「ねえ、柚。心中しようよ」

 夕暮れの図書室に落とされた、空虚なささやき。
 その返事の前には、すこしの沈黙が生まれた。

 だけど。

「嫌だよ。わたしは生きる」

 東坂(とうさか)(ゆず)は、自分の意見を言うのが苦手な女子高生。自分でもそう認めているくせに、きっぱりと返していた。

「そういうこと言わないで、凪都(なぎと)
「……ごめん。冗談」

 ふっと、かすかな笑いをきっかけに、話題は煙に巻かれた。でも、つい思ってしまう。

 ――うそつき。

 心が苦しくなるんだ。
 いつだって「死にたい」と願うわたしの最悪の同級生は、今日も憂鬱そうに窓辺のテーブルに座っていた。学校の図書室、すみの席だ。

 ひとの目を集める整った容姿をしているくせに、ひとりでいるとき、凪都(なぎと)はふらっと消えちゃいそうな雰囲気をまとう。

 ――相変わらずだなあ、もう……。よし。

「おはよう、凪都」

 本棚のすみで深呼吸して笑顔をつくり、一歩踏み出した。でも、彼はふり向かない。

 無視? いや、わたしの声が小さかった?

「凪都? おーい、おはよう」

 手をふって、声を大きくして言ってみる。凪都はゆっくりと夢から覚めたみたいな顔をして、わたしを見た。

「……柚?」
「うん、柚です……けど、え、そんなに驚く? どうしたの、眠い?」

 夏休みだから、だらけちゃうのもわかるけど。

 窓の外に目を向けてみる。坂の上にある校舎、しかもここは三階だから、海がよく見えた。サーファーや水着姿の観光客の姿がある。さすが、神奈川の観光地。賑やかだ。その景色に、夏休みだな、と実感させられる。

「……寝ぼけてるのかな、俺。んー……、そうかも?」

 凪都は寝起きみたいな、かすれた声で笑った。その瞬間、どきりとして、体温が五度くらいは下がった気がした。

 ……ちがった。眠そう、なんかじゃなかった。

 これは、この世界を見てなくて、ひたすら死を見つめてぼんやりしている瞳だ。いままで見た中で一番ひどい、死にたがりの瞳。なんで。

「柚は? なんでここにいるの」
「え、あ……」

 訊かれて、我に返った。わたしは緊張でふるえはじめていた手をぎゅっと握る。

「凪都がここにいるかな、と思って」
「俺に会いに来たってこと?」
「まあ、そんなところ。まだ……、ちゃんと生きているかな、って。夏休み、楽しめてるかな、って――」
「……なにそれ。柚はほんとおせっかい」

 呆れたみたいに、凪都が笑って言う。わたしの心臓の音は、強く打って鳴りやまない。

「見てのとおり、死にきれずにここにいるよ」
「……まだ、死にたいって思ってる?」
「さあ、どうだろ」

 生きてるか死んでるかなんて物騒な話題だけど、わたしたちの間ではよくある話だ。だって、三芝(みしば)凪都は死にたがりで、うそつきだから。きっとわたしだけが、そのことを知っていた。

 ――夏の終わりは、自殺するひとが増えるらしい。

 わたしは夏が怖い。この世界から、だれかがいなくなる。想像するだけで、いつだって腹の底が冷たくなるんだ。いまも、喉をきゅっと絞められているみたいに、息苦しくてたまらない。どうして死のうと思うんだろう。

 この夏の終わり、凪都が死ぬんじゃないか。そんな予感に襲われた。

「ねえ、凪都。夏休み、楽しんでよ。生きたいって思えるくらいに」
「俺のことより、自分のこと考えたら? 柚は夏休みの予定ないの?」
「え?」

 わたしか……。すこし考えて、苦笑する。

「ない、ね」

 残念なことに、帰省の予定も、友だちと遊びに行く予定も、そんなにない。この夏は、寮にずっといることになっていた。

「だめじゃん。ひとの心配してる場合?」

 突っ込まれて、たしかにと苦笑を深める。ひとに言える立場じゃなかったかも。それから凪都はすこし考えて、わたしの予想していなかったことを言った。

「じゃあ、柚が夏休みを楽しめるように、俺が手伝ってあげようか」

 ……手伝う?

「どうせ俺はやることないし。遊びに行くでも、だらだらするでも、彼氏とひと夏過ごしたいでも、なんでも叶えるよ。あ、彼氏ほしいって言った場合は、俺とつきあうことになるけどね、手っ取り早いし」
「え」
「俺は恋愛興味ないけど、高校生の大半は恋人ほしいとか言うでしょ。柚は? そういう希望あるの?」
「な、ないけど……」
「ほんとに?」

 突然、凪都の手がのびてきた。わたしの白いセーラー服から伸びた手首をつかまえる。ひんやりとした凪都の指が手首から指先へ、すーっとなぞっていく感覚に、わたしの鼓動が速くなる。指先までたどり着くと、わたしの指を絡めとる。いわゆる、恋人つなぎ。

 ……な、なんで?

 まずい、絶対、顔真っ赤になってる。

「ちょっと、凪都……!」
「そんな赤くならなくてもいいのに」

 凪都はからかうように笑って、指を離す。もう……、なんなの。

 わたしはうつむいて髪で顔を隠すと、そっぽを向いた。ボブの髪は、赤面を隠すのにはすこし短すぎる。凪都の行動はときどき突拍子がなくて、困る。

「とにかく、俺はこの夏、柚のわがままに全部つきあう、ってゲームをすることに決めた。だから、よろしく、柚」

 ……うん、やっぱり凪都の考えることって、よくわからない。

「そのゲーム、凪都は楽しいわけ?」
「さあ? でも、暇つぶしにはなるんじゃない? で、なにがしたい?」

 凪都と夏を過ごすことは決定事項みたいだった。でもまあ……、いっか。凪都と夏を過ごせる理由ができたなら、喜ぶべきだ。いまの凪都を放っておくのは怖いから。

 勝負は、この夏休みの期間、一か月とちょっと。

 夏の終わりに凪都を失わないよう、わたしは彼の提案を利用することにした。

「わかった。そのゲーム、乗った」

 すこしいびつな夏休みが、はじまった。
 そもそも、わたしと凪都が話すようになったのは去年――、一年生の終わりのころだった。

 冬の陽が落ちる間際のことで、わたしはコンビニから寮へ帰る途中だった。あたりは暗かったけど、橋の欄干に凪都が座っている様子が、はっきりと見えたんだ。川を見つめて、足をぶらぶらさせて。

 わたしの目には、凪都がそのまま冷たい川へ消えていこうとしているように見えた。

 一瞬で、背筋に寒気がはいのぼった。心臓が凍ったみたいに冷たくなって、それなのに鼓動は速く打つ。

 死ぬの? なんで? どうして?

 だめだ、それはだめ。止めなきゃ……!

 固まりそうになっていた足を無理やり動かせば、足がもつれた。それでも必死に走り寄って、腕をつかむ。

「待って!」

 目を見開く凪都と、視線が交わった。

 このとき、わたしたちは別々のクラスだったけど、凪都の容姿は目立つから、彼の顔を覚えていた。だけど、目立たない女子生徒でしかないわたしのことを、凪都は知らなかったらしい。

「だれ?」

 彼は、首をかしげた。口もとには乾いた笑みが浮かんでいて、ぞっとした。

「死んじゃ、だめです」
「……べつに、死のうとしたわけじゃないけど」

 海に沈んでいく夕陽が、最期の光を放って、消えていく。

「俺、べつに自殺したいわけじゃないから」

 それでも、わたしは凪都の手を放すことができなかった。そうしたら、彼は肩をすくめて、諦めたみたいに息をつく。

「消えたいのは本当だけど、自殺は望んでない。できれば、病死とかがいいんだよね。だれのせいでもなくて、死ぬのは運命でした仕方ないね、って、そんなのがいい」

 やっぱり、手を放さなくてよかったと思った。指先に力がこもる。

「病気も、だめです」
「えー……、そっか。まあとにかく、いまは死なないから大丈夫」

 うそつき。そんな暗いひとみをしているくせに。

 三芝凪都は、死にたがりだ。うそつきだ。
 わたしは、出会った日のことを思い出しながらスマホを操作する。となりでは、凪都が本を読みはじめていた。

 結局あの日、凪都は死にたい理由を教えてくれなかった。いまも、聞けていない。理由がなんなのかわからないのに、彼が死にたがりということだけを知ったまま、時間だけが過ぎていた。

『高校生』『夏休み』『遊び』……。思いつく単語を組み合わせてインターネットで検索すると、商業施設や、水族館、公園の情報なんかがずらっと出てきた。

 ――ていうか、もう夏休み一週間過ぎたっけ?

 スマホの示す日付が、思ったよりも進んでいて驚いた。だらだら過ごしすぎたかも。ああ、夏休みが消費されていく……。こっそり、ため息をつく。

 しばらくして、凪都が立ち上がった。

「ジュース買ってくる。柚、なに飲みたい? おごるよ」
「え? いいよ。お構いなく」
「俺の買うついでだから、甘えときな。俺がおごるのはめずらしいよ」

 そこまれ言われると、断るのは逆に失礼な気がしてくる。

「じゃあ……えっと、なんでも大丈夫。ありがとう」

 凪都はうなずいて「ここで待ってて」と図書室を出ていった。

 ひとりになって、もう一度スマホを見る。凪都は、どんなことをすれば楽しいと思ってくれるかな。いつも淡々としているから、凪都の好みがよくわからない。でも楽しいこと、たくさんしてほしい。わたし、凪都の憂鬱そうな顔しか見たことがないし。

 ぎゅっと痛む心臓を、制服の上から押さえた。

 生きてて楽しい、って言わせてみせる。

 凪都はなかなか帰ってこなかった。中庭に自販機があるのに、外のコンビニまで行ったのかな。窓辺に寄って窓を開ければ風が入り込んだ。白いカーテンがはためいて、蝉の大合唱が耳にうるさい。

 あー、夏だ。ぼんやりと、空と海、ふたつの青を見つめた。

 夏だ。わたしの嫌いな夏。

 頭まで痛くなりだしたから、スカートのポケットから痛み止めを取り出して、二錠を口に放り込んだ。がりっと噛んで、そのまま飲み干す。

 それから三十分くらい経ったけど、やっぱり凪都は帰ってこない。さすがに遅すぎる。まさか倒れてる? ふらっと死にに行ったとかは……ないよね。でもどうしよう。連絡したほうがいいかな。なにかあったら困るし。

「ただいま」
「うわあっ! ……あ、凪都。びっくりした」

 スマホを手にしたところで、ちょうど凪都が帰ってきた。

「驚きすぎでしょ。オレンジかグレープ、どっちがいい? グレープは炭酸だけど」
「じゃあ、オレンジ。ありがとう。……遅かったね」

 わたしの声がすこしとがっていることに気づいたのか、凪都は居心地が悪そうに苦笑した。

「さっき、外で七緒(ななお)さんに会ったんだ。それで、すこし話してた」
「へえ……。ふたりが話すの、めずらしい」

 七緒は、寮でわたしと同じ部屋に住むクラスメイトだ。わたしたちは全員同じクラスだけど、凪都と七緒が話している印象はそんなにない。というか凪都は、特定の仲のいい同級生がいないみたいだった。

 ひんやりとしたペットボトルの蓋を開けて、ひと口飲む。図書室では椅子に座っている時の水分補給が許されているから、怒られることはない。大丈夫。ひとに迷惑はかけてない。

 凪都も炭酸を飲んで、また本を開いた。ぺらり、と本を読み進めていく音が心地いい。その本をわたしは知らなかったけど、古そうな表紙だった。

 夕方になると図書室を出て、ふたりで寮まで歩く。グラウンドや校舎は部活動に励む生徒の声がしていたけど、寮のまわりは静かだ。夏休みの間、寮生は原則実家に帰ることになっているから、普段に比べたら無人に近い状態だった。理由のある子だけがいまも寮に残っているけど、女子寮居残り組は、わたしを含めて五人だけ。

「柚……!」

 突然。女子寮の玄関から、そのひとりが飛び出してきた。かと思うと、ばっと抱きつかれて驚く。

「うわっ、七緒? なに、どうしたの」

 ルームメイトの七緒が、わたしの首筋に顔をうずめて、ぐすっと鼻を鳴らした。彼女の短い髪が頬に当たってくすぐったいし、ぎゅうぎゅうと抱きしめられて苦しい。いやでも、そんなことより。

「ど、どうしたの、七緒。なんで泣いてるの」
「……彼氏と喧嘩したんだってさ」

 となりにいた凪都が、肩をすくめた。

 あ、そういえば、飲み物を買いに行ったとき、七緒と会ったって言ってたっけ。帰りが遅かったのは七緒を慰めていたから? このふたり、そんなに仲よかったっけ?

 不思議に思いながら、わたしより身長の高い七緒の背をなでる。

「七緒、大丈夫?」
「ん。ごめん、柚。……あーあ、あいつ、絶対許さない。むかつく」

 やっと身体を離した七緒は、気を取り直すように、ぐいっと目もとをぬぐった。

「もう、わたし、この夏は柚といちゃいちゃする! あいつなんて知らん!」

 負けん気の強い七緒がそう叫んだところで、女子寮から三人の生徒が出てきた。

「あ、もう、七緒ちゃんってば、また泣いてない?」
「もう泣きやみましたー! わたしはこの夏、柚といちゃつきまーす!」

 みんな、七緒の状況を知っているみたいだ。まあまあ、と七緒を落ち着かせようとするのは三年生の宮先輩。その後ろで困り顔をしているふたりは、一年生の由香ちゃんと未央ちゃん。夏休み、寮に居残り組のメンバーだ。普段からよく話すから、寮メンバーは先輩後輩関係なく仲がいい。

「ねー、柚! わたしたち、最高の夏休みにしようね!」
「え? あ、うん、そうだね……?」

 そんなわたしと七緒のやり取りを見て、宮先輩が「相変わらず仲いいね」と笑った。

「まあ、そういうことなら、ふたりの愉快な夏休みに、わたしも貢献しようかな。こんな七緒ちゃん、ほっとけないし。全力でサポートするね!」

 ぐっと親指を立てる宮先輩。いつもは賑やかな由香ちゃんや未央ちゃんも、神妙にこくこくとうなずいてる。

「よし、早速計画立てよ。行くよ、柚ちゃん七緒ちゃん!」

 わたしがぽかんとしているうちに、宮先輩や七緒たちが寮に入っていく。なぜだか、こっちでも夏休み満喫計画がはじまってしまったみたいだ。

「今年の夏、謎に忙しくなりそうなんだけど。なんで?」

 わたしが言うと、黙って見守っていた凪都が笑った。

「そういう年だと思って諦めな。じゃ、俺も帰るから」
「あ、うん。おやすみ、凪都」

 女子寮と男子寮は離れていて、行き来するのに一分くらいかかる。凪都は、途中でふりかえった。

「七緒さんじゃなくて、柚のしたいこと、教えてよ」
「え?」
「いまの流れだと、柚は七緒さんのことを優先しそうだったから。俺はあくまで、柚のしたいことを手伝う。柚が最優先だから」

 じゃ、と今度こそ凪都は去っていった。

 でも……、あの言い方は、ずるくない?

 じわじわと体温が上がっていくのがわかる。多分、凪都にとってはただの暇つぶしなんだと思う。だけど、あそこまで言われると、わたしが特別扱いされているみたいで恥ずかしい。ぱたぱたと頬を手であおぐ。恋愛経験がないわたしには、刺激が強すぎる。

 ――凪都としたいこと、か。なにがあるかな。
 わたしは寮の一階にある食堂で夜ごはんを食べて、そのままみんなで夏休みの作戦会議をした。お祭りに行きたいとか、海で泳ぎたいとか、いろいろと意見が上がっていって、なかなか収拾がつかない。だけど、このころには七緒もいつもの調子にもどっていた。笑いながら宮先輩と冗談を言い合ったり、後輩たちが話の輪に加われるように気づかったりしている七緒に、ほっとした。

 そのあとはお風呂に入って、消灯時間になったらそれぞれの部屋にもどった。わたしもベッドに入って目を閉じる。

 ……だけど、ふっと頭によぎる記憶があった。

 去年の冬、凪都とはじめて会った日の記憶だ。死のうとしていた凪都や、その瞳を、思い出してしまった。わたしの苦手な、あの瞳。

 ――だめだ、眠れない。

 ため息をついて、起き上がった。二段ベッドと、机がふたつ置かれた部屋だ。ベッドの上段では、七緒が寝息を立てている。

 凪都のことが頭から離れない。それどころか頭も痛みはじめた。机に置いてあったポーチから、残り少なくなっている痛み止めを取り出す。静かな廊下を歩いて食堂に向かうと、コップに水を注いで薬を飲みこんだ。それでも、痛みは治まらないし落ち着かない。

 いつも賑やかな食堂が、いまはひっそりとしていて心細かった。だからか、また凪都のことを考えている。どうして凪都は死のうとするんだろう。死ぬのは、怖いのに。

 凪都も、死んじゃうのかな――……。

『あんたなんて、いなきゃよかったのに』

 唐突に、頭の中で声がした。

「……あ」

 直後に、全身から血が抜けていくみたいな感覚がした。まずいかもしれない。足もとがふらふらとして、立っている心地がしなくなっていく。のどから、ひゅっと息がこぼれた。

 まずい、と予想ができても、対処ができるわけじゃない。

 心臓をつかまれたみたいに苦しくなって、ずるずるとしゃがみ込む。頭が痛いし、コップをにぎる手もふるえて、ああもう、と心の中で舌打ちをする。

 じっとしていると、嫌な想い出があふれつづけてくるんだ。濁流みたいなそれに、呑み込まれそうになる。だめだ、しっかりしないと。だれかに見られたら心配をかけるし、こんなところで倒れるわけにはいかない。どうにか立ち上がってコップを机に置くと、寮の玄関に向かった。

 外に出たい。だれもいない場所に。そうじゃないと、迷惑をかけるから。

「東坂さん?」

 後ろから呼び止められて、身体が跳ねた。若い、女のひとの声。

 ゆっくりふり返ると、心配そうな顔をした春野さんが立っていた。いつもは薄く化粧をしているけど、さすがにいまはすっぴんで、ウェーブのかかった髪を揺らして首をかしげた。

「どうしたの、東坂さん。顔色悪いけど大丈夫?」

 春野さんは、この寮でわたしたちの世話をしてくれている、二十代後半くらいのやさしい女性だ。生徒の中には「春野姉さん」と慕う子もいる。

 わたしは扉に手をかけたまま、口ごもる。いまは、夜の十一時を回っている。寮生が外に出ることは禁止されていた。いくら春野さんでも、怒るかな。だけど、まだ苦しさが消えていない。いますぐ、ここから逃げ出したかった。視線が泳ぐ。

 お願いだから、ひとりにさせて。もう、息ができなくなるから。

「……五分だけね」

 春野さんは、ふいに言った。

「え?」
「遠くには行かないこと。校門から外に出るのはだめ。本当は許可しちゃいけないことだから、みんなには内緒にしてね」

 わたしはぽかんとしたあと、こくこくとうなずいて、春野さんに背を向けた。ドアを開けると、夜風が頬をなでる。頭の中では、まだ言葉が鳴りやまない。ふり切るように歩き出した。
 夜の学校を歩くなんて、はじめてだ。ひとのいない暗い駐輪場やグラウンドは、いつも使っているはずなのに、知らない場所みたいだった。その景色に集中するようにしながら、深く息をする。周囲の音を聞き、通路を進み、足もとのタイルを数える。

 なにも考えるな。思い出すな。息をして。

 大丈夫、ほら、ちゃんと落ち着きはじめているから、大丈夫――。

「柚?」
「……え?」

 いつのまにか、中庭まで歩いてきていた。芝生の上のベンチに凪都がいた。驚いた顔が、月明かりに浮かんでいる。どうして、凪都がここにいるの。

「こんな時間に出歩くとか、柚は不良だな。まあ、俺もだけどさ」

 くすりと笑う凪都は、夢でも幻でもないみたいだ。

「体調悪そう。座れば?」
「あ……、うん」

 本当は、じっとしていたくなくて、外に出てきたはずだった。だけど、なんとなく凪都の言葉には素直に従っていた。息苦しさも、驚きで上書きされて、すこし遠のいた。

「女子のパジャマ、はじめて見た」
「……あんまり、見ないで」

 いまのわたしは、Tシャツと短パン姿だ。面白みもなければ、かわいげもない。どちらかというと無防備すぎて恥ずかしい。凪都も似たようなものだったけど、イケメンはなにを着たってさまになるんだ。うらやましい。

 無言が落ちた。そうなると、またわたしは苦しさを思い出してしまう。うつむいて、意識して呼吸を繰り返す。

 ああ、嫌だな。この苦しさを、嫌だと思う自分が嫌だ。これは、わたしへの罰で、受け入れなきゃいけないものだから、嫌だなんて言っちゃいけないのに。

「大丈夫?」

 答える力がない。だけど心配をかけるわけにはいかなくて、うなずきだけを返す。

 背中に、手が触れた。

「ゆっくり息しな」

 凪都の手だ。

 ……してる。しようとしてるよ。でも出来ないの。

 情けなくて、泣きたくなった。だけど泣いちゃだめだ。

「ゆっくり。柚、大丈夫だから」

 まだ、寒気はしている。でも凪都の手はあたたかかった。背中をさすってくれるのが頼もしい。それに、すこしして、凪都の手の動きにあわせて呼吸をすればいいんだって気づいた。

 ――いつも飄々としてるくせに、なんでいま、そんなにやさしいのかなあ。

 不意打ちに涙腺がゆるみそうになるから、やめてほしい。泣きたくないのに。

 息はすこしずつ、整いはじめていた。ゆっくり、ゆっくり……、大丈夫、息、出来てる。

「……ごめん、ありがとう。なんか眠れなくて、寮出てきちゃった」

 心配させないように笑ってみせると、凪都は「へえ」と大して感情のこもっていない相づちを打った。

「俺も同じようなものだよ」
「凪都も?」
「というか、俺はほぼ毎日出歩いてる。不良だろ」
「それは、不良だね」

 凪都が笑ったから、わたしも笑う。

「柚、これつけて」
「え?」

 すぽっと両耳を覆われて、頭が重くなる。なにこれ、……ヘッドフォン?

 小さな旋律が流れ出す。聴いたことのない、ゆったりとした曲。だけど男性ボーカルの声が心地いい。片耳を外して凪都を見上げると、彼は猫みたいに目を細めた。

「眠れないとき、俺は音楽聴いてると気がまぎれるから」

 気をつかってくれたのかな。なんなの、今日、本当にやさしい。

「……これ、いい曲だね」
「俺のお気に入り」

 凪都は顔をかたむけた。こつん、とわたしと凪都の頭がぶつかる。わ、と思った。顔がじわじわと熱くなっていくのがわかる。なにしてるのと言いかけて、凪都がわたしの顔というより、ヘッドフォンに耳を寄せているんだって気づいた。

 凪都が口ずさむ。その声が、きれいだった。

「うまいね、凪都」
「意外?」
「ううん。凪都って、なんでもできそうな感じあるから。凪都みたいに器用なひと、うらやましい」

 勉強も、苦労している様子がなかった。運動だって得意だ。淡々とすべてをこなしていく印象がある。平均を上回るために必死に頑張っているわたしとは、大違いだ。

 ――もう、五分経ってるよね。

 春野さんが心配しているかもしれないな、と頭ではそう思う。それでも、帰りたくなかった。もうすこし、ここにいたい。ここにいる間は、息ができそうだったから。

「……凪都は、さ」
「ん?」
「なんで、眠れなかったの」

 ヘッドフォンの音楽の向こうで、凪都はすこし考え、空を見上げた。月が出ている。だけど、薄い雲がかかっていて星は見えなかった。

「たいした理由はないよ」

 ちょうど、そこで音楽が終わった。凪都がわたしの頭からヘッドフォンを取る。

「俺の悩みなんて、どうでもいいことだったから、気にしなくていい」

 ……だった?

「過去形? どういうこと? 悩みは解決したの?」
「さあ、どうだろう」

 笑って、凪都が立ち上がる。煙に巻かれた。そうなると、わたしももうなにも言えなくなる。やっぱり凪都は、自分のことを教えてくれないんだ。

「せっかくだし散歩しよ、柚」
「え……? でも、そろそろもどらないと」

 春野さんが寮で待っている。それなのに、凪都はわたしの手を引いた。さっきはあたたかいと思った手が、いまはひやりと冷たく感じた。

「すこしは顔色よくなったけど、まだ無理って顔してる。だから、散歩」

 わたしがぽかんとしている間に、凪都はどんどん進んでいく。わけがわからないまま、引きずられるみたいに、わたしもついていく。というか……。

「手をつなぐ必要、ある?」
「あるよ。だってほら、夜って迷子になりそうだしさ」

 この歳で、こんなに近くにいて、迷子にはならないでしょ。凪都の考えることは、やっぱりよくわからない――、と思ったけど、すこし歩いてから、わたしも納得した。夜の闇の中にいると、凪都の姿が溶けてしまいそうに見えた。ろうそくの火を吹き消すみたいに、ふっと闇に消えて、もうもどってこなくなるような。

「凪都は、うそばっかりだよね」

 一年生のころ出会って、凪都と話すようになってから、彼はずっと憂鬱そうだった。彼の悩みがたいしたことないなんて、うそだ。今日だって、図書室で会ったときからずっと暗い瞳をしているのに。どうしたら、悩みを打ち明けてくれる? 死ぬのを、やめてくれる?

 もう、だれかがいなくなるのは、嫌だよ。