三郷さんとの会話を終え、応接室の扉を開けた。扉の外で待っていると思っていたみんなはそこにいなくて、飯塚さんに連絡を入れる。後のことを飯塚さんに任せ、僕は出版社を後にした。
歩きながら、友人に電話をかける。
出てくれよ。
しばらくの通話音の後、相手が着信を受け入れた音が聞こえた。出た。
「ユタカ。頼みがある」
「どした、いきなり」
「今からちょっと家行っていい?」
「……ん、ああ、いいよ。ちょうど初稿出し終えたタイミングだし」
おそらく前悩んでいた小説のことだろう。流石だ、やはり彼は僕なんかとは違う。
「ありがとう」
今から行くとだけ伝えて電話を切り、駅へと歩を進める。
電車一本で彼の家の最寄駅に到着し、駅からつながっている連絡通路からタワーマンションへと向かう。
入口近くに来て、天を仰ぐようにその建物を見上げた。何度も来たことのある場所だが、いつ見ても慣れない。
幾重にも重なったフロアのせいで、足元からだと何階建ての建物かすぐには分からないほどのマンション。この建物の最上階に、ユタカは住んでいる。
はるか上、小さく見える窓から出る光は、彼が書斎として使っている部屋のものだろうか。
エントランスに入り、部屋番号を押すと、ユタカの気の抜けた返答が聞こえた。数瞬後、壁を覆い尽くすほどの大きさのガラス扉がゆったりと開く。やたら長く感じるエレベーターで最上階まで上がり、インターホンを押すと、黄色いセットアップジャージを着た彼が現れた。
「いきなりごめん」
「大丈夫、一旦休憩しようと思ったところだし。カオリのおかげで思いついた小説」
予想通りだ。もう書き上げたのか。
やはり。
一人暮らしの僕の家が三つほど入りそうなリビングに通された僕は、ここに来るまでに起こった事情を説明した。
少し迷ったが、寿命のことを除いて知っていることを全て伝える。
「だから」
彼女の遺書とも言えるエッセイを書くのは、やはり彼の方が適任だ。
「ユタカの力を貸してあげてほしい」
貸してあげる、というと傲慢に聞こえるかもしれないが、少なくとも僕が力を貸すよりは、傲慢じゃない。
「やらないよ」
ユタカは話を聞き終わると、一瞬も悩むことなく首を横に振った。
「悪いけど俺はやらないよ」
「なんで」
僕が言えた話じゃないが、悪い話ではないはずだ。
「俺は書きたいものを書く。エッセイだったら、自由に書けるってわけじゃないし。書く内容とか制限されるとノイズになるからやらない。知ってるだろ?」
知っている。彼は今や超有名作家だが、書きたいものへのこだわりが強く、様々な出版社の編集者を困らせているらしい。でも、彼が我を通して執筆した小説は、多くの人々の心を確かに魅了する。才能、なんて言葉は友達でなくても使いたくないが、彼に他とは違う何かがあるのは嘘じゃない。
いつも籠って執筆するのもそうだ。
数年の付き合いだが、痛いほど知っている。ユタカは、自分のしたいことで突き進み、夢を叶えようとするやつだ。
「仮にやるとしても俺が書きたいと思った時に、こっちから依頼するからいいよ、そういうのは」
編集者からしたら扱いにくいはずだ。飯塚さんも、彼の編集に立ち会ったことがあるようだが、尊敬の含んだ憎まれ口を言っていた。
でも彼が書く小説は売れるし、僕は彼のこういうところが怖くもあり尊敬していた。
ユタカは真剣な表情で再度謝ってきた。
「だから、悪い。俺はできない」
こういう真っ直ぐさだ。多分こういうのを覚悟というのだろう。自分の中で確立した想いがあるから、選択がぶれない。
三郷さんに感じたのも同じ類の覚悟だ。
「でもさ……」
僕は食い下がる。でも、あの犬尾三郷だ。ここに来る前からユタカが乗り気じゃないだろうとは分かっていた。にしても、あの犬尾三郷だぞ。その力を持ってしてもぶれないのか。甘い蜜だと少しだって思わないのだろうか。
「そもそも依頼されてるの、カオリだろ」
「それは……そうだけど」
「それに。聞くけどカオリ、本当に俺に依頼を受けてほしいのか?」
彼の真剣な視線が僕を突き刺す。僕はその目に圧される。
「えっと……どういうこと?」
「犬尾三郷はカオリに依頼してきたのに、なんでカオリは俺に依頼してきてるのかってこと」
「いや、三郷さんもせっかくエッセイ書くなら、ユタカみたいな有名作家に書いてもらった方がいいと思って……」
「うん、別にその思考が嘘だとは思ってないよ。それはいいんだ、でも」
本心を見透かすような鋭い目をこちらに向けたまま。
「俺に電話してきた理由、俺が書いた方が犬尾三郷にとってメリットあるからなのか、それとも」
ユタカは容赦無く続ける。
「自分が書くのが怖いからなのか、どっちだ?」
「そんなの前者に決まって――」
誤魔化そうと思ったが、彼のまっすぐな目の前で嘘をつけず、心の内を見直す。
「いや……正直、僕が書いたせいで評判が悪くなるのが心配で……ってのが大きい」
ユタカはその回答を聞いて、優しい表情に変わる。
「俺に頼んできた理由が、そうなんだとしたなら、大丈夫。カオリが書いたほうがいい」
彼はそんなことを言うが、事実、僕の本には多くの低評価がついている。一方、ユタカは三十五刷の人気作家だ。だからそんなことが言える。評価されない辛さを、ユタカは知らないから。
「犬尾三郷だって、ただ有名な作家に書いてほしいんだったら、出版社にそう持ちかけてるはずだろ」
あえてだろう、そのきつい言いようにユタカの性格が滲んでいた。
僕だってそれは考えた。その結果一層、僕に依頼してきた理由が分からなくなったのだ。
「……そう、かな」
「よかったじゃねえか。あの頃からずっと言ってただろ、有名な俳優にキャラクターを演じて欲しい。実写化してほしいって」
そのエッセイが実写化する時、絶対主演は犬尾三郷じゃねえか、そうおどけて言う彼に、心の中で、その頃には彼女はもういないけど……と呟く。
「なんで犬尾三郷がカオリに依頼してきたか、聞いてみたらいいんじゃない?」
「そんなの聞けるか」
「なんで」
なんでって言われたって……。そんなの、釣り合ってないと思うからに決まっている。でも、自分でそんなことを口にするのは惨めで、僕は黙る。
「でもちょっと感心したわ。犬尾三郷、小説好きで有名なのは聞いたことあったけど、本当に好きなんだな」
「なんでそう思うの」
「ん、分からない? それも聞いてみたらいいんじゃね? 多分答えてくれると思うよ。依頼してきた時点で、カオリに対して思うところがあるんだろうし」
「でも……」
そんなふうに割り切れない。
「そんな頼りなかったら、それこそ大好きな犬尾三郷に嫌われんぞ」
「は? な、大好きとか言ってないだろ」
いきなり何を言い出すのか。大好きなんて一言も言ってない。
するとユタカは悪そうな顔を作って、とんでもないことを言う。
「だって、昨日のショートショートで出てきたヒロインのモデルって犬尾三郷だろ?」
そう言われ、一瞬にして顔が火照る。
図星だ。昨日書いてユタカに送りつけたショートショート、お題である「よく笑う女性」のモデルは彼女だった。
「一生で一度のお願いとでも思って聞いてみてもいいんじゃねえの」
彼から計らずして出た言葉、その言葉は残酷だがあまりにも正しかった。
一生で一度。
ユタカの家の広すぎる玄関を出た後、僕はその真実を抱えながら長いエレベーターを下りていた。