あれから、二日が過ぎた。
「やっほー、凪都。ほんとに早起きなんだね。あ、諒もやっほ」
ジャージ姿の七緒が、ひらひらと手をふってふたりに声をかける。
「はよー。いやー、さすがに眠いわ」
諒さんは苦笑して、あくびをする。そんなふたりを見て、凪都は肩をすくめた。
「眠いなら寝てればいいのに」
「んなこと言うなって。せっかく柚さんと七緒さんが誘ってくれたんだから、俺も走りたいし」
「そうそう。みんないたほうが楽しいよ。ってことで早朝ランニング出発! 柚ー、いるよね? 後ろ乗って」
七緒が自転車にまたがって、きょろきょろと辺りを見回した。その瞳が、わたしを見ることはなさそうだ。今朝は、ここにいる三人のだれとも目が合わない。
わたしは荷台にまたがって、七緒の腰に腕を回す。二人乗りはだめだってわかってるけど、どうせだれにもわたしの姿は見えないから。
「柚、乗った? こぐよー」
「うん。いいよ」
七緒のこぐ自転車が校門を出て、海につながる坂道をくだっていく。
「ちょっ、七緒さん、速い! 自分で走る組のことも考えて!」
「大丈夫、いけるいける、ふたりともファイト!」
「……柚より鬼だな」
ぐんぐんスピードを上げる七緒を、諒さんと凪都があせって追いかける。それが面白くて、ちょっと笑えてきた。それからすこし、寂しくなった。みんなには、わたしが見えていないんだもんね。一緒にいるはずなのに、わたしだけ、仲間はずれみたいだ。
坂道を抜けて、海が見えてくる。わたしたちは海沿いの道に沿って走った。潮風が吹きつけて、わたしの髪が揺れる。きらきらとまぶしい海面に負けないくらい、七緒が楽しそうな笑い声を上げていた。
首をめぐらせて、うしろを確認する。凪都の髪が、朝陽に照らされて白っぽく輝いている。
「頑張れ、凪都」
と、そこで、ぐらっと自転車が傾いた。「うわあっ」っと七緒が叫んで、どうにか倒れずに踏ん張ってから、自転車を停めた。
「びっくりしたぁ……。あ、よかった柚、ちゃんと乗ってた。おはよ!」
七緒がわたしを見たから、ちょっと驚く。いまは見えるんだ。
「おはよ。ごめんね、急に体重かかった?」
「うん。ちょっとびっくりした」
どういう理屈なのかはわからないけど、わたしが見えていない間は体重もかからなくて、見えるようになったら体重がもどってきたらしい。まあ理屈なんて考えても仕方ない。幽霊になっていることが、そもそも理屈で説明できないんだし。
「わたし降りようか?」
「えー、いいよ、このまま二人乗りしよ」
七緒がそう言うから、わたしはもう一度、七緒の腰に抱きついた。
「ふっふっふー、夏休み、可愛い女の子に抱きつかれながら二人乗りをする。どうだ、男子、うらやましいか!」
七緒が高らかに言いながら、また自転車を走らせる。わたしは苦笑して、七緒に抱きつく力を強めた。……見えている間に、触れておきたい。七緒たちですら、わたしを見てくれる時間がすくなくなってきている。もういつ自分が消えてもおかしくないような気がするんだ。だから毎回、これが最後かもって怖くなる。
「柚さーん、俺のことも応援してー」
後ろから、諒さんが情けない声をあげた。わたしがふり向くと、凪都が言う。
「いいよ、柚。諒のことは無視しな」
「なんでだよ! いいだろ、応援くらいしてもらっても」
「現役バスケ部なんだから、これくらい楽に走れよ」
「現役だってきついのはきついって!」
そんなやり取りに、つい笑ってしまう。
「頑張って、諒さん」
「お、さすが、柚さんやさしい!」
やさしいのは諒さんのほうだ。わたしの事情を、諒さんは凪都から聞いたらしい。ほとんどつき合いもないのに、諒さんはわたしが幽霊だってことを怖がらずに受け入れてくれたし、いまもこうやって、わたしのわがままを聞いてくれている。
「柚、ちゃんとつかまっててね。スピードあげるよ」
「え、まだあげるの? そろそろ後ろのふたり、倒れるよ?」
「まだいけるっしょ」
七緒が意地悪く笑って、ペダルを踏み込んだ。案の定、男子ふたりから抗議の声が飛んできたけど、七緒は走りつづける。無茶苦茶だなあ、面白いけど。
「いいね。賑やかで」
わたしは、七緒の背中に顔を押しつけて、すこし笑った。
「……柚、大丈夫。凪都のことは、わたしたちに任せなよ」
男子に聞こえないように、七緒がささやく。
「うん。ありがとう」
凪都は、うそつきだ。
わたしが実家に帰った日、なぜか凪都はわたしに謝罪をくりかえしていたくせに、つぎの日には、いつもの静かな表情にもどっていた。あのやり取りが丸ごとなかったみたいに、普通の顔をして過ごすんだ。でも確実に、凪都の心はすり切れている気がする。黒い瞳が、どんどん濁っていくように見えた。
もうすぐ、夏休みが終わるのに。あと一週間だ。自殺者が増える、夏の終わりが来る。
どうしよう。わたしは、凪都になにをしてあげられるのかな。昨日もそうやって悩んでいたら、七緒がわたしに声をかけてきたんだ。
『凪都のことが心配なの? じゃあ、わたしも凪都のことを見ておくよ。任せて』
だから、と七緒は微笑んだ。すこしだけ悲しそうに。
『柚は、なにも心配しなくていいからね』
すこし後ろから、凪都と諒さんが必死に追いかけつつ「もっとゆっくり!」って助けを求める声をあげた。七緒が「まだいけるぞー!」と笑い飛ばす。みんなではしゃぐ、この時間が楽しい。そう思うのと同時に、どうしようもなく泣きたくなる。
わたしは自分が消えたときのための準備を進めている。寮の部屋も片づけているし、凪都のことだって七緒に託した。わたしが消える日のことを見据えて、わたしもみんなも、終わりに向かって進んでいる。
――まだ、わたしは、ここにいたいのにな。
海沿いからはずれて、住宅街に進む。わたしたちは休憩のために、いつもの公園に寄った。倒れそうな男子ふたりのために、七緒が自販機でスポドリを買う。諒さんは木陰に座り込んで動かない。……だいぶ、きつそう。凪都も、諒さんに比べたら平気な顔をしてるけど、限界ぎりぎりって感じだ。
「凪都、大丈夫?」
「ん」
平気、って伝えたいのか凪都がひらひらと手をふって笑った。だけどその笑顔は、やっぱり、うそっぽかった。ひびが入ったガラスを前にしているみたいな緊張感が、そこにはあった。触れれば、割れてしまいそうで、手をのばすことも躊躇してしまうような。
なにをそんなに悩んでいるんだろう。ごめん、ってどういう意味だったの。もうすぐ夏が終わっちゃうんだから、教えてよ。
だけど凪都は「聞かないで」って壁をつくりつづけていた。
「あ、ねえ、明日ってなんか持ち物いるんだっけ?」
「読書感想文は明日提出じゃなかった? あーあ、登校日ってだるいよなー」
七緒が言って、息が整ってきた諒さんがため息をついた。
明日は午前中だけの登校日だ。まだ夏休みは終わっていないのに、なぜだかホームルームのためだけに登校しなきゃいけない、面倒な日。
わたしが死んだ噂は、先生たちが校内に広めないようにしているらしい。でもさすがに登校日にわたしがいないことを、教室のみんなは気にするはずだ。同じクラスの子くらいには、死んだことを知らせるのかな。ちょっと憂鬱だ。
明日のことを話している七緒たちを見ながら、凪都が小さく息をついた。
「夏休み、もう終わるんだな」
わたしの心臓が跳ねる。
「……そうだね、終わっちゃうね」
蝉の声が、うるさいくらいに頭に響いた。
つぎの日、登校日が予定どおりにやってきた。
そうしてわたしは、凪都の言った「ごめん」の意味を知った。
「やっほー、凪都。ほんとに早起きなんだね。あ、諒もやっほ」
ジャージ姿の七緒が、ひらひらと手をふってふたりに声をかける。
「はよー。いやー、さすがに眠いわ」
諒さんは苦笑して、あくびをする。そんなふたりを見て、凪都は肩をすくめた。
「眠いなら寝てればいいのに」
「んなこと言うなって。せっかく柚さんと七緒さんが誘ってくれたんだから、俺も走りたいし」
「そうそう。みんないたほうが楽しいよ。ってことで早朝ランニング出発! 柚ー、いるよね? 後ろ乗って」
七緒が自転車にまたがって、きょろきょろと辺りを見回した。その瞳が、わたしを見ることはなさそうだ。今朝は、ここにいる三人のだれとも目が合わない。
わたしは荷台にまたがって、七緒の腰に腕を回す。二人乗りはだめだってわかってるけど、どうせだれにもわたしの姿は見えないから。
「柚、乗った? こぐよー」
「うん。いいよ」
七緒のこぐ自転車が校門を出て、海につながる坂道をくだっていく。
「ちょっ、七緒さん、速い! 自分で走る組のことも考えて!」
「大丈夫、いけるいける、ふたりともファイト!」
「……柚より鬼だな」
ぐんぐんスピードを上げる七緒を、諒さんと凪都があせって追いかける。それが面白くて、ちょっと笑えてきた。それからすこし、寂しくなった。みんなには、わたしが見えていないんだもんね。一緒にいるはずなのに、わたしだけ、仲間はずれみたいだ。
坂道を抜けて、海が見えてくる。わたしたちは海沿いの道に沿って走った。潮風が吹きつけて、わたしの髪が揺れる。きらきらとまぶしい海面に負けないくらい、七緒が楽しそうな笑い声を上げていた。
首をめぐらせて、うしろを確認する。凪都の髪が、朝陽に照らされて白っぽく輝いている。
「頑張れ、凪都」
と、そこで、ぐらっと自転車が傾いた。「うわあっ」っと七緒が叫んで、どうにか倒れずに踏ん張ってから、自転車を停めた。
「びっくりしたぁ……。あ、よかった柚、ちゃんと乗ってた。おはよ!」
七緒がわたしを見たから、ちょっと驚く。いまは見えるんだ。
「おはよ。ごめんね、急に体重かかった?」
「うん。ちょっとびっくりした」
どういう理屈なのかはわからないけど、わたしが見えていない間は体重もかからなくて、見えるようになったら体重がもどってきたらしい。まあ理屈なんて考えても仕方ない。幽霊になっていることが、そもそも理屈で説明できないんだし。
「わたし降りようか?」
「えー、いいよ、このまま二人乗りしよ」
七緒がそう言うから、わたしはもう一度、七緒の腰に抱きついた。
「ふっふっふー、夏休み、可愛い女の子に抱きつかれながら二人乗りをする。どうだ、男子、うらやましいか!」
七緒が高らかに言いながら、また自転車を走らせる。わたしは苦笑して、七緒に抱きつく力を強めた。……見えている間に、触れておきたい。七緒たちですら、わたしを見てくれる時間がすくなくなってきている。もういつ自分が消えてもおかしくないような気がするんだ。だから毎回、これが最後かもって怖くなる。
「柚さーん、俺のことも応援してー」
後ろから、諒さんが情けない声をあげた。わたしがふり向くと、凪都が言う。
「いいよ、柚。諒のことは無視しな」
「なんでだよ! いいだろ、応援くらいしてもらっても」
「現役バスケ部なんだから、これくらい楽に走れよ」
「現役だってきついのはきついって!」
そんなやり取りに、つい笑ってしまう。
「頑張って、諒さん」
「お、さすが、柚さんやさしい!」
やさしいのは諒さんのほうだ。わたしの事情を、諒さんは凪都から聞いたらしい。ほとんどつき合いもないのに、諒さんはわたしが幽霊だってことを怖がらずに受け入れてくれたし、いまもこうやって、わたしのわがままを聞いてくれている。
「柚、ちゃんとつかまっててね。スピードあげるよ」
「え、まだあげるの? そろそろ後ろのふたり、倒れるよ?」
「まだいけるっしょ」
七緒が意地悪く笑って、ペダルを踏み込んだ。案の定、男子ふたりから抗議の声が飛んできたけど、七緒は走りつづける。無茶苦茶だなあ、面白いけど。
「いいね。賑やかで」
わたしは、七緒の背中に顔を押しつけて、すこし笑った。
「……柚、大丈夫。凪都のことは、わたしたちに任せなよ」
男子に聞こえないように、七緒がささやく。
「うん。ありがとう」
凪都は、うそつきだ。
わたしが実家に帰った日、なぜか凪都はわたしに謝罪をくりかえしていたくせに、つぎの日には、いつもの静かな表情にもどっていた。あのやり取りが丸ごとなかったみたいに、普通の顔をして過ごすんだ。でも確実に、凪都の心はすり切れている気がする。黒い瞳が、どんどん濁っていくように見えた。
もうすぐ、夏休みが終わるのに。あと一週間だ。自殺者が増える、夏の終わりが来る。
どうしよう。わたしは、凪都になにをしてあげられるのかな。昨日もそうやって悩んでいたら、七緒がわたしに声をかけてきたんだ。
『凪都のことが心配なの? じゃあ、わたしも凪都のことを見ておくよ。任せて』
だから、と七緒は微笑んだ。すこしだけ悲しそうに。
『柚は、なにも心配しなくていいからね』
すこし後ろから、凪都と諒さんが必死に追いかけつつ「もっとゆっくり!」って助けを求める声をあげた。七緒が「まだいけるぞー!」と笑い飛ばす。みんなではしゃぐ、この時間が楽しい。そう思うのと同時に、どうしようもなく泣きたくなる。
わたしは自分が消えたときのための準備を進めている。寮の部屋も片づけているし、凪都のことだって七緒に託した。わたしが消える日のことを見据えて、わたしもみんなも、終わりに向かって進んでいる。
――まだ、わたしは、ここにいたいのにな。
海沿いからはずれて、住宅街に進む。わたしたちは休憩のために、いつもの公園に寄った。倒れそうな男子ふたりのために、七緒が自販機でスポドリを買う。諒さんは木陰に座り込んで動かない。……だいぶ、きつそう。凪都も、諒さんに比べたら平気な顔をしてるけど、限界ぎりぎりって感じだ。
「凪都、大丈夫?」
「ん」
平気、って伝えたいのか凪都がひらひらと手をふって笑った。だけどその笑顔は、やっぱり、うそっぽかった。ひびが入ったガラスを前にしているみたいな緊張感が、そこにはあった。触れれば、割れてしまいそうで、手をのばすことも躊躇してしまうような。
なにをそんなに悩んでいるんだろう。ごめん、ってどういう意味だったの。もうすぐ夏が終わっちゃうんだから、教えてよ。
だけど凪都は「聞かないで」って壁をつくりつづけていた。
「あ、ねえ、明日ってなんか持ち物いるんだっけ?」
「読書感想文は明日提出じゃなかった? あーあ、登校日ってだるいよなー」
七緒が言って、息が整ってきた諒さんがため息をついた。
明日は午前中だけの登校日だ。まだ夏休みは終わっていないのに、なぜだかホームルームのためだけに登校しなきゃいけない、面倒な日。
わたしが死んだ噂は、先生たちが校内に広めないようにしているらしい。でもさすがに登校日にわたしがいないことを、教室のみんなは気にするはずだ。同じクラスの子くらいには、死んだことを知らせるのかな。ちょっと憂鬱だ。
明日のことを話している七緒たちを見ながら、凪都が小さく息をついた。
「夏休み、もう終わるんだな」
わたしの心臓が跳ねる。
「……そうだね、終わっちゃうね」
蝉の声が、うるさいくらいに頭に響いた。
つぎの日、登校日が予定どおりにやってきた。
そうしてわたしは、凪都の言った「ごめん」の意味を知った。