次の授業に、綺紗羅は姿を見せなかった。
 蔵人は、かなりの後ろめたさに襲われていた。
 確かに自分は、味方のユニフォームに向かって球を投げた。
 試合の最中は、そう思っていたけれど。
 今になって冷静に思い返すと、あの時に綺紗羅の顔も視界に入っていて、無意識のうちに今朝の一件を思い出し、腹立たしさに顔に向かってボールを投げたのではないか? と考えてしまうのだ。
 一方で、確かに見ていたのはユニフォームだけで、しかも自分は味方の胸元目掛けてボールを投げ、綺紗羅がそれを顔面で受け止めたのは、むしろ綺紗羅の自爆だったのでは? と、自己弁護をする。
 ヒタヒタと押し寄せる後ろめたさと、それを否定して(おのれ)を正当化しようとする心の葛藤に、教諭の声など耳に入らず、午後の授業はほぼ上の空だった。

 チャイムが鳴り、教諭が教室が出ていったことで、授業が終わる。
 教室内の生徒たちはそれぞれに帰宅や部活の準備を済ませ、三々五々と教室が出て行く。
 気もそぞろだった蔵人は、皆に遅れて教科書をカバンに押し込み始めた。

「周防」

 掛けられた声に、ハッと顔を上げる。
 そこには、綺紗羅が立っていた。
 赤く擦りむけていた鼻柱に、端正な顔に全く似合わない絆創膏が貼られており、その目は蔵人を責めているように見えた。
 思わず綺紗羅から視線を外し、身構えて蔵人は喧嘩口調で答えた。

「なんだよ!」
「キミは周囲が称賛するほど、上手くはないのだな」
「なんだって?」
「だってそうだろう。相手の顔面にボールを投げつけるのは、コントロールがよほど悪くなければ…」
「そっちがぼーっとしてて、球を受け取りそこなっただけだろう!」
「だが、プレイが上手い(もの)は、下手な(もの)が構えただけで、手元で受け取れるボールが投げられるものではないのか? 言っておくが、私は初心者程度の技能しか持っていない」
「悪かったな! ヘタクソで!」
「悪いと思ってるなら、私が出られなかった授業のノートを貸してくれ」

 なんとも意外な答えに、蔵人は思わず綺紗羅を見た。
 こちらを見る綺紗羅の顔は、何を考えているのか判らない仏頂面のままだ。
 その無表情に圧を感じて、気付いたらカバンからノートを取り出し差し出していた。

「ありがとう」

 ノートを受け取った綺紗羅は、そのまま自分の席に座ると、自分のノートを取り出し写し始める。
 その様子に、なんだか不合理を感じてしまった。

「なっ、なんで俺が…」

 蔵人の抗議に、綺紗羅は黙って自分の顔の絆創膏を指差す。

「悪かったな。自慢の顔にキズつけて!」
「自慢ではないぞっ!」

 突然、綺紗羅は大声を出した。
 それまでの、クラスメイトとほとんど口を利きもしなかった綺紗羅からは、およそ想像出来ないその態度に、蔵人は思わず怯む。

「…何、…ムキんなってんだよ」
「自慢ではないんだ!」

 今まで全く感情を見せなかった美貌は、ただ人形のような能面にしか見えていなかったが。
 激昂すると、白い顔が(まさ)に赤鬼とばかりに赤く染まり、見開いて力がこもった青い瞳が、並ならぬ気迫を持って迫ってくる。
 思わず後ろに下がろうとして、蔵人は椅子から落ちそうになった。

「解ったから…、それ以上こっちにこないでくれ」

 綺紗羅は、蔵人の中途半端な姿勢に気付いたようにハッとして、身を引いた。

「取り乱して、すまない」
「いや、俺も、なんか…ごめん」

 前髪をボサボサに垂らして、わざと他人から顔が見えないようにしている程度に、どうやら "顔" が綺紗羅の地雷のキーワードなんだろうと、蔵人は察しをつけた。

『一体…なんなんだ、コイツ…?』

 蔵人は、綺紗羅に聞こえないようにため息を()く。
 それからふと、自分が職員室に呼び出しをされていたことを思い出した。

「…あのさ…」

 なんとも気まずい空気の中、蔵人は思い切って口を開いた。
 綺紗羅は振り向き、髪の毛の隙間から蔵人を見る。

「ノート、明日返してくれ。俺は職員室に呼び出しされてるけど、いつ戻るかわかんねぇから」

 綺紗羅は少し考えてから、頷いた。