書いては消し、書いては消し。

 パソコンの削除を長押ししながら、大きなため息が漏れる。

 飯塚さんに書き直してくると言ったプロットは、二週間経っても全く進捗がなかった。

 そろそろ面白いプロットを考えないと、本格的にやばい。一作目から発行部数は下がる一方で、このままだと本格的に飯塚さんに見限られてしまうかもしれない。

 夢がどうとか言っている場合じゃない。こんなことなら三郷さんの依頼を受け入れておいた方がよかったのだろうか。

 いや、それはない。提案を受け入れていたら、その後自分の心がプレッシャーに耐えられない。自分の本でさえ満足に書けていないのだから。


 冷静になって考えれば考えるほど、彼女の思考が理解できない。彼女の普通と僕の普通が違うことなんて分かっているし、だからこそ僕の考えの及ばない思考をしているのかもしれないが、それにしても――自分で言うのも悲しいが、僕を選ぶのは愚策と言わざるを得ない。

 それとも、彼女は僕の計り知れない部分で何かあるのだろうか。

 もう終わった話なのに、この二週間ずっとそんなことを考えてしまっている。

 今日もだめだ、書けそうにない。昼から机に向かっていたが、陽が沈んでも何一つアイデアは浮かばなかった。僕は考えることを諦め、プロット用のメモアプリを閉じる。ただでさえ思いつかないのに、余計な思考に邪魔されて作業が捗るわけがない。

 切り替えてショートショート執筆に入ろうと思い、サイトを立ち上げる。

 今日のお題は、「よく笑う女性・スマホ・カカオ豆」だった。

 脳が集中モードに切り替わり、三つの言葉が頭の中でさまざまな方向に分岐していく。脳内でそれらの分岐が交わるポイントを探し、一気に文章を作り上げる。

 ゆっくりはできない。一つ一つを吟味している時間はないので、思いついたものを感覚で取捨選択していく。

 納得より完成を優先し、キーボードを叩いていく。

 制限時間ギリギリに完成し、ユタカに出来上がったテキストを送りつけたのとほぼ同時、マナーモードにして机の端に置いてあるスマホが鳴った。

 見ると飯塚さんで、僕は首を傾げる。飯塚さんから電話がかかってくることはあるが、この時間にかかってくることは珍しい。

 不思議に思いながら通話ボタンをタップすると、荒れた声が耳に飛び込んで来た。

「水間さん! どういうことですか!」

 飯塚さんの焦った声。何事だ。

 彼女が取り乱していることがあまりにも珍しく、緊急のことだとすぐに理解する。

「な、なにがですか」
「なんであの犬尾三郷が水間さんに小説の依頼をしてくるんですか!」
「……へ?」

 開いた口が塞がらなくなる。

「あの、どういうことですか……」
「ええと……ちょっと、説明難しい……今時間大丈夫ですか!」
「……大丈夫ですけど」
「私も混乱してるんです! とりあえず直接出版社来てください! タクシーは呼んでおきますから!」

 そう言って、電話が切れる音が鳴る。

「……なんで……」

 これは、どういう状況なのだろうか。

 僕には三郷さんの期待に応えられる価値はないと思った。だから彼女の依頼を断った。

 断ったというのに、彼女は今度は出版社に直接かけ合ったということなのだろうか。

 行って話をきくしかないか。

 飯塚さんが呼んでくれたというタクシーがくる前に最低限の身だしなみを整えようと思い、僕はひとまず椅子から立ち上がった。





 編集社に行くと、飯塚さんからスマホにメッセージが届いていた。

 最上階の奥にある応接室に来いという指示だ。

 噂には聞いたことがある。その場所はVIPを丁重におもてなしするために用意された部屋で、大御所作家の小説が映画化される時などに使われる応接室らしい。

 エレベーターを降り部屋へと向かうため角を曲がると、重厚な扉の前に飯塚さんが立っていた。会釈をすると、彼女が駆け寄ってくる。

「水間さん! なんでこんなことになってるんですか! 犬尾三郷さんと知り合いだったんですか!」
「僕にも分かりませんよ」
「とりあえず入ってください。犬尾様が部屋で待っていてくださるんですから」

 飯塚さんの慌て様と、この最上階の応接室。そうなんだろうなとは予想していた。

「今は社長が話をつないでくれてるので……」

 そう言う飯塚さんの後をついていき、扉の前に立つ。革張り扉が重厚なせいか、近づいても中の様子は分からなかった。

「入りますよ、いいですか?」

 そう言う彼女が、柄にもなく緊張しているのが分かった。その緊張につられ、今まで普通だった鼓動が僅かに速まる。

 入ると、そこには眺望の良い空間が広がっており、真ん中に設置された高そうなソファには三郷さんと、以前見た水色のスーツの女性、そして社長、編集長が座っていた。

 僕はひとまず、三郷さんと三郷さんのマネージャーに会釈をする。と、彼女も彼女のマネージャーも怖いくらいの笑顔をこちらに向けた。

 突然、ガタッと音が鳴り、そちらを向くと、三郷さんが立ち上がろうとしていた。

 僕の入室を確認した三郷さんが、椅子から立とうとして思い切りぶつかったらしい。

 突然のことに呆気に取られていると、彼女は少し恥ずかしそうにしながら僕の元へと歩いてきた。

「犬尾三郷です」
「水間……カオリです」

 僕が名乗ると、彼女は驚きと高揚の混ざった表情で微笑む。

「水間さん、ファンです! よろしくお願いします」

 そう言って彼女は、握手を求めてくる。なんだ、これ。なんで改まって。

 不可解に思いながら差し出された彼女の手を取ると、彼女は僕にだけ見える角度で不敵にウインクを飛ばしてきた。その隠れた合図で彼女の意図を理解する。

 そうか、あくまでもファンとして依頼をしてきたとすると。

 もしかすると、この対応は僕のためなのかもしれない。ツテ、と言うほどでもないが、元々知り合いだったから弱小作家である僕に依頼したのだと思われると面倒だから、それを避けるために、僕のファンとして接しているのかもしれない。

 彼女のことだ、そのくらいの配慮はしてくる。しかも、天才女優である犬尾三郷だ。そんな演技、朝飯前だろう。

 であれば。

 僕は驚きつつも国民的女優にファンだと言われ喜ぶ作家になればいい。

「ええと……マジですか……光栄です」
「こちらこそお会いできて光栄です!」

 上手く演技なんかできないが、彼女が対応してくれる。飯塚さん含め、出版社側の人間はみんな呆然と僕たちの挨拶を見ていた。

 その後、飯塚さんが三郷さんのマネージャーに確認する形で話が進められていく。

 要約すると、僕に断られた彼女はあの後、会社を通して出版社にエッセイの出版依頼をかけたようだった。もちろん一度依頼したことは伏せられて。しかも、有名な小説家が何人も本を出している中、水間カオリを名指しで依頼してきたらしい。

 社長や編集長はもしかしたら他の小説家を紹介しようとしたかもしれない。だが、それは僕の実力のせいだし、そこについて文句を言う筋合いはない。どう転んでも、あくまでもビジネスだ。

 だから僕が呼び出されたということはつまり、三郷さんが一歩も譲らなかったのだろう。

 それで、出版社としても、ライターが僕だとはいえ、犬尾三郷から執筆依頼は大きなチャンスだと判断し、この状況が出来上がったということか。

「ちょっと水間さんと二人でお話しさせてもらえないでしょうか」

 状況の説明がひと段落ついた時、三郷さんは、普段よりもほんの少し高い声でそう言った後深々と頭を下げた。

 一瞬、社長と編集長に何かを考えるような間があったが、

「ええ、こちらとしては問題ございません」

 社長がそう言って席をたつ。

 飯塚さんはどうすることもできないと諦めたのか、それとももうこの状況を受け入れたのか、なにも言わずに社長たちとマネージャーさんと一緒に部屋を出て行った。

 扉が音も立てないスピードで閉まると、部屋の中に一段深い静けさが広がる。

 みんなが部屋から出ていったのを確認した後、前に座っている三郷さんに視線を移すと、彼女はにこりと笑う。なんだ、怖いな。

 彼女から何か言い出すだろうと思ったので、僕は黙っていた。なのに、いくら待っていても彼女は口をひらかない。

 仕方なくこちらから言う。室内の会話は外には聞こえないはずだ。

「僕……断ったよね?」

 さっきまでは敬語で話していたから、ふだんに戻ったようで一気に強張っていた筋肉が弛緩する。

「うん、断られたね。あ、演技付き合ってくれてありがとう、結構上手くてびっくりしちゃったよ。水間くん、良い演者になれるかも」
「それはどうも」

 彼女があっけからんと笑うので、胡乱な目を返す。今そんなことはどうでもいい。

「そんなことより、断ったはずなのに、なんで出版社に依頼をかけてるのかな」
「一回は断られたけど、まだ絶対に駄目かどうかは分からないじゃない」

 あんまりな理論に、開いた口が塞がらなくなる。

 僕はあの時確かに断ったはずだ。それでも全くめげない彼女の原動力はなんだ。

 そもそもどうして僕なんだ。僕じゃない。僕なんかに頼んでどうするんだ。遺書のようなものと彼女は言った。そんなに大切なものだったら尚更、僕のような売れない小説家に頼んではいけない。

「正式な仕事の依頼だったら、もしかしたら受けてくれるかもしれないって思って」

 彼女は大きすぎる目が、顔の動きに合わせて動く。

 これが、あの大人気女優なのか。

 普通、断られたら、別の人に依頼するだろう。彼女の知名度があればすぐに見つかるはずだ。

 けど彼女は、別の方法で再度依頼する。

 しかも、真剣な顔で言うものだから。彼女は、自らの依頼が僕を惨めにさせているということが分からないのだろうか。まさか、わざと、なんて言わないだろう。

 ああ、そうか。

 分からないのか。それで当然だ。

 彼女にとって、人から受ける依頼に、自分は釣り合わない、なんていう思考は存在しないのか。なぜなら、彼女がトップだから。

「私には中途半端に悩んでいる暇なんてないの。一日だって無駄にしている時間はない」

 彼女の言葉は正論だ。

 確かに、中途半端に悩んでたって、プロットが思いついて進む道が切り拓かれるなんてことはない。分かっている。毎日一歩ずつ進んでいかないと、結果には結びつかない。

 とはいえ、そんなに強く生きられない。

 殊勝な思考を堂々と言い切れることこそが、彼女がなりたい女優ランキング一位をとっている所以なのだろう。以前見たインタビューでも、彼女は時間を一番大切にしていると言っていた。

「だから、一回断られたくらいで諦めるなんて、勿体無いじゃない」

 彼女のはっきりとした物言いに僕は唇を噛む。そして、自分がそっち側じゃないと自覚する。

 納得する。ああ、成功者はこういう人なんだろうと。釣り合わないと再確認させられる。

 にしても。

「せっかく会えたんだし、頼むって決めたなら、最後まで頼みきらないと」

 キャラが、立ちすぎていないか。彼女の静かに燃える目と向き合いながら、僕は頭のどこかでそんなことを考える。

 これがもし小説だとしたら、彼女の必死さや本気具合に読者は違和感を抱くことだろう。その真剣さの裏に何が隠されているのだろうと勘ぐり、どこかに伏線があるかもしれないと、これまでのページを思い返すかもしれない。

 けど、目の前にいる彼女は現実で、世間が認める大女優だ。

 想像するまでもない。憧れの超有名人が目の前に来て、かっこいいことを口にするのだ。説得力なんか、彼女がそこに立っているだけで生まれる。それだけの実績を彼女は残している。机の下、握りしめた拳の中で爪が食い込む。

「だって、なんで」

 これまでの彼女の行動を鑑みると、エッセイの執筆を依頼することを思いついたらすぐさま有名作家に連絡を取るはずだ。彼女ほどの有名人だ。出版社に依頼したら、人気作家だとしても簡単にアポは取れるはずだ。

 その依頼の矢印が僕に向いている理由が分からないのだ。

 まさか、特別な理由があるとでも? 悔しさと情けなさの間の感情に追い立てられ、僕は口を開く。

「そんなこと言われたって、なんで」
 ――僕に依頼を。という言葉は出さずに済んだ。

 もし訊いていたら、彼女は僕を納得させてくれる理由を言ってくれるのだろうか。新作のプロットさえ書けず、既に作り上げた小説を酷評されている僕に対して、彼女はどんな言葉を返すのだろうか。

 訊けない。釣り合っていない人間に、そんな質問をしたら打ちのめされるだけだ。

 一方で、仮に納得させてくれたとしてどうするんだ、と思う自分がいる。仮に彼女の依頼を受けたら、結果は目に見えている。迷惑だ。

 できないものはできない。

 僕は逃げようとする。なのに、追い討ちがくる。

「遺書みたい、っていうのは嘘なの」

 彼女の意図が分からず、首をわずかに傾ける。

 遺書、なんて仰々しい言葉を使ったが、実際はそこまで思い入れの強いものとして捉えていないということだろうか。その思考は続く言葉にすぐ否定される。

「本当に遺書なの」
「へ?」

 気の抜けた声が口からこぼれる。どういうことなのか。

「私、死ぬの」
「……は?」
「もうすぐ死ぬの」

 三郷さんの透明っぽい声が、平坦に異様な言葉を紡ぐ。その言葉が耳から入り、なぜか僕の頭に、静かにくっきりと浸透した。

 彼女の顔を見る。見る人を虜にする大きな双眸は、僕の目を捕まえて離さない。冗談を言っているようには見えなかった。

「……本気?」
「こんな悪趣味な冗談言うと思う? わざわざ出版社まで来て大勢の大人まで巻き込んで」

 三郷さんが首を僅かに傾ける。そして、トーンを下げた声が、僕の体の奥に響く。

 ああ、体で表現するとは、こういうことなのだろうか。こんな所で、女優の力を見せつけられる。彼女の全身が、嘘を言っているわけじゃないと示している。

 本当のことだと分かってしまう。

「いかにもエッセイに向いているでしょ?」

 そう笑う彼女を見て、頭の中に一瞬光が刺した気がした。

 僕は続けて問う。

「もしそうなら、なんで今になって」

 あの日、彼女は言えたはずだ。

 最初からそれを交渉材料にすることだってできたはずだ。それなのに。

「私、言おうとしたよ」

 彼女は僅かに不服そうな表情を見せながら呟く。

 思い出す。確かにエッセイ執筆の依頼を断った時、彼女は何かを言おうとしていた。

 彼女が言わなかったんじゃない。僕が聞かなかったんだ。

 僕は、彼女に話す間を与えず立ち去った。

 惨めな気持ちになるのが嫌で、なにも聞かずに立ち去った。だって仕方ないだろう。

「……それはごめん」
「いいんだそれは。むしろ、今本当のことを言ったって事実が、私の覚悟の表れだと受け取ってくれたら嬉しい」

 これが、彼女のキャラの正体か。

「もう一度言うね。私は、私をこの世界に記憶させたいの。私が生きた意味をちゃんと残さないといけない。死んだら、忘れられるの。そうやって忘れられた人を何度も見てきたから知ってる。だから、みんなの記憶に私を深く刻まなくてはならない。そうしないと、この命が短いことと辻褄が合わないから」

 命が短い、なんて、受け入れたように彼女は言うが、僕がもし同じ状況だとしたら、そんなふうに言えるだろうか。

「だから、カオリくんに、私の遺書みたいなエッセイを完成させる手助けをしてほしいの」

 聞きたいことはたくさんある。

 本当に、死ぬのか。

 なんの病気なのか。

 いつ死ぬのか。

 なんで僕へ依頼してくるのか。

 なんでそんなに強いのか。

 けど、それを聞くのは僕じゃなくてもいいはずだ。

「ちょっと……だけ考えさせてもらってもいい?」

 彼女には覚悟がある。そして。

 僕は、その思いを受け止められるかもしれない友人を知っている。