「ええと……それは」

 僕の質問を聞いた彼女は傾げた首を今度は逆方向に動かした。女性の平均よりほんのちょっと高くて透明っぽい高い声は、何度も耳にしたテレビで聞く彼女の声そのものだった。本物なんだ、そう思う。

「あ、いや」

 どうする。口をついて出た言葉は、明確な意図があって出したものじゃない。
 彼女だったらどう答えるのだろう。そう思ったのは事実だ。
 そして、中途半端な自分が、黒歴史として無意識に避けてきた問いでもある。
 変わらず視線を僕に向けている彼女は、急にそんな質問をしてきた僕を変人だと思っているだろうか。

 でも、もう言ってしまったのだから仕方がない。僕は観念して口を開く。

「都市伝説みたいなものなんですけど」

 彼女は、僕に会話の球を渡していることを示すように小さく頷く。

「命を差し出す代わりに、夢を叶えてくれる悪魔がいるという話があって……あ、本気でそれを信じてるとかではないんですけど、昔それを聞いた時のことを今朝の夢で思い出して……」

 説明すればするほど変な人だと思われそうな言葉を僕は口に出していた。

 彼女はしばらくの間、何か考えるような仕草で黙っていた。ここがコインランドリーでよかったと思う。洗濯機が回っている音のおかげで、二人とも話さなくても完全な沈黙にならなくて済む。

「命と夢の交換……」

 彼女が小さくつぶやいた言葉を頭の中で反芻していると、彼女がほんの少し口角を上げた気がした。その魅力的な笑い方に、思わず息を呑む。

「まず、お名前を伺っても?」
「あ、そうか」

 彼女のことを僕が知っていたとしても、当たり前だけど逆は違う。

「すみません」
「いえいえ」

 本名とペンネーム、彼女に対してどちらを名乗るべきか一瞬迷ったが、彼女の名前がそもそも本名なのかどうか知らないのだから、僕もペンネームでいいだろうと思った。

 それに、もしかしたら知ってくれていたりしないだろうか、なんて微かな期待もあった。

「水間カオリです」
「みま?」
「水に、間で、みまです」

 彼女は興味深そうな顔で数回頷く。

「水間、カオリくんですね、分かりました。ええと、私は……知ってくれてる、のか」

 そう確認する彼女は銀行の広告で見る編集されているはずの写真と全く同じ顔で笑う。

 僕が頷くと、彼女はそれでも礼儀だと思っているのか「そっか……」と呟いてから背筋を伸ばし直す。洗濯機の音が響く中、彼女の透き通った声が僕の耳へと届く。その声が震えているような気がしたのは、機械の振動のせいだろうか。

「私は、犬尾三郷、と言います」

 耳から頭の中まで、その柔らかい声が染み込むように広がっていく。

 本物だ。まじだ、まじの犬尾三郷だ。

 確信していた。だが、彼女がその名前を名乗った瞬間、さらに一段強く自分の体の芯が震えたのが分かった。

 呆けそうになるのをかろうじて耐え、僕は考える。

 彼女からすれば、その驚いたような反応は何度も味わったことがある筈で、だったら当たり前のような表情で「存じ上げております」なんておどけて返した方がいいのだろうか。

 正解の分からない選択に脳が支配されずに済んだのは、続く彼女の言葉のおかげだ。

「水間水間……水間カオリって……」

 彼女が何かを思い出そうと空を見上げながらつぶやく。

 え、その反応は。まさか。

「どこかで……聞いたことある気がします」

 その言葉に撃ち抜かれたような衝撃が走る。

「もしかして……これ……ですかね」

 隠す必要がない、というか、とっかかりがあるなら開示したい。僕は持っていた本の表紙を彼女の方に向ける。

 淡い橙色ベースで描かれた小説の装丁には、明朝体の太字で『水間カオリ』と僕のペンネームが記されている。

 彼女ははっとした表情になり、それから手を伸ばしてくる。

「ちょっといいですか?」

 本を彼女に渡す。彼女は、その装丁に視線を下ろす。

「ああ、これか。え、それって……」

 驚きの混じった表情で、彼女は長いまつげを上げる。

「もしかして、その本を書かれたのが、あなた」

 彼女は行間を略さずきちんと言う。

 僕は控えめに頷く。さっき、あえてペンネームの方を先に言ったから、釣り合いのために、ここでは普通な感じの首肯をした。

 口を小さく開け、彼女は数度頷いた後、ゆったりとした仕草で僕の目を見た。すごい、とか、驚きの表情ではなく、彼女は落ち着いた表情で口を動かす。

「拝読したことあります」

 瞬間、ぶわりと心の中に風が吹いた気がした。洗い立てのシーツに全身を包み込まれたみたいな充足感の奥、さらに血の流れが加速する。

 うそだろ……本当に知ってくれているのか。

 あの犬尾三郷が。

 小説家になってから、人に存在を知ってもらえる度に、喜びを感じていた。もちろん評価も気にはなるが、自分が生み出した物を知ってくれているというだけで、込み上げる嬉しさがある。

 ただ、今はいつもと異なる高揚感も同時にあった。

 震えるような幸せが心の奥底から湧き上がり、全身を包み込む。

 そんな。有名女優である彼女が、僕のことを認識してくれているのか。

 もしかして、さっき僕が彼女のことを知っていると言った時、彼女も同じ気持ちになったのだろうか。いや、彼女と僕じゃ認知度が圧倒的に違う。喜ぶってことは、その状況がまだ特別で、慣れるほど経験していないことの証左でもある。

 そうか、中途半端だからか。

 ほんのちょっとその思考に感情がマイナス側に引っ張られそうになり舌を噛む。けど、それはいい。そんなことは些細な問題でしかない。

 彼女が――他でもない犬尾三郷が知ってくれているのだ。

 人は喜びすぎると、小学生のような簡単な言葉しか使えないらしい。

「ありがとうございます。嬉しい」

 単純な感謝の言葉が僕の口から溢れた。

「いえいえ。驚きました」

 彼女はもう一度僕の本に視線を戻し、何を考えたのかこちらに向かって微笑みかけてきた。

 やばい。何かは分からないが、やばい。

 彼女の姿を改めて見ると、よくある表現かもしれないが、隅々まで意識が張り巡らされているように感じられた。

 顔の肌の白さ。蛍光灯の光を反射する艶やかな髪に色素の薄い瞳、それら全てが絶妙なバランスで、美しい印象を与えてくる。オーラがある。

 シルクの枕のようになめらかな鼻筋を見つめてしまっていると、その下の口が開く。

「というか……この状況、カオリさんの小説に似てますね」

 僕は目を丸める。確かに、僕が書いた小説で、コインランドリーで主人公が憧れの人物と話をするシーンがある。

「本当に読んでくれてたんですか!」
「さっきそう言ったじゃないですか」

 僕の反応に彼女は明るく笑う。周りに幸せオーラが伝染しそうな表情を見て、また胸の奥にぶわりと風が吹く。

「いや……嬉しくて」

 お世辞じゃないと分かっただけで、身体中が熱を持つ。

「読みましたよ、ちゃんと」
「ありがとうございます」
「それで、先ほどの話に戻しますけど」

 彼女は一旦話を区切って真顔になった。

「カオリさんは、命と夢の交換をしてくれる悪魔と出会ったことがあるということですか?」

 そして、真面目なトーンでそう聞いてくる。

「え?」

 こちらから聞いてはいるが、悪魔なんかいるわけがない。それなのに、彼女のその口調はとてもふざけているようには思えない。

 どういう意図だろうか。まさか、ツッコミ待ちなのだろうか。それとも、ただの天然?

 テレビの中でしか見たことのなかった三郷さんの感性が分からず、でもその表情に呑まれ、僕は首を振る。

 もしかしてその表情は皮肉で、なんでもいいから何か話したかったという僕の本音に気づいているとかだろうか。

 でも説明するしかない。僕は返答する。

「いやいや、ないですよ。だから例えば、として聞いてみただけで……」
「ああ……そういう。分かりました」

 なにが分かったのだろう、そう思う間もなく、彼女が立ち上がる。

 気のせいだろうか、彼女の表情はなぜか、ほんの少し不安そうにも見えた。

「では、ひとまず寿命の交換先――夢の方を見てもらいましょうか。……次の日曜日って、お時間あったりしますか?」

 その言葉の意図が分からず、僕が眉を顰めたのを見計らったように、ぴー、ぴーと気の抜けた音が、壁際の機器からから聞こえてきた。