「凪都!」

 凪都は廊下を歩いていく。わたしの声は届かない。

「凪都、ねえ、待って!」

 腕をつかまえようとする。だけど触れられない。

「なんなの、あれ。凪都ってば!」

 女子生徒を、凪都が見殺しにした? 意味がわからない。この状況で、死んだ女子生徒といえば、わたしのことが真っ先に頭に浮かんだけど。でも。

 凪都が階段を降りていく。わたしの声に、一度もふり向かない。その冷たい背中に怖くなって、手に汗が浮かんだ。玄関を通って靴を履き替え、凪都は中庭を進んでいく。

「……凪都っ!」

 声がかすれるくらい、全力で叫んだ。ふと、凪都が足を止めた。ゆっくりとした動作で、凪都がふり返る。

「柚」

 声、届いた。

「ねえ、なんなの! さっきの、意味わかんないんだけど!」
「ああ……、なんだ。教室にいたんだ」

 凪都は口もとを小さく笑みの形にした。目も細める。うそつきの笑顔だ。

「見てたなら、わかるだろ。チャットの文章のままだよ」
「わ、わかんないよ、そんなんじゃ、全然」
「だから俺はそんなに、出来たやつじゃないってこと。むしろ、最低な人間なんだ」
「……どういうことなの」

 凪都は瞳にわたしを映して、くしゃりと笑う。

「柚を殺したのは、俺だから」

 静かな凪都の声が、頭の奥にへばりつく。その意味を理解しようとして、頭が痛くなるくらいに思考を働かせようとした。だけど、全然だめだ。わからなくてあせる。あせればあせるほど、言葉の意味がわからなくなる。

「わたしは、病死だから、凪都は関係ないよ」
「あるんだ、本当は」
「なんで」
「発作で倒れた柚を、最初に見つけたのが俺だから」

 凪都が人差し指をどこかに向けた。

「あっちの、寮に向かう道で。柚は俺の前で倒れた」

 呆然と、凪都が指さす方向に視線を送った。校舎から寮につながる、いつも使っている道だ。

「あの日も、柚は図書室まで俺に会いにきた。で、閉室時間になって、柚が先に寮にもどって、俺もすこししてから図書室を出た。そのとき、柚が倒れるのを見た」

 心臓が全力疾走したあとみたいに速く打っていて、気持ちが悪い。

「わたしが死んだとき、凪都がそこにいたの……?」
「そう。いた」

 わたしは目を見開くことしかできない。凪都は痛そうな笑顔を見せて、自分の髪をかきあげた。

「柚は、頭押さえて倒れて。すぐ呼吸がおかしくなった。意識もほとんどなかった。なんの知識のない俺でも異常だってわかるくらい、様子がおかしかったんだ。そんな柚を見て……、俺は、いいな、って思ったんだ」
「え?」

 わたしから逃げるみたいに、凪都が目をそらす。凪都の声がふるえて、聞き取りづらくなった。それでも、凪都は止まることなくわたしに聞かせる。うそつきな凪都の、本当の話を。

「俺は、ずっと死にたかった。生きてても面白いことより面倒なことのほうが多いし。やりたいことも夢もないし。諒とは喧嘩するし、まわりの連中にはにらまれるし。そういうことばっかりだった。ずっと、ぼんやり生きて、これ以上生きたいとも思ってなくて。でも死ねたらいいのにとは思うけど、自殺するほどでもない。事故か病気とかで、適当に死ねたら楽なのにって、そんなことばっかり考えてた」

 去年の冬、橋の上で凪都に出会ったときのことを思い出す。そうだ、たしかあのときも、似たようなことを言っていた。だれにも迷惑をかけずに、病気で死にたいって。

「だから、うらやましかったんだ、柚のこと」

 凪都は、眉を寄せて、それでも笑っていた。

 ふと、頭に浮かぶ声があった。

『死ぬの?』

 感情のない、冷淡な声。

『なんで?』

 ぼやけた視界の中で、わたしを見下ろしているような凪都の顔が浮かぶ。

『俺に死ぬなって言う柚が、俺の理想の死に方するの、ずるいだろ』

 そんな、声が。わたしに背を向けて、どこかに行ってしまう人影の映像が。頭の裏にべったりと張り付いていた。

 なんなのこれ。これが記憶なのか、ただの想像なのか、わからない。でも、もしこれが本当のことなら、わたしはあのとき――、凪都に置いていかれたってこと?

「俺は、柚を助けなかった」

 目の前にいる凪都は、笑っている。

「見つけたのが俺じゃなかったら、柚は死ななかったかもしれない」

 凪都が一度、息を吸う。

「夏休み、最初に柚に会ったとき、心臓が止まるかと思った。柚を見捨てた俺のことを怨んで化けてでたのかと思ったから。でも、柚は自分が死んだことを忘れてた」

 図書室にいた凪都を思い出す。わたしを見て、驚いていた凪都を。

「覚えてないなら、それでいいと思った。責められたくなかったし。なにも知らないまま成仏してくれたほうが楽だと思って、柚の願いを叶えるなんて言った」

 なにも言えないわたしに、凪都は笑いかける。

「ごめん。最低な人間で。殺して、ごめん。うそついて、ごめん」

 凪都は笑みを崩さない。

「怨んでよ。責めて、蔑んで、罵って。俺は柚に好かれる資格なんてないから」

 だれかが駆けてくる音が、後ろでした。

「凪都! ちょっと、なんなのあれ! 説明してよ!」

 七緒が顔を赤くしながら走ってくるのが見えた。怒っているような、泣いているような、混乱して精一杯って顔。凪都は一度だけ七緒を見て、すぐに目をそらした。

「ごめん」

 気づいたときには、凪都はわたしに背を向けていた。わたしは動けなくて、いなくなる凪都をただ呆然と見ていた。