お母さんとお父さんはずっと泣いていたけど、「お客さまがいるのに、いつまでもこうしていちゃ失礼だから」と、無理やり涙を引っ込めた。凪都が帰ったあとにまた泣くんだろうなってわかる顔だったけど。
そんなふたりに、凪都が「そういえば」と切り出す。
「柚のお姉さんのスマホって、まだありますか」
え?
言われたふたりも、わたしも、きょとんとする。
「お姉さんが最期にSNSを更新していたんですよね。でも柚は怖くてその内容を見ることができなかったって言っていたので、気になっていて。よければ、見せてもらえませんか」
「それは……、ええ、残ってはいるんだけど」
「柚の代わりって言ったらすこし変ですけど、柚ができなかったこと、俺がしておきたいんです。お願いします」
お母さんは困惑したみたいだ。だけど、すっかり凪都には気を許したみたいで、リビングを出ていくとお姉ちゃんの部屋からスマホを持ってきた。まだ処分してなかったんだ。
「データもそのまま残っているから、充電すれば見られると思うわ」
「ありがとうございます」
それから、凪都はもうひとつ、お母さんに頼みごとをした。
「充電する間、柚の部屋にいても構いませんか」
「え? あの子の部屋?」
さすがに、娘の部屋に勝手にひとを上げるのは、ってふたりは渋っていた。だけど凪都が頭を下げると、ゆっくりうなずいた。
「わかりました。部屋は二階だから、どうぞ。柚に、あなたみたいな仲良しの男の子がいたのね」
……もしかしたら、わたしと凪都が恋人だとでも思ったのかもしれない。恋人の想い出に浸りたいんだろうな、なら拒むのも悪いか、みたいな。ちょっと恥ずかしい。
お姉ちゃんのスマホと充電器を持って、凪都はわたしの部屋に向かった。お母さんたちは「帰るときには声をかけて」と、凪都を残して部屋を出ていく。扉を閉めた凪都に、わたしは言った。
「お姉ちゃんのSNSのこと覚えてたんだね。ありがとう、頼んでくれて」
「おせっかいだった?」
扉を閉めたとはいえ、お母さんたちに聞こえないように、凪都は抑えた声で言った。
「ううん。見たかったから、助かる」
お姉ちゃんが死ぬ直前にしていたSNSへの投稿は、自殺を否定するような内容だったって聞いている。だけどそれを見たら、わたしは罪悪感に耐えられないだろうなって思って、いままで目をそらしてきた。
死ぬ気のなかったお姉ちゃんを死なせてしまった、その怖さは、いまもある。だけどお姉ちゃんのことを知らないまま、消えたくなかった。
充電器にスマホを差しても、すぐには起動しない。わたしは部屋を見回した。凪都もわたしの視線を追う。
「シンプルな部屋だな」
「ものがあっても、落ち着かなくて。いろいろ捨てちゃったんだ」
最低限の机やベッド以外のものを置いていない、殺風景な部屋だった。お姉ちゃんが死んでから、なにも考えずに引きこもっていたかったわたしには、家具も柄物も色も、うるさく感じて仕方なかった。
「寮の部屋も、そろそろ片付けないとだね。あ、そういえば、寮をあのままにしてくれたのも、凪都たちなんでしょ? ありがと」
「それに関しては、女子寮のメンバーに感謝しな。俺はなにもしてないから」
本当は、お母さんたちが夏休み中に寮の荷物を片づけることになっていたみたいだ。だけど七緒たちが「すぐに片付けるなんて寂しいから、いまはこのままにして。夏休みが終われば、女子寮のみんなで片付ける」って言ってくれたらしい。おかげで、わたしは夏休みも普通に過ごせた。
せめて片付けくらいは、わたしがしなきゃ。
お姉ちゃんのスマホが小さくふるえた。起動、したみたいだ。わたしは一度目をそらす。さっきより心がしぼんでいた。やっぱりちょっと、見るのは勇気がいる。
「……お母さんたち、大丈夫かな。わたしのことも、お姉ちゃんのことも、乗り越えられるかな」
「柚の言いたいことは、伝わったと思うよ」
凪都がそっと声をかけてくる。そうだと、いいな。
深呼吸する。
「……嫌なら、無理に見る必要もないと思うけど」
「ううん、見る。見たい」
「そ。じゃあ、はい」
凪都がスマホを持ち上げる。わたしは、そっと受け取って、パスワードを入力した。お姉ちゃんの誕生日。ロックは問題なく解除された。壁紙は犬のイラストだった。お姉ちゃんが好きだったキャラクター。SNSアプリのアイコンをタッチする。ログインの状態が保たれていて、タイムラインが表示された。お姉ちゃんの投稿が並ぶホーム画面に移動する。
一度、目を閉じた。
お姉ちゃんの最後の投稿は、死ぬ直前のもの。わたしに怒って家を飛び出して、暗い夜の道を歩いたお姉ちゃん。階段をのぼって小さな神社に行って、そこから落ちてしまう直前の、お姉ちゃん。
目を開く。
連投をしていたみたいだ。同じ時間帯の投稿が並んでいた。視線で文字を追う。それは思っていたよりも、あっさりとした言葉だった。
『あー、もう、わたしのばか』
『親と妹とケンカした。でも、わがまま言ってるのはわたしだってわかってるんだよ』
『妹に結構きついこと言っちゃった』
『家、帰らなきゃだよね』
『謝って、仲直りしなきゃ。あー……、うん、よし、帰るか!』
あっけらかんとしたお姉ちゃんの声で、その文章が頭の中に響いた。あっと思うまもなく、わたしの目から涙がこぼれた。
「……もっと、深刻な文章でも書いてあるのかと思ってた」
だけど、この文章のどこにも死ぬ気配なんてない。ちょっと喧嘩したから気まずいけど、帰って仲直りしなきゃって、それだけの文章だ。お姉ちゃんは、自分が家に帰ることを疑ってなかった。それなのに、足を踏み外して死んだ。生きようとしていたはずなのに。自分の未来はつづいていくって思っていたはずなのに。
ぽたぽたと、頬を涙が伝って落ちた。
「どうして、死んじゃったんだろう」
帰ろうって言っているお姉ちゃんは、階段から落ちていく瞬間、なにを思ったんだろう。どれだけ驚いて、どれだけ悔しかっただろう。
「わたしが……、あの日、お姉ちゃんを引き留めていられたら。わたしが、もっと元気でみんなに心配をかけずにいられる妹だったら、お姉ちゃんは、こんなことには、ならなかったのに」
後悔したってもう遅い。なのに後悔が止まらない。
「ごめんね、お姉ちゃん……っ」
しゃくりあげる音だけが、鼓膜を揺らした。
「柚とお姉さん、似てるな」
「……え?」
そっと、顔を上げた。凪都は静かにスマホの画面を見ていた。
「お姉さん、自分が死んだことを柚のせいなんて、思ってないんじゃない?」
凪都も視線を上げて、わたしを見る。
「仲直りをしたがってたくらいなんだから。むしろ、柚が自分を責めるの、お姉さんは嫌がるんじゃないの」
「嫌がる……?」
凪都がうなずいて、わたしの目じりにたまった涙を指先ですくう。
「柚がそんな態度だから、まだふたりは仲直りできてないままだろ。俺だったら、喧嘩した相手がいつまでも俺のことを怖がってたら、困る」
「わ、わたし、べつにお姉ちゃんを怖がってるわけじゃ!」
……でも、お姉ちゃんに責められる夢を何度も見ていた。わたしは申し訳なくて、ずっとお姉ちゃんから目をそらしてきたんだ。きっとお姉ちゃんはわたしを怨んでいるんだろうなって。
だけどお姉ちゃんは、仲直りしたいって思ってくれていた――。
「柚、自分を責めるのは、もうやめなよ。で、仲直りしたかったっていうお姉さんの願い、叶えてあげな」
「……お姉ちゃんは、わたしが苦しむこと、望まないのかな」
「それを望むひとだったわけ?」
ううん、と首をふる。
「お姉ちゃんは、やさしかった。そんなこと、望まない」
「なら、それが答えだろ」
気づいたら、また涙が流れていた。ああ、そっか。
「わたし、馬鹿だったなあ……」
今度の涙は、あふれてあふれて、どうやっても止められなかった。息が苦しくて、肩が跳ねる。
「ほんとに、なんで、わたしは」
凪都の肩に額を押しつけると、凪都は拒まずに、わたしの頭をなでてくれた。そのあたたかさが感じられて、もっと泣けてくるんだ。
ごめんね、お姉ちゃん。ずっとお姉ちゃんの思いを無視していて。わたしも仲直りしたいんだよ。お姉ちゃんのこと、大好きだから。
「もっと、もっと早く、気づいていればよかったなぁ……っ」
そうすれば、お母さんやお父さんと、お姉ちゃんの話をして一緒に泣くことができたはずだ。きっとお姉ちゃんも、それを望んでいたはずなのに。なのに、わたしは気づかなくて。わたしは死んじゃって。いま知っても、もうわたしに、未来はないのに。
「なんで、わたし、死んじゃったんだろう」
目の前がちかちかと光った。頭の中の血管が切れそうなくらい、感情が止まらない。
「わたし、……死にたく、なかった!」
みんなと、もっと生きていたかった。凪都と、七緒と、女子寮のみんなと、お母さんとお父さんと、生きたかった。
「せっかく、お姉ちゃんのこと、わかったのに。今日からは、お姉ちゃんのこと大切に抱えて、生きていけそうなのに。なんで、わたしは」
悔しくて、悲しくて。わたしは凪都の服をつかんだ。なんでわたしは、消えなきゃいけないの。嫌、だ。
「死にたくない。消えたくない」
わたしは。
「もっと、生きたい……っ!」
そのときだった。
「――そうだよな」
耳もとで、凪都のふるえた声がした。ぴたりと、わたしの思考が止まった。
「柚は、死にたくなんて、なかったよな」
感情を押し殺すような、それでもふるえてしまう、凪都の声。ぴりりと、空気に緊張が走ったのが、肌でわかった。
「凪都……?」
わたしは、ゆっくりと身体を離した。見上げた凪都は、ひどく傷ついた顔をしていた。いまにも泣いてしまいそうな、そんな顔。驚いて、わたしの涙が止まる。
今度は凪都が、わたしの肩にもたれかかった。頬に、凪都の髪が当たる。かすかに息を吸う音が、耳もとでした。
「ねえ柚。俺、死んじゃ、だめ?」
――え?
凪都がずるずると座り込む。支えられなくて、わたしも床に膝をついた。
「柚と一緒に、死にたい」
抱きしめられて、その腕の力に苦しくなる。一瞬の無音が部屋を満たした。わたしの心臓が強く打つ。はちきれそうな緊張に、こめかみのあたりでも脈打っているのを感じた。
「どう、したの……、凪都」
凪都がもっと腕に力をこめた。
「もう、生きたくない」
どうしてそんなことを言い出したのか、全然わからなかった。だけど、その言葉に、脳が揺さぶられた。呼吸が止まりそうになった。
「なんで……、死ぬのはだめだって、わたし、言ってるじゃんか! やめてよ!」
とっさに叫んでいた。だってわたしは、こんなに生きたいのに。生きてる凪都がうらやましいのに。
「なんでそういうこと言うの!」
「柚は残された側の気持ちも、わかってるだろ!」
凪都の語気も荒くなった。わたしは思わず、口をつぐむ。一度息をついて、凪都がまた力をなくしたように、小さくつぶやいた。
「……ひとが死んだとき、どれだけまわりが苦しむか、柚が一番わかってるくせに」
「それは……、わかってるよ」
この世界からだれかが消える怖さを、わたしは知っている。だけど、ちがうんだよ。
「……だめだよ。生きて。死なないで」
凪都はなにも言わずに、首をふる。そうだ。最近、わたしは自分のことで精一杯だったから、忘れていた。三芝凪都は、死にたがりだ。熱くなっていた身体が一気に冷えた。血が、全部外に流れたみたいに。
「だめ、生きてよ。凪都の悩み、わたしがなんとかするから。諒さんと仲直りしたでしょ。ほかには? あとはなにを悩んでるの? 全部なんとかするから、生きてよ」
重たい沈黙と、かすかな凪都の息づかいだけが部屋を満たした。
「だったら、一緒に生きるか、一緒に死んで」
やっとこぼした凪都の言葉。でもそれは。
「……無理だよ」
わたしだって、一緒に生きたかったけど、もう無理なんだ。
「ごめんね、凪都。ごめん。だけど、わたしがいなくても、凪都は生きて」
「なんで」
「なんでって……、わたしが……、凪都に笑っていてほしいから」
抱きしめる力がすこしだけ弱まって、身体が離れた。凪都は泣いていなかった。だけど苦しそうで、見ているわたしのほうが泣きたくなった。
「笑っていてほしいんだよ。そこに、わたしがいなかったとしても」
だって、わたしは――。
凪都の瞳に、わたしが映る。きれいな瞳だ。そこに、暗い影がなかったら、もっと好きだ。憂鬱そうなんかじゃない、楽しそうな笑顔を浮かべてくれたら、もっともっと、好きなんだ。
「わたしは、凪都のことが」
好きだから。大好きだから、生きてほしい。笑ってほしい。だから、お願い。
そう言おうとした、わたしを。
青くなった凪都が、さえぎった。
わたしの口は、凪都の手におおわれていた。伝えたかった言葉は、わたしの喉のあたりでつっかえて、行き場をなくした。凪都は怯えているみたいな目でわたしを見て、肩で息をした。数秒、時が止まったみたいに、わたしたちは動かなかった。
「――ごめん。柚」
ゆっくりと手が離れる。身体ごと、凪都が身を引く。
「それを聞く資格なんて、俺にはないよ」
うつむく凪都の瞳を、黒い髪が隠す。
「ごめん、ごめん……」
ひたすら謝罪をくりかえしている、その意味がわたしにはわからなかった。
わたしはまだ、三芝凪都というひとを、理解できていないのかもしれなかった。
そんなふたりに、凪都が「そういえば」と切り出す。
「柚のお姉さんのスマホって、まだありますか」
え?
言われたふたりも、わたしも、きょとんとする。
「お姉さんが最期にSNSを更新していたんですよね。でも柚は怖くてその内容を見ることができなかったって言っていたので、気になっていて。よければ、見せてもらえませんか」
「それは……、ええ、残ってはいるんだけど」
「柚の代わりって言ったらすこし変ですけど、柚ができなかったこと、俺がしておきたいんです。お願いします」
お母さんは困惑したみたいだ。だけど、すっかり凪都には気を許したみたいで、リビングを出ていくとお姉ちゃんの部屋からスマホを持ってきた。まだ処分してなかったんだ。
「データもそのまま残っているから、充電すれば見られると思うわ」
「ありがとうございます」
それから、凪都はもうひとつ、お母さんに頼みごとをした。
「充電する間、柚の部屋にいても構いませんか」
「え? あの子の部屋?」
さすがに、娘の部屋に勝手にひとを上げるのは、ってふたりは渋っていた。だけど凪都が頭を下げると、ゆっくりうなずいた。
「わかりました。部屋は二階だから、どうぞ。柚に、あなたみたいな仲良しの男の子がいたのね」
……もしかしたら、わたしと凪都が恋人だとでも思ったのかもしれない。恋人の想い出に浸りたいんだろうな、なら拒むのも悪いか、みたいな。ちょっと恥ずかしい。
お姉ちゃんのスマホと充電器を持って、凪都はわたしの部屋に向かった。お母さんたちは「帰るときには声をかけて」と、凪都を残して部屋を出ていく。扉を閉めた凪都に、わたしは言った。
「お姉ちゃんのSNSのこと覚えてたんだね。ありがとう、頼んでくれて」
「おせっかいだった?」
扉を閉めたとはいえ、お母さんたちに聞こえないように、凪都は抑えた声で言った。
「ううん。見たかったから、助かる」
お姉ちゃんが死ぬ直前にしていたSNSへの投稿は、自殺を否定するような内容だったって聞いている。だけどそれを見たら、わたしは罪悪感に耐えられないだろうなって思って、いままで目をそらしてきた。
死ぬ気のなかったお姉ちゃんを死なせてしまった、その怖さは、いまもある。だけどお姉ちゃんのことを知らないまま、消えたくなかった。
充電器にスマホを差しても、すぐには起動しない。わたしは部屋を見回した。凪都もわたしの視線を追う。
「シンプルな部屋だな」
「ものがあっても、落ち着かなくて。いろいろ捨てちゃったんだ」
最低限の机やベッド以外のものを置いていない、殺風景な部屋だった。お姉ちゃんが死んでから、なにも考えずに引きこもっていたかったわたしには、家具も柄物も色も、うるさく感じて仕方なかった。
「寮の部屋も、そろそろ片付けないとだね。あ、そういえば、寮をあのままにしてくれたのも、凪都たちなんでしょ? ありがと」
「それに関しては、女子寮のメンバーに感謝しな。俺はなにもしてないから」
本当は、お母さんたちが夏休み中に寮の荷物を片づけることになっていたみたいだ。だけど七緒たちが「すぐに片付けるなんて寂しいから、いまはこのままにして。夏休みが終われば、女子寮のみんなで片付ける」って言ってくれたらしい。おかげで、わたしは夏休みも普通に過ごせた。
せめて片付けくらいは、わたしがしなきゃ。
お姉ちゃんのスマホが小さくふるえた。起動、したみたいだ。わたしは一度目をそらす。さっきより心がしぼんでいた。やっぱりちょっと、見るのは勇気がいる。
「……お母さんたち、大丈夫かな。わたしのことも、お姉ちゃんのことも、乗り越えられるかな」
「柚の言いたいことは、伝わったと思うよ」
凪都がそっと声をかけてくる。そうだと、いいな。
深呼吸する。
「……嫌なら、無理に見る必要もないと思うけど」
「ううん、見る。見たい」
「そ。じゃあ、はい」
凪都がスマホを持ち上げる。わたしは、そっと受け取って、パスワードを入力した。お姉ちゃんの誕生日。ロックは問題なく解除された。壁紙は犬のイラストだった。お姉ちゃんが好きだったキャラクター。SNSアプリのアイコンをタッチする。ログインの状態が保たれていて、タイムラインが表示された。お姉ちゃんの投稿が並ぶホーム画面に移動する。
一度、目を閉じた。
お姉ちゃんの最後の投稿は、死ぬ直前のもの。わたしに怒って家を飛び出して、暗い夜の道を歩いたお姉ちゃん。階段をのぼって小さな神社に行って、そこから落ちてしまう直前の、お姉ちゃん。
目を開く。
連投をしていたみたいだ。同じ時間帯の投稿が並んでいた。視線で文字を追う。それは思っていたよりも、あっさりとした言葉だった。
『あー、もう、わたしのばか』
『親と妹とケンカした。でも、わがまま言ってるのはわたしだってわかってるんだよ』
『妹に結構きついこと言っちゃった』
『家、帰らなきゃだよね』
『謝って、仲直りしなきゃ。あー……、うん、よし、帰るか!』
あっけらかんとしたお姉ちゃんの声で、その文章が頭の中に響いた。あっと思うまもなく、わたしの目から涙がこぼれた。
「……もっと、深刻な文章でも書いてあるのかと思ってた」
だけど、この文章のどこにも死ぬ気配なんてない。ちょっと喧嘩したから気まずいけど、帰って仲直りしなきゃって、それだけの文章だ。お姉ちゃんは、自分が家に帰ることを疑ってなかった。それなのに、足を踏み外して死んだ。生きようとしていたはずなのに。自分の未来はつづいていくって思っていたはずなのに。
ぽたぽたと、頬を涙が伝って落ちた。
「どうして、死んじゃったんだろう」
帰ろうって言っているお姉ちゃんは、階段から落ちていく瞬間、なにを思ったんだろう。どれだけ驚いて、どれだけ悔しかっただろう。
「わたしが……、あの日、お姉ちゃんを引き留めていられたら。わたしが、もっと元気でみんなに心配をかけずにいられる妹だったら、お姉ちゃんは、こんなことには、ならなかったのに」
後悔したってもう遅い。なのに後悔が止まらない。
「ごめんね、お姉ちゃん……っ」
しゃくりあげる音だけが、鼓膜を揺らした。
「柚とお姉さん、似てるな」
「……え?」
そっと、顔を上げた。凪都は静かにスマホの画面を見ていた。
「お姉さん、自分が死んだことを柚のせいなんて、思ってないんじゃない?」
凪都も視線を上げて、わたしを見る。
「仲直りをしたがってたくらいなんだから。むしろ、柚が自分を責めるの、お姉さんは嫌がるんじゃないの」
「嫌がる……?」
凪都がうなずいて、わたしの目じりにたまった涙を指先ですくう。
「柚がそんな態度だから、まだふたりは仲直りできてないままだろ。俺だったら、喧嘩した相手がいつまでも俺のことを怖がってたら、困る」
「わ、わたし、べつにお姉ちゃんを怖がってるわけじゃ!」
……でも、お姉ちゃんに責められる夢を何度も見ていた。わたしは申し訳なくて、ずっとお姉ちゃんから目をそらしてきたんだ。きっとお姉ちゃんはわたしを怨んでいるんだろうなって。
だけどお姉ちゃんは、仲直りしたいって思ってくれていた――。
「柚、自分を責めるのは、もうやめなよ。で、仲直りしたかったっていうお姉さんの願い、叶えてあげな」
「……お姉ちゃんは、わたしが苦しむこと、望まないのかな」
「それを望むひとだったわけ?」
ううん、と首をふる。
「お姉ちゃんは、やさしかった。そんなこと、望まない」
「なら、それが答えだろ」
気づいたら、また涙が流れていた。ああ、そっか。
「わたし、馬鹿だったなあ……」
今度の涙は、あふれてあふれて、どうやっても止められなかった。息が苦しくて、肩が跳ねる。
「ほんとに、なんで、わたしは」
凪都の肩に額を押しつけると、凪都は拒まずに、わたしの頭をなでてくれた。そのあたたかさが感じられて、もっと泣けてくるんだ。
ごめんね、お姉ちゃん。ずっとお姉ちゃんの思いを無視していて。わたしも仲直りしたいんだよ。お姉ちゃんのこと、大好きだから。
「もっと、もっと早く、気づいていればよかったなぁ……っ」
そうすれば、お母さんやお父さんと、お姉ちゃんの話をして一緒に泣くことができたはずだ。きっとお姉ちゃんも、それを望んでいたはずなのに。なのに、わたしは気づかなくて。わたしは死んじゃって。いま知っても、もうわたしに、未来はないのに。
「なんで、わたし、死んじゃったんだろう」
目の前がちかちかと光った。頭の中の血管が切れそうなくらい、感情が止まらない。
「わたし、……死にたく、なかった!」
みんなと、もっと生きていたかった。凪都と、七緒と、女子寮のみんなと、お母さんとお父さんと、生きたかった。
「せっかく、お姉ちゃんのこと、わかったのに。今日からは、お姉ちゃんのこと大切に抱えて、生きていけそうなのに。なんで、わたしは」
悔しくて、悲しくて。わたしは凪都の服をつかんだ。なんでわたしは、消えなきゃいけないの。嫌、だ。
「死にたくない。消えたくない」
わたしは。
「もっと、生きたい……っ!」
そのときだった。
「――そうだよな」
耳もとで、凪都のふるえた声がした。ぴたりと、わたしの思考が止まった。
「柚は、死にたくなんて、なかったよな」
感情を押し殺すような、それでもふるえてしまう、凪都の声。ぴりりと、空気に緊張が走ったのが、肌でわかった。
「凪都……?」
わたしは、ゆっくりと身体を離した。見上げた凪都は、ひどく傷ついた顔をしていた。いまにも泣いてしまいそうな、そんな顔。驚いて、わたしの涙が止まる。
今度は凪都が、わたしの肩にもたれかかった。頬に、凪都の髪が当たる。かすかに息を吸う音が、耳もとでした。
「ねえ柚。俺、死んじゃ、だめ?」
――え?
凪都がずるずると座り込む。支えられなくて、わたしも床に膝をついた。
「柚と一緒に、死にたい」
抱きしめられて、その腕の力に苦しくなる。一瞬の無音が部屋を満たした。わたしの心臓が強く打つ。はちきれそうな緊張に、こめかみのあたりでも脈打っているのを感じた。
「どう、したの……、凪都」
凪都がもっと腕に力をこめた。
「もう、生きたくない」
どうしてそんなことを言い出したのか、全然わからなかった。だけど、その言葉に、脳が揺さぶられた。呼吸が止まりそうになった。
「なんで……、死ぬのはだめだって、わたし、言ってるじゃんか! やめてよ!」
とっさに叫んでいた。だってわたしは、こんなに生きたいのに。生きてる凪都がうらやましいのに。
「なんでそういうこと言うの!」
「柚は残された側の気持ちも、わかってるだろ!」
凪都の語気も荒くなった。わたしは思わず、口をつぐむ。一度息をついて、凪都がまた力をなくしたように、小さくつぶやいた。
「……ひとが死んだとき、どれだけまわりが苦しむか、柚が一番わかってるくせに」
「それは……、わかってるよ」
この世界からだれかが消える怖さを、わたしは知っている。だけど、ちがうんだよ。
「……だめだよ。生きて。死なないで」
凪都はなにも言わずに、首をふる。そうだ。最近、わたしは自分のことで精一杯だったから、忘れていた。三芝凪都は、死にたがりだ。熱くなっていた身体が一気に冷えた。血が、全部外に流れたみたいに。
「だめ、生きてよ。凪都の悩み、わたしがなんとかするから。諒さんと仲直りしたでしょ。ほかには? あとはなにを悩んでるの? 全部なんとかするから、生きてよ」
重たい沈黙と、かすかな凪都の息づかいだけが部屋を満たした。
「だったら、一緒に生きるか、一緒に死んで」
やっとこぼした凪都の言葉。でもそれは。
「……無理だよ」
わたしだって、一緒に生きたかったけど、もう無理なんだ。
「ごめんね、凪都。ごめん。だけど、わたしがいなくても、凪都は生きて」
「なんで」
「なんでって……、わたしが……、凪都に笑っていてほしいから」
抱きしめる力がすこしだけ弱まって、身体が離れた。凪都は泣いていなかった。だけど苦しそうで、見ているわたしのほうが泣きたくなった。
「笑っていてほしいんだよ。そこに、わたしがいなかったとしても」
だって、わたしは――。
凪都の瞳に、わたしが映る。きれいな瞳だ。そこに、暗い影がなかったら、もっと好きだ。憂鬱そうなんかじゃない、楽しそうな笑顔を浮かべてくれたら、もっともっと、好きなんだ。
「わたしは、凪都のことが」
好きだから。大好きだから、生きてほしい。笑ってほしい。だから、お願い。
そう言おうとした、わたしを。
青くなった凪都が、さえぎった。
わたしの口は、凪都の手におおわれていた。伝えたかった言葉は、わたしの喉のあたりでつっかえて、行き場をなくした。凪都は怯えているみたいな目でわたしを見て、肩で息をした。数秒、時が止まったみたいに、わたしたちは動かなかった。
「――ごめん。柚」
ゆっくりと手が離れる。身体ごと、凪都が身を引く。
「それを聞く資格なんて、俺にはないよ」
うつむく凪都の瞳を、黒い髪が隠す。
「ごめん、ごめん……」
ひたすら謝罪をくりかえしている、その意味がわたしにはわからなかった。
わたしはまだ、三芝凪都というひとを、理解できていないのかもしれなかった。