周りを見渡す。
ドラマの中で悪代官がいるような部屋に、僕はいた。
ハイヤーに乗った後、運転手は会話をしないように教育されているのか、何も言わずに出発した。あらかじめ行き先は決まっていたらしく、僕は和食料理店の前に降ろされた。着物を着た女将に案内されるがまま奥の部屋について行き、「こちらで少々お待ちください」と言われてから既に十分程度経っていた。
個室の真ん中には掘り炬燵があり、座布団が向かい合うように二つならんでいて、僕は入り口に近い側の椅子に座った。壁際には骨董品のような巻物と壺が飾られており、いかにも高級な割烹の雰囲気を醸し出している。
こんなところに来るのは人生二回目だ。
一回目は、新人賞で受賞し、担当編集である飯塚さんに連れてきてもらった時だ。あの頃は受賞の喜びで嬉しさ以外の感情がなかったが、普段来ないような空間に一人で放置されていると、なんだか居心地が悪い。
女将が下がる時「犬尾様は今こちらに向かわれているそうです」と言い置いて行ったが、いつ到着するのかは分からない。
でも好都合だ。僕は息を大きく吐く。
撮影が終わった後、行き先も告げられずハイヤーに乗せられ、落ち着く暇もなかったのだ。一度、状況を整理しておく必要があった。
犬尾三郷がどういう目的でこんな場所に僕を連れてきたのか。そもそも、なにが理由で今日僕は撮影現場に呼ばれたのか。
何か、僕が昨日した質問に、引っかかるものでもあったのだろうか。
夢の方を見てもらいます――そう言っていた彼女の柔らかい声を思い出す。撮影現場にいた俳優さんたちはみんな輝いて見えた。確かに、多くの人が憧れる夢の世界であることは間違いない。僕だって、自分の作品があんなふうに名だたる俳優によって映像化されてほしいと思っている。
彼女の意図を推し量ることができず考えていると、ポケットに入れていたスマホが震える。担当編集者である飯塚さんからだ。前回の打ち合わせで新たな小説のプロットを作ってくるように言われていたので、その進捗具合の確認だった。適当なスタンプを送ると、追いメッセージが届く。サボっていると思われたのだろう。
『今なにしてますか?』
『人を待ってます』
『人?』
『人と待ち合わせしてるんです』
説明すると長くなりすぎるので、ぼかして言う。
『次の小説のプロット、待ち時間にでも考えてくださいよ』
飯塚さんの言葉は正しい。だからそのきつい言葉は正論だ。僕自身、何をしているのか分かっていないのだ。少しの空き時間でも小説に繋がることをすべきだとは分かっている。とはいえ、いつまで待つかも分からない。
流石に店の人に状況を確認しようかと、椅子に乗せていた腰をわずかに上げた瞬間、背後の入り口が開く音がした。
扉を開けた女将の奥、彼女が現れる。犬尾三郷だ。
「ありがとうございます」
彼女は案内してくれた女将にお礼を言い、僕の方を振り返った。そして腰を再度下ろした僕の前に座った。
本物だ。
分かっている。コインランドリーで会ったのも、撮影現場で演技をしていたのも、本物だと分かっている。けどいざ対面すると、心が浮いた感じになって、そんな安直な感想が浮かんでしまう。
「お待たせしちゃったね。ごめんなさい、ちょっと監督と打ち合わせしてて遅くなりました」
「あ、いえ」
「お腹すいてますか? あ、そういえば……って、ん? なに?」
僕が黙ったまま固まっていたからだろう。彼女が疑問の声をあげる。僕は彼女が部屋に入ってきた時から思っていたことを言う。
「なんだか……さっきと全然違う……って思ったので」
彼女は、彼女に戻っていた。何を当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、その表現で間違っていない。
髪型や服装など、先日会った時と様子は随分違っていたが、目の前で座っている犬尾三郷は、コインランドリーで出会った時の彼女に戻っていた。
さっき撮影の時とメイクは変えていないだろう。それなのに、今の彼女は、さっきまで演技をしていた彼女ではなく、コインランドリーで話した彼女の方だ、とはっきりと感じていた。
そんな奇妙で感覚的な説明をすると、彼女はなぜか優しい目で微笑んだ。
「どっちが本当の私なんだろうね」
ほんの少し目を悲しそうに曲げる彼女に、僕は首を傾げる。
彼女がそう言ったタイミングでハッとした表情になる。
「……あ、ごめんなさい。タメ口駄目な人だったら言ってください。同い年だしと思って、そっちの方が話しやすいかなと」
「え、なんで同い年だと?」
僕は彼女の年齢を知っている。というより、国民の大半が彼女の年齢を知っている。
一方僕の年齢は、本のカバーに書かれているくらいで、ネットにも書かれていない。僕の本を読んでいる人でも年齢は知らない人の方が多いはずだ。ウィキペディアだって存在しない。
つまり、よほど注意して僕の小説を読まないと分からない情報なのだ。
……まさか、僕のファンだとでもいうのだろうか。
だが、心の奥底で湧き上がり始めた淡い期待は彼女の言葉ですぐに崩される。
「話した後、カオリくんの本を読み直したんです。それでカバーを見て同い年なんだって気づいて」
そういうことか。驚き以外の感情を出す前でよかった。
「だから……このままでいいですか?」
三郷さんはすこしだけ心配が混ざった表情でそう聞いてくる。
彼女からそんな目で見上げられ、嫌だと言う人間がこの世にいるのだろうか。そんな人がいれば、どうかしているとしか思えない。
「全然いい……と思う」
「ありがとう」
そして、さらに大きな衝撃が再投される。
「それと……カオリくんが通っている大学、あそこなんだ」
「そうだけど」
彼女が言いたいことは分かる。その情報も同じ本のカバーに書かれていることだ。だから読み直したと言った彼女が通っている大学を知っていること自体はそれほど驚くことではない。驚いたのはその後の言葉に、だ。
「私も同じ」
一瞬、頭を殴られたのかと思った。
「へ?」
「私、実は現役大学生なの。君と同じ大学の学生」
「えええ、うそ!」
そんな話は聞いたことがない。彼女は高校の卒業時、既に芸能活動をしていたはずだ。
「ほとんど大学には行ってなくて留年しまくってるんだけど……一応、在籍はしてるの。バレても面倒で情報出してないからオフレコね」
「……まじ?」
「うん、ほんと」
「三回生ってこと?」
通っている大学は、三回生までは必然的に進学する。ただ、その時点で規定の単位を取得できていない場合、四回生になれず留年するという制度になっている。
「そう、三回生。カオリくんは?」
彼女が人懐っこい声で聞いてくる。彼女は他の演者やスタッフともすぐに距離を縮められるから重宝される、と何かの雑誌で読んだことがある。
「僕は四回生」
四回生には上がれたが、その後の単位を取得できず、今は休学中だ。
「そっか」
間近で見るどんな人間よりも肌が滑らかで、去年友達の子供が産まれたときに見た赤ちゃんのほっぺを思い出す。
見つめているとまた彼女が不思議そうな表情をするから、僕はかろうじて普通の顔をして話を戻す。
「驚いた」
そんな共通点があるのなら、もしかしたら仲良くなれるかもしれない。その想いが見え隠れしたが、抑えて話を切り替えた。
「どんなご飯出てくるんだろう」
「嫌いなものとかはない?」
「基本的にないけど……あ、強いて言うとパクチーくらい」
言ってから気づく。彼女は確かパクチーが嫌いじゃないはずだ。朝の番組のグルメコーナーで、美味しそうに食べているのを見たことがある。
「分かる! 私もパクチーはそんなに好きじゃないの」
だから彼女が出した共感の言葉に驚く。
「そ、うなんだ。一緒」
一瞬疑問が浮かぶが、彼女の苦労のようなものが垣間見えた気がして、僕は喉まで出かかったものを飲み込んだ。
彼女は言葉の詰まりに気が付かなかったようで、特段何もない様子で続ける。
「ね。でもよかった。この店では出てくることないから。私も苦手だから確認してる」
和食だからそうでしょうね、と思ったが、そうも言えないかもしれない。和食だが、一般的に和食では扱わないような食材もうまく料理に昇華されていそうな空気があった。
そうこうしているうちに料理が運ばれてくる。
運ばれた品は小さなお椀で、蓋が載っていた。その蓋を外した瞬間、一気に出汁の香りが広がる。緊張でそこまでお腹が空いてなかったはずなのに、その香りを吸った瞬間胃が大きくなった気になる。
「ここのオススメなの、絶品よ。私、出汁の香りが一番好き」
彼女の言葉に、僕は深く頷く。香りだけでなく、味も半端なく美味しい。口に入れた瞬間、香りの何倍もの旨味が口と鼻の奥に浸透し、舌が震える。
舌鼓、と言う言葉はこの現象からきているのだろうか。
「私、死ぬ時はこの香りに囲まれて死にたい」
子供みたいな可愛い発想に思わず笑いそうになるが、彼女の目を見て堪える。
目の前にいる彼女は、あたりに漂ういい香りの中で、なぜか真剣な表情をしていた。その顔が改めてこちらを向き、そのまじめな表情のまま訊いてくる。
「みんなの演技は、見てくれた?」
「見たよ」
「何か分かった?」
コインランドリーの時の続きだと、その表情で分かった。
一言一句を聞き逃すまいとしているような、強い表情でそう言った彼女を見て、僕は言葉を止める。
寿命と夢の二択がきっかけで撮影現場に呼ばれたから、僕もその疑問を頭の中に浮かべながら、演技を眺めていた。夢のような仕事をしている彼女は、その仕事に対してどう考えているのか、と。
しばらく考えた後、正直に答える。情けないけど。
「分からなかった」
分かるわけがない。
キャストさん達が、明確な意図を持って演技していることは確かだ。
撮影時のさまざまなシーンでもちろん人格は共通していた。一人のキャラクターを演じているのだからそうなのだろう。ただシーンごとに感情がガラッと変わる。カットという言葉ごとに、異なった感情を再現していたのだ。
おそらく時系列とは関係なく撮影していた関係もあるだろう。
ただ、その時に感じたのは、ちょっとした怖さだった。
みんなが羨む、演技という仕事をしている最中、彼女らがなにを思っているのだろう、彼らの心の中はどうなっているのだろう、と。
僕のような売れない小説家では到底理解の及ばない思考の中で動いているに違いない。だって、今目の前にいる彼女と、さっきの彼女はこんなにも。
「別人だった。さっきも言ったけど、今と違ってた」
「違う、と言うのは?」
「目が違うんだ」
執筆の際、キャラをかき分ける時に考えていることを彼女に説明する。
「なんて言えばいいんだろう、心の中での考えとか、スタンスレベルで、今と撮影の時と全然違うんだろうなって思った」
「ほう」
彼女は興味深げに頷く。
「面白い解釈だそれ」
「実は、元になった小説を読んだことあるんだ」
撮影中の俳優さんたちの発言から、何の作品を映像化したものなのかは気づいていた。彼らが、僕と同じレーベルから本を出している、超人気作家の小説に出てくる人物のセリフを口にしていたから。
「ほんと!」
僕の言葉を聞いて、驚いた様子の彼女が食いついてくる。
「うん」
「じゃあさ、シンプルに、読んだ時の印象と比べて私の演技はどうだった?」
そう質問する彼女は、少しだけ思い詰めたように眉を歪めていた。
「えーっと」
僕は言葉に詰まる。答えあぐねる。そもそも、素人である僕が彼女に何か意見を述べていいのだろうか。彼女は何を求めてその質問をしてきているのだろうか。
ひとまず、彼女が答えを待っているから考えてみる。
正直、読んだ時にイメージしたキャラクターの印象とは異なる部分がたくさんあった。けど、目の前であんな演技を見せられたら、それこそが正解にも思えてしまう。
そもそもそんなことを伝えることが、正解なのだろうか。彼女の意図や思考が分からない。
結局、僕はその質問から逃げた。
「すごかった。なんか、こう、すごかった」
語彙力が拙い。小説家失格かもしれない。
「そっかそっか」
逃げたはずなのに彼女が納得したような表情で頷くから、ほんのちょっとだけ答えてしまう。
「……けど、小説のキャラクターに対する解釈は聞きたいな、と思った」
すると、彼女は目を少し丸くし「お」と言う。
演技中彼女がしている表情はコントロールをされたもののはずで、だとすればその表情は、彼女のそのシーンに対する解釈の表れだということになる。
人の機微を文字情報のみで伝える仕事をしている僕には、それぞれのシーンに対する見解を、彼女がどのように言語化するのかに興味があった。
「解釈、かあ。それはまだちょっと言えないなあ。映像化されて全部を観てからじゃないと伝えられない部分があると思うから、それまで待って」
彼女は妖艶に微笑む。
「公開まで多分一年以上はかかると思うけどね」
そうか、今撮影をしていても、世間にその映像が届くのには長い時間がかかるのか。
小説も、書いている時から出版され読者の元へ作品が届くまでには相当な時間がかかる。だから彼女の言葉には納得した。
「私たちエンタメを作る者は、現在の私たちじゃなく、過去を見てもらうものでしょ」
私たち、という言葉に、僕が含まれていることを望みながら、彼女の意見に賛同する。
「そして、その過去は一生残るものだから、完璧でなくちゃならない……それが私の証になるから。だから心配なの」
伏せられた彼女の瞳がなぜか苦しそうに見える。何かを後悔しているような。
そんな彼女の姿を見て思う。僕は、僕にはそんな覚悟があるだろうか。これまで数冊の小説を出版したが、それぞれに対して、そこまでの気持ちを持って取り組めていただろうか。物足りない作品が世間に広がることに、本気で後悔できているだろうか。
ちゃんと、低評価がつく小説を作ってしまったら、後悔しているだろうか。
「だから、気づけば過ぎ去っていく今をさ、せいぜい楽しもうよ」
かっこいいことを言って彼女が目の前の美しい料理に視線を移す。どれだけ食べても見飽きることがないだろう、そう思わせてくれるほど、料理が美しい。
だから僕は頷く。普段こんな高級な料理は食べられないのだ。楽しまないともったいない。
料理のおかげもあってか、彼女との会話は、時間を忘れるほど楽しかった。もちろん彼女のコミュニケーション能力もある。彼女の物事に対する考え方が、言葉の節々に出ていて、それが興味深かった。その深さに触れるたび、胸の奥にチリリと引っかかったような痛みを感じる。とはいえ全てが絶品であるという事実は変わらず、出てきたそれら全てを堪能し、僕たちは席を立ち上がった。
ふと大事なことに気づく。
何も考えていなかったが、もしかしてとんでもなく値段が高い料理なのではないだろうか。いや、高いに決まっている。店構えと室内からして高級なお店であることは間違いないし、それに、目の前にいるのは、日本を代表する女優だ。
その僕の空気を感じたのだろうか。彼女が「気にしないで」と言う。
「今日のご飯は招待していただいたものなの」
「……ありがとう」
情けない、とも思わせてくれない気遣いに、また一つ心を引っかかれながら僕はお礼を言う。
さらっとすごいことを言う彼女を見る。彼女があまりにも普通な様子で頷くから、そういうものなのだろう、と僕は自分の頭を納得させた。すぐに納得できた理由はもう一つあり、小説家仲間であるユタカに以前会った時も、新しい焼肉屋に招待されたという話をしていたのを思い出したからだ。
彼女は、食事を終えた後、館内の写真をスマホにおさめていた。なんらかのSNSに載せたりするのだろうか。
理解させてくれたここにはいない友人に感謝しながら、僕は彼女に再度お礼を言った。