世界がくらりと揺れた。その視界に、男子生徒が映る。こっちに歩いてくる姿は、諒さんだった。
「……諒さん!」
とっさに声をかけると、諒さんは「わっ」と大きく肩を跳ねさせた。
「え、あ……、柚さんじゃん。どうしたの? なんか顔色悪くない?」
「あの、凪都……! 凪都、はっ」
生きてるよね。
そう訊きたいのに、怖くなる。真実を知ったら、もう取り返しがつかなくなるんじゃないかって。本当に、わたしは臆病だ。諒さんは困惑した顔でわたしを見ている。
「……諒さん。夏休みの最初のほうに、生徒のだれかが死んだって噂、知ってる?」
「あー、うん、あれね」
心臓がどくん、とひと際大きく鳴った。
「知ってるの?」
「うん。ていうか、その日、俺も部活で学校残ってたから。救急車のサイレンも聞いた。近くにいたわけじゃないし、現場を見たわけでもないけどさ、空気がぴりついてたのは覚えてるよ」
諒さんが眉を下げて言った。
「まあ実際は夏休みの最初じゃなくて、夏休み前のことだけど。終業式の日。それがどうかした?」
わたしは、ごくんと喉を鳴らして、おそるおそる口を開く。
「死んじゃった、って本当なの?」
「らしいよ」
諒さんはわたしを心配そうに見ながらも、うなずいた。
「先生たちが騒動にならないようにって、噂を広めないようにしてるらしいけど。それだけ先生がマジになるってことは、本当なんじゃないかな」
目の前が真っ暗になりそうだった。それでも、どうにか会話をつづける。もうすこしで、知りたかったことにたどり着く。そんな期待と恐怖で、さっきから頭痛がひどい。
「諒さんは、その生徒のこと……、くわしく知ってる?」
「二年生だってさ。でも俺とはべつのクラスの子だったから、よく知らないんだけど」
「その子?」
他人行儀な言い方だった。諒さんはそのひとのことをよく知らないんだ。だったら……死んだのは、凪都じゃないってこと?
それだけで、わたしはほっとして座り込みそうになった。まだ不安なことはたくさん残っているけど、ひとまず安心した。
でも、二年生のだれかが、死んだ。わたしと同じ学年の、だれかが。
「その子、何組なの?」
切羽詰まっているわたしのことを気にしているのか、諒さんはさっきからずっと眉をさげている。その顔のまま、斜め上を見上げて思い出そうとしていた。
「えーっと、たしか……、一組だったかな」
また心臓が嫌な音を立てる。……うちのクラスだ。凪都じゃなくても、わたしのクラスのだれかが、死んだ。
「……だれ、が」
諒さんは、ちょっと待って、と目を閉じた。名前聞いた気がするから、と考え込む。その時間がとても長く感じられた。やがて、諒さんが「あ」と目を開けて、言った。
「東坂さん、だったかな」
「え……?」
目を見開いたわたしに、もう一度、諒さんが言う。
「東坂さんって、女子だったよ」
東坂。二年一組の、女子――?
耳もとを、湿った風が抜けていった。
「柚っ!」
声がした。ふり向けば、凪都がいた。いつのまに、そこにいたんだろう。凪都は、くしゃりと顔を歪めていた。なに、その顔。苦しそうな、顔。
「諒! 余計なこと言うな!」
声を荒げる凪都を、わたしは、はじめて見る。だから、わたしも諒さんも、これが普通じゃない、よくないことだってわかった。
「え、あ、ごめん……! もしかして東坂さんって、柚さんの友だちだった?」
諒さんも戸惑って、なさけない顔になっておろおろとする。でも。ちがう。そうじゃない。東坂は、クラスにひとりしかいなくて、その名字は。
「柚、聞かなくていいから!」
凪都が、わたしの腕をつかむ。ちがう。つかもうとした。だけど、凪都の指先は空を切って、わたしに触れられない。凪都がもっと顔を歪めた。諒さんが目を丸くする。
「え、なんで、いま……」
――ああ、なんだ。
わたしは、やっと答えにたどり着いた。それはわたしの予想とは全然ちがったものだったけど。
「そっか、わたし」
苦しそうな凪都を、わたしは、ぼんやりと見つめた。
いままで何度かあった、指が空を切る感覚。わたしは、凪都に触れられなくて、不安になっていた。さっきの女子生徒は、図書室にひとりでしゃべっている生徒の話をしていた。彼女たちに凪都が見えていなかったんじゃないかって、怖くなった。
ちがう。そうじゃなかった。
わたしが凪都に触れられなかったんじゃない。彼女たちは、凪都が見えていなかったんじゃない。
――言われてみれば。
わたしの声が届いていないと思うことがあった。一度の呼びかけで気づいてもらえなくて、凪都や七緒や女子寮のみんなに、わたしは何度か声をかけないといけなかった。さっきも、諒さんはわたしが声をかけるまで、気づいてくれなかった。
見えなくなっていたのは、声を届けられなくなっていたのは、凪都じゃない。
言われてみれば。
夏休みの最初の記憶が、わたしにはない。気づけば、夏休みが一週間過ぎていて、わたしは図書室で凪都に声をかけていた。それ以前に、わたしはなにをしていたんだっけ。思い出せない。覚えていない。そもそも、その一週間が、わたしにはなかった。
言われてみれば。
言われて、みれば……?
「東坂は、わたし」
東坂柚。二年一組の、女子生徒。
わたしは、凪都を見る。本当にめずらしく、泣いてしまいそうな凪都を。
「死んだのは、わたしのほうだったんだね」
「……諒さん!」
とっさに声をかけると、諒さんは「わっ」と大きく肩を跳ねさせた。
「え、あ……、柚さんじゃん。どうしたの? なんか顔色悪くない?」
「あの、凪都……! 凪都、はっ」
生きてるよね。
そう訊きたいのに、怖くなる。真実を知ったら、もう取り返しがつかなくなるんじゃないかって。本当に、わたしは臆病だ。諒さんは困惑した顔でわたしを見ている。
「……諒さん。夏休みの最初のほうに、生徒のだれかが死んだって噂、知ってる?」
「あー、うん、あれね」
心臓がどくん、とひと際大きく鳴った。
「知ってるの?」
「うん。ていうか、その日、俺も部活で学校残ってたから。救急車のサイレンも聞いた。近くにいたわけじゃないし、現場を見たわけでもないけどさ、空気がぴりついてたのは覚えてるよ」
諒さんが眉を下げて言った。
「まあ実際は夏休みの最初じゃなくて、夏休み前のことだけど。終業式の日。それがどうかした?」
わたしは、ごくんと喉を鳴らして、おそるおそる口を開く。
「死んじゃった、って本当なの?」
「らしいよ」
諒さんはわたしを心配そうに見ながらも、うなずいた。
「先生たちが騒動にならないようにって、噂を広めないようにしてるらしいけど。それだけ先生がマジになるってことは、本当なんじゃないかな」
目の前が真っ暗になりそうだった。それでも、どうにか会話をつづける。もうすこしで、知りたかったことにたどり着く。そんな期待と恐怖で、さっきから頭痛がひどい。
「諒さんは、その生徒のこと……、くわしく知ってる?」
「二年生だってさ。でも俺とはべつのクラスの子だったから、よく知らないんだけど」
「その子?」
他人行儀な言い方だった。諒さんはそのひとのことをよく知らないんだ。だったら……死んだのは、凪都じゃないってこと?
それだけで、わたしはほっとして座り込みそうになった。まだ不安なことはたくさん残っているけど、ひとまず安心した。
でも、二年生のだれかが、死んだ。わたしと同じ学年の、だれかが。
「その子、何組なの?」
切羽詰まっているわたしのことを気にしているのか、諒さんはさっきからずっと眉をさげている。その顔のまま、斜め上を見上げて思い出そうとしていた。
「えーっと、たしか……、一組だったかな」
また心臓が嫌な音を立てる。……うちのクラスだ。凪都じゃなくても、わたしのクラスのだれかが、死んだ。
「……だれ、が」
諒さんは、ちょっと待って、と目を閉じた。名前聞いた気がするから、と考え込む。その時間がとても長く感じられた。やがて、諒さんが「あ」と目を開けて、言った。
「東坂さん、だったかな」
「え……?」
目を見開いたわたしに、もう一度、諒さんが言う。
「東坂さんって、女子だったよ」
東坂。二年一組の、女子――?
耳もとを、湿った風が抜けていった。
「柚っ!」
声がした。ふり向けば、凪都がいた。いつのまに、そこにいたんだろう。凪都は、くしゃりと顔を歪めていた。なに、その顔。苦しそうな、顔。
「諒! 余計なこと言うな!」
声を荒げる凪都を、わたしは、はじめて見る。だから、わたしも諒さんも、これが普通じゃない、よくないことだってわかった。
「え、あ、ごめん……! もしかして東坂さんって、柚さんの友だちだった?」
諒さんも戸惑って、なさけない顔になっておろおろとする。でも。ちがう。そうじゃない。東坂は、クラスにひとりしかいなくて、その名字は。
「柚、聞かなくていいから!」
凪都が、わたしの腕をつかむ。ちがう。つかもうとした。だけど、凪都の指先は空を切って、わたしに触れられない。凪都がもっと顔を歪めた。諒さんが目を丸くする。
「え、なんで、いま……」
――ああ、なんだ。
わたしは、やっと答えにたどり着いた。それはわたしの予想とは全然ちがったものだったけど。
「そっか、わたし」
苦しそうな凪都を、わたしは、ぼんやりと見つめた。
いままで何度かあった、指が空を切る感覚。わたしは、凪都に触れられなくて、不安になっていた。さっきの女子生徒は、図書室にひとりでしゃべっている生徒の話をしていた。彼女たちに凪都が見えていなかったんじゃないかって、怖くなった。
ちがう。そうじゃなかった。
わたしが凪都に触れられなかったんじゃない。彼女たちは、凪都が見えていなかったんじゃない。
――言われてみれば。
わたしの声が届いていないと思うことがあった。一度の呼びかけで気づいてもらえなくて、凪都や七緒や女子寮のみんなに、わたしは何度か声をかけないといけなかった。さっきも、諒さんはわたしが声をかけるまで、気づいてくれなかった。
見えなくなっていたのは、声を届けられなくなっていたのは、凪都じゃない。
言われてみれば。
夏休みの最初の記憶が、わたしにはない。気づけば、夏休みが一週間過ぎていて、わたしは図書室で凪都に声をかけていた。それ以前に、わたしはなにをしていたんだっけ。思い出せない。覚えていない。そもそも、その一週間が、わたしにはなかった。
言われてみれば。
言われて、みれば……?
「東坂は、わたし」
東坂柚。二年一組の、女子生徒。
わたしは、凪都を見る。本当にめずらしく、泣いてしまいそうな凪都を。
「死んだのは、わたしのほうだったんだね」