その日は、めずらしく凪都が図書室にいなかった。スマホでメッセージを送ると「今日は疲れたからパス。ごめん」と返事があった。こんなこと、はじめてだ。悩みを解決しようってわたしの言葉が、そこまで凪都に嫌な思いをさせたのかな。だったら、これからわたしがしようとしていることで、もっと凪都を困らせるかもしれない。
だけど、わたしは凪都の悩みをなくしたい。もしその先に、なにかべつの悩みがあるのなら、それも解決してみせるから。おせっかいでごめんね。わたしはスマホにメッセージを打ち込んだ。
つぎの日の早朝、わたしはジャージ姿で自転車を押して校門に向かった。
「凪都」
「わっ、柚……」
気づいていなかったのか、凪都はびくりと肩を跳ねさせた。それから苦笑を浮かべる。
「柚も朝ランニングにはまった? また走りたいなんて、驚いたんだけど」
「ごめんね。走るの楽しかったから。……まあ、わたしは自転車だけど」
「今日は足で走ってみる?」
「遠慮します。絶対途中でばてるから。死んじゃう」
凪都はかすかに笑って、行くよ、と走り出した。わたしも自転車をこいで追いかける。
この前と同じルートを、ふたりでたどっていった。思っていたよりは気まずい雰囲気にならなくて、ほっとした。本当は、またランニングしたいってメッセージを送ったときも、嫌だって言われるんじゃないかって不安だったんだ。
まあ、前ほど明るい雰囲気じゃないのも、事実なんだけど。風にあおられて、キャップをかぶり直す。
「……また、海に行きたいな」
海辺を走りながら、ちらりと浜辺に視線を送る。あのときみたいに、凪都の笑顔が見たい。嘲笑とか繕った笑顔じゃなくて、愉快で仕方ないって顔が。夏休みも中盤に入っている最近は、さすがにやりたいネタも尽きてきて、図書室でだらだらする日が多かった。決めた。また、海に来よう。
となりを走る凪都の横顔を盗み見る。朝陽に照らされて、高い鼻や形のいいくちびるの輪郭が白っぽく輝いて見える。だけど前を見据える瞳は、どこか暗い。
死なないで。消えないで。もっともっと、笑っていて――。
海沿いから住宅街に入って、しばらく走る。わたしはこっそりと深呼吸をした。そろそろ公園が見えてくる。
「凪都、公園で休憩しよ」
声をかければ、凪都はうなずいた。ゆっくりスピードを落として、最後は歩きながら公園に入ると、膝に手をついて息を整える。
「あー、つかれた。あっつ……」
「おつかれさま」
わたしは自転車のカゴに入れていたタオルを手渡した。凪都は受け取って「気が利くマネージャーだ」と笑ってくれる。でしょ、とわたしも笑い返した。遊具脇にある木陰に入って、ふたりで息をつく。
「……おつかれ」
そんな声が聞こえたのは、凪都の息が整ったあとのことだった。声を聞いたとたんに、凪都の肩がぴくりと跳ねるのが見えた。
「これ、ふたりとも、よかったら飲んでよ。スポドリ」
「……なんで、おまえがいるんだよ」
凪都は声をかけてきた相手を、不審そうな目で見た。わたしはそんな凪都の横で、差し出されたペットボトルを受け取る。
「おはよう、諒さん。ありがとう」
諒さんは、すこし気まずそうに笑った。諒さんが差し出すもう一本のペットボトルを凪都は受け取らない。すこしして、わたしに戸惑った視線を向けてくる。
「柚、俺のこと騙した? このためのランニングだったわけ?」
わたしは首をふった。
「一緒にランニングをしたかったのは本当。ただ、ついでに諒さんを呼んだだけ」
「ついでって」
「ねえ、凪都。夏の間、わたしのしたいことを叶えてくれるんだよね」
「……そう、だけど」
夏のはじまりの図書室で、わたしは決めたんだ。凪都の持ち出してきた「柚のしたいことを叶える」ってゲームを利用して、凪都の死にたがりをやめさせるんだって。だからいまから、すこしずるいことを言う。
「お願い。諒さんと、ちゃんと話して」
わたしは、まっすぐに凪都の瞳を見つめた。ひりひりとした空気が流れる。凪都はなにも言わない。困ったような、しんどいような、不満があるような。全部ごちゃまぜにした、複雑な色をした瞳でわたしを見ていた。
でもわたしは、凪都から目をそらさなかった。
やがて、最後には凪都がため息をついて降参した。
「……それは、ずるいって、柚」
凪都は、差し出されたままのペットボトルを諒さんの手からぱしんと奪い取ると、一気に半分くらいまで飲んだ。タオルで顔を拭いて、汗で濡れた髪をかきあげる。凪都はそうやって、覚悟を決める時間をつくったみたいだった。
「わかった、柚の頼みなら叶える」
息を吸って、凪都が諒さんに視線を向ける。諒さんがきゅっとくちびるをかんだ。凪都は言葉を探しているのか、無言になる。諒さんもなにか言いたそうにしながら、言葉が出てこない。
ごめんね。急だから、凪都も困るよね。それでもわたしは口出ししないことを決めた。だってこれは、ふたりの問題だ。お膳立てはできても、これ以上は本当のおせっかいだと思った。
「――諒、あのさ」
長い沈黙のあとに、やっと凪都がつぶやいた。でも、それと同時に、
「凪都、ごめんな!」
諒さんが勢いよく頭を下げた。
「……え」
直角よりももっと深く頭を下げている諒さんに、凪都は目をまたたく。わたしも、ちょっとびっくりした。
ふたりとも声を出したのは同じタイミングだったけど、諒さんの声がよく通るから、凪都の言葉はほとんどかき消されていた。思いっきり出鼻をくじかれて、凪都は固まっている。
諒さんは頭を下げた状態のまま、話し出していた。
「中学のとき、俺が弱かっただけなのに、全部凪都のせいにした。まあ、手を抜いたのはいまも許してないけど……、でも凪都にそうさせたのは、弱かった俺のせいだもんな。だから、ごめん」
「……いや、あれは俺が」
「それに、凪都がみんなに責められたのも、俺が原因なんだ」
凪都が、また目を見開いた。話の主導権は完全に諒さんがにぎっている。諒さんは顔を上げると、凪都に口を挟む暇を与えず――それくらい必死になりながら、わたしに教えてくれたことと同じ話を凪都に聞かせた。その間、凪都はずっと目をまたたいていたから、やっぱり諒さんの抱えていたことを知らなかったんだと思う。
「ごめんな、俺のせいで凪都は嫌な思い、いっぱいしただろ」
この話を、凪都はどう受け取るんだろう。自分を追い込んだのが諒さんだったなんて、って怒るかな。それとも、自分だけが悪者じゃなかったんだって、ほっとするのかな。たぶん、どっちもちがう。凪都なら、きっと。
「……ちがう。なんで諒が謝るんだよ。もともと、俺が悪かったのに」
凪都は、ぐしゃっと自分の髪をまぜた。なんて言えばいいのかわからないのか、困ったようにうつむく。
いつも飄々として大人びている凪都なのに、その仕草は子どもっぽく見えた。相手が幼なじみだからかも。きっとこっちのほうが、凪都の素に近い顔なんだと思う。そんな凪都の表情を引き出せる諒さんが、ちょっとうらやましい。
と、凪都が、わたしを見た。
「……見るな」
「うわっ」
ぐいっとキャップのつばを下げられて、前が見えなくなる。
「急に諒と話せとか、なに言えばいいかわかんないし」
ぼそっとそんな声が聞こえた。それがちょっとだけ面白くて、かわいくて、わたしは笑った。
凪都の手をにぎってみる。ひんやりした凪都の手。この手に、わたしは何度も助けてもらった。すこしはわたしも、凪都の助けになれたらいいな。
「大丈夫だよ、凪都」
ぎゅっと力を込めてにぎる。凪都が戸惑うような気配があったけど、すこしして、わたしの頭をキャップの上からぐりっと押しつけるみたいになでてきた。
「ありがと」
小さく言うと、手が離れて、凪都は諒さんともう一度向き合った。
「――俺は、諒のバスケが好きだったよ」
「え?」
諒さんがぱちぱちと目をまたたいた。調子を取りもどした凪都の、落ち着いた声がする。
「俺とはちがって楽しそうだから、すごいやつだなって思ってたし、うらやましかった。だから諒からバスケを奪ったこと、ずっと悪かったって思ってるんだ。ごめん」
「お、おまえのせいじゃないって! 部活やめたのは、俺が弱かったせいだし! それにおまえを見捨てて、俺は自分だけ逃げ出したんだ……、ごめん。そのせいで、凪都のことずっと悩ませてたんだよな」
そこまでいって、ふたりとも無言になった。でもその無言は、相手と自分の気持ちを理解するために必要な時間だったんだと思う。その証拠に、すこしして、諒さんが小さく笑った。
「なんか、お互い謝ってばっかだな」
ほんとに、そのとおりだ。自分が悪い、いいや自分が、って。そんなやりとりは、外から見ていたら仲よしにしか見えないのに。キャップの下で、わたしもばれないように笑った。
だからね、凪都。もうそろそろ、いいと思うんだ。お互いを解放してあげても。
「ていうか凪都、俺のバスケ好きだったんだ? 凪都がそんなこと言うなんて、びっくりなんだけど」
諒さんが目を細めれば、凪都もゆっくり身体から力を抜いた。呆れたように肩をすくめる。
「俺とはタイプがちがいすぎて、見てて面白いんだよ、おまえ」
「俺は凪都のバスケも好きだけどな。かっこいいし。なんでもそつなくできますよ、って感じが」
「それがむかつくって思うひと、多いらしいけど」
「いや、それはまあ、俺も悔しいと思ってたけどさ。でも、凪都はすごいよ」
諒さんは、すこし表情を引き締めた。
「……凪都はもう、バスケやらないの?」
「やらない」
凪都の答えはきっぱりとしていて、諒さんは「……そっか」と眉を下げる。また訪れる沈黙。
「凪都、ここでときどき、バスケしてるらしいけどね」
たまらなくなって、わたしは言った。だって、見ていてもどかしかったんだ。凪都はこういうとき、言葉が足りないと思う。
諒さんはわたしの言葉に、ぱっと表情を輝かせた。
「……柚、余計なこと言わないでくれない?」
「余計じゃないよ。本当のことでしょ」
凪都は困ったように笑ってから、首もとをかく。諒さんが身を乗り出した。
「じゃあ、俺もここに来ていい? バスケ、また一緒にやりたい!」
犬だったら、ぶんぶんしっぽをふっていそうだ。そんな諒さんの勢いに、凪都は「あー……」と斜め上を見る。広がるのは雲がひとつもない、きれいな空だった。
「……まあ、お遊び程度でいいなら、たまにくらいは」
かわいくない返事だ。でも、諒さんは笑顔を濃くした。
「やった! ていうか今日、ボール持ってきてる! 久しぶりにやろうぜ!」
「え、いま?」
「いま!」
諒さんの笑顔はすごく無邪気だ。最初、凪都は嫌そうな顔をしていたけど、結局は毒気が抜かれたみたいに肩をすくめて、コートに向かっていく。諒さんは、凪都を追い越してコートに走った。
ふたりで向かい合う。
わたしはコートのはしで、ふたりを見守って、笑った。
ボールがぽん、と空に放られた。ゲームはじまりの合図は、きっとむかしから、それだったんだ。
落ちてくるボールを奪うために、ふたりが空に手を伸ばす。凪都がボールを持って、ドリブルで駆ける。ふたりの走る音。くるくると動き回るふたりの影。ボールがネットを揺らす音……。
諒さんが「やっぱ凪都、うまいし、むかつく!」と騒ぐ声。「よく言うよ」と冷静に言う凪都の声。
最初のゴールは凪都が決めたけど、やっぱり部活をしている諒さんと、帰宅部でたまにしか練習しない凪都だと、諒さんのほうが強いみたいだった。つぎは諒さんが連続で二点を奪った。負けっぱなしは嫌みたいで、凪都もちょっとムキになって追いかけはじめる。
なんか、かわいいな、凪都。そういう顔もするんだ。楽しそう。ふふっと、わたしが笑ったとき。
「柚」
突然、凪都に呼ばれた。
「へっ? え、なに?」
「柚も来なよ」
「……わたしも?」
「ひとりだけ高みの見物とか、ずるいし」
だけど、わたしは凪都の悩みをなくしたい。もしその先に、なにかべつの悩みがあるのなら、それも解決してみせるから。おせっかいでごめんね。わたしはスマホにメッセージを打ち込んだ。
つぎの日の早朝、わたしはジャージ姿で自転車を押して校門に向かった。
「凪都」
「わっ、柚……」
気づいていなかったのか、凪都はびくりと肩を跳ねさせた。それから苦笑を浮かべる。
「柚も朝ランニングにはまった? また走りたいなんて、驚いたんだけど」
「ごめんね。走るの楽しかったから。……まあ、わたしは自転車だけど」
「今日は足で走ってみる?」
「遠慮します。絶対途中でばてるから。死んじゃう」
凪都はかすかに笑って、行くよ、と走り出した。わたしも自転車をこいで追いかける。
この前と同じルートを、ふたりでたどっていった。思っていたよりは気まずい雰囲気にならなくて、ほっとした。本当は、またランニングしたいってメッセージを送ったときも、嫌だって言われるんじゃないかって不安だったんだ。
まあ、前ほど明るい雰囲気じゃないのも、事実なんだけど。風にあおられて、キャップをかぶり直す。
「……また、海に行きたいな」
海辺を走りながら、ちらりと浜辺に視線を送る。あのときみたいに、凪都の笑顔が見たい。嘲笑とか繕った笑顔じゃなくて、愉快で仕方ないって顔が。夏休みも中盤に入っている最近は、さすがにやりたいネタも尽きてきて、図書室でだらだらする日が多かった。決めた。また、海に来よう。
となりを走る凪都の横顔を盗み見る。朝陽に照らされて、高い鼻や形のいいくちびるの輪郭が白っぽく輝いて見える。だけど前を見据える瞳は、どこか暗い。
死なないで。消えないで。もっともっと、笑っていて――。
海沿いから住宅街に入って、しばらく走る。わたしはこっそりと深呼吸をした。そろそろ公園が見えてくる。
「凪都、公園で休憩しよ」
声をかければ、凪都はうなずいた。ゆっくりスピードを落として、最後は歩きながら公園に入ると、膝に手をついて息を整える。
「あー、つかれた。あっつ……」
「おつかれさま」
わたしは自転車のカゴに入れていたタオルを手渡した。凪都は受け取って「気が利くマネージャーだ」と笑ってくれる。でしょ、とわたしも笑い返した。遊具脇にある木陰に入って、ふたりで息をつく。
「……おつかれ」
そんな声が聞こえたのは、凪都の息が整ったあとのことだった。声を聞いたとたんに、凪都の肩がぴくりと跳ねるのが見えた。
「これ、ふたりとも、よかったら飲んでよ。スポドリ」
「……なんで、おまえがいるんだよ」
凪都は声をかけてきた相手を、不審そうな目で見た。わたしはそんな凪都の横で、差し出されたペットボトルを受け取る。
「おはよう、諒さん。ありがとう」
諒さんは、すこし気まずそうに笑った。諒さんが差し出すもう一本のペットボトルを凪都は受け取らない。すこしして、わたしに戸惑った視線を向けてくる。
「柚、俺のこと騙した? このためのランニングだったわけ?」
わたしは首をふった。
「一緒にランニングをしたかったのは本当。ただ、ついでに諒さんを呼んだだけ」
「ついでって」
「ねえ、凪都。夏の間、わたしのしたいことを叶えてくれるんだよね」
「……そう、だけど」
夏のはじまりの図書室で、わたしは決めたんだ。凪都の持ち出してきた「柚のしたいことを叶える」ってゲームを利用して、凪都の死にたがりをやめさせるんだって。だからいまから、すこしずるいことを言う。
「お願い。諒さんと、ちゃんと話して」
わたしは、まっすぐに凪都の瞳を見つめた。ひりひりとした空気が流れる。凪都はなにも言わない。困ったような、しんどいような、不満があるような。全部ごちゃまぜにした、複雑な色をした瞳でわたしを見ていた。
でもわたしは、凪都から目をそらさなかった。
やがて、最後には凪都がため息をついて降参した。
「……それは、ずるいって、柚」
凪都は、差し出されたままのペットボトルを諒さんの手からぱしんと奪い取ると、一気に半分くらいまで飲んだ。タオルで顔を拭いて、汗で濡れた髪をかきあげる。凪都はそうやって、覚悟を決める時間をつくったみたいだった。
「わかった、柚の頼みなら叶える」
息を吸って、凪都が諒さんに視線を向ける。諒さんがきゅっとくちびるをかんだ。凪都は言葉を探しているのか、無言になる。諒さんもなにか言いたそうにしながら、言葉が出てこない。
ごめんね。急だから、凪都も困るよね。それでもわたしは口出ししないことを決めた。だってこれは、ふたりの問題だ。お膳立てはできても、これ以上は本当のおせっかいだと思った。
「――諒、あのさ」
長い沈黙のあとに、やっと凪都がつぶやいた。でも、それと同時に、
「凪都、ごめんな!」
諒さんが勢いよく頭を下げた。
「……え」
直角よりももっと深く頭を下げている諒さんに、凪都は目をまたたく。わたしも、ちょっとびっくりした。
ふたりとも声を出したのは同じタイミングだったけど、諒さんの声がよく通るから、凪都の言葉はほとんどかき消されていた。思いっきり出鼻をくじかれて、凪都は固まっている。
諒さんは頭を下げた状態のまま、話し出していた。
「中学のとき、俺が弱かっただけなのに、全部凪都のせいにした。まあ、手を抜いたのはいまも許してないけど……、でも凪都にそうさせたのは、弱かった俺のせいだもんな。だから、ごめん」
「……いや、あれは俺が」
「それに、凪都がみんなに責められたのも、俺が原因なんだ」
凪都が、また目を見開いた。話の主導権は完全に諒さんがにぎっている。諒さんは顔を上げると、凪都に口を挟む暇を与えず――それくらい必死になりながら、わたしに教えてくれたことと同じ話を凪都に聞かせた。その間、凪都はずっと目をまたたいていたから、やっぱり諒さんの抱えていたことを知らなかったんだと思う。
「ごめんな、俺のせいで凪都は嫌な思い、いっぱいしただろ」
この話を、凪都はどう受け取るんだろう。自分を追い込んだのが諒さんだったなんて、って怒るかな。それとも、自分だけが悪者じゃなかったんだって、ほっとするのかな。たぶん、どっちもちがう。凪都なら、きっと。
「……ちがう。なんで諒が謝るんだよ。もともと、俺が悪かったのに」
凪都は、ぐしゃっと自分の髪をまぜた。なんて言えばいいのかわからないのか、困ったようにうつむく。
いつも飄々として大人びている凪都なのに、その仕草は子どもっぽく見えた。相手が幼なじみだからかも。きっとこっちのほうが、凪都の素に近い顔なんだと思う。そんな凪都の表情を引き出せる諒さんが、ちょっとうらやましい。
と、凪都が、わたしを見た。
「……見るな」
「うわっ」
ぐいっとキャップのつばを下げられて、前が見えなくなる。
「急に諒と話せとか、なに言えばいいかわかんないし」
ぼそっとそんな声が聞こえた。それがちょっとだけ面白くて、かわいくて、わたしは笑った。
凪都の手をにぎってみる。ひんやりした凪都の手。この手に、わたしは何度も助けてもらった。すこしはわたしも、凪都の助けになれたらいいな。
「大丈夫だよ、凪都」
ぎゅっと力を込めてにぎる。凪都が戸惑うような気配があったけど、すこしして、わたしの頭をキャップの上からぐりっと押しつけるみたいになでてきた。
「ありがと」
小さく言うと、手が離れて、凪都は諒さんともう一度向き合った。
「――俺は、諒のバスケが好きだったよ」
「え?」
諒さんがぱちぱちと目をまたたいた。調子を取りもどした凪都の、落ち着いた声がする。
「俺とはちがって楽しそうだから、すごいやつだなって思ってたし、うらやましかった。だから諒からバスケを奪ったこと、ずっと悪かったって思ってるんだ。ごめん」
「お、おまえのせいじゃないって! 部活やめたのは、俺が弱かったせいだし! それにおまえを見捨てて、俺は自分だけ逃げ出したんだ……、ごめん。そのせいで、凪都のことずっと悩ませてたんだよな」
そこまでいって、ふたりとも無言になった。でもその無言は、相手と自分の気持ちを理解するために必要な時間だったんだと思う。その証拠に、すこしして、諒さんが小さく笑った。
「なんか、お互い謝ってばっかだな」
ほんとに、そのとおりだ。自分が悪い、いいや自分が、って。そんなやりとりは、外から見ていたら仲よしにしか見えないのに。キャップの下で、わたしもばれないように笑った。
だからね、凪都。もうそろそろ、いいと思うんだ。お互いを解放してあげても。
「ていうか凪都、俺のバスケ好きだったんだ? 凪都がそんなこと言うなんて、びっくりなんだけど」
諒さんが目を細めれば、凪都もゆっくり身体から力を抜いた。呆れたように肩をすくめる。
「俺とはタイプがちがいすぎて、見てて面白いんだよ、おまえ」
「俺は凪都のバスケも好きだけどな。かっこいいし。なんでもそつなくできますよ、って感じが」
「それがむかつくって思うひと、多いらしいけど」
「いや、それはまあ、俺も悔しいと思ってたけどさ。でも、凪都はすごいよ」
諒さんは、すこし表情を引き締めた。
「……凪都はもう、バスケやらないの?」
「やらない」
凪都の答えはきっぱりとしていて、諒さんは「……そっか」と眉を下げる。また訪れる沈黙。
「凪都、ここでときどき、バスケしてるらしいけどね」
たまらなくなって、わたしは言った。だって、見ていてもどかしかったんだ。凪都はこういうとき、言葉が足りないと思う。
諒さんはわたしの言葉に、ぱっと表情を輝かせた。
「……柚、余計なこと言わないでくれない?」
「余計じゃないよ。本当のことでしょ」
凪都は困ったように笑ってから、首もとをかく。諒さんが身を乗り出した。
「じゃあ、俺もここに来ていい? バスケ、また一緒にやりたい!」
犬だったら、ぶんぶんしっぽをふっていそうだ。そんな諒さんの勢いに、凪都は「あー……」と斜め上を見る。広がるのは雲がひとつもない、きれいな空だった。
「……まあ、お遊び程度でいいなら、たまにくらいは」
かわいくない返事だ。でも、諒さんは笑顔を濃くした。
「やった! ていうか今日、ボール持ってきてる! 久しぶりにやろうぜ!」
「え、いま?」
「いま!」
諒さんの笑顔はすごく無邪気だ。最初、凪都は嫌そうな顔をしていたけど、結局は毒気が抜かれたみたいに肩をすくめて、コートに向かっていく。諒さんは、凪都を追い越してコートに走った。
ふたりで向かい合う。
わたしはコートのはしで、ふたりを見守って、笑った。
ボールがぽん、と空に放られた。ゲームはじまりの合図は、きっとむかしから、それだったんだ。
落ちてくるボールを奪うために、ふたりが空に手を伸ばす。凪都がボールを持って、ドリブルで駆ける。ふたりの走る音。くるくると動き回るふたりの影。ボールがネットを揺らす音……。
諒さんが「やっぱ凪都、うまいし、むかつく!」と騒ぐ声。「よく言うよ」と冷静に言う凪都の声。
最初のゴールは凪都が決めたけど、やっぱり部活をしている諒さんと、帰宅部でたまにしか練習しない凪都だと、諒さんのほうが強いみたいだった。つぎは諒さんが連続で二点を奪った。負けっぱなしは嫌みたいで、凪都もちょっとムキになって追いかけはじめる。
なんか、かわいいな、凪都。そういう顔もするんだ。楽しそう。ふふっと、わたしが笑ったとき。
「柚」
突然、凪都に呼ばれた。
「へっ? え、なに?」
「柚も来なよ」
「……わたしも?」
「ひとりだけ高みの見物とか、ずるいし」