つかつかとこっちに来た凪都が、わたしの腕をつかんでコートへ引きずっていく。わたし、バスケなんて体育の授業でしかやったことないのに……!

 でも諒さんは笑顔でわたしを出迎えるし、凪都も「はい」と気軽にパスしてくる。

 どうしよう。バスケ経験者に挟まれてしまった。それに、久しぶりのふたりのゲームにわたしが入っていいのかな。

 そう思ったけど。

「柚さん、うまいうまい!」
「とか言いながら道ふさぐな。邪魔」
「いやだって、一応ゲームだし」
「はいはい、邪魔者をおさえとくから、柚はシュートしな」
「う、うん……!」

 どれだけ下手なドリブルをしても、シュートが外れても、ふたりとも嫌そうな顔をしなかった。すこしずつ、わたしも楽しくなって笑えてくる。

 それに輪の中に入ってみると、余計にわかるんだ。もう、喧嘩なんて雰囲気はどこにもない。これで、凪都の悩みをひとつ、解決できたかな。……死にたいって思う気持ち、ちょっとはなくなった?

「ほら、柚。もう一回」

 凪都からやわらかいパスが回される。

 ――凪都がこのまま……、たくさん笑ってくれるようになるといいな。

 思いながら、ゴールを見上げる。ぽん、と手の中のボールを放った。放物線を描いて、青い空を背景にボールが飛んでいく。がこん、とリングに当たった。行き場に困ったみたいに、その上をうろうろして。

 ボールは危なっかしくネットをくぐった。

「あ」

 ……入った。

「おー、柚さん、ナイス!」

 諒さんがまぶしい笑顔を向けてくる。それから、わたしのとなりで。

「あはは、ギリギリじゃん。でもナイス」

 凪都がおかしそうに笑っていた。それは、やわらかくて、まぶしくて――、楽しそうな笑顔だった。とくん、と胸が鳴る。じんわりと熱が身体の奥のほうで灯って、広がっていく。

 ――ああ、もう。本当に。

「柚?」

 好き、だ。

 そうやって笑っている凪都が、わたしは好き。楽しそうで、無邪気で、幸せそうで。そんな凪都のことが、好きなんだよ。だから。

「ずっと、笑っていてね」

 自然と言葉がこぼれていた。

「夏が終わっても――、文化祭とか、冬休みとか、まだまだ楽しいことたくさんあるから。笑っていて。わたしは、そういう凪都をずっと見ていたい」

 大好きだから。生きて、笑って、過ごしてほしい。

 わたしは凪都を見つめた。頬が熱い。「なにそれ、告白?」ってからかわれたっていい。いまのは、つき合ってください、とかそういう種類の言葉とはちょっとちがって、もっと切実な「願い」に近いものだったけど。でもべつに、告白だと思われたっていい。

 好きなのは、本当だし。

 だけど、凪都はからかうようなことをしなかった。だからって、わたしみたいに赤くなるわけでもない。凪都は――、すこし目を大きくさせて、固まっていた。

 わたしたちの間に、風が吹き抜けた。すこしして、つぶやく声が聞こえる。

「柚は……、結構つらいこと、言うよな」

 ゆっくりと、凪都の表情が変わっていった。眉を八の字にして、すこし泣きだしてしまいそうな笑顔を浮かべていた。さっきまで楽しそうだったのに。

「……凪都?」

 急に、世界の音が消えた。

 一瞬あとに、蝉の鳴き声だけが耳にうるさく響く。

 わたしは目の前にいる凪都を見つめた。

 ……悩みは、解決したんだよね? 諒さんと仲直りできたんだから。なのにどうして、いままで見た中で一番悲しそうな顔をしているんだろう。

「つらいことって、どういう意味?」

 空気が変わったのがわかったのか、諒さんがさりげなくわたしたちから距離を取るのが、視界のはしに映った。

「凪都、悩みは解決しなくていいって、前に言ってたよね。どうして? 諒さんと仲直りをしたら困ることが、なにかあるの? だったら、わたし、それも解決できるように手伝うよ。だから」
「ありがと。だけど無理なんだよね」

 凪都は首をふる。

「前にも言ったけど、もう全部遅いし」
「……仲直りはできたじゃん。なにが遅いの?」

 いよいよ困った顔を、凪都は浮かべた。わたしはふるえそうになる手を、ぎゅっとにぎる。凪都がなんの話をしているのかわからなくて、怖かった。

「わかんない。凪都の言ってること」
「だろうね。でもまだ、柚は知らなくていいよ」

 凪都はただ、微笑みを貼りつけていた。ちがうのに、わたしが見たいのは、そんな笑い方じゃないのに。

「柚の気持ちだけで、嬉しいよ。だからこれ以上は、なにもしなくていいから」

 なだめるみたいに、凪都がわたしの頭に手を乗せてくる。凪都のあたたかくて、ときどき冷たい不思議な手に、わたしはこの夏、何度も触れてきた。だからその感触を、想像できた。できた、はずだった。そのはずなのに。

 ――あれ。

 たしかに、わたしの頭に、凪都の手が乗っているはずだった。

 なのに、感覚が。

 想像していたはずのその感覚。触れる感覚。その、ぬくもりが。

 すこしもなかった。

 夏祭りの日。あの日、この公園で、同じようなことがあったことを思い出す。凪都の手をつかもうとしたのに、触れられなかった。空を切った。あのときはお姉ちゃんの話を聞いて怖くなっていたから、そんな勘違いをしたんだと思った。だけど。

 いま、目の前にいる凪都まで、わたしに手を伸ばしたまま、固まっていた。触れられないことに、驚いている顔だった。

 ……わたしの勘違い、じゃないの? でも、そんなはずは。

 わたしは、おそるおそる凪都に手を伸ばす。大丈夫、指先は凪都をつかまえる、はず。その手は、たしかに凪都の腕に触れる、そのはず。そのはずだった。

 なのにわたしの指先は、空を切る。凪都の腕をすり抜けて、なににも触れずに、わたしの、指先は。

「――ほら。もう、手遅れだ」

 凪都が、つぶやいた。わたしは呆然と、凪都を見つめる。

「なに、これ。なんで……」

 声がふるえるわたしを、凪都は自分のくちびるに人差し指を当てて制した。

「諒にはいまの、見えてないから」

 諒さんは凪都の後ろにいた。凪都の背中しか見えていない。黙っていたらばれないよ、と凪都が言った。だけど、わたしにはそんなこと関係なかった。

 だって、こんなの、ありえないのに。

「凪都」

 こんなの、まるで。

「凪都は、生きてる、よね?」

 ――幽霊みたいじゃんか。

 凪都は、わたしを見つめている。困った笑顔のまま、なにも答えずに。ただただ、凪都は微笑んでいた。