「期限、聞いてもいい?」

 彼女の話を聞きながらずっと引っかかっていた質問は、予想以上にするっと口から出てきた。

 彼女の演技力によるものか、それとも小説家という想像力のおかげか、彼女が亡くなるという事実を思ったより普通に受け入れてしまってることに、言ってから気づく。

 彼女のエッセイを書くということはつまり、彼女が亡くなるまでに書き終えなくてはならないということだ。

「四ヶ月」

 彼女は小さい子が年齢を聞かれた時のように親指だけを折った手をこちらに見せてくる。

 受け入れているとはいえ、その残酷な回答に、僕は言葉を失う。

 長くないのだろうとは予想していたが、まさかそれほど。

 正直、間に合う気がしない。ここ半年弱、プロットでさえも出来上がっていないのだ。そんな状態で、彼女のエッセイを書き上げられるなんて思えない。

 僕が反応しづらそうにしていると、彼女は口を開く。

「結構残ってる。四ヶ月って思ったより長いよ」

 彼女の確信度合いに違和感はあったが、昔、祖父が癌になった時に医者から言い渡された余命宣告を思い出す。多少のずれはあるだろうが、おそらくほぼ間違っていないだろう。

 僕は大きく息を吐き出す。

 すでに、多くの時間を無駄にしてしまっている。彼女に依頼されてすぐに承諾していたら、無駄な時間を過ごすことはなかった……そう後悔するが、それを悔やんでるよりプロットを考えることに時間を費やすべきだ。

「でも、本を書くってなると、短い……よね?」

 彼女が申し訳なさそうに首を曲げる。

「正直短い……一人で書くわけじゃないし、毎回三郷さんにチェックしてもらいながらになるだろうから」
「私は渡してくれたらいつでも読めるようにしておくから」

 私読むのだけは速いから。その言葉を聞いて、思う。そうか、彼女がいくら本好きだとしても、創作する点においては素人なのだ。

 僕は彼女に尋ねる。確か、『作:水間カオリ』とあの時言っていた。

「飯塚さんには後で話すとして……どういうふうに作る? 三郷さん、文章書いたことはある?」
「いやぁ……実はなくて」
「ブログとかSNSとかは?」
「SNSは投稿の時の本文とかは書くけど、ほんとにちょっとしたコメントくらい……かな。ブログとかはお恥ずかしながら……自分では書いたことない」
「いや、いいんだ。確認してるだけだから」

 だったら構成含め一から僕が書いたほうが早いかも知れない。それに、書く時間もないほど忙しいのだろうということは予想ができていた。

「インタビューとか普段はどうやって答えてる?」
「事前に質問をもらうことも多いけど、私はできる限りその場で考えて答えてる。その方が思ったことを飾ることなく説明できるから」
「分かった」
「なんか、カオリくん仕事できる人みたい」

 彼女がそんな評価を下す。確かに、淡々と、限られた時間で状況を判断し分析するモードに入っているのが自分でも分かった。ショートショートを書いている時と似ている。少しだけ、心地いい。

 ひとまず、彼女が思考をすることに慣れているというのはありがたい。

 まあ、トップレベルの女優である彼女が、思考していないはずがない。話していてもそれは感じる。

 そもそも、思考してない人がこんな依頼をするわけがない。

「エッセイって、経験とその時々の思考を開示するものだと思ってるんだけど、だったら僕はライターとして三郷さんから聞いた話をまとめたらいいかな」
「それだったらどういう流れになる?」
「僕が三郷さんにインタビューしたりしながら、その中から本の中に入れる内容を決める、かな。一冊の本に必要なエピソードの分量はなんとなく分かるから。あとは、どんな章分けで書くかを三郷さんに確認してもらって、問題なかったらそのあと実際に文章を書いていく……っていう感じかな。多少出版社の意向も入ってくるとは思うけど」

 おそらく三郷さん相手だったらその辺は大丈夫だろう。彼女の影響力だったら基本的に自由にやらせてもらえるはずだ。

「慣れてないから曖昧な部分もあると思うけどそんな感じかな」
「うん、それでお願いします」

 三郷さんは、僕の説明を聞き終えると即時頷いた。投げやりとかではない。納得した上での肯定に感じた。おそらく、タイミングを逃さないためだろう。

 こんなところからも、彼女の想いと覚悟が伝わってくる。

 僕は気を引き締める。もう取材は始まっているのだ。

「分かった。じゃあ、これからよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
「まずは」

 僕は立ち上がる。

「飯塚さんに話に行こう」

 その提案に、三郷さんは荷物をまとめ始める。僕たちは大学に入学して初めて一緒に下校する。

 帰りに直接出版社に寄ると、飯塚さんは、一も二もなく僕が依頼を受けることを承諾してくれた。

 作らねばならない小説のプロットは残っているのに、出版社としては、こちらの方が優先度が高いようだ。

「これ書き終わったら、次は水間さんの小説ですからね」

 担当編集者として何を思っているか分からないが、飯塚さんは僕にそんな言葉をかけた。その言葉に、ほんの少しだけ心が救われた気になる。やはり、飯塚さんには敵わない。

 気づけば、売れない小説家の僕が、彼女が死ぬまでの四ヶ月間、犬尾三郷のライターになることが決定していた。もっと、早ければ。





 雑誌撮影の仕事があるということで、三郷さんと解散した後、帰り道にある本屋に立ち寄る。

 いつもよりスムーズに開いた本屋の扉に迎えられ入店したのち、店内を見回す。エッセイが並べられている本棚は書店の右奥にあった。

 見ると、そこにはさまざまな有名人のエッセイが並んでいた。俳優、モデル、スポーツ選手、画家、経営者、映画監督。適当に数冊棚から抜き出しレジへと向かう。

 領収書をもらった後袋を抱えて家に帰り、買ってきたそれらを読み漁る。選んだ基準は、僕の知らない人たちのエッセイということだけだ。

 それらの中には、感じたこと、経験したこと、考えたことを赤裸々に綴られている。パーソナリティが前面に出ていて、その有名人たちが持っている価値観が静かに心に染み込んでくる。ああ、この人たちはこんなことを思いながら生きているんだと、その文章が教えてくれる。

 今までエッセイを読んだことはなかったが、これはなかなか面白い。トップレベルで戦っている有名人たちは、それぞれ色はあれど、似たような思考を持っていることが多い。

 成功の仕方はきちんとあって、それをやり続けられるかどうかが成功できるかの鍵だと誰かが言っていた。僕はその言葉を聞いた時、そんなわけないと思っていたが、こうやって並列して有名人の思考を知ると、その言葉が現実味を帯びてくる。

 一方、知らない有名人の中にある共通した思考をそれぞれの本で読んだことがきっかけで、僕は怖いことに気づく。

 同じような内容が書かれていたとしても、使われる表現によって、頭の中に落とし込める内容の精度が違っている。別に、誰の話だからというわけではない。そのために知らない人のエッセイばっかり買ったのだ。

 これは。

 下手したら小説よりも表現力が問われるのではないだろうか。

 有名人が頭の中で漠然と浮かべているものを、丁寧に、正確に、且つ取り繕わずに紡がなくてはならない。

 おそらく多くの読者はその有名人のファンだろう。彼ら彼女らの思考を理解したいという気持ちがある人ばかりがそのエッセイを手に取る。エッセイを買う人は、目的の人物の思考や感情がどんなものであろうと、それを知るために、お金を払うのだ。さっきの僕のような買い方をする人はおそらく稀だろう。

 つまり、その有名人の思いがどんな内容であろうと、文章力が拙く、その考えや思いが伝わらなければ、読者にとっては最悪なエッセイとなってしまう。

 小説の評価としてあるような、話のテーマ性やぶっ飛んだ設定が文章の粗さをカバーしてくれることなんてない。

「まじか。めちゃくちゃ難題だろ……」

 問題は期限だけじゃなかった。

 しかも三郷さんの人気は計り知れない。三郷さんのことを心から知りたいと思っている膨大な人数の読者たちに、正しく彼女の思考を伝えなくてはならない。

 もう、逃げ出したいなどとは思わない。ただ、彼女のエッセイを執筆することのプレッシャーが重く全身にのしかかっているのを確かに感じてしまう。

 僕の文章力で、大丈夫だろうか。

 文章力を上げるための時間なんて残されていない。そんな一朝一夕で身につく物じゃない。

 でも、やるしかない。

 何から始めるべきか。

 そう思った時ちょうど、ポケットの中のスマホが震える。見ると、飯塚さんからの着信だった。良いタイミングだ。

 僕は、絶妙なタイミングで連絡してくれる超敏腕編集者にメッセージを返信した。





 次の日、いつもの打ち合わせ場であるファミレスに行き、開口一番に聞いた。

「僕は何をすれば」

 飯塚さんはその質問に、なぜか嬉しそうに頬を緩めた。

「水間さん」
「はい」
「プレッシャー感じてます?」
「流石に……感じないわけはないですね」
「まあそうですよね。でも大丈夫」

 飯塚さんは、確証を持った様子で言い切る。

「なんでそんなこと言えるんですか」
「水間さんの小説を、私も犬尾さんも大好きだからですよ」

 飯塚さんは編集者だ。担当作家のメンタルコントロールをするのも仕事の一つだろう。でも、その言葉にじわりと心の温度が上がる。

 それに、彼女が小説に関して忖度を一切せず、嘘をつかないことも知っている。

「期待してますよ。それで、すべきことですが、まずは彼女のことを知るのが一番だと思う。犬尾さんの思考を、文章のみで読者に理解してもらうためには、あなたが一番に犬尾さんのことを理解している必要があると思うの」

 僕は頷く。

「ただ、人を理解するっていうのはとてつもなく大変。まして、現実の人間の」
「分かります」

 自分が何を書きたいかさえ、ずっと分からなかったのだ。自分のことさえ分かってない僕が、人のことを理解しないといけない。

「だから、なるべく彼女と一緒に過ごしてください」

 新人賞を受賞した後、出版のために膨大な量の修正指示を出された時みたいだ。飯塚さんの力強さを改めて感じる。

「彼女のことを、学んで、理解し、彼女の考えや想いを心から愛してください」

 それが納得できることでも、できない事だとしても。そう言い切る飯塚さんの表情は、いつもと同じく淡々としていて、だが僕にとってはそれがありがたかった。

「キャラを理解し尽くすことは、あなたの生業でしょ?」

 生業……。

 僕の思考は間違っていない。

「面白い文章が出来上がるの、楽しみにしてますよ」

 やるべきことはたくさんある。彼女が出ている映画も、まだまだたくさんある。僕は家に帰り、すぐに彼女の出ている作品を片っ端から観なおすことにした。





 彼女の弱みも、想いも知った。

 けどやはり、犬尾三郷という人物は化け物だ。

 演技に関して全くの素人である僕でさえ、彼女の演技の繊細さには圧倒される。

 彼女が主演をしている映画『最後の恋文』の中に、十年間つき続けていた嘘を吐露するシーンがあった。ずっと好きだった先輩に嘘がばれ、問い詰められている彼女の表情を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。

 長年の嘘がばれた瞬間の驚きと絶望が、彼女が漏らした声と目の動き、そして口の形で表現されていた。そして、唾さえ飲み込めないほど喉が詰まっている緊張感を首と喉の動きが表す。その後、誤魔化すように声を出した時の薄さに、彼女の先輩に対する恋心が詰まっていて、観ているこっちまで胸がつっかえて苦しくえる。さらに、そのシーンはおそらく表情の変化のスピードをわざと抑えているのだろう。観ている人たちの中にある似た経験を思い起こす余白も作ってくれている。事実、僕だって頭の奥底にあるタンスにしまっていた、忘れたはずの嘘が顔を覗かせるのを感じていた。そのおかげで、よりキャラクターの感情に入り込める。

 なんだこれは。彼女の演技の迫真さに、ある種の怖ささえ感じてしまう。

 その演技を見て、小説と似ていると思った。

 僕は小説の魅力の一つに、余白というものがあると思っている。

 正しく描写しつつも、読者が自らの経験から似た経験を掬い上げるための余地を残した作品をいつも目指している。それと同じかもしれない。

 三郷さんの全身を使った感情の表現は名だたる俳優たちの中でも群を抜いていた。

 みんな彼女のこの演技に魅了されているのか。

 僕は思わず身震いしてしまう。これだけの表現力の奥に潜む彼女の思考を、僕は言葉のみで表現しなくてはならない。

 聞きたい。この表現力はどこから生まれているのか。

 書かなくては、よりも、聞かなくては、の意識で頭がいっぱいになる。

 彼女の出ている映画を見ているだけで、彼女を理解なんてできるわけがない。僕はおもむろにスマホを取り出し、三郷さんへメッセージ文を入力する、が、送信ボタンを押す前に手を止め、画面を切り替えた。そして通話開始のボタンをタップする。はやる気持ちを抑えられなかった。

 彼女は数コールで電話に出た。今この瞬間でさえ、彼女が何を考えているのか教えて欲しかった。





 映画館の中で一番大きなスクリーンを目の前に、僕は座っていた。

 公開予定映画の広告を見ていると、画面が急に真っ赤に染まる。そして、画面の下から鴉のシルエットが数十羽飛び上がっていく。

 見た瞬間、全身をさざなみが駆け抜けた。

 ユタカの処女作『紅いカラス』の映画予告だ。

 ついに。

 写真に収めてユタカに見せよう、と、思わずスマホに手を伸ばす。電源をつけ、画面をタップしカメラアプリを起動した時に気づく。心の中に、その気持ちを確かに見つける。

 スマホを握る手に力が入っている。なぜか震えている。僕はもう片方の指で、電源ボタンを長押しし、スマホの電源を落とした。

 そして、そのわけの分からない気持ちを見つめている間に『紅いカラス』の予告が終わってしまう。

 電源を切ったのは、ふと思いついた行為が違法だからじゃない。

 もちろん撮影なんかしてはいけないはずだ。いや、ふと考えてしまったが、どちらにせよ自分を諌めて写真は撮らなかった。

 けど、今撮らなかった理由は違う。悔しさに気づいたからだ。

 電源を切った後も、手に跡がつくほどスマホを握ってしまっている。胸の上側が詰まるような気持ちが、徐々に膨れてくる。なんだこれ。

 そんな内省から僕を解き放ってくれたのは、静かに現れた三郷さんだ。

「お待たせ……どうしたのそんな思い詰めた顔で」

 彼女の透き通る声のおかげで、僕は膨らんだ気持ちを一旦しまうことができた。

「いいや、大丈夫」

 心を落ち着け、小さな声をかけてくれた三郷さんを見る。

 彼女の今日の服装は、丈の短い白Tシャツと、裾が広がったデニムのパンツだった。僕が似たような格好をしても無難、としか思われないだろうが、スタイルの良い彼女はまるで雑誌の表紙から出て来たようだった。髪をポニーテールでまとめており、こぶしのように小さな顔が一際目立って見えた。

 とはいえ、誰も近くで有名人が映画を観ているなんて思わない。知っている僕からすると明らかに輝いて見える彼女が入って来たことに気づいた鑑賞客は一人もいなかった。

 三郷さんと横に並んで映画を観ているという状況は、まるで映画館デートにも感じなくはないが、隣に座っているのは余命四ヶ月で、僕のビジネスパートナーだ。

 これから鑑賞するのは、『盲目のルーク』という彼女の出演する映画だった。

 交通事故で目が見えなくなった美人チェスプレイヤーが、世界大会に挑む話だ。

「目が見えなくたって、頭の中に全ての情報が詰まってるから何も問題ない」そんな強い言葉を口に出しながらも胸の中では計り知れないプレッシャーを抱えている主人公が、そのプレッシャーを唯一理解してくれる男性ヒロインのおかげで、強いプレーヤーとの試合に勝ち進んでいく。そんな内容だった。

 映画のヒロインの境遇が、余命の限られた三郷さんに重なり、僕は映画を観ながら内心ひやひやしていた。

 この映画を撮影したときは、彼女は何を考えながら演じていたのだろうか。涙が出るほどの重圧を背負っている彼女は、この映画を今どんな気持ちで観ているのだろうか。

 そして、彼女が背負っているものを知っている僕は、彼女に対して何を与えられるだろうか。

 映画を観終わった時、僕の中で一段、ギアが上がった感覚がした。

 やらねばならない。中途半端な気持ちなんか最初からなかったつもりだけど、彼女の重圧を考えたら、より一層気を引き締めなくてはならない。人々に忘れられないという大きな夢と、寿命という抗えない負担を抱えた彼女のために、僕ができることは一つしかない。

 彼女が世界から忘れられないための、彼女の最初で最後のエッセイを書き切ることだ。

 一つずつ積み重ねていくしかない。まずは、キャラクターの理解だ。聞かなければならないことは沢山ある。

 彼女は観客がはけるまで館内にいた。帰る人の表情を見たいらしい。その後、僕たちは映画館を出て、近くの建物内にある会員制の岩盤浴施設へと向かった。

 映画館では沢山の人がいたのに、限られた人しか利用できないだけあって施設内にはほとんど人がいなかった。入店してすぐ、仰々しく挨拶をしに来てくれたスタッフの方に案内されて僕たちは更衣室へと向かう。

 館内着に着替えて奥へと進むと、そこには素敵な景色が広がっていた。

 有名な建築家がデザインしたというその内装を見ていると、西洋に来たかのように思ってしまう。内壁はレンガで覆われており、大理石でできた光沢のある床は天井に吊り下げられたシャンデリアの暖かい光を反射していた。僕たちは素足で温かい床の上をぺたぺた歩いていく。

「よく来るの?」
「そうね。私がオーナーだから」

 僕が聞くと、規格外の返答をされるが、もはや驚きはない。ただ、ああそこまでなのか、と思った。CMだって、好きが昂じて、なのかもしれない。

 納得する。だからあのスタッフの仰々しさか。

「カオリくんは? こういうところ来ることある?」
「実は、岩盤浴来たの初めてなんだ」

 僕の発言に、彼女は大きな目をさらに開き、驚きと喜びが混じったようなずるい表情を見せる。

「ほんと! じゃあ一旦岩盤浴入ろうよ。取材にもなるでしょ」

 僕は周りを見渡す。先ほどこの豪華な内装を見て、岩盤浴はここまで凝った物なのか、と思ったが、おそらくこの場所が豪華な岩盤浴なのだろうと理解する。

「ぜひに」

 木の扉を開けて部屋に入ると、全身体をもってりとした湿気が取り囲む。柑橘系のような香りが温かい空気に混じって鼻の奥へと染み込んでくる。

 そして、後ろ手に扉を閉めた瞬間、部屋の中の音が切り離されたように感じた。僕たちが発する音が、部屋の隅々に吸い込まれているみたいだ。

 心が、曝け出されるような。

「なんだか、静けさが聞こえてくる気がするんだよね」

 僕が耳に意識を集中していると、隣にいた三郷さんがふと呟いた。

「何そのお洒落なワードチョイス」
「私が岩盤浴を好きな理由」

 静けさに向けていた耳を、彼女の言葉に傾ける。

「一番最初ね、雑誌撮影の後、先輩モデルに連れてきてもらったんだけど、その時に思ったの。なんか、教会みたいだなって」
「教会?」
「教会ってなんだか静謐な感じするじゃない。昔撮影でフランスに行った時に入った教会が、こんな静けさだった」
「その静けさがいいの?」

 オーナーになるほどだ、相当な思い入れがあるということなのだろう。

「うーん、静けさ自体も好きなんだけど、この感じって、台本読みながら映像を想像する時の感じに似てる気がするの。静かで少し暗い場所に感覚を持って行って、その中で映画みたいに動きを想像する」

 僕にも似たような経験がある。幽体離脱した体が戻るような感覚で、キャラの中にどっぷりと浸かり、その視点で見えているものを描写する感じだ。それと似たようなものだろうか。

「だから考え事するときは岩盤浴って決めてるの」
 その言葉で、エッセイの一つのトピックが決まる。
「座りましょ」

 室内も内装は凝っていた。室内はほんのりと朱色が混ざった光に包まれており、壁際には表面がまだら模様の石でできた直方体の椅子が設置されていた。僕たちは椅子の上にバスタオルを敷き、並んで座る。

「この椅子はね、御影石って言うの」

 彼女が光沢のある座面を撫でながら呟く。

「あそこの床とはまた違う?」

 扉の向こう、入る前にいた空間を指差し、僕は聞く。すると、彼女は不思議そうな目でこちらを見ていた。

「よく気づいたね、さすが小説家。ちゃんと観察してる」
「取材ですので」

 僕がおどけると、三郷さんは目尻を下げる。

「どう感じた?」
「色が結構違う……」

 先ほどのおそらく大理石、は淡いクリーム色だったが、この部屋にあるのはもう少しベージュ寄りの色味になっている気がする。照明自体も赤っぽいが、そもそもの石自体も、おそらく少し赤い。

「そうなの。部屋の光に合わせて使う石を調整してるの。ここで使ってるのは御影石で、正式には花崗岩って言うんだけど……小学校の時の理科の授業で聞いたことない?」

 僕は過去の記憶を遡る。

「ある、なんか深さによって、みたいなんだっけ」
「そう、花崗岩は地下奥深くでゆっくりと時間をかけてマグマが固まった物なの。何年もかけて作られた……それこそ私たちの寿命くらいじゃ到底叶わないほどの時間をかけて出来上がったものを使っているの」

 彼女は噛み締めるように言う。

「建築家の方と内装デザインを考えたときに、私がお願いしたの。何万年もかけて作り上げられたものの力を借りたら、少しでも記憶に残る空間になるかなって」

 こんなところでも、彼女の思いが伝わってくる。

「素敵な空間だと思う」

 三郷さんは、少しはにかんで「ありがとう」と呟き、切り替えたように僕の目を見る。その優しい目線に、心が、炭酸が弾けたみたいな熱を持つ。

「さて、私は何を話せば良いかな」

 彼女には改めて取材をさせて欲しいと頼んでいた。

 すでに彼女からはたくさん話を聞かせてもらっているが、一つ訊いておかねばならないことがあった。

「じゃあ、訊かせてもらってもいい?」
「なんでも」

 そう言われても、質問しづらいことではある。

「じゃあ……その……前教えてくれた寿命っていうのは、何かの病気、とか?」

 死ぬ、というワードを口にするのが憚られ、少しだけ濁して訊く。

「ああ、そうね。話しておいた方がいいわね」

 彼女はまた、受け入れ切ったみたいに言う。

「病気――とかではないの」

 やってはいけないことをしてしまったの――と、彼女はそう切り出した。

「芸能活動を始めてから二年後、初めてドラマの名前のある役をもらったの。それまでは名前がない役しかもらえなかったから、めちゃくちゃ嬉しかった。二年間毎日のように演技の練習をし続けてきて、やっとその努力が身を結んだんだって」

 彼女が芸能活動を開始したのは、高校卒業前あたりだ。
 ちょうど彼女の言う二年の間に、僕の処女作が売り出されている。

「何回もオーデイションを受けては落ち受けては落ち、その繰り返しだったから本当に嬉しかったの」

 売れ始めるまでの二年間というのが、一般的に見て長いかどうかは分からない。けど三郷さんにも苦しい時間があったのだ。いつだって取り上げられるのは成功した部分だけだ。

「それこそ、カオリくんの小説に励まされながらドラマの撮影を終えて、両親と焼肉に行ったの。お祝いに。家に帰って興奮して寝るにも寝れず、ベッドの上でぼうっとしていた時にあいつは現れたの」

 丁寧な言葉を使う彼女が、あいつと言うワードを使うことに引っかかる。

「だれ?」
「一番最初カオリくんと会った時、奇しくも君が言ってたでしょ」

 コインランドリーでの会話を思い出す。そんな話しただろうか。

「悪魔の話」
「ああ、したね」

 確かにした。あの時は三郷さんに何かを言わなければと思い、よく分からないことを口走った。あの瞬間の焦りを思い出す。

「それよ」
「ん?」
「その悪魔に出会ったの」
「……へ?」

 開いた口が変な形のまま閉じなくなる。

「悪魔は私の枕元に現れて、こう言ったの――あなたの夢を叶えて差し上げますよ、って。いくらやっと役をもらえたとはいえ、不安はずっとあった。このドラマの人気が出なかったら、とか、私の演技が酷評されてしまったらどうしよう、とか。そんな時に悪魔が現れた」

 そんな悪魔、本当にいるのか。背中を撫で上げられるような気持ち悪さを覚える。

 大学の飲み会での馬鹿みたいな戯言だったはずだ。

 目眩を感じ、僕は一度壁に肩をつけて深呼吸する。

 あの話、現実にあるのか。

 彼女の目を見ると、彼女は寿命のことを打ち明けた時と同じ、真剣な眼差しでこちらを見ていた。

 ああ、この話も本当なんだと理解する。

「冗談……なわけないよね」

 僕は頭を抱える。事実は小説より奇なり、すぎるだろ。

 諦めて、続きを促す。

「……対価は?」

 ただ夢を叶えてくれるなら悪魔じゃない。悪魔と言われるにはちゃんと理由がある。いつかの記憶を頼りに、僕は頭を抱えたまま彼女に訊いた。答えは分かっていた。が、信じたくなくて確認する。

「それが、命」

 居酒屋でのクラス会で聞いたことのある話と全く同じだった。僕はため息を漏らす。

「どういう条件だったの」
「あいつが提示してきたのは『そのドラマが大ヒットし、私が人気になること』の代わりに『私の寿命が残り五年になること』その二つをトレードする契約を要求してきたの」

 いくら人気になるとはいえ、余命が五年になってしまうなんてレートがおかしいじゃないか、とは言えないかもしれない。それまで二年間、役さえもらえなかった彼女からすると、有名女優の仲間入りをし、多くのドラマや映画に出演する切符がもらえることの価値は計り知れないだろう。

「その時の私は焦っていた。もしかしたらまた何者でもない時間に戻ってしまうのではないか、そう思って、不安で仕方がなかったの。デビュー作の撮影までの間もさまざまなオーディションを受けていたの。けど実際、その後のオーディションは立て続けに落ちてしまっていた」

 売れ始めるまでの二年間、とさっき思ったが、そうとは限らない。確かに、ドラマがヒットしたって、そこから順調に人気が出るかも分からないし、下手をすると、そのドラマが失敗して女優の道が失われる可能性だってある。

「だから、悩みに悩んだ末、契約してしまったの」

 彼女は、歯を食いしばる。その表情から彼女の心の中に残る後悔とやるせなさが伝わってくる。

 その悪魔というのは一番ずるいタイミングで出てきている。ドラマの評価が出はじめてもいない時点で現れ、トレードを提案してくるなんて。しかも、五年か。絶妙だ。一年だったら彼女も契約を受け入れていないかもしれない。

 ああ、そうか。彼女がエッセイを書く期限を四ヶ月と言っていた時、少しだけ違和感は持っていた。そんなピンポイントで寿命が分かるだろうかと。

 契約だから、いつ死ぬかを把握していたということだったのか。

「確認させて。ねえ、カオリくんは実際、あの悪魔に会ったわけじゃないんだよね?」

 コインランドリーで初めて三郷さんと会った時の謎が一つ解ける。

 あの時、彼女が大真面目な表情で聞いたのは、実際彼女が悪魔に会ったことがあるからなのか。

 僕は首を振る。

「会ってないよ」

 そう言うと、三郷さんは大きくため息をつき、安堵の表情を浮かべる。

「よかった。正直心配だったの。もしかしたら私と同じかと思って」

 もし僕が悪魔と会って契約していたなら、もっと小説が売れ、一つだけなんかじゃなく、もっと多くのファンレターが届き、すぐにでも映像化されているだろう。

 彼女は安堵の表情を浮かべる。その優しさに触れ、僕は思う。

 むしろ、僕にとってはこのエッセイを書くという機会が、悪魔から提示される夢の中の一つみたいなものだ。僕は、ノーリスクで三郷さんからチャンスを与えられている。

 だからこそ僕は、可能な限り彼女を支えなければならない。契約をしてしまった彼女が世間から忘れられないように、全てを注ぎ込まねばならない。自分のことよりも僕のことを心配したような彼女のために。

「一応聞くけど……寿命を取り戻すことはできないの?」

 彼女は、無念そうに首を横にふる。

「悪魔が言ってた。契約できるのは一回きりなんだって」
「そうか……」
「え、契約しちゃった……とかじゃないよね? カオリくん」

 僕の嘆息を別の意味で捉えたらしく、三郷さんは心配そうに眉を歪める。

「ううん、僕は大丈夫だから」

 そんな彼女のために、僕は今できることを考える。

 出版社で話した時、彼女は言っていた。辻褄が合わないと。

 確かにそうだ。彼女の数十年の命を奪ったのだから、よっぽどの対価がないと割に合わない。

「忘れられないように、絶対にいいエッセイ作らないと」

 彼女は僕のその言葉に驚いたように目を瞠り、小さな声でお礼を言った。

「あの時――悪魔の話された時ね、運命だと思ったの。コインランドリーに入ってきた人が座って読み出した本が大好きな『うさぎ階段』だってことには気づいていたんだけど、まさかその人が、その本の作者だったなんて、びっくりしたの。もしあの時話せていなかったら、このエッセイもお願いできていないかもしれない。そう考えたら、今の私は本当に恵まれてる。話しかけてくれてよかった」

 一拍、間が空く。

「カオリくん、まだこれから大変になるかもしれないけれど、依頼、受けてくれてありがとうね」

 そんなふうに、真っ直ぐに想いを伝えられて、僕はどんな顔をしていたのだろう。変な顔をしてしまっていた気がする。胸の温度が上がった時にポーカーフェイスを貫けるほど演技力を鍛えていない僕の気持ちは、目の前でこちらを見つめている三郷さんには伝わってしまっているかもしれない。

「ううん」

 でも、そんな僕でも、伝えられる範囲の感情を言語化することだけは鍛えてきたからこそ、素直に言おうと思った。

「お礼を言うのは僕の方だ」

 彼女が僕の目を見る。

「正直、最近ずっとめちゃくちゃきつかったんだ。書きたいものが見つからなくて、自作のプロットが全く書けず苦しかった。処女作から刊行数は減る一方で、もうだめかもしれないってずっと不安だったんだ」

 今だって、別に自分の小説のプロットが進んでいるわけではない。

 けど、三郷さんに会うまでは小説に対するモチベーションさえも下がってしまっていた。飯塚さんとの打ち合わせで、情けないことだって口走っていたほどだ。毎日毎日、考えても納得のいくプロットができず、出版した小説の人気はなく、毎日苦しい夢を見ていた。

 だけど、今は違う。彼女に出会えて、書く意味を見つけられた。

「でも最近は……前向きに書くことに向き合えてる気がするんだ」

 めちゃくちゃ自信があって賞まで取れた単行本が思った以上に売れず、同時期に受賞したユタカの小説だけが売れる。彼の新作が平積みになっているのを見て、映画化が決定したという帯やポップを見るたびに、どうしようもないほど苛立った。いくら友達として彼の成功を喜んでいたとはいえ、ずっと胸が苦しかった。……いや。

 違う。悔しくなかったんだ。

 自分がしたいことを叶えているユタカを見ても、悔しくなかった。だから彼の小説を写真におさめ、彼に見せたりなんかしたのだ。

 ライバルの成功を喜べる方がいい、なんて綺麗事は知らない。悔しまないということは、はなから諦めていたということだ。

 けど、さっき映画館で気づいた。彼に負けない作品を作ろうと思えたのだ。

 素晴らしい作品を作りたいと、他意なく思った。

「三郷さんに会って、本を書きたいと心から思えたんだ。だから、お礼を言うのは僕の方だ。ありがとう、これから」

 四ヶ月か。

 彼女に言われた。ビジネスパートナーだ。僕はこれから四ヶ月間、彼女の横に立って、彼女を世間から忘れさせないために、エッセイを書いていく。

 忘れられない作品を作る、その意志を目の前にいる犬尾三郷に伝える。

「改めて。これからよろしくお願いします」