたいた。そんな凪都に、わたしは笑いかける。
「これが最後のお願い。――生きて」
「え」
「凪都は生きて。たくさん幸せになって」
「柚……」
「わたしはね、楽しかったよ。凪都のおかげで、お姉ちゃんのこと受け入れて、泣けて、夏休みにしたいことをたくさんできた。この夏が、一番楽しかった。幸せだった。全部、凪都のおかげだよ」
この夏が、わたしは大好きだ。
「わたしが幽霊になったのは、凪都を死なせないためだったんだよ。だってわたしの最後に残ってる記憶は、凪都の苦しそうな顔だったから。わたしのせいで、そんな顔をしないでほしかった」
だからわたしは、いま、ここにいる。凪都が死んだら、わたしがここにいる意味がない。
「わたしの願い、叶えてよ」
「……柚が、もういなくなるのに。俺だけ生きたって、仕方ない」
「でも、凪都は生きるの」
「無理だ」
「無理じゃない」
死ぬことは、残酷だ。わたしは死が大嫌い。凪都を苦しめて、お母さんとお父さんを悲しませて、七緒たちを泣かせて。本当に、最悪だ。どうしてわたしは、無茶をしたんだろう。ごめんね、死んで。涙があふれそうになって、ぎゅっと目を閉じた。
でも、だからこそ、凪都は死なせない。わたしが嫌いな死を、凪都に与えてなんてあげない。
凪都はなにかを言いたそうに、小さく口を開閉させた。でも言葉がうまく出てこない。長い時間をかけて、ささやく。
「……俺は」
「うん」
「柚と、一緒に、生きたかった」
一語一語、必死につむがれた言葉。そのときはじめて、凪都の頬に透明な雫が落ちた。わたしは目をまたたく。
「もっと、笑ってほしかった。話したいことも、たくさんあった」
それははじめて聞く、凪都の言葉で。
「秋も、冬も、春も。もっと一緒に、いたかった」
凪都がわたしに手をのばす。だけど触れられない。凪都は息を吸い込んで、ぐっとくちびるをかんだ。
「気づくのが、遅かった。もっと早く、知りたかった」
わたしは凪都の指をつかむ。触れられないけど、たしかにつかんだ。わたしの頬も濡れていた。
「あのとき、柚を助けようとしなかった自分が、許せない。なんで、俺は、あんなこと考えたんだろう。いま、柚に生きててほしいって、こんなに思うのに、なんで」
きっとその一瞬を、凪都はずっと後悔しつづける。
「ごめんね、凪都。――でも、ありがとう」
「……なんで、笑ってるわけ?」
凪都が、すこし眉をひそめた。わたしは泣きながら笑っていた。
「だって、そこまで生きててほしいって思ってもらえるのは、嬉しいよ」
「だからって、笑うとこじゃ、ない」
「でも嬉しい。死にたがりの凪都が、生きたかったって、言ってくれるなんて」
そんなの、嬉しいに決まってる。
それから、悲しいに決まってる。
――生きたかったなあ。
わたしも、凪都と、もっとたくさん生きていたかった。ずっと。ずっと。でもわたしは、もうすぐ消える。
「ねえ、死んじゃだめだよ、凪都。せっかく生きたいって、思えたんでしょ」
「柚がいたからだ。柚がいないと、意味ない」
「そんなことないよ」
首をふった。
「凪都はずっと死にたいって思ってて、一生面倒なことばっかりの人生だって嫌になってたんだよね。でもわたしと会って、生きたいって思えたんでしょ?」
一生退屈とか、一生嫌な人生とか、そんなもの、きっとない。ほんのちょっとの出会いで、どれだけでも変わっていけるから。
「きっと、これからもあるんだよ。凪都にとってのいい出会いが、たくさん。きっとまた、生きたいって思えるようになる」
「……柚以外、ないよ、そんなの」
「あるよ。だって、もうはじまってる」
凪都が目をまたたいた。わたしは橋の先に視線を向けて、全力で走ってくるふたつの人影をたしかめた。
「この、あほ凪都……っ!」
「おまえ、なにやってんだよ、馬鹿!」
七緒と諒さんが、駆けつけてくるなり、欄干から凪都を引きずり降ろす。驚きで呆然とする凪都が、目を見開いて橋の上に座り込んだ。ふたりは凪都を見下ろして、怒鳴りつける。
「っとに、なにやってんの! ばかなの! ばかでしょ! 危なっかしいなこいつとは思ってたし、柚からなんとなく聞いてもいたけど、もうほんとにさあ!」
「学校結構な騒ぎになってるぞ! 悩みあんなら、言えよ! せっかく仲直りしたのに、こんなんじゃ意味ないだろ!」
必死の顔で言いつのるふたりに、わたしはやっぱりちょっと笑ってしまう。
「ほらね。凪都の愉快な生活は、もうはじまってるよ」
ふたりにはいま、わたしが見えていないみたいだ。それはちょっと残念だけど。
呆けている凪都に、とにかく帰るぞ、って諒さんが手を差し出す。その手に、わたしの手を重ねさせてもらった。
「……柚」
「大丈夫。わたしと凪都の友だちは、みんな強いし明るいしいい子だよ。まだまだ、たくさん楽しいこと、ありそうでしょ?」
ごめんね。そこに、わたしはもういられないけど。
「凪都はきっと、これからも笑っていられるよ。だから生きなきゃだめ」
凪都は、わたしを見上げていた。涙はまだ、止まらない。
「生きて。笑って。幸せになって」
怨んだりしないし、蔑んだりしない。
「わたし、凪都と夏を過ごせてよかったよ。ありがとう」
微笑みかけると、凪都はうつむいて肩をふるわせた。かすかな嗚咽がこぼれる。苦しかったよね、いままで。でももういいんだよ。
「凪都」
生きるのは、苦しい。ひとりだけ置いていかれるのは、つらい。わたしはそれを知っているから、簡単に「生きて」なんて言えない。だけど、言うんだ。だって、その苦しさやつらさを乗り越えて生きていけることも、知っているから。
凪都が、すこしだけ顔を上げる。髪のすきまから、凪都の瞳が見える。わたしはその瞳をじっと見つめた。
凪都が息を吸い込む。ぎゅっと目を閉じて、開いて、ふるえながら伸ばされた手が、わたしと諒さんの手に重なった。わたしたちは、凪都を引っ張り上げる。
七緒と諒さんがわたしに気づく。わたしはふたりにうなずいた。
「柚」
凪都がわたしを呼ぶ。
「うん」
「ごめん」
「もういいよ。謝罪なんていらない。だから顔上げて。前を見て」
凪都がわたしを救ってくれたみたいに、凪都にも、わたしやみんながいるから。
「ほら、帰ろう、凪都」
背を叩き合って、腕を引いて、前へ歩こう。泣いたっていい。泣いていたら、わたしが手を差し出すから。わたしがいなくなったとしても、みんながいるから。
「わたしね、凪都が死ぬことが一番怖かった。だけどもう、大丈夫だね」
三芝凪都は、死んだりしない。わたしたちが死なせない。
凪都はわたしを見つめて、泣きながら、それでも小さくうなずいた。そんな凪都を、わたしは忘れないように目に焼きつける。
「大丈夫。生きるのは、楽しいよ」
その言葉が、この夏を過ごしたわたしのすべてだった。
*
その日を境にわたしは、みんなの目に映らなくなった。
「……柚」
「ばか!」
生まれてからこんなに声を張ったことがなくて、ふるえてしまう。
「死なないでって、何回わたしに言わせる気! ふざけないで!」
「なんで、ここに」
「なんではこっちの台詞だよ! ほんとばか! あほ! 死にたがり! うそつき! 凪都のばか……ばか、ばかっ!」
涙が声の邪魔をする。
もう、本当に。
「……凪都は、うそつき、だよ」
腕に力をこめて、凪都の胸に顔を押しつけた。まだ生きている、凪都のぬくもりを感じる。
「わたし、覚えてるよ。わたしが倒れたとき、凪都がいたこと」
抱きしめる凪都の身体がふるえるのがわかった。
さっき、春野さんから話を聞いて思い出した。倒れたときは視界がぼやけていたし、ほとんど意識もなかったから、頼りない記憶ではあるけど。それでもちゃんと覚えてるんだ。
「倒れているわたしを、凪都は見下ろしてた。冷たい声で、なんでって言ってた」
「……だから、俺は柚のこと、見捨てたから」
「ちがう!」
わたしの声に、また凪都の身体が揺れた。
「あのあと、凪都は泣きそうになってた。それで、わたしに背を向けて、どこかに行った。――春野さんを呼びに行ったんでしょ」
急に、抱きしめていた感覚がふっと消えた。……わたしはまた、触れられない幽霊にもどったみたいだ。凪都のぬくもりを感じなくなった。
「聞いて、凪都」
大丈夫、まだ声は届いてる。
わたしは、凪都から身体を離す。凪都は感情をこらえようとして、でも苦しさをにじむのが止められない顔で、わたしを見ていた。黒い瞳が揺れている。陽射しを浴びて、顔に影が濃く落ちていた。
「あのとき、春野さんが近くを歩いてた。でも、わたしたちには気づいてなかった。凪都が走って、春野さんを呼んで、わたしのところまで連れてきてくれた。だから春野さんは救急車を呼んでくれた」
凪都の顔は必死だったって、春野さんが言ってた。
「わたしを、助けようとしてくれたじゃんか。なんで、うそつくの」
「……うそじゃない」
凪都が顔をゆがめて、うつむいた。
「最初、助けようなんて思わなかった、本当に」
ふるえる手で、凪都は顔をおおった。欄干に座ったまま頭をさげて、わたしを拒絶する。橋の上を風が滑って、凪都の髪があおられた。こんな凪都は、はじめてだった。
「……俺は、どれくらい、柚を放置したのか覚えてない。でも柚の意識がなくなって、本当に死ぬかもしれないって思ったとき……、なにやってるんだろうって怖くなった。俺は自分が消えたいだけで、柚に消えてほしいわけじゃなかった。なのに柚を助けようとしない自分が、怖くて気持ち悪くて、心底軽蔑した」
「でも、春野さんを呼んでくれたんでしょ」
「だめだったんだよ! もう遅かった!」
声が膨らんで、弾けた。驚くわたしに、凪都が手をのばす。頬に触れようとする指先は、空気をつかむだけだ。なにも感じない。凪都がくしゃりと顔をゆがめた。
「……柚は、もう、死んだ。全部、遅かった」
肩で息をして、凪都はまた小さなつぶやきにもどる。
「あの時間がなかったら、柚はまだ生きてたかもしれないのに」
消え入りそうな声に、わたしの胸がにぎり潰されたみたいに痛む。俺のせいで死んだって、凪都は言う。わたしのせいでお姉ちゃんは死んだって、わたしも言った。凪都は、わたしと同じことで苦しんでいる。
「夏休みに図書室に来たとき、責めてくれたらよかったんだ。でも柚は、そんなことしなかった。むしろ、俺のことを心配してた。なんで、って思った」
どんな気持ちだったんだろう。罪悪感か、やるせなさか、後悔か。とにかく、凪都は苦しんでいた。それでも、わたしと夏を過ごした。わたしは、自分が死んだことを思い出した。死にたくなかった、って思った。――きっとそれが、凪都を一番苦しめた。
「生きたいと思う柚を殺したのは、俺だった」
「……凪都のせいじゃないよ」
「ちがう」
凪都が声をあげて、うつむいた。前髪がかかって、表情が見えなくなる。
「俺は、柚に笑いかけてもらう資格なんてなかったんだ。なのに」
苦しげに息をして、つぎの言葉はなかなか出てこなかった。
「――柚と一緒にいて楽しいなんて思った」
わたしは、息を止めた。
「柚が会いに来てくれることが、嬉しいなんて思って。そんなの、許されないのに。どれだけ俺は、自分勝手なんだって、思ったんだ。……ごめん、柚。こんな俺が、柚のそばにいて、ごめん。ごめん」
うつむく凪都の姿が、とても小さく見えた。何度も何度も、凪都は謝った。わたしは、なにも言えなくなった。
死にたくなかった。わたしは生きたかった。でもわたしは、凪都に苦しんでほしいわけじゃない。凪都は自分を責めて、自分で自分に罰を与えようとして、今日を迎えたんだと思う。でも、そんなの嫌だ。わたしは、そんなこと望んでない。
凪都の頬にそっと手をのばした。触れられないけど、凪都は気づいて顔を上げた。その頬に、涙は流れていない。でも泣きそうな顔だ。きっと凪都は、ずっと泣いていた。
「……ごめんね、凪都」
「なんで……、柚が謝るんだよ」
「わたしが死んだのは、凪都のせいじゃないよ。わたしが倒れているのを凪都が見つけて、春野さんを呼んできてくれるまで、そんなに時間はかかってなかった」
おぼろげだけど、そう覚えてる。凪都が動かなかった時間をなくしたとしても、わたしはきっと助からなかった。
「そもそも、わたしが無理したせいで倒れたんだよ。凪都は悪くない」
凪都を見つめた。陽射しに負けて消えてしまいそうなそのすがたを。
どうして、わたしは死んじゃったんだろう。でも幽霊になってよかった。こうして話ができる時間ができて、よかった。
「ねえ、凪都。わたしのお願い、なんでも叶えてくれるんだよね」
凪都がゆっくりと目をまたたいた。そんな凪都に、わたしは笑いかける。
「これが最後のお願い。――生きて」
「え」
「凪都は生きて。たくさん幸せになって」
「柚……」
「わたしはね、楽しかったよ。凪都のおかげで、お姉ちゃんのこと受け入れて、泣けて、夏休みにしたいことをたくさんできた。この夏が、一番楽しかった。幸せだった。全部、凪都のおかげだよ」
この夏が、わたしは大好きだ。
「わたしが幽霊になったのは、凪都を死なせないためだったんだよ。だってわたしの最後に残ってる記憶は、凪都の苦しそうな顔だったから。わたしのせいで、そんな顔をしないでほしかった」
だからわたしは、いま、ここにいる。凪都が死んだら、わたしがここにいる意味がない。
「わたしの願い、叶えてよ」
「……柚が、もういなくなるのに。俺だけ生きたって、仕方ない」
「でも、凪都は生きるの」
「無理だ」
「無理じゃない」
死ぬことは、残酷だ。わたしは死が大嫌い。凪都を苦しめて、お母さんとお父さんを悲しませて、七緒たちを泣かせて。本当に、最悪だ。どうしてわたしは、無茶をしたんだろう。ごめんね、死んで。涙があふれそうになって、ぎゅっと目を閉じた。
でも、だからこそ、凪都は死なせない。わたしが嫌いな死を、凪都に与えてなんてあげない。
凪都はなにかを言いたそうに、小さく口を開閉させた。でも言葉がうまく出てこない。長い時間をかけて、ささやく。
「……俺は」
「うん」
「柚と、一緒に、生きたかった」
一語一語、必死につむがれた言葉。そのときはじめて、凪都の頬に透明な雫が落ちた。わたしは目をまたたく。
「もっと、笑ってほしかった。話したいことも、たくさんあった」
それははじめて聞く、凪都の言葉で。
「秋も、冬も、春も。もっと一緒に、いたかった」
凪都がわたしに手をのばす。だけど触れられない。凪都は息を吸い込んで、ぐっとくちびるをかんだ。
「気づくのが、遅かった。もっと早く、知りたかった」
わたしは凪都の指をつかむ。触れられないけど、たしかにつかんだ。わたしの頬も濡れていた。
「あのとき、柚を助けようとしなかった自分が、許せない。なんで、俺は、あんなこと考えたんだろう。いま、柚に生きててほしいって、こんなに思うのに、なんで」
きっとその一瞬を、凪都はずっと後悔しつづける。
「ごめんね、凪都。――でも、ありがとう」
「……なんで、笑ってるわけ?」
凪都が、すこし眉をひそめた。わたしは泣きながら笑っていた。
「だって、そこまで生きててほしいって思ってもらえるのは、嬉しいよ」
「だからって、笑うとこじゃ、ない」
「でも嬉しい。死にたがりの凪都が、生きたかったって、言ってくれるなんて」
そんなの、嬉しいに決まってる。
それから、悲しいに決まってる。
――生きたかったなあ。
わたしも、凪都と、もっとたくさん生きていたかった。ずっと。ずっと。でもわたしは、もうすぐ消える。
「ねえ、死んじゃだめだよ、凪都。せっかく生きたいって、思えたんでしょ」
「柚がいたからだ。柚がいないと、意味ない」
「そんなことないよ」
首をふった。
「凪都はずっと死にたいって思ってて、一生面倒なことばっかりの人生だって嫌になってたんだよね。でもわたしと会って、生きたいって思えたんでしょ?」
一生退屈とか、一生嫌な人生とか、そんなもの、きっとない。ほんのちょっとの出会いで、どれだけでも変わっていけるから。
「きっと、これからもあるんだよ。凪都にとってのいい出会いが、たくさん。きっとまた、生きたいって思えるようになる」
「……柚以外、ないよ、そんなの」
「あるよ。だって、もうはじまってる」
凪都が目をまたたいた。わたしは橋の先に視線を向けて、全力で走ってくるふたつの人影をたしかめた。
「この、あほ凪都……っ!」
「おまえ、なにやってんだよ、馬鹿!」
七緒と諒さんが、駆けつけてくるなり、欄干から凪都を引きずり降ろす。驚きで呆然とする凪都が、目を見開いて橋の上に座り込んだ。ふたりは凪都を見下ろして、怒鳴りつける。
「っとに、なにやってんの! ばかなの! ばかでしょ! 危なっかしいなこいつとは思ってたし、柚からなんとなく聞いてもいたけど、もうほんとにさあ!」
「学校結構な騒ぎになってるぞ! 悩みあんなら、言えよ! せっかく仲直りしたのに、こんなんじゃ意味ないだろ!」
必死の顔で言いつのるふたりに、わたしはやっぱりちょっと笑ってしまう。
「ほらね。凪都の愉快な生活は、もうはじまってるよ」
ふたりにはいま、わたしが見えていないみたいだ。それはちょっと残念だけど。
呆けている凪都に、とにかく帰るぞ、って諒さんが手を差し出す。その手に、わたしの手を重ねさせてもらった。
「……柚」
「大丈夫。わたしと凪都の友だちは、みんな強いし明るいしいい子だよ。まだまだ、たくさん楽しいこと、ありそうでしょ?」
ごめんね。そこに、わたしはもういられないけど。
「凪都はきっと、これからも笑っていられるよ。だから生きなきゃだめ」
凪都は、わたしを見上げていた。涙はまだ、止まらない。
「生きて。笑って。幸せになって」
怨んだりしないし、蔑んだりしない。
「わたし、凪都と夏を過ごせてよかったよ。ありがとう」
微笑みかけると、凪都はうつむいて肩をふるわせた。かすかな嗚咽がこぼれる。苦しかったよね、いままで。でももういいんだよ。
「凪都」
生きるのは、苦しい。ひとりだけ置いていかれるのは、つらい。わたしはそれを知っているから、簡単に「生きて」なんて言えない。だけど、言うんだ。だって、その苦しさやつらさを乗り越えて生きていけることも、知っているから。
凪都が、すこしだけ顔を上げる。髪のすきまから、凪都の瞳が見える。わたしはその瞳をじっと見つめた。
凪都が息を吸い込む。ぎゅっと目を閉じて、開いて、ふるえながら伸ばされた手が、わたしと諒さんの手に重なった。わたしたちは、凪都を引っ張り上げる。
七緒と諒さんがわたしに気づく。わたしはふたりにうなずいた。
「柚」
凪都がわたしを呼ぶ。
「うん」
「ごめん」
「もういいよ。謝罪なんていらない。だから顔上げて。前を見て」
凪都がわたしを救ってくれたみたいに、凪都にも、わたしやみんながいるから。
「ほら、帰ろう、凪都」
背を叩き合って、腕を引いて、前へ歩こう。泣いたっていい。泣いていたら、わたしが手を差し出すから。わたしがいなくなったとしても、みんながいるから。
「わたしね、凪都が死ぬことが一番怖かった。だけどもう、大丈夫だね」
三芝凪都は、死んだりしない。わたしたちが死なせない。
凪都はわたしを見つめて、泣きながら、それでも小さくうなずいた。そんな凪都を、わたしは忘れないように目に焼きつける。
「大丈夫。生きるのは、楽しいよ」
その言葉が、この夏を過ごしたわたしのすべてだった。
*
その日を境にわたしは、みんなの目に映らなくなった。