やらかしたと思うのと手が出るのは、だいたいいつも同じタイミングだ。
 骨の軋む音が聞こえて、深く息を吐き出す。足元に転がったそいつを見て、またふつふつと腹の中で湧くのは名前の知らない感情だけだ。
 孤独に近いようか、寂しさに近いような。怒りにも似ているかもしれないそれは、ずっとオレの腹で居座っている。
「二度と、オレに構うな」
 きっと、この言葉も聞こえていない。
 地を這うような声も、なにもかも。結局オレの生きる世界なんて同じなんだ。
 そう思っていたのに、ふと浮かんだのはあいつの顔で。
 少しだけ、胸の奥が痛む気がした。
「……本当にオレ、どうしちまったんだろうな」

 ***

「直くん、口に合うだろうか」
 悠真の言葉に、意識を戻す。
 まだ、あの骨が軋む感覚は手に残っている。そのはずなのに今あるのは空の梱包の袋で、まるで世界がなにもかも変わったかのように思える。あれだけ人を殴ったはずの手が、今は悠真からの優しさに包まれている。居心地はいいはずなのに、言葉にできない罪悪感が顔を覗かせた。
「……直くん?」
「悪い、考え事してた。これすげえ美味いよ」
 ありがとうなと返すと、それだけで悠真も嬉しそうに笑う。それがなんだかオレも嬉しくなって、また箱の中に並んでいるお菓子へ手を伸ばした。
「ここのお菓子、どれも美味いよな。オレ好きなんだよ」
 一度、家の常連さんがくれたフィナンシェ。確かそれも同じ店のものだったはずで、一口噛んだ瞬間溢れるようなバターの香りとカリッとした食感は今でも忘れられない味だ。
 遠い記憶にある味を思い出しながらまたそれに手をつけると、レーズンやドライフルーツの香りが鼻を抜けていく。さっきまで別のものを食べていたのに、つくづく自分の腹の底なし具合には驚く。
「ん、美味い」
 小さく頷いて、数口でなくなる。寿命数十秒のお菓子が名残惜しくまた手を伸ばそうとして、悠真の視線に気づいた。
「……どうした?」
「いいや、やはり直くんがなにかを食べているのを見る事が、好きだなと思っただけだ」
 悠真は相変わらず、じっとオレの事を見ている。
 本当になにが面白いのかわからないが、それでもこいつがいいならオレもそれでいいと思えた。
 わかっている、オレが変わってきている事が。
 オレが、こいつに心を許し始めているって。
 けれどもそれを言葉にするのはなんだか癪だったから、言ってやるつもりはない。むしろ悠真もそれで満足しているらしくて、だからこそ気まずいという感覚はあまりなかった。
「あれ」
 悠真がなにかに気づいたように、手を伸ばしてくる。
「……直くん、この怪我は」
「あっ……なんでもねえよ、少し転けただけだ」
 ここにくる前の、あの時のもの。
 それはすぐにわかったが、正直に言うのはなんだかはばかられた。上手く隠したつもりだったがだめだったようで、悠真は少しだけ苦しそうな顔をする。
「……本当か?」
「本当だって」
 また、小さな嘘をついた。
 今までと同じはずなのにまた胸の奥が苦しくなって、それだけで顔をしかめる。本当に、らしくない。こんな嘘、いつもと変わらないのに。
「なら、いいのだが」
 少し歯切れは悪かったが、悠真もオレの言葉を信じたらしい。またチクリと胸の奥が痛くなったが気づかないふりをして、フルーツケーキを口へ運ぶ。
「……ん?」
「直くん?」
「誰かくる」
 半地下になっている調理実習室は、本来階段の音がよく聞こえる。悠真はあの時慎重に歩いていたのかまったく聞こえなかったが、普通に階段をおりるだけでもかなり大きい音になるはずだった。
 そして、今も。ドタドタと一段飛ばしだろう音はこちらに近づいてきて、ドアの方へ目を向けるのとそれが開け放たれるのはほぼ同時の事だった。
「スナ~! 差し入れだぞ……って、あれ?」
「げ……」
 喉の奥から、潰れたような声が漏れ出る。
 それは突然襲来した存在が大きく、ついあからさまに顔を歪めた。
「珍しい、先客がいる」
「おい、ノックくらいしろ。あとさっさと閉めろ」
 後ろで全開になっているドアを閉めさせて、肩を落とす。横からガタと音がしたと思えば、こっちは悠真がなにやら立ち上がっていた。
「お、俺達はなにもしていません!」
「おい、悠真?」
 慌てたようにオレを隠す悠真の行動が最初理解できなかったが、しばらく考えたところでオレの手の中にあるそれに気づく。
 コンビニで買ってきたベルギーワッフルと、悠真が持ってきたフルーツケーキ。それを手に持ったオレとゴミをどうやらこいつは隠しているようで、嘘がつけない癖に必死な顔でごまかしていた。
「あー、なるほどな……」
 理解して、状況を見る。
 ぷるぷると震える悠真はなんだか可愛くすら思えて、愛おしいと思えた。
「ふふ、ふは!」
「す、直くん……?」
 あまりに危機迫ったそれに我慢ができず、ついには笑ってしまう。そんなオレの行動に二人は首をかしげていて、初対面のはずなのに動きが同じだからそれも輪をかけて面白く見えてしまった。
「ありがとな悠真、けどこいつには隠さなくて大丈夫だ」
「俺と直くんはただ……え?」
 手招きをすると、そいつはオレと悠真に近づいてくる。
「紹介するよ、こいつはシュウ。オレの顔馴染みだ」
「顔馴染みなんて、幼稚園からの幼なじみと言ってくれてもいいだろ」
「誰がお前なんかと幼なじみだよ」
 そこまでは親しくないと言えば、シュウは少しだけ残念そうにしつつ悠真に視線を移す。どうやら、興味の対象は完全に移ったらしい。
「初めまして、俺は三年普通コースの菊池秀哉(きくちしゅうや)だ。気軽にシュウって呼んでくれればいい」
 軽く名乗ったシュウは、物珍しそうに悠真を観察する。それは悠真もわかっているようで、少し警戒しつつも小さく頭を下げた。
「二年特進コース、笹川悠真と言います」
「特進コース……スナ、どこでこんな優良物件捕まえてきたんだ?」
「悠真を物件扱いするな」
 ぶっきらぼうに言葉を返してもシュウは気にしていない様子で、楽しそうに笑っていた。
「にしても意外だな、スナがこんな真面目くんと仲良くするなんて……それに、あれだけバレたくないって言っていた甘いものも平然と食べている」
「なんだよ、悪いか」
 正直、バレたのは事故に近いと思うけど。
 そんな事知る余地もないシュウは、感心したようにじっとオレと悠真の事を観察している。
「……いや、嬉しいと思っただけだよ」
 なにが嬉しいのかは、教えてくれなかった。
 ただシュウは本当に嬉しそうに笑うと、フルーツケーキの残骸をじっと見ている。
「あれ、これは?」
「それは、俺の家に残っていたフルーツケーキです。あいにく甘いものが得意ではないので、直くんにあげていて」
「え、スナ人からもらったお菓子食べてるのかよ」
 驚いたように声を張り、オレを睨む。
「す、スナ最近俺のあげるお菓子は食べてくれないのに……!」
「いや、元々シュウのはオレの口に合わないのが多いんだよ」
 クリーム系が好きだと知っているはずなのに、こいつは大真面目にアラレとかおはぎを持ってくる。あとはそう、変わり種のグミとか。嫌いなわけではないけど、これを一日複数回持ってこられる事もあるとさすがに飽きてしまう。
「……ユウくんだったね、今から俺のライバルに認めてあげるよ」
「いやそういうのはいいって」
「あ、ありがとうございます!」
「悠真も真に受けんな」
 天然ド真面目な悠真だ、シュウの話をすべて信じてしまいそうで心配になる。気取られないように二人の間に入ると、好奇心旺盛にシュウの方から顔を近づけてきた。
「で、どこで知り合ったの」
「……ここだよ」
「……え、調理実習室?」
 不思議そうに、目を丸くした。
「色々あったんだよ……いいだろ、別に」
「いや、いいのはそうだけど……」
 とりあえず、一から説明をするのはなんだか嫌だった。シュウにそれ以上は話さず目を伏せると、シュウも思う事があったらしい。なにかに気づいたように、表情を柔らかくする。
「ふふ、本当にユウくんはスナにとって大切な存在なんだね」
「は、なにが」
「スナ、気づいてないのか? ……お前、だいぶん目が優しくなってる」
「は……?」
「彼に絆されでもしたか?」
 確信をつく言葉に、つい顔をしかめた。
 絆されたなんて、そんな。
 頭ではそんな事ないと考えているのに、それを言葉にするのはなぜだかできなかった。いつも通り適当に言えばいいのに、それをオレの中でなにかが拒んでいる。
『直くんは嘘つきでも悪い人でもない』
 あの時向けられた言葉が、反響する。それに嘘がないのは、もちろん知っていた。
「……そうかも、しれねえ」
「……へえ」
 オレではなくシュウが自分の事のように嬉しく笑い、悠真を見る。なにかを企んでいるようで止めようとしたが、それよりも先にユウくん、と名前を呼んだ。
「よかったねユウくん、君が思っている以上にスナはユウくんに骨抜きだよ」
「おいシュウ!」
 本当にこいつ、昔から余計な事を!
「骨抜き、それはとても光栄な事です」
「悠真、しばらく経っていじられるのはオレだからなにも言うな」
 昔からシュウはそういう奴だ、だからと止めた言葉も後の祭りとかで、シュウは気にする事なく話を続ける。悠真も悠真で生来クソ真面目な面を発揮して耳を傾けている。
「けどユウくん、こんな奴と一緒にいて楽しいか? なにかいじめられているとかではないよな?」
「おい、シュウ」
 いい加減にしろよこいつ。
 調子に乗り始めているそれを止めようとしたが、それよりも先に悠真の声が聞こえる。そうですね、と紡がれた言葉はやけに嬉しそうだ。
「確かに、直くんは時々嘘つきですがそれもまた直くんらしい一面だと思います」
「お、今俺もしかして惚気られた?」
 その返しはオレが恥ずかしくなったが、ここら辺の会話は悠真の方が上だったらしい。
 なにかを思い出してまた笑う悠真だったが、ふとその表情に影がさす。
「……ただ」
「ただ?」
「俺の知らないところで、直くんはすぐ怪我を増やすのが心配です」
「おい悠真も、余計な話するな」
 収拾つかなくなる前に、この話題を止めないと。
 身体を乗り出してもそれを見越したシュウに、そっと押さえつけられる。そして器用にオレを押さえつけたまま首をかしげたシュウは、すぐ不思議そうに目を細める。
「スナの怪我はいつもの事だけど」
 なにかを考えるような素振りをしたが、すぐ気づいたようにふうん、と言葉を落とす。
「なるほど……スナ、その話はしてないんだ」
 オレの指先が、小さく跳ねる。なにを言っているのかは、言葉にしなくてもわかってしまう。
「なんで? もしかして――ユウくんを傷つけたくないとか?」
「それは……」
 なにも、言い返す事ができない。図星だった。
 無意識に考えていたらしいそれは、一言だけでじゅうぶんすぎるダメージがある。
 オレの無言は、どうやら肯定と思われたらしい。
「……スナが珍しく心を開いているのはいい事だが、ちゃんとこういった話はしないと」
「悠真には、関係ない」
「本当か? もしスナと一緒にいるからってユウくんが巻き込まれたら……スナは責任取れるのか?」
「……それは」
 なにも言い返せない、シュウの言う通りだ。
 悠真を遠ざけるためなのに、もし悠真になにかあったら悠真自身が身を守れない。確かに悪手だったかもしれないと顔をしかめると、不本意だが自分のペースに話を持っていったスナは悠真の方へ顔を向ける。
「難しい話ではない……スナはよくも悪くもお人好しだからちょっと人助けをして、それから目をつけられた。よくある話だよ」
「人助けをしたのに、目をつけられたんですか?」
「漫画とかであるよね、いじめを指摘したら自分がターゲットになるの……スナはそこで、うっかり反撃したんだ。そしてそこで、圧勝してしまった。そうだろ、スナ」
 あまり思い出したくない話に、目を逸らす。シュウの言っている事は、オレの過去そのものだ。
 始まりは中学生の頃、クラスで陰湿ないじめがあった。
 ターゲットは別に仲が良かったわけでも、悪かったわけでもない奴。いじめの主犯は学区内でも問題になっていた不良グループの下っ端で関わりはなかったが、今思えばあれがイキリというものだったかもしれない。どちらにせよ目の前で起こるそれは見ているだけで不快で、つい指摘をして殴り合いに発展した。
 そこでうっかり勝ってしまい、後日その不良グループがオレのところへお礼参りにきたのが、すべての始まり。
 歩けば喧嘩を売られて、それを買う。
 別に孤独なんてものではなかったはずなのに、当然ながら徐々に学校でも孤立をして行ったオレにとって、いつからかその居場所は喧嘩に変わっていた。
 家からなるべく遠い場所と、小学校から同じで近所に住むシュウが通っていた大栄高校に進学しても、噂はどこからか勝手にやってくる。
 遠い進学先を選んだって喧嘩は絶えず、結局は昔となに一つ変わらなかった。そう、悠真に出会うまでずっと。
「……はぁ」
 嫌な事を思い出した。
 小さく首を横に振りながら遠い記憶を振り落として、深く溜息をつく。
「シュウ、もういいだろ」
 鋭い言葉で遮ると、さすがのシュウも意地悪な笑顔を貼り付けながら軽く両手を上げた。
「はいはい、そんな怒るなよ」
「うるせえ」
「ユウくんの反応を見る感じ喧嘩の話を一切してないみたいだけど、もしかして理由でもあったのか?」
「……理由なんて」
 理由なんて、考えてなかった。
 ただオレの中でもわかるのは、誰かを殴るのも骨の軋む音を聞くのも悠真といる時はしたくないって事。ただ、それだけははっきりとわかる。
 多分、多分の話だけど。
 悠真と過ごすこの時間が、オレにとってなによりも優しくて。穏やかじゃない話題をする暇なんてなかったのかもしれない。そして、その話題によって悠真がなにを思うかがわからなくて、怖かったのかもしれない。もしもオレを拒絶したらなんて、そんな事を。
 ひどく臆病だと、つい自虐的に笑う。
「さぁ、なんでだろうな」
 けど、これを言ってやるつもりはないから。
 オレの中でしまい込んで、きっと一生言ってやらない。
 自分のパンドラに隠した気持ちは、もしかするとシュウにはバレてしまったかもしれない。それでも触れず、そうか、と言葉を続けてきた。
「スナがそれでいいなら、俺はなにも言わない」
 見透かされたのか、それはわからなかった。
 けれどもシュウの言葉にも優しさはあって、オレの身を案じているのは手に取るようにわかる。
「という事で、ユウくん」
「はい」
「そいつは、スナは敵が多い……君だけは、拠り所になってあげてほしい」
「なに言ってんだよ」
「そのつもりです」
「悠真も真面目に答えるな」
 本当に、これ以上悠真に変な事を言わないでほしい。
 いい加減追い出してやろうかと思ったところで、シュウもそれを察したのかゆっくりと腰を伸ばす。さっきから手に持ちっぱなしだった箱を置くと、ヒラヒラとオレ達に手を振っていた。
「じゃあ、俺も受験で忙しいし邪魔者は退散するよ。スナ、ここにお菓子置いておく。また様子見にくるからな」
「こなくていい」
 追い払うように手を動かしたところで、きっとシュウは見ていない。本当に急いでいたのか挨拶もほどほどに廊下の方へ足早に去っていく。
「受験って、お前就職組だろ」
 閉まりきったドアに舌打ちをしたって、本人はいないから許されるはず。
 嵐のように現れて嵐のまま去った昔馴染みに肩を落とすと、自然と悠真の方へ目がいく。
「…………」
「……悠真?」
 シュウが帰った途端黙り込んでしまった悠真を覗き込むと、やけに真剣な顔でなにかを考えているようだった。
「悠真、聞こえてるか」
「……え、あ、あぁ。すまない、先程の菊池先輩との会話を思い出していたんだ」
「うるさかったよな、悪い。しばらくここにはくるなって言っておくから」
「それは気にしていない。まったくきていただいても構わない……構わない、のだが」
「なんだよ、言ってみろ」
 やけに言葉を含ませるから、また顔を覗き込む。
 なにかを躊躇っているのか最初こそ目を泳がせていた悠真も、話すまでじっとしているオレに押し負けたようで意を決した様子でそれは、と言葉を続けた。
「いや……少し、妬けただけだ」
「妬いた?」
 シュウとの会話の中で、どこに妬く要素があったのか。わからず言葉を返すと、悠真の視線とぶつかる。アイスグレーの瞳は揺れていて、まるで悠真の感情そのものだ。
「俺の知らない直くんを、あの人は知っていた。それが少し、羨ましく思えたんだ」
 もごもごと、言葉の最後の方はこもった声になっていく。申し訳なさそうにする様子すらなんだか面白くて、しばらく観察してしまう。ふと堪えきれずに笑い、そのまま右手で悠真の髪の毛をかき回してやる。
「うわ、す、直くん」
「本当にお前、可愛い奴だな」
「す、直くん、俺は真面目に!」
「安心しろ、シュウだって知らない事はたくさんある……悠真だけが知ってるような事も、ちゃんとある」
 きっと、悠真にだけだ。
 学校の奴の前で笑っていられるのも。
 らしくもなく嘘で着飾らなくていいのも。
 オレを、オレらしさを出すのも。
 全部、悠真にだけ。
 そこで、なんだかオレがとんでもない事を考えている気分になる。これじゃまるで悠真に染まっているようで、悠真に全部を明け渡しているみたいだ。気づいてしまえば脳みそまで沸騰するようで、なんとか言葉を飲み込みながらそれを隠す。
「シュウが置いてったのでも……って、これ箱入りだ」
 置かれていたシュウのそれに手を伸ばす、普段はいやいや開けるはずなのに今はその存在だけでも有難いと勝手に思ってしまう。
 明らかにコンビニスイーツや変わり種グミではないとわかり、少しだけ声が弾んだ。いそいそと箱を開ければ甘い香りが漂って、ハードめなシュー生地が静かにこちらを見ている。
「お、珍しい……シュウのやつシュークリーム買ってきた」
 箱のロゴを見ると、学校から一番近いケーキ屋のもの。わざわざ買ってきた辺り、もしかするとあいつも差し入れのラインナップは気にしていたのかもしれない。後でお礼は連絡するとして、考えるよりも先に手が伸びる。粉砂糖でドレスアップされたそれは強く持っても形を損なわず、ところどころ配置されたナッツの香ばしい匂いが食欲をくすぐる。
 いつだって食べ方に困るシュークリームも、口に入れてしまえば同じ。勢いよくかぶりつくと、卵の香りが口いっぱいに広がる。
「ん、めちゃくちゃカスタード入ってる」
 反対の方から飛び出しかけたクリームをなんとか止めたが、代わりに口の周りからカスタードクリームが少し出てしまう。かなり詰め込まれていた、あっさりめでありながら濃厚な卵のカスタード。上に乗ったナッツと相性がよく小さく頷いていると、あ、と悠真から声が上がる。
「直くん、クリームが付いている」
 年下に話しかけるような声音は少し心外だったが、両手でシュークリームを持ってしまっているから取る事もできない。
 ん、とクリームが付いているのだろう頬を差し出すと、息を飲む音が聞こえる。場違いなそれに目を向けると、なぜだから悠真は目を丸くしてじっとオレの顔を見ていた。感情の読み取れない表情が、目の前にある。
「……悠真?」
 静かに、オレの事を悠真が見つめている。
 なにも言わないその姿に首をかしげると、また悠真はごくりと喉を鳴らす。
「おい、ゆーま?」
 拙く名前を呼んでやっても、反応はない。
 むしろ表情は固くなる一方で、不意に右手が伸びてきた。取ってくれるのだろうかと待ってみるとそうではないらしく、指先はなぜかオレの唇を撫でていた。
 なにがしたいんだ、こいつ。
 理解できない奇行にかける言葉を悩んでいると、ゆっくりと唇を押される。ふに、と少し力を加えて押されたそれは、痛くないがくすぐったさがある。
 何度か押されて、悠真の呼吸が浅くなる。表情は変わらないのに、それは狩りをする獣のようで。
「……直くん、いいだろうか」
 悠真、と名前を呼んだつもりだ。
 けどそれは、言葉ごと悠真に食べられてしまう。
「ゆう、んっ……」
 柔らかいなにかが、唇と緩く重なった。
 温もりすら感じるそれは優しく、啄むように触れていく。
「ん、ふっ……」
 今オレ、悠真にキスをされている。
 気づくには少し時間がかかって、呼吸の仕方すら忘れてしまう。突然の事で、けど拒むという選択肢はなぜか思い浮かばなくて。ただ与えられる温もりに、目を瞑る。
 甘い、初めてのキスはカスタードクリームの味がする。
 レモンよりも甘い、それなのに熱烈な味がする。熱くて、脳みそまで溶けてしまいそうで。重ねただけのそれにすら、呼吸を浅くするにはじゅうぶんだった。
 こんな甘い、オレは知らない。
 甘くて苦しくて、ずっと心臓は暴れ回っている。
 きっと一瞬だった、それでもオレにとっては永遠だった時間で、名残惜しそうに悠真の唇が離れていく。あ、と自分でも驚くくらい切ない声が漏れると、悠真の方が目を丸くした。まるで、我に返ったような、そんな顔だった。
「ゆう、ま」
「直くん」
 サッと、悠真の顔から血の気が引いていく。罪悪感や苦しさが入り交じったような顔はオレに向けられていて、呼吸も止まる。かと思えばすぐ顔を真っ赤にして、わなわなと指先を震わせていた。
「――よ、用事を思い出した! すまないが先に帰らせてもう!」
「あ、おい待て!」
 脱兎のごとく調理実習室を飛び出したそれを止めようとしたが、逃げ足が早いようで慌てたように階段を駆け上がる音が聞こえてくる。
 それも普段は静かに歩く癖に、かなり大きい音で。
 誰もいなくなった調理実習室に残されたのは、オレ一人。他の部活の音もなにもかも遠くに聞こえて、オレだけが違う世界にいるようだ。
 夢の中にいるのと似ているような、そんな感覚。
 けれども身体の火照りは、夢ではないと現実を突きつけてくる。
「今のは、つまりそういう行為で……」
 無意識に、指先がさっきまで温もりを感じていた唇をなぞる。
 腰が抜けてその場に座り込むと、冷たい床が追い打ちをかけるように現実を見せてきた。
 やっぱりオレ、悠真にキスをされた。
 啄むような、けど愛おしそうな表情でキスを。
 アイスすら溶けるような熱量はオレの中でずっと燻っていて、呼吸をするたびに喉が焼けるような熱さだ。
「……なんで」
 なんでキスをしてきたのか、どういう気持ちだったのか。
 聞いてやりたい事は山のようにあるのに、そこまで頭は回らない。
 ただ残っているのは痛いくらいに騒がしい心臓と、浅い呼吸。それから、沸騰しそうな思考回路だけ。そしてなによりわからなかったのは、拒絶しなかったオレ自身の気持ち。
「なんで、オレ……今の、嫌じゃなかったんだよ」
 オレの知らない甘いなにかが、緩やかに溶けていくようだった。