わたしがすべてを知ったつぎの日も、凪都はいつもと変わらない図書室の席と、いつもと変わらない言葉でわたしを出迎えた。
「おはよ、柚。今日は、なにがしたい?」
まるで昨日のやり取りが全部夢だったみたいに、これまでと変わりがない声だった。でもそれを聞くわたしは、胸に重みがのしかかって、息苦しい。
自分が消えるまでに、なにがしたいのか。そんなの、簡単にはわからないよ。
わたしは机に頬杖をついて、窓から差し込む朝陽を見つめた。自分が死んでいるって、理解はしている。でもやっぱり、遠いところにあるものを見ているような気分で、ぼんやりとわたしの思考はさまよっていた。
「うーん、なにがしたいんだろうね……」
「全部叶えるから、なんでも言いなよ」
凪都はふっと笑って、手もとの本をめくる。相変わらず、うそをつくのがうまい。わたしも見習ったほうがいいのかな。悩んでいたって、凪都に心配をかけるだけだし。
七緒が三つ編みにしてくれた毛先を、ちょんといじる。
「ねえ、凪都。七緒がわたしの髪型を変えてた理由、知ってた? 死んだ生徒が校舎を歩き回ってるってばれないようにするためだったらしいよ」
「直接聞いたわけじゃないけど、そうだろうなとは思ってた」
「そっか」
幽霊がいるなんて知られたら、騒ぎになる。七緒はそれを防ぐために、毎日わたしの髪型を変えてくれていたらしい。わたしはいつも髪をおろしていたから、アレンジしちゃえば、わたしだとは気づかれにくいはず、って。もともとわたしは目立たない生徒だったし、夏休み中で知り合いに会うことがほとんどないのも幸いだった。
ついでに、春野さんもわたしの事情を知っていたみたいで、キャップをくれたのも身バレ防止対策だった。夜中の散歩を許してくれたのも、女子寮でタコパをしたりまくら投げをしたりすることだって、もうすぐ消えるわたしのために、春野さんが特別に許可をしてくれたみたいだ。
みんな、やさしすぎるでしょ。
これまでのことを思い出すと、じわりと胸が温かくなる。
――消えちゃう前に、したいこと。
女子寮のみんなとは、また、まくら投げをしたいな。夜中にパジャマで騒ぐのは、結構楽しかった。夏祭りも盛り上がったから、今度は女子寮みんなで買い物に行くのもいいかもしれない。
それで、凪都となら……。
笑っている、凪都が見たいな。
そう思った瞬間に、わたしの胸が苦しくなった。あれ、まずいな。なんでだろう。目の奥が熱くなって、困惑する。
「柚?」
「あ、いや、ごめん、なんか、ちょっと……」
言葉にならないわたしに、凪都は読んでいた本から顔を上げた。わたしはなんとか笑って、首をふる。
「なんでもないよ」
それだけ言うので、精一杯だった。だめだ、しっかりして、わたし。凪都から顔をそむけて、こっそりと深呼吸する。
――ずっと、凪都の笑顔を見ていたかった。
文化祭とか、体育祭とか、冬休みに入ったら一緒に初詣に行ったりとか、三年生になってからの春はお花見をしたりだとか。あと、一緒に卒業して、桜の下で記念撮影して――。でもそんな未来は、もうわたしにはないんだよね。それはただの想像でしかないんだ。そう思うと、なんだか、すこし。
「寂しいなあ」
つぶやいた声が、思ったよりも濡れているように聞こえて、あせる。ちがう、だめ、泣いちゃだめだ。そんなつもりじゃない。
「柚」
「い、いや、ぜんぜん! ぜんぜん、大丈夫なんだけどね!」
わたしは、あわてて首をふる。心配をかけたくなかった。それでも、心の奥のほうでは黒いもやもやしたものが渦を巻いていて、視界がにじんでいく。
「柚」
「ちが、ちがうの……」
必死に耐える。でも、視界がぼやける。
わたしは死んでる。わたしは幽霊だ。昨日からずっと考えていた。だけど、いま、唐突に、死ぬってことがどういうものなのか、わかった気がした。わたしはこの夏で消えちゃうんだ。もうその先はない。未来はない。
怖い。
だけどわたしの口からは、うそが飛び出す。
「大丈夫だって。わたしね、自分が死んでた間のこと、あ、夏休みがはじまってからの一週間のことね、なにも覚えてないし。苦しくもなんともなかったんだよ。寝てる、みたいな感じかな。だから大丈夫、怖くない」
わたしは、なにを言ってるんだろう。心と体がちぐはぐで、情けなくて、笑えてきた。笑いながら、泣きそうになるのもこらえられなかった。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
そのとき、凪都の指がそっとわたしの頬に触れた。
「落ち着いて」
凪都の指が、頬の輪郭をなぞる。わたしが、ここにいることをたしかめるみたいに。でも、こうやって触れていられる時間も、もうすぐ終わっちゃうんだ。
「……まだね、死んだ実感がないんだよ、わたし」
かすれてふるえて、聞きとりにくい変な声で、わたしは言う。
「だけど、死んだら、わたしの全部が、そこで終わっちゃうんだなってことを考えると、ね……」
あ、だめだ。我慢できない。涙がこぼれた。どうしてわたしは、凪都の前だと泣いちゃうんだろう。
「ごめん、ごめんね、凪都」
言いながら、ぽろぽろと涙があふれて止まらない。凪都も表情をゆがめて、わたしの涙を指先ですくった。
「なんで、柚が謝るわけ?」
「だって……、こんな話したって、凪都も困るでしょ」
「困らないよ。俺は薄情だから。柚が泣いてたって、困らない。だから言いたいことがあるなら、全部言いな」
いつか、お姉ちゃんの話を打ち明けたときも、凪都は同じようなことを言っていた。わたしは、凪都の指に自分の指を重ねる。
「うそつき。凪都はやさしいよ」
「……そんなことない。だけど、柚をひとりで泣かせたりしない」
「え?」
凪都はまっすぐにわたしを見つめた。
「柚のためにできることは全部するって決めたから」
その言葉に、わたしはもっと泣いてしまう。凪都はやさしい。七緒も、女子寮のみんなも。わたしはすごく幸せな人間だと思う。
「……凪都」
「なに?」
「やりたいこと、ひとつ、思いついた」
わたしは、やさしいみんなが好きだから。せめて、最期に。
「みんなに、手紙を書きたい」
泣きながら言うわたしに、凪都はうなずいた。
「おはよ、柚。今日は、なにがしたい?」
まるで昨日のやり取りが全部夢だったみたいに、これまでと変わりがない声だった。でもそれを聞くわたしは、胸に重みがのしかかって、息苦しい。
自分が消えるまでに、なにがしたいのか。そんなの、簡単にはわからないよ。
わたしは机に頬杖をついて、窓から差し込む朝陽を見つめた。自分が死んでいるって、理解はしている。でもやっぱり、遠いところにあるものを見ているような気分で、ぼんやりとわたしの思考はさまよっていた。
「うーん、なにがしたいんだろうね……」
「全部叶えるから、なんでも言いなよ」
凪都はふっと笑って、手もとの本をめくる。相変わらず、うそをつくのがうまい。わたしも見習ったほうがいいのかな。悩んでいたって、凪都に心配をかけるだけだし。
七緒が三つ編みにしてくれた毛先を、ちょんといじる。
「ねえ、凪都。七緒がわたしの髪型を変えてた理由、知ってた? 死んだ生徒が校舎を歩き回ってるってばれないようにするためだったらしいよ」
「直接聞いたわけじゃないけど、そうだろうなとは思ってた」
「そっか」
幽霊がいるなんて知られたら、騒ぎになる。七緒はそれを防ぐために、毎日わたしの髪型を変えてくれていたらしい。わたしはいつも髪をおろしていたから、アレンジしちゃえば、わたしだとは気づかれにくいはず、って。もともとわたしは目立たない生徒だったし、夏休み中で知り合いに会うことがほとんどないのも幸いだった。
ついでに、春野さんもわたしの事情を知っていたみたいで、キャップをくれたのも身バレ防止対策だった。夜中の散歩を許してくれたのも、女子寮でタコパをしたりまくら投げをしたりすることだって、もうすぐ消えるわたしのために、春野さんが特別に許可をしてくれたみたいだ。
みんな、やさしすぎるでしょ。
これまでのことを思い出すと、じわりと胸が温かくなる。
――消えちゃう前に、したいこと。
女子寮のみんなとは、また、まくら投げをしたいな。夜中にパジャマで騒ぐのは、結構楽しかった。夏祭りも盛り上がったから、今度は女子寮みんなで買い物に行くのもいいかもしれない。
それで、凪都となら……。
笑っている、凪都が見たいな。
そう思った瞬間に、わたしの胸が苦しくなった。あれ、まずいな。なんでだろう。目の奥が熱くなって、困惑する。
「柚?」
「あ、いや、ごめん、なんか、ちょっと……」
言葉にならないわたしに、凪都は読んでいた本から顔を上げた。わたしはなんとか笑って、首をふる。
「なんでもないよ」
それだけ言うので、精一杯だった。だめだ、しっかりして、わたし。凪都から顔をそむけて、こっそりと深呼吸する。
――ずっと、凪都の笑顔を見ていたかった。
文化祭とか、体育祭とか、冬休みに入ったら一緒に初詣に行ったりとか、三年生になってからの春はお花見をしたりだとか。あと、一緒に卒業して、桜の下で記念撮影して――。でもそんな未来は、もうわたしにはないんだよね。それはただの想像でしかないんだ。そう思うと、なんだか、すこし。
「寂しいなあ」
つぶやいた声が、思ったよりも濡れているように聞こえて、あせる。ちがう、だめ、泣いちゃだめだ。そんなつもりじゃない。
「柚」
「い、いや、ぜんぜん! ぜんぜん、大丈夫なんだけどね!」
わたしは、あわてて首をふる。心配をかけたくなかった。それでも、心の奥のほうでは黒いもやもやしたものが渦を巻いていて、視界がにじんでいく。
「柚」
「ちが、ちがうの……」
必死に耐える。でも、視界がぼやける。
わたしは死んでる。わたしは幽霊だ。昨日からずっと考えていた。だけど、いま、唐突に、死ぬってことがどういうものなのか、わかった気がした。わたしはこの夏で消えちゃうんだ。もうその先はない。未来はない。
怖い。
だけどわたしの口からは、うそが飛び出す。
「大丈夫だって。わたしね、自分が死んでた間のこと、あ、夏休みがはじまってからの一週間のことね、なにも覚えてないし。苦しくもなんともなかったんだよ。寝てる、みたいな感じかな。だから大丈夫、怖くない」
わたしは、なにを言ってるんだろう。心と体がちぐはぐで、情けなくて、笑えてきた。笑いながら、泣きそうになるのもこらえられなかった。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
そのとき、凪都の指がそっとわたしの頬に触れた。
「落ち着いて」
凪都の指が、頬の輪郭をなぞる。わたしが、ここにいることをたしかめるみたいに。でも、こうやって触れていられる時間も、もうすぐ終わっちゃうんだ。
「……まだね、死んだ実感がないんだよ、わたし」
かすれてふるえて、聞きとりにくい変な声で、わたしは言う。
「だけど、死んだら、わたしの全部が、そこで終わっちゃうんだなってことを考えると、ね……」
あ、だめだ。我慢できない。涙がこぼれた。どうしてわたしは、凪都の前だと泣いちゃうんだろう。
「ごめん、ごめんね、凪都」
言いながら、ぽろぽろと涙があふれて止まらない。凪都も表情をゆがめて、わたしの涙を指先ですくった。
「なんで、柚が謝るわけ?」
「だって……、こんな話したって、凪都も困るでしょ」
「困らないよ。俺は薄情だから。柚が泣いてたって、困らない。だから言いたいことがあるなら、全部言いな」
いつか、お姉ちゃんの話を打ち明けたときも、凪都は同じようなことを言っていた。わたしは、凪都の指に自分の指を重ねる。
「うそつき。凪都はやさしいよ」
「……そんなことない。だけど、柚をひとりで泣かせたりしない」
「え?」
凪都はまっすぐにわたしを見つめた。
「柚のためにできることは全部するって決めたから」
その言葉に、わたしはもっと泣いてしまう。凪都はやさしい。七緒も、女子寮のみんなも。わたしはすごく幸せな人間だと思う。
「……凪都」
「なに?」
「やりたいこと、ひとつ、思いついた」
わたしは、やさしいみんなが好きだから。せめて、最期に。
「みんなに、手紙を書きたい」
泣きながら言うわたしに、凪都はうなずいた。