夢中で手を動かす。画面上に、文字が、言葉が生み出される。

 文面の中で、犬尾三郷という人物が作り出されていく。

 そして、最後の文字を打ち終える。僕は大きく息を吐く。

 ほとんど確信に近い、最高の作品になった感覚があった。心に満足が広がっている。これ以上ないものができたと分かるからだ。こんな感覚になるのは初めてだった。

 もう一度画面を見返す。スクロールをしていると、突然。

「素晴らしいサクヒンですねえ」

 今まで聞いたことのない頭に響く声に、一瞬息が止まる。

 振り返ると、僕の後ろからパソコン画面を覗き込む黒い物体――悪魔がいた。

 悪魔なんて今まで見たことはない。アニメなどでのイメージでしかない。三郷さんと本田陽の話から、想像していただけだ。

 けど、ひと目見た瞬間から、眼前に佇むその黒すぎる人間のような生物が、悪魔なんだと理解した。

「ああ、安心してください。ワタシは、怪しいものではありません。悪魔、とでも呼んでください。厳正なる審査の結果、あなたはチャンスを手にしました」

 悪魔は胡散臭い言葉を並べる。イントネーションが、気持ち悪い。

 気持ち悪さの後ろで、僕は心の底が熱く震えるのを感じていた。

 来た。

 本当に、来た。

「オドロかないんですか? びっくりです」

 悪魔は、僕の様子を見て平坦な声音でそう言う。

「もっと取り乱したり、ユメじゃないか、なんてふうに慌てるのが普通でしょう。興醒めですねえ。いや、まあいいです。驚かれても面倒なだけですし。ではシツモンです。どうして今私は現れたのでしょう」

 そんなふうに問いかける割に、僕が答える間も無く悪魔は続ける。

「水間サマは権利を得たのです。そのすごく面白いエッセイ。すでに十分すぎるほど素晴らしい作品です」

 その言い方には含みがあった。

「けど、まだ万全ではない。人間の数十年で成し遂げたことなんて、存在が消えてしまえば忘れられるかもしれない。ですが、ワタシの力があれば、そちらをとんでもない傑作として世の中に送り出し、犬尾三郷サマの存在をこの世に残すことができる。その権利を水間サマは得たのです」

 まるで詐欺師だ。つらつらと甘い言葉を囁く。

「もし今私と契約したら、人々から忘れられなくさせられますよ。それこそその世界中の人が、です。犬尾三郷サマだって、みんなの心に残りますし、それに……あなたのユメも叶うんじゃないですか?」

 こいつは、こちらの状況を全て把握した上で訊いてくる。

「対価は?」
「へ」
「対価があるはずだ。代わりに何かを差し出す必要があるんだろ」
「ハナシが早くて助かります」

 悪魔は気味の悪い顔をニヤリとさせる。

「ジュミョウが、残り五年になります」
「……っ」

 それを聞いた途端、怒りの泡が上がってくる。こいつ。

 堪え、話を進める。

「……何年減る?」
「それは言えませんが。でも、残りの五年、サイコウな人生を送れますよ、おそらく」

 なるほど、本来の寿命は教えてくれないのか。教えたら契約がしにくくなるからだろうか。

「これは人生の中で一度だけ訪れるチャンスなんです。だから、私が現れたことは素晴らしいことなんですよ。もうこの時点で誇ってもいいくらいです」

 よくもまあそんなことを。

「あなたの努力のおかげですよ、私は、相応の努力をした人の前にしか現れない。そのレベルの人でない限り、この契約は意味をなさない。本気の人だからこそ、交渉の土台に立てるんですよ。選ばれた人にのみ、天秤が現れる。普通に生きている人だったら、こんなチャンス訪れさえしない」

 カカカ、とその悪魔は高笑いする。そんな尤もらしいことを言っているが、こいつは人の寿命をとりに来ている。だが、納得する。そういうことか。だから僕の前には今まで一度も現れず、三郷さんや本田陽の前には現れたわけだ。

 三郷さんの影響で書きたいと思わせてくれて、そのおかげで悪魔が現れた。

 何人か、悪魔に出会っていそうな人が頭に浮かぶが、それは今はいい。

「イカガがですか?」

 命を差し出せ、と悪魔は言ってくる。

 いや、おそらく正確には違う。こいつは、そんなこと一度も言っていない。

「なあ、一つ訊いていいか?」
「なんでしょう?」
「それって、夢――何か叶えたい夢の成就と、寿命の交換(、、)、なんだよな?」
「エエ、そうですけど」
「それで、お前が現れるくらいには、この作品は面白いと」
「そうでございます」
「この作品は、僕と三郷さんが出会って、そしてこれまで過ごしてきた時間があったから生まれた傑作だ」
「それは……おっしゃるとおりです」
「だったら提案がある」

 その時の悪魔は、この上なくニヒルな笑顔で僕の言葉を待っていた。そんな悪魔の手を僕は掴む。一つの思いを持って。

 悪魔を天使に変えてやる。


ーーー



「まさか、あんな提案されるとは思いませんでしたよ。みんな、そんな余裕ないはずなのに。まあ、ワタシとしてはレートがいいならなんでも問題ないんですけどね、ケヘヘ」

 現金なやつだ。

「ソウゾウ力が豊かですねえ」

 対して感心もしてないのに、悪魔は鷹揚に頷きながらそう言う。

「それだけを鍛えてきたからな」
「アハハ、そうですか。でも、いいんですか? そんな膨大な時間をかけてやっと作った大作を」
「いいんだ、夢は叶ってる」
「そうですか。ワタシとしては全然いいんですが」

 悪魔はこの上なく愉快そうに笑う。

「さて。これでケイヤクは完了です。もう二度と私はあなたの前に現れません。さあ、どんな気分ですか?」

 何も変わった気がしない。

「まあ、徐々にリカイできますよ、あなたがしたことが」

 そうか。僕がしたことを、か。何を?

「では、ありがとうございました、イイ取引になりましたよ」

 悪魔が消え去り、僕はその場でしばらく呆けていた。

 その後、ふと、外に出ようと思い立った。ここしばらく忙しくしていたので、洗濯物が溜まっている。家を出て自転車にまたがり、次の小説の構想を練りながらコインパーキングへと向かう。

 前回出した小説から、新しい案が全く浮かばず、ずっと飯塚さんを待たせてしまっている。そろそろ出さないとやばいと言われてしまっているのだ。

 銀行の前を通り、到着した後、駐輪場に自転車を停める。大きなランドリーバッグを担いで建物に入る。

 そこには先客がいた。室内だというのにサングラスをかけた女性だ。

 僕はその人に声を――。

 僕だけが知っているその人気女優には声をかけず、洗濯をセットし、小説を開いた。


ーーー


エピローグ


 ユタカが知り合いにもらったというチケットで、僕とユタカは試写会に来ていた。

 いつか撮影していた映画だ。

 舞台挨拶がセットとなった映画らしく、本編を観終えると、監督と演者たちがぞろぞろと舞台に現れた。

「やっぱすげえわ、犬尾三郷」

 ユタカが感心したように声を漏らす。

「そういや知ってる? 犬尾三郷って今度エッセイ出すらしいぞ」

 僕は静かに頷く。知っている。

 司会を務めるアナウンサーに促され、順番に挨拶が始まる。

 主演である犬尾三郷の透明っぽい声が、スピーカーを通し耳に入ってくる。

 彼女は、生きている。ただ。

 犬尾三郷は、舞台からもう僕を見ていなかった。