噓つきパルフェは甘いを知らない

 今日も甘いは嘘をつく。
 スプーンで掬った宇宙の中、答えはどこにも用意されていない。
 いつだって楽しく裏切られるそれが、純粋に好きだと思えた。甘いも苦いも、なにもかも。そんな世界には、オレだけしかいないとずっと思っていた。なにに対しても一人でいいと、思っていた。
 けれどもそれは、突然開け放たれたドアにすべて掻っ攫われる事になる。
「は……?」
 時間が、呼吸が止まった気がする。
 なにが起きたのかわからず目を丸くすると、滅多に開かないはずのドアが開けられて一つの影がオレを見ている。
 セットされているわけではない黒い髪も、整った顔立ちでそれらしく見える。無表情で腹の底はなにを考えているかわからなくても、ほんの少し見開かれた目から驚いているのはなんとなく想像できた。驚いた顔すら、整った顔のパーツで良く見えてしまうのが憎い。
「お、おまえ、なんでここに……!」
「すまない、先生から隣の用具室にお使いを頼まれてな。誰か電気を消し忘れたのかと思い勝手に入ってしまった」
 調理実習室は、ほとんど半地下構造で用がない時人はほとんど寄り付かない。そのはずなのに目の前にいるのは曖昧だが顔を知ってる特進コースの奴で、オレを見るなり目を丸くしていた。
 いや、正確にはオレの手元を見ているのかもしれない。
 視線の先には、さっきまで食べていたスコップケーキが並んでいる。
「それ、は……」
「わ、笑うな」
 背中の後ろに、それらを咄嗟に隠した。それでも隠しきれないホイップクリームの香りはこいつにもじゅうぶん届いたらしく、なぜか楽しそうに微笑んでいる。
「甘いものが、好きなんだな」
「そういう、わけじゃ」
 咄嗟に言い訳を出したくても、なにも出てこない。
 ぐるぐる回る思考の中で突然現れたこいつに身ぐるみ剥がされたような現状は、圧倒的にオレが不利だった。
 しどろもどろになる言葉を無視して、そいつはぐいと顔を近づけてくる。
「……確か、普通コースの宇津木直、だっただろうか」
「なんだよ、問題児は特進コースでも有名ってか?」
「いや、そういうわけでは……それより、俺の事を知ってくれていたんだな。とても嬉しい、ありがとう」
「……そういう、わけじゃ」
「俺は二年一組の笹川悠真だ、直くんは確か八組、だった……」
 どうやらオレの事を知っているらしいそいつは、なにかに気づいたように突然表情をくしゃくしゃにしてオレを見ている。視線の先は頬で、それに気づいてオレまで顔をしかめた。
「……怪我、しているのか」
「別に、お前には関係ないだろ」
 心配するように伸ばされた手を、無理やり遠ざけた。
「オレの事知ってんなら、怪我だっておかしくないだろ」
 自分でも、悪い意味で名が通っているのは自覚している。他校といつだって喧嘩している、学年の問題児。自分で喧嘩をしようとした事はなかったけど、それでもいつからかついたこのレッテルを剥がすつもりもなかった。それでいいと、みんなどうせ怖がるからと適当にそのままにしていた。
「けど、そのままにしておくのは痛いと思う」
 鬱陶しいと、そう思った。
 だからあえて、声を低くして。唸るように、威嚇するように声を荒らげる。
「なんだよ、さっきから……お前も殴られてえのか!」
 半地下の調理実習室では大きすぎる声が、二人だけの空間に反響した。そのはずなのにこいつは怖がるどころか、不思議そうに首をかしげている。
「なぜ、そんな嘘をつくんだ?」
 指先が跳ねた、息が詰まった。
 こいつ、今なんて言った?
 嘘なんてそんな、どうして初対面のくせにそう思うんだよ。
「直くんは俺を殴らない、だって直くんは優しいから」
 中身のないはずの言葉が、やけに重たい。息と息が混ざり合うくらいの距離で、月の瞳と視線がぶつかる。優しく撫でられた頬が、やけに熱い。
「ほら、こんなに顔を近づけても殴らないだろ?」
 嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
 頬はもう触られていないはずなのに、ずっと熱を帯びているような。そう錯覚するのは、きっとこいつのせいだ。
「……本当に、なんだよお前」
 お前、オレのなにを知っているって言うんだ。
 オレのどこまでを、知っているんだ。
 グラグラ揺れる思考の中で、深く息を吐く。正直、悔しいけど図星だった。殴るつもりなんて、そんなのはない。
「じゃあなんだ、学年の問題児が実は甘いもの好きでしたってなるのは。言いふらす?」
「いや、そんな事はない」
 かなり食い気味に言われた言葉に、指先が跳ねる。
 嘘偽りのない言葉はまっすぐオレに向けられていて、つい視線をぶつける。月のような瞳の中、水面にオレの姿が揺れている。
「むしろ、ずっと見ていたいと思えた。とても幸せそうに食べていたから……俺まで、心が暖かくなるようだった」
 こいつ、恥ずかしがる事もなくそんな言葉を。
 耳まで熱くなるような言葉に、つい喉を鳴らす。
 どれだけ遠ざけても、意地を張ってもこいつは近づいてくる。嘘で虚勢を張っても気にしていない悠真って名前の奴は、天然なのかバカなのかわからなかった。
 今までに、関わった事のないタイプ。言葉の端々から漏れ出る暖かさが逆に苦しく感じるほどで、嘘をついたってさっきからなにも通用していない。
「もう少しだけ、一緒にいさせてもらえると嬉しい。俺は直くんの事を、もっと知りたいんだ」
 だめだろうか、なんて言葉を添えてきたそれすらも、どうせ断る選択肢を持ち合わせていない。月のような澄んだ瞳とぶつかって、小さく頷く事しかできなかった。
「……勝手にしろ」
 甘いも苦いもなにもかも混ぜ込んだような、そんな感覚。
 嘘つきで正直な世界に突然現れた存在――笹川悠真は、オレの嘘を丸ごと飲み込んで笑っていた。


「直くんは、今日も行くのか?」
「いや、なんでお前普通コースの校舎にきてんだよ」
 もう二度と聞きたくなかった声の襲来に、あからさまなくらい顔をしかめる。
 放課後で人通りも多い廊下、まるで待ち構えていましたと言わんばかりのそれは、オレの姿を見つけるなり嬉しそうに笑っていた。ほんの少し、数センチだけ高い視線の先でアイスグレーの瞳が揺れていた。
「それで、行くのか?」
「行かねえ」
 咄嗟に出た言葉とともに、肩を落とす。
 本校舎半地下、調理実習室。
 オレだけの秘密基地だったはずのそこは、この笹川悠真という男によってすべてを書き換えられた。どれだけごまかそうとこいつにはどれも通用しなくて、どちらかと言えば諦めのが強い。あしらうように投げた言葉だって聞いていないのか、廊下を歩くオレの横にぴったりとくっついていた。
「しかし、なぜ直くんはあそこにいたんだ? 利用には確か許可が」
「許可もなにも、あそこが部室の扱いだからだよ」
「部室……なるほど、直くんは社会福祉貢献部(しゃかいふくしこうけんぶ)なんだな」
「正式名なんて誰も覚えてねえよ、あそこは内申部だ」
 今のやり取りだけで部活名がわかる辺り、やっぱりこいつは優等生の部類なのかなと考えてしまう。あんな幽霊部活、普通の生徒なら名前すら知らない奴だっているのに。
 社会福祉貢献部、別名を内申部。
 とりあえず入っておこうとなる部活の代名詞で、ほとんど活動はない。
 ここ、大栄高校は福祉コースがある高校だからか社会貢献を目的にしたとなっているが、今ではオレが社会貢献の名目で調理実習室を使っているくらいだ。
 ただそれだけのはずなのに、それすら悠真はなにかを納得したように首を縦に動かすだけだ。
「行くなら、俺も一緒に」
「話聞いてなかったのかよ、行かねえ」
 少し強めに言葉を発すると、ガタとなにか音がした。それはクラスの奴がオレの声に怯えたのか椅子を動かした音で、それがきっかけでオレとこいつに向けられる視線にも気づいてしまう。
 好奇のものでしかないそれは、オレにはもちろんだが悠真の方へ向けられているのも少なからずある。それが、あまりよろしくないものである事は、他でもないオレが知っている。
「……もう、オレに関わるな」
 素っ気なく、顔も見ずに背中を向ける。
「なぜだ、なにか気に障るような事をしてしまっただろうか?」
「だから、オレに関わるなって言ってるだろ」
 こいつのせいじゃない、全部オレのせいだ。けど、きっと悠真はオレの話なんてちっとも聞いていない。
「直くん……俺は、お前の事をもっと知りたいだけで」
「オレは! お前となんか、友達じゃない!」
 思いのほか響いた声は、オレのものじゃないみたいだ。
 我に返ると、目の前には少しだけ悲しい表情を貼り付ける悠真がいる。ぐっと息がしずらくなり、浅く呼吸を繰り返す。オレ、今こいつに。なんて、なにを言った。
「っ……ついてくんな」
 絞り出すように、言葉を落とす。
 勢いに任せて走ると、様子を遠巻きに見ていた奴らから小さな悲鳴が聞こえる。そいつらの事も、悠真の事も見る事はなかった。逃げるように背中を向けて、廊下を小走りに抜けて行く。シューズボックスに入っていた靴と履き替えて校門へ走るのは、オレの方が逃げているみたいだ。なんだよ、なんでオレがあいつから逃げなきゃ行けないんだ。本当に、わけわかんねえ。
「……コンビニ」
 駅とは反対の道、人通りもほとんどない場所に入った事で、少しだけ冷静になった気がする。あぁは言ったけど部活は行くつもりだったから、あいつにはまた嘘をついた。
 鞄から黒いキャップを取り出し、目深に被る。
 なんとなくでらしくないと思われるのが嫌で、いつからか鞄に忍ばせるようになった黒のキャップ。案外帽子を被れば人間はバレないもので、そのまま同じ学校の奴が遠回りだからと寄り付かないコンビニのドアをくぐった。ちょうどよく調整された室内の温度は、やけに身体に染みる。
 迷う事なく向かった冷蔵のコンビニスイーツのコーナーはそれなりに充実した品揃えで、それだけで足取りが軽くなる。
「お、新作入ってる」
 甘い物が、昔から好きだった。
 可愛いものも、嫌いじゃない。
 だからと言ってオレの人間像と合うかと聞かれればそれは答えが出なくて、無意識に隠してしまったのがきっかけだ。
 だって、らしくないだろ。
 甘いものが好きなんてそんな、バレるくらいなら死んだ方がマシだ。
「適当に甘いの買って、それから」
 調理実習室で、食べて。
 そう考えたのに、なぜか脳裏を過ぎったのはあのバカ真面目の顔。
 オレが食べている顔を見て嬉しそうに笑っているのも、さっきの悲しそうな顔をしている悠真も、全部。オレのなかでぐるぐる回っていて、思い出すだけで呼吸が浅くなる。
「……友達、じゃない」
 あいつに自分で言った言葉なのに、なんでオレが傷ついてんだよ。目の前に並んだコンビニスイーツもいつもよりくすんで見えて、気分がよくない。
 全部、あいつのせいだ。
 あいつがオレの前に現れてから、なにもかもぐちゃぐちゃだ。
 深く息を吐いて、目の前にあったバウムクーヘンへ手を伸ばす。隣にあった新作を狙っていたはずなのに、そんな気分はどこかへ行ってしまった。どうせ食うなら、あいつがいたほうがいいだろ。なんて、ついそんな事を考える。どこからきた思考なのかは、オレのものなのにオレが一番わからない。
 セルフレジで会計を終わらせると、足は自然と学校へ向いている。帽子を取りながら戻ると帰宅部は出た後なのか、校庭からサッカー部の声がする。乾いた音ともに聞こえたボールの音、校舎から響く吹奏楽の音楽。普段は何気ないはずの音が全部、今はやけにうるさい。
「……さっさと食って帰るか」
 ズンと、気分は暗いままだった。
 誰かに見られないように細心の注意を払いながら向かった先、誰もいないはずの調理実習室の前で、足が止まった。
「――え?」
 電気が、ついている。
「……まさか」
 いや、あれだけ突き放したのにそんなはずは。
 そう思いドアに手をかけたが、そこにいたのは案の定さっき怒鳴りつけた奴で。笹川悠真がなにをするわけでもなく、椅子に腰をかけていた。
「あ、きた」
「…………」
 オレの姿を見つけるなり、そいつは嬉しそうに笑っていた。
「行かないと行ったのに、直くんは嘘つきだな」
「なんでいるんだよ」
「着いてくるなとは言われたが、ここにくるなとは言われていない」
「……勝手にくるな」
 わざと、低い声で威嚇する。
 それすらも悠真には効果がないらしく、それよりもオレの手の中にある袋をじっと見ていた。
「それは、コンビニのものか?」
「そうだよ、悪いか」
「いや、すまない。ただこの前のようにお菓子を作るわけではないんだなと思い」
 若干残念そうなその声に、喉の奥が詰まる。
 けれどもそれも一瞬の話で、その反応にオレは少しだけ頬を緩めた。
「あぁ残念だったな、いつもお菓子を作るわけじゃない。この前みたいな見世物はないから適当に帰れって」
「いや、直が美味しそうに食べる姿を見たいから構わない」
「っ……」
 一歩オレが下がれば、一歩半近づいてくる。
 不思議で厄介で、それなのに嘘がつけない相手。 
 今までにないタイプのそれは、嬉しそうに笑い本当にオレの事をただ静かに見ているだけだった。どれだけオレが突き放しても、こいつは気にせず近づいてくる。
「なんで、どうしてオレに構うんだ」
 昨日から、ずっと不思議でたまらなかった。
 どうして、学校で煙たがられているオレなんかといるんだ。
 なんで、オレが突き放しても近づいてくるんだ。
 そんな疑問を投げつけると、悠真は最初なにを言っているかわからないという表情で目を丸くしていた。けど、それも一瞬。すぐに頬を緩めると、それは、と穏やかに言葉を続けてくる。
「言ったはずだ、俺は直くんの事が知りたいんだ……直くんが良ければ、これから仲良くなっていきたい」
「意味わかんねえ」
 本当に、意味がわからない。
「じゃあ、なんでオレが殴らないって思ったんだ」
「それは……」
 ふと、悠真の表情が和らぐ。
「それは、直くんはそんな人ではないと思ったからだ。だって、あんなにも幸せそうに好きなものを楽しんでいたのだから」
「なんだよ、それ……」
 それだけの理由で、オレに近づいたのか。
 それだけの理由で、オレが殴らないって思ったのか。
 そんな裏のない言葉のために、こいつはオレを知りたいって。
 考えれば考えるほど湧き上がるのは嬉しさよりも罪悪感で、吐き気すら込み上げる。悠真に対してではない、オレに対して。
「廊下で嫌でもわかっただろ、オレに構うと変な目で見られる」
 オレに関わる人が、オレのせいでなにかを言われるのは避けたかった。他でもない、オレがそれを嫌だと思ったから。
 口にはせずともそんな願いを込めて落とした言葉を、こいつはどう拾ったのだろう。ぱちりと瞬きをすると、じっとオレの顔を見つめている。
「なるほど、つまり直くんは俺が周りから浮かないように突き放してくれたのか」
「は、いや、そんなんじゃ……」
 ごまかして嘘をつこうとした言葉を、少し飲み込んだ。
 そうかもしれない、だってオレは慣れているけどこいつは一人に慣れていないだろうから。オレなんかのために、この先の交友関係を壊す必要はない。だから、これが最善だと思っていた。
 そのはずなのに、こいつの悲しそうな顔を見たら苦しくて。オレまで悲しくなって、どうする事もできない。オレがオレじゃなくなるみたいで、深く息を吐いた。
 やっぱり、こいつに出会ってからなにもかもぐちゃぐちゃだ。ミキサーでかき回されたみたいな思考が、ずっとオレの腹の底で居座っている。
「……けど、さっきの、廊下のは言いすぎた。悪い」
 もごもごと、言葉を転がす。
 自分でも情けないと思うくらい小さな声はじゅうぶん悠真に聞こえたようで、最初は目を丸くしていたがすぐ嬉しそうな顔をオレに向けてきた。
「俺は気にしていない、むしろこちらからいきなり押しかけてすまなかった」
 たったそれだけの言葉で、悠真はオレを許した。
 懐が広いのか、それとも他の理由があるのか。正直オレにはわからない。ただその許しに裏はなく、純粋な許しであるとわかるからこそなにも言う事ができない。本当に、そんなのでいいのか。言葉は喉元まで出かけて、すぐに飲み込んだ。
「本当、調子狂う奴」
 カチ、と手を伸ばしてコンロのスイッチを押す音が、二人きりの調理実習に響く。中火にしたそこに小鍋を置くと、悠真が不思議そうに首をかしげていた。
「今日は、なにも作らないのではなかったか?」
「作らねえけど、少しアレンジ」
 少しだけ気分が乗ったからとは、口が裂けても言わなかった。
 水と砂糖で濃いめのカラメルを作り、さっきコンビニで買ってきた袋の中を漁る。適当なりにちゃっかり買ってあったバウムクーヘンを取り出すと、そのまま躊躇う事なく鍋の中へ入れる。
「直くん、なにを」
「見てろって」
 軽く絡めたらすぐに取り出して、余熱を取る。横でじっとオレを見ている悠真が面白くてつい頬を緩めると、早く、と急かされた。
「もう後は固まるだけ……お、できたな」
 フォークで軽く叩くと、バウムクーヘンにしてはやけに軽い音が聞こえる。ふわと甘い香りが漂ってきて、つい唾を飲み込む。
「バウムクーヘン、クレームブリュレもどきだ」
「なるほど、とてもいい匂いだ」
 フォークをそのまま入れると、パリ、と音が鳴る。元々美味いものに美味いものを掛け合わせたんだから、不味いわけがない。
 流れるようにまた一切れ口に放り込むと、ふと悠真の視線を感じた。
「悠真も、一口食うか?」
「俺、か?」
「オレとお前以外に誰がいるんだよ」
 別に、独り占めしたいわけでもない。
 差し出したそれを見た悠真も一瞬嬉しそうにしたが、すぐ申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ただ、直の誘いはとても魅力的なのだが」
「なんだよ」
 やけに言葉を濁すそれを睨みつけると、それは、と慎重に言葉を続けてくる。
「あいにく、俺は甘いのが得意ではなく」
「本当にお前、なんできてんの?」
 オレの好きな物を知ったんだから、なおさら居ずらいだろ。気にせず食べたオレの方が申し訳なくなるが、悠真は言葉の割にあっけらかんとしているようにも見えてしまう。
「甘いものは得意でなくとも、直くんと一緒にいる事はできる」
 それは、やけに感情が乗った言葉だった。
 悠真の言葉に驚き詰まりかけたバウムクーヘンを無理やり飲み込むと、視線がぶつかる。からかっているのではない事は見なくてもわかって、それがなんだかオレにとって落ち着かない。
「なんだよ、お前……」
 笹川悠真。まっすぐで少し天然で、バカ真面目。そのくせ、甘いものは得意じゃないのにオレといる不思議な奴。
「言っただろ、直くんの事がもっと知りたいんだ」
 やっぱり、こいつといると調子が狂う。
 オレはこんなにもこいつの言動にぐちゃぐちゃにされているのに、きっと悠真にとってはこれが全部普通なのだろう。慣れるしかないと言い聞かせて、またバウムクーヘンにフォークを入れる。パリ、と音を鳴らしたそれはカラメルが少なめな部分で、そのままフォークを突き刺した。
「ほら、一切れ」
「直くんから食べさせてくれるのは本当に嬉しいが、さっきも言った通り俺は甘いものが」
「砂糖少なめのカラメルにしたから、多分お前でも食えるはずだ」
「……そうか、なら」
 おそるおそる、覚悟を決めたように口を開ける。
 ザク、と控えめに咀嚼を何度かしたのを黙って見ていると、視線がぶつかる。嬉しそうにしっかり頷くと、大丈夫だ、と悠真が言った。
「……とても美味い」
「そーかよ」
 安心して、釣られるように頬が緩む。
 きっと、自分らしくないだらしない表情になってるだろうけど、今だけは気にしないでおく。普段自分のためだけに作るそれも、誰かに食べてもらえるのは悪くない。
 ただ悠真はそれだけではないらしく、それに、なんてもったいぶった言葉が聞こえてきた。
「直くんに食べさせてもらえて、とても嬉しい」
「それは」
 それは、どういう意味なのか。
 想定外の言葉に対して咄嗟に返せるほど言葉は持ち合わせていなくて、口に含んだ苦味すらわからなくなる。
 残っていたバウムクーヘンを口へ押し込んで、ろくに噛まず飲み込む。ごくり、と大きな音がしたが気にせずに、オレはその場に立ち上がり鞄に手をかけた。
「どこかへ行くのか?」
「帰るんだよ」
 だめだ、このままこいつといると完全にペースが持っていかれる。
 なんとか飲み込まれないように鞄を持ちながら立ち上がると、悠真の奴もオレの後ろにくっつきながら同じように立ち上がる。
「ならば、俺も一緒に帰る」
「は、なんでお前となんか」
「だめだろうか?」
「……だめとは、言ってない」
 だめだ、やっぱりこいつのペースに飲まれている。
 諦め半分廊下に出ると、ぴったりと悠真が横にくっついてきた。普通コースや特別教室のある本校舎と、特進コースがいる東校舎は少しだけ離れている。半地下を上がってしばらく歩くと、普通コースのシューズボックスが並んでいる。
「直くん」
「なんだよ」
「特進コースの出入口で、待っているからな」
「…………」
 念押しをする言葉に、返事はしなかった。
 オレの行動一つ一つが見透かされたような、そんな感覚。けど確かに、悠真の念押しがなければ一人で帰るつもりだったのも事実だから、なにも言い返す事はできず自分の靴をしまってあるシューズボックスを開けた。スニーカーのかかとを踏まないように履くと、ふと我に返り大きく肩を落とした。
「……いや、なにやってんだオレ」
 別に、あいつと帰る義理なんてこれっぽっちもないはずだ。
 悠真の言葉に一喜一憂しているのも、正直自分の中でバカみたいだと思っている。けどそれ以上に、オレを怖がる事なく近づいてくる悠真を見ていると、あいつの気持ちも無碍にできないと思えた。本当に、たったそれだけの事だ。
「……あいつ、どうせ待ってるし」
 早いところ合流してやらないと、バカ真面目なあいつの事だからいつまで経っても帰らないだろう。だからこれは、悠真がちゃんと帰るためにオレも一緒に帰るだけ。
 他でもない自分自身に言い聞かせて、普通コースよりも校門に近い特進コースの校舎へ向かった時だ。
「笹川くん、大丈夫なの?」
 そんな、悠真ではない声に指先が跳ねる。
 咄嗟に身体が動き、柱の後ろに身を隠す。幸いそこにいる誰にもバレていないようで、そっと見えないだろう角度から覗き込み声のした方へ顔を向けた。
 頭一つ飛び出した悠真と、それを囲む三人の女子達。
 しばらく聞き耳を立てていると、それは、と悠真の声がこちらまで聞こえる。
「大丈夫とは、なにがだ?」
「笹川くん、今日廊下で宇津木くんといたよね」
「あの子、普通コースでも問題あるっていうか……喧嘩をよくしてるし、笹川くん脅されているとかない?」
「あ、私もこの前怪我しているの見た、北工業の不良グループと喧嘩したって聞くし」
「入学式の時も喧嘩したらしいよね」
 最悪なタイミングに出くわしたと、内心舌打ちをする。
 別になんと言われようが、慣れているはずだった。
 それなのにこうしてわざわざ隠れているのは、自分でも不思議な行動を取ったと思う。
「……バカみてえ」
 悠真に会ってから、なにもかも調子が狂う。
 自分が自分ではなくなるみたいな、悠真の奴に丸ごと飲み込まれていくような感覚。少し前の自分なら、こんな事しなかったのに。
 なぜだか鉛を付けられたように重たい感情は居座っていて、それの正体もわからない。
 もしかして、オレは。
 悠真がこの後なんて言うのか、怖いのだろうか。
「……いや、いやいや」
 一瞬考えた言葉は飲み込んで、小さく首を横に振る。なにもかも、本当にバカらしい。そう他でない自分に言い聞かせて、一人帰ろうとした時だ。
「心配してくれるのは嬉しいが、直くんはそんな人間ではない」
 あまりにもまっすぐで、それどころか感情のこもった言葉はオレのために投げられたものだ。囲んでいたそいつらもその返答が予想外だったのか、言葉を詰まらせている。
「直くんは、確かに勘違いされやすいが……優しくて、絶対に俺の事は殴らない。それに、可愛いところもあるんだ」
「可愛っ!」
 お前、突然なにを言い出すと思えば!
「だから俺は、直くんをもっと知りたい……みんながなにを思っているかはわからないが、直くんに近づいたのは俺の方からなんだ」
 シン、とその場が静まり返る。
 一瞬より長い間の中で、ふと悠真の笑う声だけが聞こえる。そのままゆっくり身体をオレの方へ向けると、隠れていた柱の前に立ち止まる。
「そうだろ、直くん」
 わざとらしく覗き込んできたその顔は、オレを掴んで逃がそうとしない。揺れる瞳に映るオレを、静かに閉じ込めていた。
「……お前なぁ、気づいていたなら言えよ」
「すまない、直くんが小さくなって隠れているのが面白くつい」
 悠真に話しかけていた奴らからひっ、と乾いた声が聞こえたが、当の悠真は気にしていないらしい。オレしか見えていないと言いたげなくらいの表情で、ふとなにかに気づいたように顔を近づけてスン、と鼻を鳴らす。
「直くん、すごく甘い匂いがする」
「当たり前だろ、言わせんな」
 さっきまでクレームブリュレもどきのバウムクーヘンを作ってたんだ、匂いがしない方がおかしい。
「そうだな、確かにその通りだ」
 本当に、調子が狂う奴。
「待たせてすまなかった、先に帰らないで待っていてくれたようで嬉しい」
「……別に、お前が帰ったか確認しにきただけで、一緒に帰ろうとしたわけじゃない。一人で帰るつもりだった」
「ふふ、そうか」
 こいつ、絶対信じていないな。
 楽しそうに笑いながらもオレの腰に手を回し引き寄せてきた悠真は、おもむろにさっきまで一緒に話していた三人へ視線を向けた。
「この通り、直くんは嘘つきでも悪い人でもない。心配してくれてありがとう」
 なぜだかその言葉には、怒りに近いなにかが孕んでいるように見えた。わかりにくいはずの表情の中で顔をしかめる悠真は、ふとなにかを考えるように目を伏せて嬉しそうに笑う。
「ただ、それでも周りから直くんが怖い存在だと見られているならそれでも構わない……直くんの事を知れば、きっとみんな直くんを好きになってしまうだろうから」
「ゆうまっ、お前!」
 まだ絡むようになって日は浅いけど、こいつが恥ずかし気もなく言う言葉達はこの先もずっと慣れる事ができないだろう。それくらい熱を孕んだ言葉に、オレがつくような嘘はなかった。
「さて、帰ろう」
「いや、おい悠真っ」
 手を引かれて、そのまま校舎を出る。日も落ちかけた中で二人きり、溜息のように零した声すらお互いの耳に届いてしまう。
「おい、なんだよ今の」
「今の、とは?」
「……わかっているだろ」
 オレの柔らかいところに触れるような、茹だるかと錯覚するような言葉も全部。
 こいつが意図したものなら気にも止めないはずなのに、悠真の言葉を聞けばどれも本心であるとわかってしまう。だから、なおさらタチが悪いんだ。
「思った事を言ったまでだ、嘘ではない」
「それはわかってるって」
「直くんの事を他に取られたくないと、そう思ってしまったんだ」
「っ……」
 言葉が詰まる、思考が止まる。
 こいつ、さっきからなに言ってんだよ。
「……そう、思ってしまうのは、おかしな話だろうか」
 決して無理強いするわけではない。それなのに、そんな言葉を突き放す事ができない。浅い呼吸の中で無理やり自分を取り繕った。
 だめだ、このままじゃ本当にこいつに飲み込まれる。
「や、やっぱり一人で帰れ!」
 きっと、耳まで真っ赤になっているのはこいつに見られたと思う。
 それでも火照った身体もなにもかも投げ出して、こいつから距離を取りたかった。手を振りほどいて、全力で校門の方まで走る。頭の中が悠真でいっぱいで、それすらもオレらしくないと思った。
「直くん!」
 悠真の、鋭くも優しい声が背中に刺さる。
「また明日、会おう」
 後ろは、なんとなく振り向かなかった。
 心臓はけたたましいくらいにうるさい気がして、思考はずっとぐるぐる回っている。嘘のないまっすぐな言葉で茹ってしまうようで、浅い呼吸を繰り返した。 
『直くんは嘘つきでも悪い人でもない』
 ずっと、怖がられていた。
 好きなものだってらしくないと否定されるのが怖くて、隠していた。
『直くんの事を知れば、きっとみんな直を好きになってしまうだろうから』
 それでいいと、そんなものだと思っていたのに。
 あいつは、笹川悠真はそんなオレの気持ちをこじ開けて我が物顔で近づいてくる。
 土足で上がり込んできて、甘いお菓子より柔らかな言葉ばかりオレにかけてくる。どれだけ嘘をついてもごまかしても聞いてくれなくて、それを突き放す事もできなくて。
 こんなのは知らない、こんな言葉は知らない。
 なにもかも初めてで、不快感とぬくもりが同居しているようだ。
 このままでは、オレは。
「……こんなの、勘違いしちまうだろ」
 名前の知らない感情だけが、ずっとオレの事を覗き込んでいる。
 この名前の正解は、まだ見つける事ができない。
 宝石箱の中にいた。
 反射するショーケースの中で座っているそれらは、じっとオレの方を見ている。つい足を止めて睨みながら、誰にも聞かれないようにそっと肩を落とす。
「季節限定、レモンブッセ……」
 見るだけで勝ちである事がわかる商品名と、店の前を通るだけで漂ってくるバターの香り。 
 綺麗に並べられた箱の中で、それはじっとオレの方を見ている。
 目深に被ったキャップの中から、オレもそれを見つめ返す。それでも手が伸びないのは、きっと他でもないオレの中にある羞恥が大きいのだろう。
「……やっぱ、らしくねえよ」
 甘いお菓子だって、そもそも似合わない。
 きっといつまでも手に届かないそれを横目に落とした言葉は、情けないくらい弱弱しいものだった。

 ***

「お土産だ」
「……は?」
 ドン、と目の前に置かれたのは、いかにも高い店の紙袋。どこかで見た気がするロゴは、じっとオレの事を見つめている。
「直くんが、好きかもしれないと思ったんだ」
 恩着せがましいわけではない、純粋にオレの事を思って紡がれた言葉。
 確かに、袋の開いた口からはバターの甘い香りが漂ってくる。それこそ昨日と同じ宝石箱の中にいるような、そんな感覚。まさかと思い中を覗き込むと、黄色いリボンで梱包された小さな箱が鎮座していた。間違えるはずもない、昨日ショーケース越しに見たままの箱。
「なんだよ、これ」
 なんで、どうして。
 突然目の前に現れたのは喉から手が出るほど欲しかったもので、自分でもわかるくらい目を丸くした。そんなオレを見た悠真は、なぜか嬉しそうに笑っている。
「直くんに喜んで欲しいと、そう思ったからだ」
 それだけかよ、そんな理由かよ。
 あまりに欲がない言葉だったが、すぐなにかを考えるように視線を下に向けると小さく首を横に振った。
「……あぁいや、これは嘘かもしれない」
 まるで懺悔をするような、そんな言葉だった。
「直くんが俺の持ってきたお菓子で喜んでくれるかと想像した時、俺の方が嬉しく感じたんだ。直くんが笑ってくれるかもしれないと、そう思っただけで俺も笑顔になれた。だから、これは俺のためでもある」
 だから貰ってほしいと、悠真は目を細める。
 自分のためと言ったところで、結局はオレのためだ。
 それがむず痒いと思えて、ふうん、と小さく言葉を零しながら紙袋に視線を戻す。
「この店、誰かに教えてもらったのか?」
 悠真が元々自分から甘いものを進んで食べないという事は、この短い付き合いの中でわかっている。だからこそ目の前にお出しされたそれを悠真が選んだとは思えなくて、ついそんな言葉を投げる。
「クラスの女子生徒から、このお菓子が最近人気だと聞いたんだ。銘菓はよく家にあるが、こういった地下街のお菓子を買うのは勇気がいるものだな」
 勇気なんて、そんな簡単な言葉じゃすまないだろ。
 オレが何万回挑戦したって買えなかったそれを、こいつはオレのためだと言っていとも簡単に買ってきた。それを考えるだけで申し訳なさがあって、それ以上に嬉しさが顔を覗かせている。
「……いいのか、これ」
「あぁ、直くんに食べてほしいと思って買ったんだ」
 だめだっただろうか、なんて聞かれたら断るに断れない。ぐっと喉を鳴らしながらも欲に勝てるはずもなくて、ゆっくりとそれに手を伸ばした。丁寧に取り出したそれのリボンを解くと、バターの香りはより一層強くなる。
「美味そう……」
「やはり、みんな色んなところを知っているな……このお菓子を聞いた時も、アニマルクレープというものや最近ファミレスで人気のパルフェなんかも聞いたんだ」
「え、お前これ盗み聞きじゃなくて自分で聞いたのか?」
「あぁ、当然だ」
 オレだったら絶対無理だ。
 一瞬言葉を失いつつ、手に取ったブッセへ視線を戻す。爽やかなレモンの香りも相まって、つい頬が緩んだ。
 遠慮なく一口頬張ると、レモンクリームが口いっぱいに広がる。甘すぎないそれはそのまま緩やかに口の中でほぐれていき、静かに消えていく。
「……美味い」
 言葉も、感情もなにもかもが零れ落ちる。
 重すぎないクリームも、泡のように溶けていく生地もなにもかも。あっという間になくなるから、また手が箱へ伸びる。
 何個だって食べられそうだなんて、そう思った時。ふと、悠真の視線がぶつかる。じっとなにをするわけでもなくオレの事を嬉しそうに見ている。
「な、なんだよ」
「いや、喜んでもらえたようでよかったと思っただけだ」
 なにも食べていないはずの悠真は、ずっと幸せそうに笑っている。まるで自分の事のようで、気恥ずかしくなり喉に詰まる。
「……まぁ、美味い。さんきゅ」
 照れ隠しの自覚はあったが、こいつには今のでじゅうぶんだったらしい。そうか、と小さく呟くと満足そうに笑いじっとオレの事を見ている。
「直くんは、いつから甘いものが好きなんだ?」
 世間話のような、そんな言葉。
 考えた事がなかったそれに手を止めると、そうだな、と記憶を手繰り寄せた。
「覚えてる限りだと、幼稚園」
「昔からなんだな、洋菓子が多く見えるが和菓子は食べないのか?」
「いや、和菓子はどっちでもない」
 だからと言って、嫌いではない。むしろ好きな部類。ただそうごまかしたのは、悠真にも伝わったらしい。不思議そうに首をかしげたそいつを見て、言葉を選び直す。
「和菓子は確かに美味いけど、ばあちゃん家の味がする」
「それは……?」
「オレの家、和菓子屋なんだ」
 だから、なによりも親しんだ味。
「嫌いじゃないし美味い、けどいつも近くにあったものだから、特別な時の甘いものではなかったんだ」
 朝起きると漂う、小豆やもち米を仕込む香り。甘いものを好きになるきっかけである事には変わりなくて、甘いは和菓子しか当時のオレにはなかった。それが覆ったのが、だいたい幼稚園の時。
「ばあちゃんと出かけた時に喫茶店でおごってくれた、デラックスパフェ……それがすごく、美味かった」
 粒あんで育ったオレにとって初めてのクリームに近かったそれは、口に入れた時衝撃的だった。見た目から想像していたよりもあっさりしたクリームと、突然現れる冷たいアイス。果物は飾り切りをされていて、幼いオレの顔より大きいはずのそれはすぐに平らげてしまった。
「――甘いは、嘘つきだ」
 想像できない味が、スプーンの上でオレを見ているから。
 思えば、あの時からかもしれない。
 オレにとって、甘いが嘘つきで特別なのは。
 スプーンで掬った宇宙の中に、想像できない味が広がっている。それが、あの時のオレにはどんな宝石よりも輝いているように見えたんだ。
「なるほど……それが、直くんが甘いものを好むきっかけだったんだな」
「まぁ、好むと言っても和菓子は昔から好きだから、それ以上好きになったって言い方のが正しいかもしれねえけど」
 だからオレは、嘘つきな甘いものが好き。
「そういうお前は? 甘いもの得意じゃないとか言ってたけど、そういうのが口に合わなかったのか?」
 オレの身の上話ばかりはなんだか癪だからと、今度はオレの方から話を投げる。
 瞬きをした悠真は考えた事もなかったようで、さっきまでのオレのように少しだけ考える仕草を見せた。けれどもすぐなにかに気づいたように顔を上げて、小さく頷く。
「元々、甘いものを食べる環境になかったのが大きいかも知らない……こういった箱に入ったお菓子は常日頃来客からの土産で貰っていたが、それも手は付けなかった。時折口にするのはもちろんあったが、甘すぎるのは普段食べていないからなのか慣れていないからのか、どうしても甘ったるく感じるんだ」
「いや、こういったお菓子を手土産にする来客って、何者だよ……」 
 薄々思っていたけど、悠真の実家はそれなりに顔の広い家なのかもしれない。
 それが会話の端々から伝わってきて、下町の和菓子屋に育った身としては羨ましい限りだが、オレにはわからない悩みがこいつにもあるんだろう。
「直くん」
 ずいと、顔を近づけてくる。
 吐息と吐息が重なりそうなそれに呼吸を浅くすると、悠真は気にしていないように言葉を続ける。
「もしよければ、またお菓子を持ってきても構わないだろうか? 家にあるお菓子も、食べられず捨てられる場合がある……それなら、俺は直くんに食べて欲しい」
 無理強いするわけでもない、けれども断るのは少し難しい言葉。
「……美味いお菓子に罪はないって、ばあちゃんの口癖だから」
 だから、和菓子も洋菓子も嫌いじゃない。
 甘いは幸せだから、ただそれだけ。
 誰かと一緒にいなくてもいい、喧嘩だって今のままでいい。
 そう思える自分は、ずいぶん幸せな奴だと思う。
「それにしても本当にお前、よく飽きないよな」
 オレが食べている姿を見て嬉しそうにする奴なんて、ただのもの好きだ。
 そんな皮肉を込めたはずなのに、一度ゆっくりと瞬きをした悠真はすぐに頬を緩めてそうだな、と言葉を続ける。
「俺は、幸せそうに食べる直くんを見たいんだ」
 いつもの、目が眩むくらいまっすぐな言葉。それがあまりにも眩しくて、つい呼吸の仕方を忘れてしまう。ろくに噛まず、大きな塊のままブッセが喉を通っていく。ごく、と音を立てたそれの味はわからなくて、まっすぐすぎる悠真の言葉に上手く返せる言葉は持ち合わせていない。
「そ、そーかよ」
 いつもの嘘だって、虚勢だって出てこない。
 ごまかす事もできず黙ったままブッセを口へ運ぶと、また悠真は楽しそうに笑っている。
「……なにがおかしいんだよ」
「いや、口に合ったようでよかったと思っただけだ」
 やっぱり、こいつには嘘がつけない。
 なにもかも見透かされているようで、それなのに居心地が悪いとは思えなかった。
 誰かと一緒にいる必要なんてないと、そう思っていたのに。それなのにこいつを不快に思わない理由が、見つけられなかった。ドロドロに溶けたホイップクリームの中のような、そんな感覚。こいつと一緒にいると、ずっと甘い中に閉じ込められているみたいだ。嫌とは、不思議と思わなかった。
「直くん、今度クレープ屋さんに行かないか?」
「は? なんで?」
 突拍子もない言葉に、目を丸くする。
「さっき話した、アニマルクレープだ。来週どこかで一緒に行かないか?」
「なんでオレなんだよ」
「直くんと、行きたいんだ」
 オレの名前を強調するように言われて、つい言葉を飲み込む。その言葉に嘘はなくて、それでもオレの方が耐えられずわざと目線を逸らした。
「お前、甘いの苦手だろ。行かねえ」
 また言葉は、そうやって嘘をつく。
 それなのに表情まで隠せているのかはわからなくて、自分が自分ではなくなったみたいだ。
「そもそも、なんでオレとなんだよ。お前なら他に行く奴見つけられるだろ」
 なにも、オレに構う必要はない。
 オレと慣れ合ったところでメリットはないし、この前みたいにこいつが周りから距離を置かれるだけだ。それは、オレのせいでこいつが孤立するのはなんだか気に入らない。
「何度でも言うが、俺は直くんとがいいんだ」
「だから、なんでっ」
「俺は、幸せそうに食べる直を見たい」
 そんな熱を孕んだ言い方をされたら、これ以上なにも言い返す事ができない。
「……もの好きな奴」
「そう思ってくれて今は構わない」
 構えよ、今のは罵ったのに。
 まるで今の言葉すら嘘だとみられているようで、どれだけ突き放してもオレに近づいてくる。もしかしたら、この気持ちも全部バレてしまっているかもしれない。
「なら少しだけ、考えておいてほしい」
 オレを第一に考えているような言い方に対してだって、とっくにオレは心を許している。それでも答えを返さないのは、もはや無駄な抵抗なのかもしれない。
 やらかしたと思うのと手が出るのは、だいたいいつも同じタイミングだ。
 骨の軋む音が聞こえて、深く息を吐き出す。足元に転がったそいつを見て、またふつふつと腹の中で湧くのは名前の知らない感情だけだ。
 孤独に近いようか、寂しさに近いような。怒りにも似ているかもしれないそれは、ずっとオレの腹で居座っている。
「二度と、オレに構うな」
 きっと、この言葉も聞こえていない。
 地を這うような声も、なにもかも。結局オレの生きる世界なんて同じなんだ。
 そう思っていたのに、ふと浮かんだのはあいつの顔で。
 少しだけ、胸の奥が痛む気がした。
「……本当にオレ、どうしちまったんだろうな」

 ***

「直くん、口に合うだろうか」
 悠真の言葉に、意識を戻す。
 まだ、あの骨が軋む感覚は手に残っている。そのはずなのに今あるのは空の梱包の袋で、まるで世界がなにもかも変わったかのように思える。あれだけ人を殴ったはずの手が、今は悠真からの優しさに包まれている。居心地はいいはずなのに、言葉にできない罪悪感が顔を覗かせた。
「……直くん?」
「悪い、考え事してた。これすげえ美味いよ」
 ありがとうなと返すと、それだけで悠真も嬉しそうに笑う。それがなんだかオレも嬉しくなって、また箱の中に並んでいるお菓子へ手を伸ばした。
「ここのお菓子、どれも美味いよな。オレ好きなんだよ」
 一度、家の常連さんがくれたフィナンシェ。確かそれも同じ店のものだったはずで、一口噛んだ瞬間溢れるようなバターの香りとカリッとした食感は今でも忘れられない味だ。
 遠い記憶にある味を思い出しながらまたそれに手をつけると、レーズンやドライフルーツの香りが鼻を抜けていく。さっきまで別のものを食べていたのに、つくづく自分の腹の底なし具合には驚く。
「ん、美味い」
 小さく頷いて、数口でなくなる。寿命数十秒のお菓子が名残惜しくまた手を伸ばそうとして、悠真の視線に気づいた。
「……どうした?」
「いいや、やはり直くんがなにかを食べているのを見る事が、好きだなと思っただけだ」
 悠真は相変わらず、じっとオレの事を見ている。
 本当になにが面白いのかわからないが、それでもこいつがいいならオレもそれでいいと思えた。
 わかっている、オレが変わってきている事が。
 オレが、こいつに心を許し始めているって。
 けれどもそれを言葉にするのはなんだか癪だったから、言ってやるつもりはない。むしろ悠真もそれで満足しているらしくて、だからこそ気まずいという感覚はあまりなかった。
「あれ」
 悠真がなにかに気づいたように、手を伸ばしてくる。
「……直くん、この怪我は」
「あっ……なんでもねえよ、少し転けただけだ」
 ここにくる前の、あの時のもの。
 それはすぐにわかったが、正直に言うのはなんだかはばかられた。上手く隠したつもりだったがだめだったようで、悠真は少しだけ苦しそうな顔をする。
「……本当か?」
「本当だって」
 また、小さな嘘をついた。
 今までと同じはずなのにまた胸の奥が苦しくなって、それだけで顔をしかめる。本当に、らしくない。こんな嘘、いつもと変わらないのに。
「なら、いいのだが」
 少し歯切れは悪かったが、悠真もオレの言葉を信じたらしい。またチクリと胸の奥が痛くなったが気づかないふりをして、フルーツケーキを口へ運ぶ。
「……ん?」
「直くん?」
「誰かくる」
 半地下になっている調理実習室は、本来階段の音がよく聞こえる。悠真はあの時慎重に歩いていたのかまったく聞こえなかったが、普通に階段をおりるだけでもかなり大きい音になるはずだった。
 そして、今も。ドタドタと一段飛ばしだろう音はこちらに近づいてきて、ドアの方へ目を向けるのとそれが開け放たれるのはほぼ同時の事だった。
「スナ~! 差し入れだぞ……って、あれ?」
「げ……」
 喉の奥から、潰れたような声が漏れ出る。
 それは突然襲来した存在が大きく、ついあからさまに顔を歪めた。
「珍しい、先客がいる」
「おい、ノックくらいしろ。あとさっさと閉めろ」
 後ろで全開になっているドアを閉めさせて、肩を落とす。横からガタと音がしたと思えば、こっちは悠真がなにやら立ち上がっていた。
「お、俺達はなにもしていません!」
「おい、悠真?」
 慌てたようにオレを隠す悠真の行動が最初理解できなかったが、しばらく考えたところでオレの手の中にあるそれに気づく。
 コンビニで買ってきたベルギーワッフルと、悠真が持ってきたフルーツケーキ。それを手に持ったオレとゴミをどうやらこいつは隠しているようで、嘘がつけない癖に必死な顔でごまかしていた。
「あー、なるほどな……」
 理解して、状況を見る。
 ぷるぷると震える悠真はなんだか可愛くすら思えて、愛おしいと思えた。
「ふふ、ふは!」
「す、直くん……?」
 あまりに危機迫ったそれに我慢ができず、ついには笑ってしまう。そんなオレの行動に二人は首をかしげていて、初対面のはずなのに動きが同じだからそれも輪をかけて面白く見えてしまった。
「ありがとな悠真、けどこいつには隠さなくて大丈夫だ」
「俺と直くんはただ……え?」
 手招きをすると、そいつはオレと悠真に近づいてくる。
「紹介するよ、こいつはシュウ。オレの顔馴染みだ」
「顔馴染みなんて、幼稚園からの幼なじみと言ってくれてもいいだろ」
「誰がお前なんかと幼なじみだよ」
 そこまでは親しくないと言えば、シュウは少しだけ残念そうにしつつ悠真に視線を移す。どうやら、興味の対象は完全に移ったらしい。
「初めまして、俺は三年普通コースの菊池秀哉(きくちしゅうや)だ。気軽にシュウって呼んでくれればいい」
 軽く名乗ったシュウは、物珍しそうに悠真を観察する。それは悠真もわかっているようで、少し警戒しつつも小さく頭を下げた。
「二年特進コース、笹川悠真と言います」
「特進コース……スナ、どこでこんな優良物件捕まえてきたんだ?」
「悠真を物件扱いするな」
 ぶっきらぼうに言葉を返してもシュウは気にしていない様子で、楽しそうに笑っていた。
「にしても意外だな、スナがこんな真面目くんと仲良くするなんて……それに、あれだけバレたくないって言っていた甘いものも平然と食べている」
「なんだよ、悪いか」
 正直、バレたのは事故に近いと思うけど。
 そんな事知る余地もないシュウは、感心したようにじっとオレと悠真の事を観察している。
「……いや、嬉しいと思っただけだよ」
 なにが嬉しいのかは、教えてくれなかった。
 ただシュウは本当に嬉しそうに笑うと、フルーツケーキの残骸をじっと見ている。
「あれ、これは?」
「それは、俺の家に残っていたフルーツケーキです。あいにく甘いものが得意ではないので、直くんにあげていて」
「え、スナ人からもらったお菓子食べてるのかよ」
 驚いたように声を張り、オレを睨む。
「す、スナ最近俺のあげるお菓子は食べてくれないのに……!」
「いや、元々シュウのはオレの口に合わないのが多いんだよ」
 クリーム系が好きだと知っているはずなのに、こいつは大真面目にアラレとかおはぎを持ってくる。あとはそう、変わり種のグミとか。嫌いなわけではないけど、これを一日複数回持ってこられる事もあるとさすがに飽きてしまう。
「……ユウくんだったね、今から俺のライバルに認めてあげるよ」
「いやそういうのはいいって」
「あ、ありがとうございます!」
「悠真も真に受けんな」
 天然ド真面目な悠真だ、シュウの話をすべて信じてしまいそうで心配になる。気取られないように二人の間に入ると、好奇心旺盛にシュウの方から顔を近づけてきた。
「で、どこで知り合ったの」
「……ここだよ」
「……え、調理実習室?」
 不思議そうに、目を丸くした。
「色々あったんだよ……いいだろ、別に」
「いや、いいのはそうだけど……」
 とりあえず、一から説明をするのはなんだか嫌だった。シュウにそれ以上は話さず目を伏せると、シュウも思う事があったらしい。なにかに気づいたように、表情を柔らかくする。
「ふふ、本当にユウくんはスナにとって大切な存在なんだね」
「は、なにが」
「スナ、気づいてないのか? ……お前、だいぶん目が優しくなってる」
「は……?」
「彼に絆されでもしたか?」
 確信をつく言葉に、つい顔をしかめた。
 絆されたなんて、そんな。
 頭ではそんな事ないと考えているのに、それを言葉にするのはなぜだかできなかった。いつも通り適当に言えばいいのに、それをオレの中でなにかが拒んでいる。
『直くんは嘘つきでも悪い人でもない』
 あの時向けられた言葉が、反響する。それに嘘がないのは、もちろん知っていた。
「……そうかも、しれねえ」
「……へえ」
 オレではなくシュウが自分の事のように嬉しく笑い、悠真を見る。なにかを企んでいるようで止めようとしたが、それよりも先にユウくん、と名前を呼んだ。
「よかったねユウくん、君が思っている以上にスナはユウくんに骨抜きだよ」
「おいシュウ!」
 本当にこいつ、昔から余計な事を!
「骨抜き、それはとても光栄な事です」
「悠真、しばらく経っていじられるのはオレだからなにも言うな」
 昔からシュウはそういう奴だ、だからと止めた言葉も後の祭りとかで、シュウは気にする事なく話を続ける。悠真も悠真で生来クソ真面目な面を発揮して耳を傾けている。
「けどユウくん、こんな奴と一緒にいて楽しいか? なにかいじめられているとかではないよな?」
「おい、シュウ」
 いい加減にしろよこいつ。
 調子に乗り始めているそれを止めようとしたが、それよりも先に悠真の声が聞こえる。そうですね、と紡がれた言葉はやけに嬉しそうだ。
「確かに、直くんは時々嘘つきですがそれもまた直くんらしい一面だと思います」
「お、今俺もしかして惚気られた?」
 その返しはオレが恥ずかしくなったが、ここら辺の会話は悠真の方が上だったらしい。
 なにかを思い出してまた笑う悠真だったが、ふとその表情に影がさす。
「……ただ」
「ただ?」
「俺の知らないところで、直くんはすぐ怪我を増やすのが心配です」
「おい悠真も、余計な話するな」
 収拾つかなくなる前に、この話題を止めないと。
 身体を乗り出してもそれを見越したシュウに、そっと押さえつけられる。そして器用にオレを押さえつけたまま首をかしげたシュウは、すぐ不思議そうに目を細める。
「スナの怪我はいつもの事だけど」
 なにかを考えるような素振りをしたが、すぐ気づいたようにふうん、と言葉を落とす。
「なるほど……スナ、その話はしてないんだ」
 オレの指先が、小さく跳ねる。なにを言っているのかは、言葉にしなくてもわかってしまう。
「なんで? もしかして――ユウくんを傷つけたくないとか?」
「それは……」
 なにも、言い返す事ができない。図星だった。
 無意識に考えていたらしいそれは、一言だけでじゅうぶんすぎるダメージがある。
 オレの無言は、どうやら肯定と思われたらしい。
「……スナが珍しく心を開いているのはいい事だが、ちゃんとこういった話はしないと」
「悠真には、関係ない」
「本当か? もしスナと一緒にいるからってユウくんが巻き込まれたら……スナは責任取れるのか?」
「……それは」
 なにも言い返せない、シュウの言う通りだ。
 悠真を遠ざけるためなのに、もし悠真になにかあったら悠真自身が身を守れない。確かに悪手だったかもしれないと顔をしかめると、不本意だが自分のペースに話を持っていったスナは悠真の方へ顔を向ける。
「難しい話ではない……スナはよくも悪くもお人好しだからちょっと人助けをして、それから目をつけられた。よくある話だよ」
「人助けをしたのに、目をつけられたんですか?」
「漫画とかであるよね、いじめを指摘したら自分がターゲットになるの……スナはそこで、うっかり反撃したんだ。そしてそこで、圧勝してしまった。そうだろ、スナ」
 あまり思い出したくない話に、目を逸らす。シュウの言っている事は、オレの過去そのものだ。
 始まりは中学生の頃、クラスで陰湿ないじめがあった。
 ターゲットは別に仲が良かったわけでも、悪かったわけでもない奴。いじめの主犯は学区内でも問題になっていた不良グループの下っ端で関わりはなかったが、今思えばあれがイキリというものだったかもしれない。どちらにせよ目の前で起こるそれは見ているだけで不快で、つい指摘をして殴り合いに発展した。
 そこでうっかり勝ってしまい、後日その不良グループがオレのところへお礼参りにきたのが、すべての始まり。
 歩けば喧嘩を売られて、それを買う。
 別に孤独なんてものではなかったはずなのに、当然ながら徐々に学校でも孤立をして行ったオレにとって、いつからかその居場所は喧嘩に変わっていた。
 家からなるべく遠い場所と、小学校から同じで近所に住むシュウが通っていた大栄高校に進学しても、噂はどこからか勝手にやってくる。
 遠い進学先を選んだって喧嘩は絶えず、結局は昔となに一つ変わらなかった。そう、悠真に出会うまでずっと。
「……はぁ」
 嫌な事を思い出した。
 小さく首を横に振りながら遠い記憶を振り落として、深く溜息をつく。
「シュウ、もういいだろ」
 鋭い言葉で遮ると、さすがのシュウも意地悪な笑顔を貼り付けながら軽く両手を上げた。
「はいはい、そんな怒るなよ」
「うるせえ」
「ユウくんの反応を見る感じ喧嘩の話を一切してないみたいだけど、もしかして理由でもあったのか?」
「……理由なんて」
 理由なんて、考えてなかった。
 ただオレの中でもわかるのは、誰かを殴るのも骨の軋む音を聞くのも悠真といる時はしたくないって事。ただ、それだけははっきりとわかる。
 多分、多分の話だけど。
 悠真と過ごすこの時間が、オレにとってなによりも優しくて。穏やかじゃない話題をする暇なんてなかったのかもしれない。そして、その話題によって悠真がなにを思うかがわからなくて、怖かったのかもしれない。もしもオレを拒絶したらなんて、そんな事を。
 ひどく臆病だと、つい自虐的に笑う。
「さぁ、なんでだろうな」
 けど、これを言ってやるつもりはないから。
 オレの中でしまい込んで、きっと一生言ってやらない。
 自分のパンドラに隠した気持ちは、もしかするとシュウにはバレてしまったかもしれない。それでも触れず、そうか、と言葉を続けてきた。
「スナがそれでいいなら、俺はなにも言わない」
 見透かされたのか、それはわからなかった。
 けれどもシュウの言葉にも優しさはあって、オレの身を案じているのは手に取るようにわかる。
「という事で、ユウくん」
「はい」
「そいつは、スナは敵が多い……君だけは、拠り所になってあげてほしい」
「なに言ってんだよ」
「そのつもりです」
「悠真も真面目に答えるな」
 本当に、これ以上悠真に変な事を言わないでほしい。
 いい加減追い出してやろうかと思ったところで、シュウもそれを察したのかゆっくりと腰を伸ばす。さっきから手に持ちっぱなしだった箱を置くと、ヒラヒラとオレ達に手を振っていた。
「じゃあ、俺も受験で忙しいし邪魔者は退散するよ。スナ、ここにお菓子置いておく。また様子見にくるからな」
「こなくていい」
 追い払うように手を動かしたところで、きっとシュウは見ていない。本当に急いでいたのか挨拶もほどほどに廊下の方へ足早に去っていく。
「受験って、お前就職組だろ」
 閉まりきったドアに舌打ちをしたって、本人はいないから許されるはず。
 嵐のように現れて嵐のまま去った昔馴染みに肩を落とすと、自然と悠真の方へ目がいく。
「…………」
「……悠真?」
 シュウが帰った途端黙り込んでしまった悠真を覗き込むと、やけに真剣な顔でなにかを考えているようだった。
「悠真、聞こえてるか」
「……え、あ、あぁ。すまない、先程の菊池先輩との会話を思い出していたんだ」
「うるさかったよな、悪い。しばらくここにはくるなって言っておくから」
「それは気にしていない。まったくきていただいても構わない……構わない、のだが」
「なんだよ、言ってみろ」
 やけに言葉を含ませるから、また顔を覗き込む。
 なにかを躊躇っているのか最初こそ目を泳がせていた悠真も、話すまでじっとしているオレに押し負けたようで意を決した様子でそれは、と言葉を続けた。
「いや……少し、妬けただけだ」
「妬いた?」
 シュウとの会話の中で、どこに妬く要素があったのか。わからず言葉を返すと、悠真の視線とぶつかる。アイスグレーの瞳は揺れていて、まるで悠真の感情そのものだ。
「俺の知らない直くんを、あの人は知っていた。それが少し、羨ましく思えたんだ」
 もごもごと、言葉の最後の方はこもった声になっていく。申し訳なさそうにする様子すらなんだか面白くて、しばらく観察してしまう。ふと堪えきれずに笑い、そのまま右手で悠真の髪の毛をかき回してやる。
「うわ、す、直くん」
「本当にお前、可愛い奴だな」
「す、直くん、俺は真面目に!」
「安心しろ、シュウだって知らない事はたくさんある……悠真だけが知ってるような事も、ちゃんとある」
 きっと、悠真にだけだ。
 学校の奴の前で笑っていられるのも。
 らしくもなく嘘で着飾らなくていいのも。
 オレを、オレらしさを出すのも。
 全部、悠真にだけ。
 そこで、なんだかオレがとんでもない事を考えている気分になる。これじゃまるで悠真に染まっているようで、悠真に全部を明け渡しているみたいだ。気づいてしまえば脳みそまで沸騰するようで、なんとか言葉を飲み込みながらそれを隠す。
「シュウが置いてったのでも……って、これ箱入りだ」
 置かれていたシュウのそれに手を伸ばす、普段はいやいや開けるはずなのに今はその存在だけでも有難いと勝手に思ってしまう。
 明らかにコンビニスイーツや変わり種グミではないとわかり、少しだけ声が弾んだ。いそいそと箱を開ければ甘い香りが漂って、ハードめなシュー生地が静かにこちらを見ている。
「お、珍しい……シュウのやつシュークリーム買ってきた」
 箱のロゴを見ると、学校から一番近いケーキ屋のもの。わざわざ買ってきた辺り、もしかするとあいつも差し入れのラインナップは気にしていたのかもしれない。後でお礼は連絡するとして、考えるよりも先に手が伸びる。粉砂糖でドレスアップされたそれは強く持っても形を損なわず、ところどころ配置されたナッツの香ばしい匂いが食欲をくすぐる。
 いつだって食べ方に困るシュークリームも、口に入れてしまえば同じ。勢いよくかぶりつくと、卵の香りが口いっぱいに広がる。
「ん、めちゃくちゃカスタード入ってる」
 反対の方から飛び出しかけたクリームをなんとか止めたが、代わりに口の周りからカスタードクリームが少し出てしまう。かなり詰め込まれていた、あっさりめでありながら濃厚な卵のカスタード。上に乗ったナッツと相性がよく小さく頷いていると、あ、と悠真から声が上がる。
「直くん、クリームが付いている」
 年下に話しかけるような声音は少し心外だったが、両手でシュークリームを持ってしまっているから取る事もできない。
 ん、とクリームが付いているのだろう頬を差し出すと、息を飲む音が聞こえる。場違いなそれに目を向けると、なぜだから悠真は目を丸くしてじっとオレの顔を見ていた。感情の読み取れない表情が、目の前にある。
「……悠真?」
 静かに、オレの事を悠真が見つめている。
 なにも言わないその姿に首をかしげると、また悠真はごくりと喉を鳴らす。
「おい、ゆーま?」
 拙く名前を呼んでやっても、反応はない。
 むしろ表情は固くなる一方で、不意に右手が伸びてきた。取ってくれるのだろうかと待ってみるとそうではないらしく、指先はなぜかオレの唇を撫でていた。
 なにがしたいんだ、こいつ。
 理解できない奇行にかける言葉を悩んでいると、ゆっくりと唇を押される。ふに、と少し力を加えて押されたそれは、痛くないがくすぐったさがある。
 何度か押されて、悠真の呼吸が浅くなる。表情は変わらないのに、それは狩りをする獣のようで。
「……直くん、いいだろうか」
 悠真、と名前を呼んだつもりだ。
 けどそれは、言葉ごと悠真に食べられてしまう。
「ゆう、んっ……」
 柔らかいなにかが、唇と緩く重なった。
 温もりすら感じるそれは優しく、啄むように触れていく。
「ん、ふっ……」
 今オレ、悠真にキスをされている。
 気づくには少し時間がかかって、呼吸の仕方すら忘れてしまう。突然の事で、けど拒むという選択肢はなぜか思い浮かばなくて。ただ与えられる温もりに、目を瞑る。
 甘い、初めてのキスはカスタードクリームの味がする。
 レモンよりも甘い、それなのに熱烈な味がする。熱くて、脳みそまで溶けてしまいそうで。重ねただけのそれにすら、呼吸を浅くするにはじゅうぶんだった。
 こんな甘い、オレは知らない。
 甘くて苦しくて、ずっと心臓は暴れ回っている。
 きっと一瞬だった、それでもオレにとっては永遠だった時間で、名残惜しそうに悠真の唇が離れていく。あ、と自分でも驚くくらい切ない声が漏れると、悠真の方が目を丸くした。まるで、我に返ったような、そんな顔だった。
「ゆう、ま」
「直くん」
 サッと、悠真の顔から血の気が引いていく。罪悪感や苦しさが入り交じったような顔はオレに向けられていて、呼吸も止まる。かと思えばすぐ顔を真っ赤にして、わなわなと指先を震わせていた。
「――よ、用事を思い出した! すまないが先に帰らせてもう!」
「あ、おい待て!」
 脱兎のごとく調理実習室を飛び出したそれを止めようとしたが、逃げ足が早いようで慌てたように階段を駆け上がる音が聞こえてくる。
 それも普段は静かに歩く癖に、かなり大きい音で。
 誰もいなくなった調理実習室に残されたのは、オレ一人。他の部活の音もなにもかも遠くに聞こえて、オレだけが違う世界にいるようだ。
 夢の中にいるのと似ているような、そんな感覚。
 けれども身体の火照りは、夢ではないと現実を突きつけてくる。
「今のは、つまりそういう行為で……」
 無意識に、指先がさっきまで温もりを感じていた唇をなぞる。
 腰が抜けてその場に座り込むと、冷たい床が追い打ちをかけるように現実を見せてきた。
 やっぱりオレ、悠真にキスをされた。
 啄むような、けど愛おしそうな表情でキスを。
 アイスすら溶けるような熱量はオレの中でずっと燻っていて、呼吸をするたびに喉が焼けるような熱さだ。
「……なんで」
 なんでキスをしてきたのか、どういう気持ちだったのか。
 聞いてやりたい事は山のようにあるのに、そこまで頭は回らない。
 ただ残っているのは痛いくらいに騒がしい心臓と、浅い呼吸。それから、沸騰しそうな思考回路だけ。そしてなによりわからなかったのは、拒絶しなかったオレ自身の気持ち。
「なんで、オレ……今の、嫌じゃなかったんだよ」
 オレの知らない甘いなにかが、緩やかに溶けていくようだった。
 サッカー部の声が、半地下の調理実習室まで響く。
 ふと耳を澄ますと乾いたボールの音の中に聞こえたのは確かな足音で、おもむろに顔を上げる。コツ、と遠慮がちに響いた音の後、ゆっくりと開けられたドアの向こうにそいつは立っていた。
「お、きた」
 自分でも、ずいぶんお気楽な声だったと思う。案の定そいつ、悠真も驚いたように目を丸くするともごもごとなにか言葉を選んでいるようだった。
「……会いに行かなくて、すまない」
「いや、元々頼んでねえって」
 あの日から、だいたい一週間。
 めっきりオレの教室どころか調理実習室にも顔を出さなくなっていた悠真が、苦しそうな顔でそこにいた。
「特進コース、今テストか?」
「いや、そうではないが授業が普通コースよりも一時間多いから」
「うわ、オレやっぱり特進コースは無理だ」
 くわと欠伸をしながら言葉を落とすと、また悠真が目を丸くした。ずっと驚いた表情をしたまま、オレの事を見ている。
「……また、怪我が増えている」
「んあ、あー、これは……」
 悠真がこないから暇で早く帰ったら喧嘩に巻き込まれる事が多かったなんて、そんな事は口が裂けても言えない。
「猫に引っかかれただけだ」
「本当、だろうか」
「あぁ、本当。だから気にすんな」
 あくまでも普段通り振舞ったはずなのに、悠真の顔はどこか不安そうに顔をしかめる。
「その、直くん」
「なんだよ」
「……なぜ、直くんは気にしていないんだ」
「…………」
 なにが、とは言わなかった。
 ただそれだけで言いたい言葉はじゅうぶんわかるから、ううん、と考える仕草をする。指で無意識になぞった唇は、まだあの時の事を覚えている。暖かくて、微かに震えたそれはオレの感情みたいだ。
「なんでって、聞かれても」
 わからないと言おうとした言葉は静かに飲み込んだ。わかるわけがない、わかりっこない。そのはずなのに、今選ぶ言葉じゃないと思ったから。
 最適な返事は見つけられず、ぐるぐる回る思考に沈む。けれどもやけに頭は冴えている気がして、それが自分の事なのに他人事のようにすら思えた。
「……なんでだろうな」
 曖昧に笑って、言葉を濁す。
 ずっと、あれから考えていた。あの時どうして、オレが悠真を拒まなかったのか。結局答えは見つからなくて、代わりに残ったのは嫌じゃなかったという感情だけ。
 けど、本当はわかっている気がした。
 それと同時に、オレが言葉にできるほど強くないのもわかっていた。
 こいつならと、こいつだからと思っているのは気のせいじゃない。それすら言葉にするのは難しくて、ふとオレの中に居座っている天邪鬼を恨む。オレもこいつみたいに、悠真みたいにまっすぐならどれだけ楽だったんだろうか。
 こいつも、オレも。
 つくづくバカだと思う。
 こんな奴と一緒にいなくてもいいと思っていたはずなのに、隣にいるのは悪い気分じゃない。そんな事を考えていると、オレがなぜ黙っているか知る由もない悠真は不安そうにオレを見つめてくる。
「やはり、怒っているだろうか」
「なにブツブツ言いながら突っ立ってんだよ」
 そんな悠真もなんだか面白かったけど、さすがにこれ以上いじめるのはやめてやる。怖がらせないように笑いながら立ち上がると、そんなオレの行動に悠真の肩がピクりと揺れる。いつものキャップを目深に被ると、そのまま適当に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「す、直くん、その」
「行くぞ」
「……行く?」
 噛み合わない会話に、少し顔をしかめていた。
「どこに」
「どこって、外に決まってんだろ」
 からかうように笑って手招きをしてやる。
 例えばそう、コンビニに誘うような感覚で言葉を選んだ。

「ほら、校外活動しに行くぞ。連れてってくれんだろ、美味いクレープ」

 ***

 まだ部活の時間だからなのか、それほど客が並んでいるわけではない。それでも夕方と考えればじゅうぶん人のいるそこは、甘い香りで包まれている。
「悠真は、なににする?」
「俺はそうだな、ブラックコーヒーを」
「了解」
 相変わらず甘いものが得意ではないらしい悠真はこれだけとして、オレはどうするか。
 レジの横に置かれたメニュー表には、本当にクリームで作られているのかと疑ってしまうほど出来のいい動物の写真が載っている。
「ハリネズミと、アルパカ……」
 アニマルクレープなんて名前だからどんなものかと思えば、本当に動物を模したクリームがクレープの上に鎮座している。ハリリくんのクレープと、アルちゃんのクレープ。よく見ればその後ろにあるテイクアウト用のショーケースにもハリネズミのようなものが見えて、多分だけどこれが悠真の言っていたものだろう。
「悠真は、ハリネズミとアルパカどっちがいいと思う?」
「俺が、選んでもいいのか?」
「オレが選ぶと決めらんねえから、興味ない奴に選んでもらった方がいいだろ」
 なるほど、とオレの返事に言葉を落とした悠真は、なぜかメニュー表ではなくオレを見ている。
「俺は……そうだな、ハリネズミのハリリくんクレープがいいと思う」
「おい、今の間でなんでオレを見た」
 ごまかすつもりがないらしい視線がオレを刺したから、つい声を低くした。
「いや、直くんみたいだなと思っただけだ」
 なんとなく予想してた答えには、あえてそれ以上は触れなかった。
 オレのクレープとセットのストロベリーソーダ、悠真のコーヒーを頼み会計を済ます。
「ほら、中行くぞ……ん?」
 少し狭くなった入口で、数人の大学生らしき男とすれ違う。これならオレ一人できても問題なかったかもしれないと思ったが、誰かに会ったらと考えると無意識に帽子を深く被ってしまう。
「直くん、ここはどうだろうか」
 他の客から少し離れた、観葉植物で目隠しにもなっている席。
 人目を気にしなくていい席に腰をおろすと、そのままキャップを取る。
「女性向けと聞いていたが、思った以上にカジュアルな店内だな」
「そうだな……いや、ちょっと入る時は勇気いるけど」
 スカイブルーを基調にした入口は、ファンシーと表現したほうがいいものだった。中のシンプルな木目調とは正反対で、かなり勇気がいるものだ。
「……楽しそうだな、直くん」
「は? なんだよ突然」
「いや、直くんが楽しそうで俺も楽しいと思っただけだ」
 なんだそれ、わけわかんねえ。
 目の前で微笑むそれすらつい見てしまって、なにも言う事ができない。
 夕焼けの差し込む店内で、オレと悠真だけ切り離されたようで。それだけでオレの方が悠真を意識してしまって、言葉を詰まらせる。腹の中で居座っているこの感情は、こいつに向けているオレの感情はなんて名前なのだろう。
 きっと、あの日からだ。
 気にしていないふりをしたって、そんなはずはない。ずっとそこにいる感情の名前はわからないままで、なにかを叫んでいるようだ。唇を奪われた事を仔犬に噛まれたのだと言い聞かせたところであの時の暖かさを忘れる事はできず、それが厄介だと思えた。きっと、悠真が思っている以上にオレの頭の中はあの瞬間の事でいっぱいだから。
 多分オレはこの先ずっと、あの時感じたキスの味を覚えている。
 逃げ場のない熱に肩を落とすと、ブブ、と小さく呼出機が手の中で震えた。
「俺が取ってくる」
 スリと手の中から小さい機械を抜き取られると、そのままオレを置いて受け取り口へ悠真が行く。
 こうした行動一つ一つが、人に好かれるところなのだろうか。きっと気のある人間なら一発で落ちるだろうそれを眺めて、同時に今まで考えた事もなかったような内容に他でもないオレ自身が驚いた。無意識に、右手は唇をゆっくりなぞっていた。
「お待たせ……直くん?」
「うお!」
 突然頭上から降ってきた悠真の声に、わざとらしいくらい肩を揺らす。手を引っ込めると運良く見られていなかったようで、不思議そうに首をかしげていた。
「な、なにか持つぞ」
「いや、大丈夫だ。直くんはそのままで構わない」
 両手に持ったお盆の上にはクレープらしきものとドリンクのカップが二つ並んでいた。
「こっちが直くんのだな、ここに置くぞ」
「ありがとう、な……」
 お礼の言葉は、途中で無意識に飲み込んでしまった。
 目の前にあるそれに釘付けになり、手には取らず見つめ合う。
 大きめのクレープの上で器用にオレを見ているそれは、間違いなくクリームで作られたハリネズミだった。たまごボーロの手と鼻、アーモンドの耳。そしてなにより、チョコで作られた目。
「……直くん? なにかあったのか?」
「……目が」
「目が?」
「目が、合っちまった」
 チョコチップの目は、案外罪なものだ。
 それが付くだけでつぶらに見えて、オレだけじゃなくきっと見た人間すべてを魅了してしまう。
「……ふふっ」
「おい悠真、今笑っただろ」
 隠しきれていない悠真の笑顔になんだか強く言えず、むしろ笑われる自覚があったから反論の余地も用意されていない。
 腹を括って、木製スプーンを手に取る。
 呼吸を整えてしばらく眺め、そこでやっと手を動かした。
「……いただきます」
「直くん、顔から行かないのか?」
「うるさい」
 顔はなんだか崩すのに後ろめたさがあって、後ろの方からクリームを掬う。思った以上に固くないそれに驚きつつ口へ運んで、ふと自然と頬が緩くなる。
「ん、美味い……!」
 ここまで形を保ったものだからてっきりバタークリームかと思っていたそれは、正真正銘ホイップクリームらしい。チョコクリームで作られた針もホイップ同様そこまで重たくなく、むしろ軽くて甘すぎない。チョコチップの目とは合わさないようにもう一口とスプーンを突き刺すと、ホイップクリームにしては少し固いものに当たる。固いけど、少し弾力があるような。覗き込むと、餅だろうそれが見える。口に入れると冷たく、すぐその正体はわかった。
「うお、これ中に大福アイス入ってる」
「大福アイス……あぁ、あの餅でアイスを包んでいるものか」
「そうそれ、さすがにクリームだけじゃ形が保てねえのかも……冷たくて驚いた」
 確かに、いくら軽いホイップクリームでも全部だったら飽きたかもしれない。仕込むように隠されたそれは表から見たら想像もできなくて、それが楽しいと思える。
「あぁ、これおもしれえ……やっぱり、スイーツは嘘つきだ」
 見た目からは想像できない、口にして初めてわかる味。甘いもの酸っぱいもわからないそれが面白くて、また一口と食べ進めて行く。悲しいと思いつつハリリくんが半分消えた辺りでスプーンを使わず大きく口を開けると、口の中はクリームでいっぱいになる。
「直くん、またクリームが……」
 指先が、そっとオレの頬を撫でていく。
 それだけのはずなのに悠真は目を丸くして、じっとオレを見て顔を赤くしている。その行動の意味は嫌でもわかって、オレの方まで呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
「……す、すまない!」
「いや、そんな驚かなくてもいいだろ」
 オレの方がびっくりするよ、その声量は。
 咄嗟に引かれた手が少し面白くて、悠真には悪いけど笑ってしまう。それでも悠真にとってはこんな一挙手一投足ですら気にしているらしく、口の中でなにか言葉を転がしていた。
「……俺は、その」
「いいってもう、いちいち落ち込まれたらこっちもテンション下がる」
 言語化するのは難しい感情はオレの中にだって確かに存在していて、だからこそこいつに強く言えないと思っていた。ただ、それだけの理由だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「オレは、もう気にしていない」
 手に残っていたクレープを口の中へ押し込むと、飽きさせないためかベリーの酸味とチョコフレークのザクザク感が、口いっぱいに広がる。
 そんなオレの言葉を、こいつはどう思ったのか。
 驚いたように目を丸くすると、嬉しそうな苦しそうな、不思議な顔を貼り付けている。
「……それは」
「なんだよ、言いたい事があるなら言えって」
 別に怒るつもりはないし、言われたところでこいつの言葉なら気にならないはずだ。
 我ながらかなり不確かな確証に笑ってしまうと、悠真はゆっくり言葉を選び顔を上げる。まっすぐなアイスグレーの瞳に、オレを閉じ込めて揺れている。

「なぁ直くん……直くんは、俺をどこまで許してくれるんだ?」

 投げられたそれは、一瞬なにを言っているのかわからなかった。許すって、なにを。そう言葉を投げる前に伸びてきたのは悠真の手で、そっとオレの頬を撫でていく。それだけでなにを言いたいのかはわかってしまい、あまりにも真剣だから振り払う事はできなかった。
「教えてほしいんだ、どこまで許してくれるのか」
「許すもなにも、それは……」
 どこまで、なんだろうか。
 一度言葉にして聞かれると、オレもよくわからない。ただ腹の底でこいつならいいか、と思っている自分自身がいるのもまた事実で、その答えを見つける事はできない。けど、一つ言えるなら。
「……別に、嫌じゃねえ」
 それだけは、今のオレでもはっきりわかる。
 頬を撫でた手に応えるようおそるおそるこちらからも頬を擦り付けると、少し控えめな咳払いをされた。まずい事でもしたかと思ったがそうではないらしく、悠真の瞳がまた静かに揺れる。
「直くん……そういった事は、俺以外にはやらないでほしい」
「元から相手がいねえって」
 なにに対してなのかイマイチ察する事はできなかったが、悠真にとっては大切な事なのだろう。
 オレの行動も、言葉も。
 きっとこいつにとってはなにもかもが大切で、だからこそ傷つけられたくない。それはオレだって一緒だからこそ、取り繕うように笑い返してみせる。
「ほら、もうなんも気にしてねえ」
「……直くん」
 ふと頬が一瞬緩んだが、すぐ表情を固くする。普段からなにを考えているかわからない時もあるが、今日はそれに輪をかけるように腹の底がわからない。触れていた手がゆっくりと離れて、オレの右手を両手で包み込まれる。
「それでも、ちゃんと謝らせてほしいんだ……勝手にあんな事をしたのは、紛れもない事実で許されない行為だと思っている。本当にすまなかった」
「だから、その話は」
「けど……やはり俺は諦めきれないと思った」
「っ……」
 なにがとは、どうしてだか聞く事ができない。
「直くんにとって、同性をそういった対象としていないのはなんとなくわかっていた。そもそも、直くんがそういったのに興味がないって事も。そしてそれは、俺だって同じのはずだった……けど、直くんじゃなきゃだめだと思ったんだ」
 オレの手を包み込む力が、少しだけ強くなる。
「あの時、俺は直くんに釘付けになったんだ。好きなものを大切に食べて、幸せそうに微笑む直くんに。噂に聞いていたのとは違う、優しい表情の直くんに」
 きっと、あの時。
 出会った時の事をこいつは言っている。手に取るように、懐かしむように大切に言葉を選んでいる。

「俺はおそらくだが、たまらなく直くんがほしいんだ……直くんには笑顔であってほしいとあの瞬間、初めて会った時に思えたんだ」

 オレも、これだけの言葉を投げられて気づかないような鈍感ではない。嫌でもわかってしまうそれはオレだけのもので、真剣な悠真から視線を外す事ができなかった。
「直くん、改めて言わせてほしい――俺は、直くんに俺だけを見てほしいんだ」
 ないものねだりのようで、それでもオレだけを見ていて。やけにうるさい心臓の音が、店内に響いてるように錯覚すらしてしまう。
「……けど、オレ。わかんねえよ」
 好きとか嫌いとか、愛とか惚れたとか。
 そんな感情と無縁だったからこそ、同じ男だからこそ尚の事オレにはよくわからない。
「あぁ、わからなくて構わない」
 小さく、優しく首を横に振る。
「今返事は要らない……俺が、その気になってもらえるよう頑張るから」
 あまりにも熱烈でまっすぐな言葉は、オレを掴んで離そうとしない。それを言われてしまえば否定なんてできるはずもなく、釣られるように首を縦に動かす。
 オレとこいつだけが、世界でふたりぼっちにされたように静かだ。静かで、やけに呼吸だって浅くなる。
 今はただ、この心臓の音が届かないよう願う事しかできなかった。
 チョロい自覚は、正直自分でもある。
 一人でいいと思っていたのに、それでもオレについてくる悠真を突き放す事ができない。歩み寄られると拒否もできない。ドロドロに溶かされるような、まっすぐすぎる言葉に刺されるような感覚。
 それをいつからか受け入れている自分がいるのは事実で、思い出すだけでつい肩を落とす。
 こんなの、こんな言葉は知らない。甘い言葉もオレに触れる手も、スイーツとは比べ物にならない。まるでそう、存在自体甘いなにかが、服を着て歩いているような。
 横を見ればいつだっているその存在は、どうやらオレの思っている以上の感情をこちらに向けていたらしい。
「こちら、ブレンドコーヒーと季節のパルフェになります」
 悠真の前にはパルフェ、オレの前にはブレンドコーヒー。アルバイトだろうその人はテーブルに二つを並べると、そそくさとバックヤードの方へ下がって行く。
「……直くん」
「ほら、取り替えるぞ」
 オレまでなんだか面白くて、取り繕う事なく笑いながら目の前のそれを交換する。
 あれから、熱烈な悠真からのアプローチ宣言から数日。なにか変わるわけでもなく、オレと悠真は普段通りの日常を送っている。
 特になにをするでもなく調理実習室に入り浸って、ただオレがお菓子を食い始める。珍しく外に出た今日だって、何気なくオレが言った期間限定スイーツの話がきっかけだった。
「……本当に悠真、コーヒーだけでいいのかよ」
「あぁ、直くんが食べたいものが今日のメインだからな」
 学校から遠い、小さなファミレス。
 ここのパルフェは期間限定で果物が変わると話したら、悠真も興味を示してならばと足を運んだ。外にいたって、結局は校内にいる時と同じ。なにも、なに一つ変わっていないはず。
「……いや」
 ……あぁ、一つだけ嘘だ。
 全部一緒だなんて、そんなわけがない。
 テーブル越しに送られる視線に気づくと、悠真は首をかしげた。
「どうした?」
「……お前めちゃくちゃ見てくるよな」
「前から、だが」
「そうじゃなくて」
 熱を孕んだ視線は、間違いなくオレを突き刺している。
 それだけで脳裏をよぎるのはあの時の記憶で、耳の方まで熱くなっていくのが自分でもわかる。人畜無害な顔しやがって、中身は大型犬みたいだ。
『俺はおそらくだが、たまらなく直くんがほしいんだ』
 優しいはずなのに、飢えたケモノのような。そんな声は、今も鮮明に残っている。
『今返事は要らない……俺が、その気になってもらえるよう頑張るから』
 その気にとは、つまりどういう事か。
 わからないなりにも思春期のお年頃だ、想像して喉を鳴らす。なにも口に含んでいない、なにかを飲み込んだ。
 ずっとあの日から、オレの心臓はバカみたいにうるさい。それも全部、目の前にいるバカ真面目のせいだ。なのに当の本人は普段通り、むしろ普段よりスキンシップを増やしてオレに近づいてくる。
 これが、その気になってもらうの行為なら。そう考えるだけで、オレの方が勝手に意識してしまう。
 悠真本人としては宣誓でしかなかったのだろうそれはオレには立派に機能していて、どれだけ嘘や意地っ張りで隠しても、このうるさい鼓動だけは隠す事ができない。
「……本当にお前、つくづく罪作りだよな」
「……なにか、気を悪くするような事を言ってしまっただろうか?」
 逆だよ、逆。
 けれどもそれを言ってはこいつも調子に乗るだろうから、言葉にはしない。
 今日の目的に意識を向けると、ライトに反射して果物をコーティングするゼリーが輝いていた。小ぶりなグラスだったが中はじゅうぶんなくらいクリームも詰まっていて、つい頬が緩くなる。
「パルフェとパフェ……なにが違うのだろうか」
「いや、厳密には一緒だよ。アイスメインかクリームメインかで変わるって噂もあるけど結局は決まっていないし、店によって呼び名が違うんだ。そもそもパルフェはフランス語、パフェは英語だ」
「詳しいんだな」
「……これくらい、普通だろ」
 行く店によって名前が違った事が気になり昔調べたのは、今のところ黙っておく。
「語源は完璧な、だったか? オレは詳しく知らないけど、語源のコーヒーゼリーが出来上がってからしばらくしてフランス全土で有名になったらしい……そこで作られたのが、パルフェでありパフェの始まり。見た目からは想像できない味は完璧なスイーツってわけだ」
 味に正解はない、終わりだって見えやしない。
 嘘つきなスイーツだって答えは用意されていなくて、一口食べる事に世界が変わっていく気がした。
「なるほど、つまりパルフェは直くんに似ているという事か」
「おう、喧嘩売ってんのか?」
 とらえ方によっては穏やかじゃない発言に顔をしかめたが、悠真は動じる事なく笑っている。
「そんなつもりはないが、そうだな」
 テーブル越し、コーヒーとパルフェの真ん中。
 少し身体を乗り出して伸びてきた手は、そっとオレの頬を撫でていく。
「強くてかっこいいが、中身は甘いものが好き。周りから怖いと思われる事も多いが本当は不器用で優しい……まるで、食べてみないとわからないパルフェのようだ」
 いかにも真面目に向けられた言葉は、言われた方からすれば恥ずかしいこの上ない。あぁ、うう、と言葉にならない言葉を漏らして、深く溜息を零した。
「……お前、本当よく恥ずかしがらずそんな事言えるよな」
 バクバクうるさい心臓をごまかすように憎まれ口を叩くと、悠真はこてんとまた首をかしげる。なにかを考えているようだったが、いや、と言葉を続けてくる。
「そうだろうか、思った事はちゃんと言葉にした方がいいと考えたからだが」
 ド真面目な模範解答すら、オレだけに向けられてなんだかこそばいと思える。
「だから、俺は直くんに思っている事は全部伝えたいと思ったんだ」
「そーかよ……」
 普段はあれだけ甘く感じていたパルフェのクリームが、今はやけに薄く感じた。
 意識をすると、他に考えが持っていかれるような。大好きなはずのクリームが空っぽになるくらい甘みがわからなくなるような、そんな感覚。
 ずっと、オレの勘違いだと思っていた。
 このうるさいだけの心臓の音だって、なにもかも。
 そう思っていたのに、悠真はそんなオレの考えを飛び越えてオレに近づいてくる。それがオレ自身の中で嫌なのかは、正直よくわからない。
「……甘い」
 甘くてドロドロした、そんな感情。
 オレの知らない甘さはずっと近くにあって、どうやら離れそうにない。
 考えてみれば、そう。
 悠真はちゃんと、オレに気持ちを伝えていたのかもしれない。ただ明確ではなく遠回りだっただけで、どれもオレに投げられていた言葉は好意のものだった。
 オレは、その好意に見合うものを返せるのだろうか。
 その感情と同じものが、オレにはあるのだろうか。
 答えはわからなくて、返事はできない。要らないと言われても、このままではだめだとオレ自身が思っていた。そうわかっているはずなのに、答えを出さないオレは狡いのだろうか。
「……あれ、直くん」
 なにかに気づいたように、悠真が手を伸ばす。
「ここ、この前は怪我していなかったはずだが」
「……本当に、オレの事よく見ているよな」
 気づかれていないと思ったから油断したそれに、喉の奥から言葉を絞り出す。前髪を持ち上げられると、擦り傷が顔を出す。
「あぁ、当然だ。直くんの事だからな」
 なんだか自慢げなのが癪だったが、楽しそうだしいいかと思ってしまう。引っかかれたなんて嘘はもう通用しないとわかっているから、諦めて力なく首を横に振った。
「別に、少し絡まれただけだ。これだってかすり傷で大したものじゃねえ」
「かすったものでも、直くんの傷に変わりない」
 有無を言わせないそれに、つい言い返す言葉を失った。
 自分の事のように悲しそうに、そしてどこか怒りを抑えているように。なにかを押し固めたような感情はストレートでオレに投げられて、突き刺していく。
「お前、前から思ってたけどいつもオレの怪我気にするよな」
「それはっ!」
 手を引っ込めながら勢いよく顔を上げたと思えば、すぐ悲しそうに目を伏せる。オレが悪いみたいな気分であまりいいものではなかったが、じっと悠真の言葉を待つ。
「……怪我を、してほしくないんだ」
 聞こえたのは、そんな申し訳なさそうな言葉。
「……いや、なんで」
「……理由は、その」
 そこで、悠真の言葉は詰まる。
 深く息を吐くと、なにか悩んでいるのか言葉を選んでいた。よく見ると若干汗ばんでいて、かなり緊張しているようにも見える。
「怒らねえよ、なに言っても」
 あれだけ重要な事は恥ずかしげもなく言うくせに、どうやら変なところで羞恥があるらしい。表情は変えず目線だけを左右に動かして、あからさまなくらい動揺している。
 そんな仕草をしばらく繰り返したが、すぐ覚悟を決めたようで小さく頷くと直くん、と言葉を落とす。
「……直くんの綺麗な顔に傷がついてしまうのが、俺は耐えられないんだ」
 だから怪我をして欲しくないなんて、やけに自分勝手な言葉を投げられる。
「んな事言われても、オレの勝手だろ」
「もちろん、それはわかっている。ただやはり、大切だと思う相手が傷つくのは嫌なんだ」
 また悠真の発する言葉には、静かな熱を孕んでいた。
 こんなにもまっすぐオレを想っている言葉ばかり与えられて、この先オレはどうなってしまうだろう。場違いに考えて、薄く笑って見せた。グラスの中にあったアイスは、少し溶け始めている。
「――この前聞いただろ、オレだって好きでやってるわけじゃねえ」
 シュウがこいつに話した内容に、嘘はない。
 だから今さらごまかす必要はないと思い言葉を落とすと、悠真はどこか悲しそうな表情をする。オレまで苦しくなって、また視線を逸らした。
 骨の軋む音も、息遣いもすべて。
 好きでやってるものじゃないし、ただ一度のそれが大きくなっただけだ。それがずっと、今までオレの印象として独り歩きをしているだけ。
「ただ、本当にちょっとしたきっかけだったんだ。そしてそのきっかけが、オレの居場所になっただけの話」
 ちょっとクラスの奴を助けただけの、それだけの話。
 後悔はしていないし、今だってこれでいいと思っている。ずっと、そう思っていた。
 そのはずなのにこいつはそれを許してくれなくて、オレなんかよりもずっと苦しく傷ついた顔をしている。
「……居場所」
 悠真はどこか引っかかりを覚えたようで、小さく唸る。
 かと思えば今度はなにかを考えているようで、らしくないしかめっ面をしている。百面相みたいだと思えばなんだか面白くしばらくの間その様子を眺めていると、どうやら答えを見つけたみたいで顔を勢いよく上げた。
「ならば、直くんは俺といれば喧嘩しないという事だな?」
「いや、なんでそんな突拍子もない発想に繋がるんだよ」
 本当に突拍子もない言葉に、あからさまなくらい顔をしかめた。けれどもこうなった悠真を止められない事はすでに経験済みで、さっきまでの縋るような態度はどうしたのか嬉々としていた。ぐいぐい顔を近づけて、空いていたオレの左手を両手で包み込む。
「なら俺は、この先も直くんと一緒にいる。他でもない直くんが、傷つかないために」
「いや、おいバカここ店の中だ!」
 いくら学校から遠い店を選んだからって、人の目は気にしてしまう。
「すまない、しかし今のは名案だと思うんだ」
「そんな言われても、オレは嫌だからな」
 ただでさえ悠真がオレに絡んでくるようになって以来、カツアゲをしているのではとか悠真を舎弟にしたのかなんて、不名誉極まりない話が飛び交っていると噂に聞いた。これ以上疑われる行為はしたくないと思ったのに、その原因の一端にある悠真は事の状況がどうやらわかっていないらしい。
 むしろ数歩大股でオレに近づいてきて、オレの心配を他所に距離を詰めてくる。
「……どうして、そんなにオレに構うんだよ」
 やっと絞り出したのは、何回だって投げた言葉。
 答えが見えているはずなのに、義理堅い悠真は何度だって言ってくれる。その優しさに甘えていると、オレ自身がわかっていた。
「何度でも言うが、直くんがなにかを食べているのを見る事が好きなんだ……そして、そんな直くんの隣にいたいと、今はそう思っている」
 ただ最後に添えられた言葉はなによりも熱烈で、パルフェのスポンジを思わず飲み込む。不意打ちのそれはわざとだったらしく、少し意地悪に微笑んだ悠真は言葉を続けた。
「だからこれは、俺なりのアプローチかもしれない」
 かもしれないって、自分のやってる事だろ。
 肝心なところで強くこれないのも悠真らしくて、それはそれで和む。
 つい頬を緩めると、カチャリ、とコーヒーカップを置く音が響く。
「しかし、直くんも直くんだ」
「は?」
 矛先をオレに向けた突然のカウンターに反応できず目を丸くすると、オレの反応を見た悠真は少しだけ不機嫌そうな顔をわざと作った。慣れていないだろう表情だったが、じゅうぶん怒っているのは伝わってくる。
「直くんこそ、今目の前にいるのがお前に好意を寄せている人間である事を自覚してほしい。俺が直くんに手を出さない保証なんて、どこにもないはずだ」
「それはそうだけど」
 好意を寄せられているなんて、そんなのはとっくに知っている。だからと言って距離を置くのは違うし、第一オレが嫌な気持ちにはならなかったからそれは不要と思っていた。それに、なにより。
「悠真は、オレが嫌がるような事しねえだろ」
 オレがあの時、殴らなかったのと同じ。
 そんな軽い気持ちで投げた言葉はなぜか悠真に刺さったらしく、目元を右手で覆うとふー、と長く溜息をついた。
「本当に、直くんには負けるよ」
 そう言いながらも、悠真の顔は誰がどう見ても幸せそのものだ。悠真が幸せならいいかなんて的はずれな事を考えれば、ツウと悠真の指先がテーブル越しにオレの手を撫でていく。ビクリと肩を揺らすと、悠真はイタズラが成功した子どものような表情をオレに向けていた。
「嫌がる事はしないが、こういった事ならするかもしれないな?」
「お前なぁ……」
 特進コースなのだからド真面目なのはもちろんだが、時折見せる年相応な反応につい心を奪われそうになる。
 好きな人の気を引こうとする、そんな動き。
 一挙手一投足をオレに捧げているようで、それを一身に向けられているこちら側としては心臓まで茹だりそうだ。呼吸をするだけで、喉が焼けそうなくらい熱い。
「やっぱり、お前の行動は時々わかんねえよ」
 クソ真面目でなに考えてるかわからなくて、まるで大型犬みたいな奴。忠犬のようで、時折見せる押しの強さは猛犬に近い。言葉の通りオレの事しか考えてないのかもしれない言動すらわからなくて、オレのどこに魅力を感じたのだろうと思ってしまう。
 そんな、オレの言葉をどう思ったのか。
 悠真は途端にムッとして、直くん、と名前を呼んでくる。
「俺はじゅうぶん、わかりやすいと思っている」
「それは、自分の事だからそう思うんだろ」
 実際、こうして一緒にいる時間を重ねてもいまだにわからない事が多い。嬉しいのか、悲しいのか。苦しいのか、楽しいのか。
 出会った最初よりは出してくれるから、一応オレも心を開いてもらっているとは信じたかった。
「確かに自分でも、感情表現が苦手な自覚はある。しかし、これでも頑張っているつもりだ」
 だって、と続いた声はどちらかと言えば熱いと思った。
「直くんが、なによりも大切だからだ」
 どストレートな言葉が、今度はオレに刺さる。
 嘘偽りのない、淀みがない言葉。向けられた言葉はもはや刃物と思えるくらいに鋭くて、茶化す事も言葉を返す事もできなかった。
「なによりも大切って、そんな大袈裟な」
「いや、直くんが大切なんだ。だから俺は、直くんにその気になってもらえるよう頑張っているんだ」
 じゅうぶんすぎるほど効力を発揮しているその頑張りは、またオレを突き刺す。これ以上こいつが頑張ったら、オレはどうなってしまうのか。
「……いやいや」
 溺れるくらいの言葉じゃ飽き足らないらしい悠真はやる気じゅうぶんで、オレもそれを拒否するのではなく受け入れた時の事を無意識に考えてしまっていた。
 だめだ、これ以上こいつに絆されるな。
 わかっているはずなのに、やっぱりこいつならと思ってしまうオレがいる。
「俺には、隠し事はしないでほしいんだ。直くんには笑っていてほしいから」
 頷く事は、できなかった。
 はぐらかすように零した空返事は、約束なんかとはほど遠い。それでも幸せそうに笑う悠真の手の中で意地を張っても、なにもかも見透かされる気がして。
 パルフェのアイスが、静かに溶ける。
 カラン、とカトラリーの音が、虚しく響いた。

「こんな場所で会うとはな、宇津木」
「……」
 かけられた声に、肩を揺らす。
 聞き覚えのないそれは明らかにオレに対して向けられていて、浅く息を吐く。面倒なタイミングで遭遇してしまったと、内心舌打ちをした。
「直くん」
「……わかっている」
 悠真の縋るような声に、つい身体がこわばる。
 顔も覚えていないけど、そいつはオレの事を知っているような口ぶりだ。なら、多分だけどどこかで会った事があるのだろう。どうせろくでもない喧嘩のふっかけをオレにして、オレが殴った相手。
 興味はなかったが付き纏われるのも厄介だからと一歩前に出たところで、聞こえたのはずっとオレの中で居座っている声。
『大切だと思う相手が傷つくのは嫌なんだ』
 あの時の、悠真の熱量を含んだ言葉。
 まずいと、素直に思う。
 先日ファミレスであんな事を言われた矢先だ、それなのにこうも鉢合わせになるのはオレの運がないと言える。まるで呪いのような言葉に顔をしかめて、自分を落ち着かせるために深く息を吐いた。
「……なんの用だ」
「わかってるだろ、今度こそ勝ちにきたんだ」
 そんな予感はしていたが、今この場でその喧嘩を買うのは得策ではない。第一悠真だっているんだ、できるはずがなかった。
「一度負けたんだろ、なら何回やっても同じだ」
 挑発的だったかもしれないと反省はしたが、あいにくオレはこういった返し方しか知らない。案の定怒りにこちらに向けようとしたそいつを横目にまた歩こうとすると、ふとそいつはオレではなく悠真の方を見た。
「なんだお前、最近見ないと思ってたらこんな真面目くんとつるんでたのかよ」
「こいつは関係ないだろ」
 悠真とそいつを無理やり引き剥がし、間に入る。
「慌てたって事は、そういう関係か?」
「違う、お前もう黙れ」
 本当に、厄介なのに絡まれた。
 なんとかこの状況を抜け出す方法を考えていたが、それは横から伸びてきた手にすべて持っていかれた。それは、悠真は目の前の名前も知らないそいつから離れるように、優しく抱き寄せてくる。
「直くんとはまだそういった関係ではありません、ご期待に添えず申し訳ない」
 まだって言ったり期待って言ったり、お前この状況理解できてないだろ。
 一息で爆弾発言を二つされてオレがたじろいでいると、当の本人はそんなオレの事など知らないと言わんばかりに腕を掴んできた。
「すみません、直くんとこの後大切な用事があるので失礼します」
「あ、おい、悠真!」
 一方的に話を切り上げて、オレの手を引いていく。
「おい宇津木逃げるのか!」
「悠真止まれ」
「だめだ、あのままいたら直くんは喧嘩をするつもりだっただろ」
 いやそれは、確かにそうだけど。
 気分ではなかったからよかったと思う反面、さっきの名前すら憶えていなかった奴の事が気になる。知らない奴に突然邪魔に入られた上、あいつにとっての獲物であったオレを連れ出したんだ。面倒な事になったかもしれないと内心肩を落とす。
 そんな中でも足を止めない悠真は、何個か角を曲がったがこちらに顔を向けようとしない。しばらく好きに歩かせてやるかと思ったが、さすがに目的地とは逆に行きかねないからと名前を呼んだ。
「聞けって悠真、なんで目を付けられるような、事を……」
 振り返った悠真の顔を見たら、なにも言う事ができない。
 だって、なんでお前が。
「……そんな顔すんなよ。シュウに聞いただろ、別に慣れてる」
「しかし、また直くんが傷つくところだったと思うと」
 苦しそうな顔をした悠真にそれを言われてしまうと、もうなにも言い返す事ができない。申し訳なさに押しつぶされそうなのを必死に耐えて、言葉を飲み込みながら自由な左手でそっと頬を撫でてやった。
「オレが気にしていないんだ、怖い顔すんな」
 触れるたびに顔を赤くした悠真は次第に落ち着いたのか、深く息を吐きながらゆっくりと瞬きをする。揺れる瞳に、オレを閉じ込めている。
「直くん、さっきの人は」
「知らない奴だ、オレが覚えていないだけだと思うけど」
 だって、名前も知らない奴に喧嘩を売られたって全員の事をいちいち覚えていないから。
 気にしてほしくないからと言った言葉も、悠真にはあまり効果がなかったらしい。しかし、と言葉を詰まらすと、じっとオレの事を見つめていた。
「けどなんで、直くんが痛い思いをしなきゃいけないんだ」
「お前……」
 自分の事のように顔をクシャクシャにする悠真が、オレには苦しかった。
 それはオレに対しての好意なのか、それともこいつの真面目で優しい性格からなのか。オレの身を案ずる言葉の真意がわからなくて、けれども悠真にこんな顔をさせているのはどちらにせよオレだからと思うと罪悪感がわき始める。
 オレのせいで、こいつはこんなにも感情を剥き出しにする。
 ずっと鋭く、尖ったナイフのような感情をオレに向けていた。
「直くんにはもう、痛い思いも苦しい思いもしてほしくない」
 はっきり紡がれた言葉の後、少し時間を空けてハッと悠真は顔を上げる。自分の言った言葉を考え急に恥ずかしくなったのか顔を赤くして、力なく首を横に振った。
「……すまない、少し感情的になってしまった。今のは忘れてくれ」
 そんな事を言われたって、忘れる方が難しい。
 ぐちゃぐちゃになった感情の中でオレまで重い空気になっていると、すっかり切り替えた悠真は普段と変わらない表情を貼り付けている。
「行こう直くん、食べたいと言っていたチョコケーキがなくなってしまう」
「いや別に、食いたいとは言っていない」
 確かに、気になっているとは言ったかもしれないけど。
 また意地を張ってごまかしたところで、悠真はすでに慣れた様子でオレを見て嬉しそうに笑っている。
「それに、俺でも食べられると教えてくれたのは直くんだ」
「……何の事だ?」
 意味がわからず、首をかしげた。
「ここのチョコケーキは甘すぎないから、付属のホイップクリームがなければ俺でも多分食べられると少し前に教えてくれたんだ。だから、とても楽しみなんだ」
「……そんな事も、言ったかもしれねえ」
 覚えている、確かに少し前そんな話をした気がする。
 忘れたふりをしても覚えているし、目の前の悠真もそれを見透かしているのか笑っている。
「確かに甘いものはまだ苦手だが……俺でも食べられると直くんに教えてもらってそれを口にするのは、とても楽しいと思えるんだ」
 さっきまでの感情を剥き出しにしたのはどこへ行ったのか、嬉しそうにする悠真を見ているとどうでもよくなってしまう。
 あぁけど、なんだろうか。
「……これで、終わればいいけど」
 本当に、このままでいいのか。
 胸の奥のつかえは、ずっと残ったままだった。

 ***

 それが、きっかけだったらしい。
 あからさまなくらい校外に出ると絡まれるようになったそれは悠真が一緒の時なら無視できたが、毎回それで通用するわけはない。悠真のいないところで応戦するのも考えたが、なかなか上手くいかない。一度始めたそれを止めるなんて方法はどこにもなくて、気づけば自然と一人で行動する事が増えた。
 悠真を、周りの誰かを巻き込まないために。
 おそらくこの前の奴がある事ない事言ってオレに喧嘩が向くよう仕向けているのだろうけど、それを悠真にはバレたくない。悠真がオレに傷ついてほしくないのと同じで、オレだって悠真にはこちら側を見てほしくない。
 元々喧嘩なんて、したくてやってるわけじゃないんだ。心身どちらも摩耗するような事を、悠真には見せたくない。
 けど、それが裏目に出たと放課後の調理実習室で、嫌でも理解する事になる。

「直くん、最近俺の事を避けていないか?」
 投げられた言葉に、呼吸が止まる。
 図星だった、悠真の言う通りだ。
 悠真が一緒にいれば、きっといつかオレではなく悠真が狙われる可能性だってある。それが嫌で、距離を置こうとしていた。それなのにこいつはそんなオレの気持ちなんか微塵と気づかないで、我が物顔で近づいてくる。
 嫌とは思わなくても、焦りは感じていた。
 もし、本当に悠真に矛先が向いたら。
 このままでは、悠真まで。オレのせいで悠真が危険な目に合う事だけは、絶対に避けたかった。
「……別に、お前には関係ない」
 わざとぶっきらぼうに言葉で突き放しても、悠真は動じる事なく顔をずいと近づけてくる。
「直くん、なにか隠しているのではないか?」
「それは……」
 言葉が咄嗟に出ず、悠真もそれを見逃さなかった。
 まっすぐ射抜くような視線をオレに向けて、直くん、と強く名前を呼ばれる。
「隠し事はしないでほしいと、約束したはずだ」
「約束って、お前が勝手にしてきたんだろ」
「直くんと一緒にいたいからだ」
 それは、オレも一緒だけど。
 それでもきっと、オレと悠真では見ている方向が違う。
 一緒にいるために隠し事はしたくない悠真と、一緒にいたいからこちら側にはきてほしくないオレ。
 最後は同じなのにすべてに明確な違いがあって、だからこそすれ違ってしまう。
 すれ違って、わからなくて。
 そんなグラグラの感情の中で、悠真の言葉がトドメを刺す。
「隠し事はしないでほしい、直くんの横にいたい。それのためなら、俺はなんだってする」
「……なん、だって、する?」
 言葉が、上手く絞り出せなかった。
 なんだってするなんて、軽々しく言える言葉ではない。
 だからこそ、わかってしまった。このバカ真面目の事だから、言った事はすべて実行する。それなら、今の言葉が本当なら、こいつはオレが殴られても相手に立ち向かってしまうだろう。
 だめだ、今わかった。
 このままこいつといたら、きっといつかこいつを不幸にする。
「……んなの、そんなの、ないって言ってんだろ!」
 器用じゃない、不器用な自覚はあった。
「いちいちオレの行動に口出して、オレは頼んでなんかない……オレは、喧嘩したくないなんて思ってない」
 だから今のオレは、こいつを上手く避ける方法なんて知らない。それならばいっその事、嫌われた方がマシだ。
 ならやるんだ、宇津木直。できるだけ悠真に嫌われるように、嘘をつくんだ。早く、一刻も早く悠真を突き放さないと。
「自意識過剰なんだよ。だいたい、いつも勝手に着いてきやがって!」
 叫ぶたびに、胸の奥が痛む。
 苦しくて、感情ごと爆発しそうだ。
 それでも一度吐き出した言葉は堰を切ったように溢れ、オレのものなのに止める事ができない。嫌われないと、突き放さないと。きっとこいつは、オレのせいで不幸になるから。
「すなお、くん」
 悠真の視線とぶつかる。
 揺れる瞳は悲しいよりも苦しいが見えて、オレまで苦しくなった。けど、ここでやめるわけにはいかない。言葉をやめたら、この言葉が感情とちぐはぐであるとバレてしまう。嘘の言葉と、バレてしまう。
 これは、この偽りの言葉は隠し事になるのだろうか。
 そう考えると一気に罪悪感は顔を覗かせて、オレの方を見つめている気がした。けど、悠真ほど頭がいいわけではないオレが出せる答えはこれしかなかった。
 近くに置いてあった鞄に手を伸ばし、逃げるように背中を向ける。
「直くん、どこに」
「着いてくんな」
 あえて鋭くした言葉で、悠真を刺す。
「一緒にいてくれなんて頼んでない」
 吐き出すたびに、オレの中でなにかが叫ぶ。けど、それを聞いて止めてはいけない。こいつを守るために、また一つ嘘をつく。
「お前なんか……友達じゃない」
 あの時と、いつだったか突き放した時と同じ言葉。
 けど、明確に違うのは感情だった。
 たくさんを知りすぎた、温かさを知りすぎた。だからこそ、これ以上巻き込みたくないんだ。
 悠真の泣きそうな顔も、そんな悠真の瞳に閉じ込められた俺の顔も。
 どっちも同じ顔で、鏡のように反射する。
「お前といたのは、ただの暇つぶしだ」
 喉の奥から絞り出した偽物の、拒絶の言葉。
 世界が、なにもかも凍る気がした。

 ***

「よーっす……ってあれ、スナ一人? ユウくんは?」
「興味ねえ」
「まさか喧嘩でもしたか?」
 軽い口調で調理実習室に入ってきたシュウは、ドーナツを一人で齧るオレを見るなり失礼極まりない言葉をストレートで投げてくる。睨んだところで悪気はないらしく、あからさまなくらい大きく肩を落とした。
「……特進コースは、模試の対策期間だよ」
「お前興味ないって言いながらちゃっかりユウくんのスケジュール把握してるよな」
 お前本当にそういうとこだと思ったが、正直言葉にするほど元気も残っていなかった。
 あれは、喧嘩したと言うべきなのだろうか。ただ俺が一方的に突き放しただけの、それだけの話。オレの意思なのに胸の奥がずっと苦しくて、罪悪感で押しつぶされそうだった。
「お兄ちゃんが話聞こうか?」
「お前みたいな兄貴はいない」
「本当にお前ユウくん相手じゃないと辛辣だな」
 お兄ちゃん傷つく、なんて演技じみた反応をしながらも、その目は笑っていない。なにかを見透かすように細めて、じっとオレの事を見ていた。
「まさかとは思うけど、わざと自分で遠ざけたのか?」
「……元々、あいつが勝手にきてただけだ」
「図星だろ、その返答は」
 ニシシ、とわざとらしく笑ったシュウは、近くに置いてあった椅子を引き寄せて腰をおろす。
「ユウくんをお前が傷つけたくないのかわかる……けど、それってちゃんとユウくんに言ったか?」
 投げられた言葉に、指先が跳ねた。
 悠真は喧嘩とかそういった荒事とは無縁の奴だ、それをわざわざ言う必要はないしなにかをする必要だってない。そう、少なくともオレはそう思った。
「……言う必要がない」
「いや、言えよ」
 呆れたように言われても、オレもそこまで器用ではない。
 悠真を巻き込まない方法も、悠真を守る方法もなに一つオレは持っていないから。ただ、オレから遠ざける事しかできない。そう、思っていたのに。
「……情けねえ」
 あの時、あの日悠真を突き放してから数日が経っている。
 あれから悠真はここにきていないし、オレだって会いに行かない。ただ廊下ですれ違いそうになるとあいつがオレを見るから、オレの方から避けていると言った方が早いのかもしれない。なるべく、教室にはいないように。会わないようにしていると言った方が、正しいかもしれない。
 今でも脳裏にあるのは最後に見た悠真の表情で、それを思い出すだけで胸の奥が苦しくなる。自分でやっておいて勝手に苦しくなって、本当にバカみたいだ。全部、オレが悪いのに。
「けど、オレはこれでよかったと思っている」
 悠真はオレなんかみたいな問題児扱いされてる奴といるよりも、クラスの奴や友だちといた方がいい。オレより、もっと隣にいるのに相応しい奴がいるはずだ。
 それなのに、それを望んでいたのに。
 胸の真ん中に空いた、空っぽな空洞はなんなのだろうか。
 なにもかも、悠真と出会ってからオレはめちゃくちゃだ。誰に嫌われたってよかった、一人好きなものを食べられればそれだけで幸せだと思っていた。それなのに、あいつのいない場所で食べるドーナツはひどく味がしない。きっと、砂糖をまぶした表面は甘くて、生地だって柔らかくて。それを悠真がどんな味かなんて聞いてくるから、それから。
「……なんで、今あいつの事考えたんだよ」
 本当に、バカみたいだ。
 突き放したのにずっとあいつの事を考えていて、悠真にオレが染められてしまったみたいに思えてしまう。
 あの時から、あの日からだ。
 きっとあいつに勘違いしそうになった日からオレは、もしかすると本当に勘違いしているのかもしれない。
 悠真の事を考えると、胸の奥が満たされる。けれども同時に軋む音だってして、心と考えがチグハグになったみたいだった。
「わけ、わかんねえ」
 絞り出したその言葉を、隣にいたシュウは拾っていく。なにかを考えるように笑うと、スナ、とオレを呼んでいた。
「ユウくんは、お前が思っているように弱くないし守られる存在でもない」
「……んな事、わかってる」
 全部、他でもないオレ自身がわかっていた。
 悠真がまっすぐすぎる事も優しい事も、なにに対しても動じない事も全部。オレが悠真をこの手に閉じ込めなくたってあいつは生きていけるし、それをやる必要だってない。それでも怖いと思えたのは、もしかするとオレが弱くなったのかもしれない。弱くて、悠真に絆されているオレが臆病になっているのかもしれない。
「お前がユウくんに骨抜きなように、ユウくんだってお前の事は大切だよ……そんな大切な人から突き放されたら、俺は悲しいけどな」
 シュウの事は、どれもオレの柔らかいところを突き刺していく。
 そんな事言われなくてもなんて、そこまで強い言葉は言えなかった。なにもかもが図星で、否定をする術をオレは持っていない。
「オレもあいつも、元に戻っただけだ。それだけの、話だ」
 手の中に残っていたドーナツを無理やり口へ押し込んで、ろくに噛まずに飲み込んだ。
「……不味い」
 甘くない、美味くない。
 味のないガムを噛んでいるようなそれは、寂しさすら感じる。ずっと、甘さを感じられない。
「……帰る」
 ドーナツのゴミを適当に捨てて、鞄を持って立ち上がる。
 後ろに着いてきたシュウを無視して、半地下の階段を上がり校門を急ぎ足で出ていく。カツ、と聞こえた足音はオレ一人のもので後ろに目を向けると、シュウがなにかを考えているのか立ち止まっていた。
「スナ」
 シュウの声は、凪のように静かに響く。
「いい加減、素直になれよ」
 それができたら、オレはきっと苦労しない。
「……無理だ、そんなの」
 自分に素直になるなんて、そんな事考えた事もない。それでも悠真から与えられる甘い言葉を嫌とは思わない自分がいて、それが怖いんだ。
 オレが、オレではなくなっていく。
 この甘い言葉を全部受け止めた時、きっとオレは戻れなくなる。
 それが怖いと思うから、一歩が踏み出せない。
 踏み出したら、返す事になるから。悠真から向けられた感情すべてに見合うものを返せないと、オレは思うから。
「……お前、見返りの事考えてるならそれはいらないと思うけど」
 オレの脳みそが見えているのかと思うくらい的確な言葉が、突然投げられる。
「ユウくんにとって、多分お前という存在自体がすべてに見合うものだ。お前の隣にいるために、ユウくんは一緒にいるだけだと俺は思うけど」
「……知ったような口ぶり」
「あぁ、知っているから言ってんだ。見ていてわかるから、ユウくんがお前を大好きだって事。それと、お前もユウくんが大好きって事」
 オレが、悠真を。
 自分でも考えていなかったそれに、つい目を丸くする。
 うるさい心臓の音はオレの気持ちを表しているようで、肯定にも思えてしまう。
「いらないところで二人とも意地張ってんだよ、もっと気楽に行け」
「……オレ、悠真の事をどう思っているかわかんねえ」
「……マジか、そこからかよ」
 思った以上に重症だなと笑われたが、こればかりは本当の事だからなにも言い返す事ができない。むしろ会話の中でふつふつと沸くのは言葉にするには少し難しい、名前の知らない感情達。
「スナにとって、ユウくんはどんな存在だ?」
「どんなって、それは」
 どんな、存在だろうか。
 考えた事もなかった質問に一瞬戸惑ったが、案外言葉は自然と出てくる。
「今までのオレは喧嘩して、そこが居場所で。孤立したって、それでいいと思っていた」
 悠真と出会う前がそうだったように、これがオレの居場所だった。そのはず、だったのに。
「……けど、悠真といるようになったら、そうじゃないと思えて。こいつならいいかとか、こいつと美味いもの食えたらそれでいいかって思えるようになって、一緒にいたいって思えて」
 だからなおさら、悠真にはこちら側にきてほしくなかった。
 オレと一緒にいたら悠真が汚れる気がして、けど悠真と一緒にいたくて。ずっとオレの中にちぐはぐな感情は同居したままで、それがずっと腹の中で消化されず居座っている。
「なぁシュウ――これって、おかしいのか?」
 わかんねえよ、もう。
 オレの気持ちも感情も、なにもわからない。
 一度零れ始めたら止める術を知らなくて、雪崩のように流れていく。
 同じ男にこんな事を思って、一緒にいたいと思っておかしいのか。
 悠真だけは汚れてほしくないなんて、そんなエゴを向けるのはおかしいのか。
 悠真を大切だと思うのは、おかしいのか。
 呼吸のたびにとめどなく溢れる感情は、他でもなくオレそのものだ。
 そんなオレを見て、オレの言葉を聞いたシュウから小さく息を飲む音が聞こえる。けどすぐに柔らかな表情をオレに向け、スナ、と普段通り名前を呼んでくれた。
「俺は、おかしいと思わない。性別だって年齢だって、なにも関係ない」
 幼い頃から知っているその声は優しく、なぁスナ、とオレにだけ降ってくる。

「二人の間ではどうかよくわからないけど、それを世界は愛と呼ぶんだよ」

「……あい」
 愛って、なんだろう。
 きっと悠真がオレに向けているものと同じそれを、オレは持っているのか。
 あの目が眩みそうなほど眩しかった感情に、オレは返す事ができるのか。
 そんなわけ、返せるわけがない。らしくないくらい内気になった感情は追いつかなくて、肩を落とす。けど、それでももしオレの手の中にある感情が悠真に見合うものならば。
 それは、どれだけ幸せな事なのだろうか。
「――オレ、さ」
 やっぱりオレは、あいつに絆されているのか。
 あいつに、笹川悠真という存在に染まりきってしまっているのか。
 答えの見つからない感情に目を伏せると、ザリ、と突然砂を踏む音が聞こえる。
 嫌な予感が、した。
「いたいた、宇津木」
「……」
 嫌なのに目を付けられたと、あからさまに舌打ちをする。
「なんの用だ」
 懲りずにきたそいつはニイと不気味に顔を歪めていた。
「あぁ、この前は逃げられて決着をつけられなかったからな。今回は俺の友達もお前に会いたいって言うから連れてきたよ」
 友達なんて、どの口が。
 どうせオレに勝てないと思ったからだろう、気づくとオレとシュウを囲むようにそいつらが立っている。
「スナ……」
「……お友達連れてこないと、オレに勝てないって思ったか?」
「あ?」
「馬鹿スナ、挑発するなって!」
 オレを宥めるように身体を前に乗り出したシュウに気づいたそいつは、楽しそうに顔を近づけてくる。それはオレではなく、シュウに向けられている。
「なんだ、今日は別の連れているんだな」
「こいつは関係ない」
「おい、スナっ」
「シュウはもう帰れ」
「いや、お前一人にするのは」
「大丈夫だ、問題ないから」
 大丈夫、今ここに悠真はいない。
 シュウは怒るかもしれないけど、悠真ほどじゃないから。
「……悠真がいたら」
 悠真が今ここにいたら、なにを言うのだろう。
 悲しそうな顔をして怒るだろうなんて事を勝手に考えて、力なく首を横に振る。結局今のオレは悠真の事しか考えていない、そんな単純な奴だ。
「いいぞ、相手してやるよ」
 愛を知ったところで、この感情が悠真に見合っているかなんて関係ない。
 オレがあいつを突き放した事実に変わりはないし、それを正当化させるつもりもなかった。ただ、今まで通りに戻っただけ。悠真に出会う前に、戻っただけ。
 今のオレには、飴玉一つだって甘く感じないから。
 
 結局は、いつだって同じだ。
 一度足を取られれば抜け出す事なんてできなくて、ただ静かに沈んでいく事しかできない。それが仕方ないとは考えたくなかったが、そうとしか思えないオレはきっともう手遅れなんだ。
 悠真とは、しょせん生きる世界だって違うんだ。
 なにもかも違う、手の中にある感情も、相手に向ける感情も。
 だから、オレは悠真に見合うものを持っていない。
「ずっと、あいつの事考えてる」
 バカみたいだ、なにもかも。
 頭の中もなにもかもあいつばかりで、悠真ならなんて考えている時点で手遅れなんだ。もうきっと、オレは変わってしまった。
 殴るたびに自覚する感情は何度もオレに襲いかかってきて、それが苦しかった。路地裏に響く骨の軋む音は、オレの心臓の軋む音と錯覚してしまう。 
「……痛え」
 なにもかも、ずっと苦しくて痛い。
 心臓を握り潰されるように、ずっと痛い。
 また目の前にいた奴が倒れていくのを見て、苦しさに浅い呼吸を繰り返した。こんな事して、悠真は怒るだろうか。
 揺らいだ思考と、意識。それは隙を作るのにじゅうぶんで、目の前にいた最後の一人もそれを見逃すわけがない。アスファルトの地面を蹴りあげる音と、言葉と思うには荒い叫び声。弾かれるように顔を上げると目の前にあって、身体が強ばる。
 だめだ、と思ったところで判断に遅れる。
 けど、どうするか考える前に突然現れた声に思考は持っていかれる。
「直くん、伏せて!」
 何度も聞いた声、焦がれた声に息を飲んだ。
 なんで、どうしていまあいつの声が。
 脳の理解が追いつかないのに、自然と身体が動いた時だ。
 目の前を、そいつが飛んでいく。
 代わりに現れたのは何度だって見たアイスグレーの瞳を揺らす奴で、慣れない運動をしたように大きく肩で呼吸をしていた。殴ったわけではない、力ゴリ押しでの体当たり。かなり強かったのか、飛ばされた奴からは言葉にならないうめき声が聞こえた。
「直くん!」
「ゆうまっ、なんでお前……!」
 予想外の襲来に声を張ると、対する悠真はなぜだか眉間にしわを寄せる。
「なんで……? 菊池先輩から連絡があった、だからきたんだ」
「シュウの奴、余計な事を……」
「元と言えば直くんが悪いんだ、俺の事を避けていただろ」
 オレの言葉に反応した悠真は、珍しく不機嫌そうな顔を作りオレの方へ近づいてきた。状況が読めず悠真から目を離さずいると、直くん、とオレの名前を呼ぶ。
「喧嘩はきっかけと言っていたのに見えた嘘をまた言って……隠し事はしないと約束をしたから、だから言い訳を聞きにきた」
「いや、クソ真面目か」
 それだけの理由で、よくこんな場所にきたな。
 オレがきっと悠真の立場なら行こうと思わないし、そもそもそこまでの義理はないはずだ。それなのにきたこいつはお人好しなのか、それともオレの事がそんなにも大切なのか。そこまで考えて、つい場違いに頬が緩んだ。
「……そうじゃねえな」
 あぁ違う、それだけの理由だからこいつはきたのかもしれない。
 こいつは、笹川悠真はそういう男だ。どこまでもまっすぐで、自分が信じた道を進む。だからきっと今だって、悠真がそうしたいと思ったからしているんだろう。
「本当にお前、大バカ真面目だよ」
「直くんに限定だ」
 座り込んでしまっていたところに手を差し出されたから、そのまま甘えて引っ張ってもらう。勢いをつけて立ち上がると悠真の視線がいつも通り近くなって、少し場違いにも嬉しく感じた。
 鼻と鼻が触れそうで、呼吸が混じり合う。心臓の音が聞かれそうな距離で笑うと、悠真も同じように笑っていた。
「俺は本当に、直くん相手だとなにもかもだめだ」
「いいんじゃね、どうせオレがいるんだしだめになっちゃえよ」
「いや、さすがにだめになるわけには……え?」
 オレの言葉になにかを感じたのか、悠真が顔を上げた時だ。
「なんだったんだ、今の……」
「やばい、起き上がった……!」
 悠真が渾身の体当たりでぶっ飛ばした奴の声がする。
 まだ悠真の事には気づいていない、今のうちに目の前のこいつをどうにかしないと。
 悠真を隠すよう前に出たつもりだったが、それはぐいと後ろに手を引かれる事でバランスを崩してしまう。なにが起きたのかわからず視線を後ろへ向けると、呼吸が重なる距離に悠真がいた。
「だめだ、直くん」
「いや、お前この状況見てんのかよ」
「見ているが、直くんが怪我をする瞬間の方が見たくない」
 クソ頑固、こういう時は見逃せよ。
 どう考えてもこっちのが不利なのに、悠真の奴は引き下がろうとしない。むしろ力を込めて、オレの腕を掴んでいた。
「だから直くん、逃げよう」
 それはイタズラをするような、隠し事をするような。
 けれどもまっすぐ、オレの目を見て笑っている。
「逃げるって、そんな情けない事できるか」
 今さら背中を向けて逃げるなんて、そんなダサい事はしたくない。悠真はそんなオレの言葉すら見透かしたように首を横に振り、そうではない、と続けてきた。
「直くん」
 迷いのない、まっすぐな声がオレを突き刺す。
「逃げる事だって、それは強さだ。傷つかないように逃げる選択肢は、情けなくもかっこ悪くもない」
 逃げる強さに、意味があるのか。
 その行為に、意味はあるのか。
「俺は、直くんがこれ以上傷ついてほしくないから、だから逃げる選択肢を取るんだ」
「……悠真」
 感情が、オレの中で揺れている。
 悠真がそう言うならなんて、ついそんな事を考える。
 一瞬だった感情の揺れを、悠真は見逃さない。じっとオレを見つめると、直くん、とオレの名前を優しく呼ぶ。
「だから、走ろう」
 手を引かれて、世界が回る。
 動き始めてしまった足を止める事はできなくて、悠真に体重を預けた。
「悪いが、このまま直くんは貰っていく。もう二度と、直くんが傷つかないように」
 オレにした、クレープ屋での宣言とは比べ物にならない。紛うことなき宣戦布告はその場に落とされて、音を奪っていく。
 静まり返った空間を睨んで、そのまま走り出したら止まる事はできない。後ろから怒号が聞こえた気がしたが、それすらも今のオレには些細な事だった。
 ただ、熱い。
 ただ、心臓がやけにうるさい。
 ただ、呼吸が浅い。
 悠真を考えるとなにもかもめちゃくちゃで、オレがオレではなくなっていくみたいだ。
 それを受け入れているオレも大概で、オレもきっとこいつじゃなきゃだめなんだ。そう思えるのは、絆されたからかもしれない。
 もう全部、なにもかも。
 こいつに溶かされた心は、ずっと元に戻りそうにない。

 ***

 何個角を曲がったか、どれだけ走ったかわからない。
 学校から離れた河川敷に気づくとオレも悠真も自然と足を止めて、ズルズルとその場に座り込んだ。夕焼けが、普段よりもやけに眩しく見える。
「もう、追ってこなさそうだな」
「あぁ……めちゃくちゃ走った、疲れた」
 腰が抜けた、逃げるなんて初めてだった。
 ダサいと思っていたのに、そんな事はない。むしろ安心感は波のように押し寄せて、オレ自身の弱さを肯定された気がする。
 けど、そんな事は些細な話だ。
 それよりもこうして手を握った温もりが、なによりも嬉しかった。絶対言葉にしてやらないそれはそっと飲み込んで、深く息を吐く。
 しばらく呼吸を整えてから横を見ると、アイスグレーの瞳と視線がぶつかる。オレと同じように走った悠真は、運動を普段していないのかオレよりも疲れ切っている。けどその目はずっとオレを見ていて、それがあまりにも力強いものだから場違いだななんて他人事で考えた。
 悠真の瞳と、それからさっきまでの喧騒が嘘のような静けさ。それだけで今手の中にあるのは穏やかな時間だと理解できて、ふつふつと名前の知らない感情が溢れていく。
「ふふ、ふは! お前、けっこう走れるじゃねえか!」
「そんな、火事場の馬鹿力だよ」
 ここしばらく一緒にいた中でも初めて見た悠真の一面に、笑いが込上げる。釣られるように悠真も頬を緩めると、自分がかなり走ったと自覚できたようでさっきのオレと同じように深く息を吐いていた。
「それで、直くん。なんで隠し事をしたか教えてくれるだろうか?」
「本当、バカ真面目……」
 今はもうその話、見逃してほしいけどな。
 隠してた自覚はあるけど、これを悪かったとは思っていない。ただあの瞬間の、オレの信念の話だから。
 だんまりを決め込むオレを見てなのか、しばらく静かにオレの答えを待っていた悠真も諦めたようにまた今度必ず、と笑った。
「それにしても、もう体力も限界だな……しばらく走るのは控えよう」
「いや、運動はしろって」
 冗談のつもりで言った言葉だったが、どうやら悠真は本気だったらしい。そんなにも体力がないくせに、火事場の馬鹿力なんかでオレの事を助けにくるなんて。
「本当に、お前は……」
 バカだよ、あんな理由で危ない場所に乗り込んできて。
 その癖、オレのなにもかもを掻っ攫って逃げ出してしまった。本当に、今この瞬間世界一バカな男だ。バカで、けどそんなところも悠真らしいと許してしまいそうになる。
「捨て身のタックルしてたけど、あれなんだった?」
「俺は直くんみたいに殴る事はできないが、それでも直くんを助けたかったから身体がつい」
「オレでもあんなのやろうとはしないけど」
 だって殴るより痛いだろ、タックルは。
「それで、どうだっただろうか直くん。俺のタックルは」
「んー、どうだったって聞かれてもな」
 少しだけ考えて、頬を緩める。
 返答は、最初から決まっていた。
「すげえダサかった」
「ださっ……!」
「すげえダサくて、すげえかっこよかった」
 どんなヒーローよりも、本当に。
 噛み締めて、言葉を落とす。
 まだ出会って日が浅い、ほんの少ししかお互いを知らないはずの関係。それなのにいつだってオレの事を第一に考えて、愛おしそうに触れて。宝物を扱うようなそれはいつだってこそばゆいとも、暖かいとも思えてしまう。
「本当になんで、お前はオレなんかのために」
 悠真ではない、どこかに投げ捨てたはずの言葉。それはきっちり悠真まで届いていたらしくそうだな、と悩む仕草をされる。
「なんで、か……」
 少しだけ戸惑った悠真は、なにかを決意したように小さく頷くとオレの両肩に手を置き直くん、と名前を呼んでくる。アイスグレーの瞳の中に、情けないくらい不安そうな顔をしたオレが映っていた。
「わかっていないならもう一度言う、俺は直くんが、んぐっ」
 咄嗟に悠真の口を塞いで、うー、と自分のにしてはずいぶん弱い唸り声を上げる。
「や、やっぱそれ以上はだめだ」
 いざ言葉を投げたけど、また熱烈な言葉を淀みなく言われると思うと心の準備が間に合ってなかった。多分だけど、今なにか言われたらオレはだめになってしまう気がする。身も心も、悠真に溶かされる気がしてしまう。
 躊躇ったのをどう思ったのか、オレの両手越しに悠真は嬉しそうにしている。手の甲を優しく撫でられて指先が跳ねると、そのまま優しく両手で包み込まれる。自由になった口を塞ぐ事は、もうできない。
「直くん」
 それはどんな悠真の声よりも、優しく鋭い。
「もしよければ、だめな理由を聞いてもいいだろうか?」
 答えなんて聞かなくてもいい癖に、わざわざ伺いをたててくるのはこいつが真面目すぎるのか、それともイジワルなのか。どちらの面も持っている悠真相手だとどうくるかわからなくて、けどだからと言ってごまかす方法は持ち合わせていない。 
 本当に、こいつの前じゃ固めた嘘も意地もなし崩しになってしまう。けど今では、それすら愛おしいと思える時すらある。
 どうせ悠真相手だ、嘘をついたってすぐバレる。
 だから腹を括って、言葉を選んだ。
「…………勘違い、しそうになる」
 やっとの思いで絞り出した言葉は、自分のものとは思えないくらいに情けなく震えて小さかった。
「勘違い?」
「そう、勘違い」
 二回も言わせんな。
「……ずっと、そうだった」
 それは、どんな懺悔の言葉よりも重く苦しい。
「お前の言葉を聞くたびに、優しくされるたびに勘違いしそうになるんだ。オレがお前のものになるような、悠真になにもかも上書きされるような気がするんだ」
 ずっと、心臓がうるさいくらいに暴れている。
 あの日から、あの時からずっと。今だってずっと、絶え間なく暴れ続けている。
 全部、悠真のせいだ。
「だから、これ以上お前になにかを言われたら、本当に勘違いしちまう」
 情けないくらい、縋るような声だった。
「悠真と出会って、ずっとオレは勘違いしてんだ。お前の優しい言葉も、熱すぎる感情も全部。オレだけに向けられているって、オレのためだけに並べた言葉かもしれないなんて思ったら、勘違いしちまう……オレも、お前がほしいと思っているかもなんて、そう勘違いしてるんだ」
 それは懺悔だった、告白にはほど遠い暴露だった。
 露見した感情は溢れたまま止まらず、言葉にするたびオレの方に戻ってくる。なにもかも、オレを突き刺して殴りつけてくる。
 吐き出すのすら怖いと思った感情がその先で待っているのは、間違いなく拒絶だ。
 悠真には、そんなオレがどう見えたのだろう。最初こそ驚いた様子だったが、すぐその裏には隠しきれない喜びが見える。目を細めて、頬を緩めて。緊張が抜けたように笑った悠真は、そっとオレの頬を優しく撫でる。
「なんだ、そんな事か」
 暖かかった、けれども同時に心が冷たくなる。言葉にどんな意味があるのか、わからなかったから。
「それならば、もっと勘違いしてくれ」
 優しく、両手で頬を包み込まれた。
 温もりに顔を上げると、視線がぶつかる。呼吸もなにもかも重なって、全部溶け合っていく。
「たくさん、何度だって勘違いしてくれ……俺はそのたびに、それが勘違いではないと言うから」
「勘違い、ではないって」
「あぁ、俺がそう思ってほしいと願っていたんだ。なにもかも、勘違いなんかじゃない」
 手の中にあったカードが、次々抜かれて行く。先回りするように選択肢を奪われて、呼吸が浅くなる。
 退路は塞がれた、前を見る事しかできない。
 それでも、まだ心はぐらついたままだ。
「オレは、お前に返せるものがない。お前の言葉に見合うようなものだって、持っていない」
「じゅうぶんなくらい、俺は直くんからもらっている。直くんの隣という特等席があるんだ、それだけで俺は満足だ」
 聞いた言葉を、愛についてを思い出す。
 こんなの、きっと愛ではない。愛なんかより重たくて、比較できないなにか。それが悠真からオレに向けられていて、それを受け入れようとしているオレもいる。あぁだめだ、負けだよ。オレはもう、お前に絆されきっているんだ。
「……なぁ、悠真」
「なんだ?」
「オレのどこに、お前はそんなにも夢中になってんだ?」
 ちょっとだけイタズラのつもりで聞くのは、許されると思った。そんな何気ない感覚で投げた話にも真剣な顔をした悠真をそうだな、と言葉を淀ませる。
「全部言ったらキリはないのだが」
「いや、全部は言わなくていい」
 本当にこいつなら言いかねないから、止めておく。
「いつも言っているが、直くんが幸せそうにしている顔が好きなんだ」
 いつもと変わらない殺し文句、そのはずなのに悠真は言い足りないらしい。それから、なんてもったいぶった様子は、どこまでも幸せそうだと思えてしまう。
「……笑っている顔も不機嫌な顔も、意地っ張りで嘘つきな直くんもすべて俺にとっては愛おしいんだ」
 その視線は、その言葉は。
 この世界のなによりも甘いものを見るような、そんな愛おしいものに向けるような視線でしかない。

 初恋は、レモンの味がするらしい。
 甘酸っぱさは風に揺れて、どこか知らない場所まで飛んでいく。手元に残るのは、それはどんな味なのか。甘いも苦いもわからない、嘘つきなパンドラはずっとオレの中で居座っていた。
「直くん」
 頭上から声が降ってきたそれは、悠真のものだ。
 コンクリートに座り込んだオレを見下ろした悠真はどこか楽しそうで、静かに微笑んでいる。
「直くん、屋上は普段立ち入り禁止のはずだが」
「お前だって入ってるし、そもそも今授業中だろ。立派な共犯だ」
 どこにいるなんて言ってないのに、こいつはいとも容易くオレを見つけた。それすらなんだか嬉しいと思えて、オレも本当にチョロいと思う。
「いいのか? 特進コースの優等生さんがこんな場所でおさぼりして」
「よくないな……悪い事を覚えたのも、全部直くんのせいだ」
「そこはおかげじゃないのかよ」
「あぁ、全部直くんのせいだ」
 その言葉に、悪意がないのは見てわかる。
 だからオレもそれを聞きながらつい頬を緩めて、空いている隣をトン、と手で叩いた。
「なら悪い子の悠真、ここなんて空いてるぞ」
「あぁ、お言葉に甘えよう」
 躊躇う事なく横に座った悠真は、ただそれだけで嬉しそうにしている。オレといるという事が幸せだと嫌になるくらい聞かされたが、よく考えてみればこう言った言動一つ一つで手に取るようにわかる。
 言葉は下手だけど、表情だって乏しいけど。
 それでも、こいつの事を知ればじゅうぶんすぎるくらい考えている事は伝わってくる。
 そんな悠真を見ているとオレも嬉しくて、ふとさっき自販機で買ったものを思い出しそれを差し出した。
「ほら、コーヒー」
「……もし俺がこなかったらどうするつもりだったんだ」
「……オレが飲む」
 今のはちょっと意地を張ったかもしれない、コーヒーは苦くて苦手だから。よくてコーヒーゼリーにでもしただろうそれを悠真は嬉しそうに開けると、そのままぐっと喉に流し込む。
「うん、美味い」
「ならよかった」
 どこかのクラスが体育の授業をしているのか、ボールを蹴る乾いた音が響く。校庭に一瞬目を向けたが、それだけ。すぐに悠真の方へ視線を戻して、必死に言葉を選んだ。
「……悪かった、巻き込んで。悠真にあんな事させたかったわけじゃないのに」
 昨日の、路地裏での話。
 助けて欲しかったわけでも、なにかをして欲しかったわけでもない。ただ純粋に、悠真をこれ以上オレ側にこさせたくなかった。たった、それだけの話。
 悠真がオレに笑っていてほしいというように、オレだって悠真を守りたかった。そのはずなのに、上手く伝える事はできなくて。ただ、自分の中に居座った感情を吐き出す事ができなかった。吐き出す事はとても難しくて、傷つけるなんて最低な方をオレは選んだ。
「もう気にしていない……それより、昨日の人達は」
「こっちでなんとかする……そんな目で見るな、喧嘩で解決なんて考えてねえから」
 不安そうに瞳を揺らすから、つい先に結論を出す。
「完全に避けるのは難しいかもしれないけど、あいつらも相手をしない人間には興味ない……なんとかするよ」
 明確ではなくても、悠真にとってはその言葉が嬉しかったらしい。そうか、と笑うだけでそれ以上言及はしてこなかった。
「……なぁ、悠真」
「なんだ?」
「なんでお前、オレの事知ってたんだ?」
 代わりに投げたのは、ずっと気になっていた事。 
 なんの事だ、と首をかしげる悠真はオレの言いたい事がいまいち理解できないようだった。
「オレでさえ、お前の事は同じ学年の特進にいたなって事しか覚えてなかったのに。お前、オレのクラスまで知ってただろ」
 二年一組と、二年八組。
 これだけクラスが離れているのに、どうしてオレの事を知っていたのか。いくら相手が問題児だからと言っても、クラスまではあまり覚えていないものだとオレは思う。
 オレのその言葉にようやく理解できた悠真本人は、なぜだか懐かしむように目を細めていた。
「……直くんにとって俺は、きっと大勢のうちにいる一人だろうが。直くんはいじめっ子からだけではない、校内で誰かが理不尽に絡まれた時も同じように助けてくれるからな」
 なにを言っているのか、理解できなかった。
 オレに対してというのはもちろんわかっているが、悠真の言う通り似たような事は何度かしているから心当たりが多すぎる。
「……入学式の日、きっと直くんにすべて持っていかれたんだ」
 けど、最後に付け足された言葉に、肩が揺れた。なんでお前、突然入学式の話してんだ。確かにあの時、シューズボックスの前で特進の女子が話には出していたけど。
「学校最寄りの駅で在校生と肩が当たった事で絡まれていた新入生を助けたの、あれは直くんで合っているだろうか?」
「入学式って、それは」
「あの時から、俺は直くんに夢中なんだ」
 なんでそれを今持ち出された理由がわからずにいると、悠真の話は終わっていなかったらしい。
「同じ入学生に素行の悪い問題児がいるとは聞いていた。けどあの日助けてくれた時、もしかすると噂は独り歩きしているだけではないかと思ったんだ。噂に聞く怖いだけじゃない……きっと優しさもある。それは、調理実習室で会った時確信に変わったんだ」
「いや待て、それって」
 話を聞くたびに悠真はオレを知っているような口ぶりで、つい話を止める。今の話、入学式の事。どれも自分の事のように話す悠真は嘘をついていないようで、記憶を必死に手繰り寄せた。
 あの時、入学式の話。
 悠真の言っている事は、確かにあった。偶然肩が当たったとかで、在校生がオレと同じ新入生に絡んでいるのを偶然見かけて。どう考えても適当なカモを見つけて反応を見ては楽しんでいるような、最低な奴ら。そんな年上のくせに新入生に絡んでバカみたいと思ったのと、絡まれている奴も可哀想だからなんて、それだけの理由で間に入った。だから記憶にだってあるし、間違いでもない。なら、それはつまり。
「おま、あの時の……!」
「もしかすると、甘いものを食べている直くんを見る前から俺の特別は直くんだったのかもしれないな」
「まじ、かよ」
 甘いものを食べている姿をみたいとか色々言っていたくせに、本当はもっと前からなんて。
 人の事嘘つきとか言って笑っていたけど、自分が一番嘘つきだろ。
 ずっと、その時からオレへの感情を隠していた。いつからなのかもわからない、そんな昔から。思い出せば全部点と点が繋がって、こいつのわけがわからない言動も納得ができてしまう。
「だからお前、オレが殴らないとか優しいとかある事ない事言って!」
「ある事ない事なんかではない、全部事実だ。実際、入学式の時も俺は殴られなかった」
 ふふ、と笑う悠真はすべてを笑っていたようで、ネタばらしを楽しんでいる子どものようだ。それを見ると、もうなにも言えなくなる。
「本当に、バカみてえ」
 こいつは、ずっとオレの事が好きだったんだ。
 どこがいいのか聞いた時に出た言葉も全部、この日が浅い時間の中でのものではない。昔から胸の中に燻っていた言葉を、吐き出しただけだったらしい。バカみたいに一途で重たくて、恋と言うには余りにも熱を持ちすぎた奴。
「……なぁ、悠真」
 オレはそんな、そんなにも熱烈な言葉に返すものを持っていない。見合うものだってこの手にない、それでもなにもできないとは言っていない。
「その気持ち、オレが諦めろって言っても捨てないのか?」
「あぁ、悪いがそれは難しい。直くんへの気持ちを捨てるなんて、考えられないからな」
 迷う事なく放たれた言葉にすら熱はあって、聞いているこっちも恥ずかしくなる。けど、それもいいかと思ってしまうのは、相手が笹川悠真だからこそだ。
「――なら、オレも喧嘩はもうしない」
 はっきり、屋上に響いた声は悠真に届く。
「……え、今直くん、なんて」
「だから、喧嘩はもうしない。約束する」
 じっと、目を丸くしてアイスグレーが揺れている。驚きを隠していないそれは、オレをじっと見つめている。
「どうして、突然」
「なんだ、喧嘩しててほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃ!」
「ふはっ、必死じゃん」
 勢いよく首を横に振るからそれが面白くて、少しだけからかいたくなるが今はぐっと我慢する。
「やりたくて、喧嘩をしていたわけじゃない……それならお前とバカやって、美味いもの食った方がいいと思っただけだ。お前といた方が、オレはいい」
 他意はない、ただ事実を言葉にしただけ。
 それだけのつもりだったのに、隣から息を飲む音が聞こえた。視線を向けると目を丸くした悠真がオレを見ていて、それって、とうわ言のように繰り返していた。
「直くん、それはつまり」
「勘違いすんな、そんなのじゃない」
 言いたい事がわかってしまって、ついいつも通り虚勢を張る。けどすぐに考え直して、視線を落とした。
 そうかも、しれない。
 悠真の期待通りの感情を、オレは言葉に無意識のうちに乗せているかもしれない。それは他でもない、このうるさいほどに暴れている心臓の音が証明している。
「……やっぱ今の嘘、少しだけ。少しなら勘違いならしていい」
 嘘じゃない、嘘つきじゃない言葉。 
 今のオレにとってはそれを言うので精一杯で、頭の先まで茹だるような感覚だった。今の、変じゃなかったか。わざとらしくなかったか、自然に言えていたか。
 意地っ張りじゃない裸の言葉をちゃんと出せたのかすら曖昧で、ぐるぐると思考が回っている。今の言葉、悠真はどう思ったんだろうか。どんな顔をしているのか、それが気になっておそるおそる前を見る。
 それは、その顔は初心なくらいに赤くなっていた。
「すなおっ、くん」
「……ふは、顔真っ赤」
 どこまでもまっすぐでカッコよくて、可愛い奴。
 オレが、こいつの言葉に一挙手一投足持っていかれているのと同じ。悠真だって、オレの言葉一つでだめになっちまう。それが、今のオレにとっては愛おしいと思えた。全部、悠真の言葉と同じだ。
「ゆーま、こっち見ろ」
「な、なに、んっ……!」
 目を閉じて触れるように、あの時と同じように唇を重ねた。今度は、オレの方から。
 悠真みたいに上手くできている自信はない、これがキスと呼んでいいのかも悩んでしまう。けど、それでもと何度も角度を変えながら暖かさを重ねていく。
 数回、わざとたてたリップ音に悠真の指先が跳ねた。
 今のこいつ、どんな顔をしているのかな。
 そんな興味本位もあり、ふと瞼を持ち上げる。
「っ……」
 また、視線がぶつかった。
 熱い、熱すぎるまでの視線がぶつかる。
 オレだけしか見ていない瞳の中でオレだけを閉じ込めている。もしかしてこいつ、最初から目を開けたまま。
 考えると急にオレの方が恥ずかしくなって、けれどもそんなオレの困惑すら気にしていないくらいオレに夢中で。
 それがひどく愉快で、楽しくて。
 本当にこいつって、オレにゾッコンだなとか。考えたい事は尽きなくて、そっと名残惜しむように唇を離した。
「あの時のお返し」
 ニッとイタズラに笑ってやる。
 オレの方が優位だなんて気分をよくしたのは一瞬で、すぐ口の中を支配したのはコーヒー特有の味。
「苦っ……!」
「それは、今しがた直くんがくれたコーヒーを飲んだからだな」
 楽しそうに笑った悠真の手にはコーヒー缶があり、また煽るように流し込んでいる。
 一回目は、クリームの味。
 二回目は、コーヒーの味。
 にがくて甘くて、それから辛い。
 一度バグった感覚は、きっと悠真も一緒だから。
 キスの味だって、パルフェと一緒なんだ。スプーンで掬った宇宙と同じ、何度したって心臓が痛いくらいにうるさくなる。
 ずっとうるさい心臓と浅い呼吸の中で、悠真は愛おしそうに笑う。夢見たい、なんてそんな言葉を落として。
「なら今の必死で可愛かったキスも纏めて、存分に勘違いさせてもらう」
「ひ、一言余計だ」
「すまない、ただそう思ったからな」
 細くも骨張った手が頬を優しく撫でる。撫でて、顔を近づけた。熱も吐息も、呼吸も視線も。全部溶け合う距離で、アイスグレーの瞳に溺れている。
「ところで直くん」
「なに」
「もう一回、今度からオレからしていいだろうか」
「……勝手にしろ」
 今のは自分でもわかっている、完全な照れ隠しだ。
「勝手は嫌だ、直くんと二人でしたい」
 だめだろうかなんて、答えのわかりきったお伺いを立ててくる。それすら確信犯で、なにも言い返す事はできない。そんなこいつのわがままで欲深い一面も、全部纏めて甘いと感じてしまう。
 返事はしてやらない、代わりに軽く頬にキスを落とす。
 それだけで嬉しそうに笑う悠真が可愛いと思えるオレは、もう手遅れかもしれない。
 三回目は、どんな味なのか。
 わかりきっているはずなのにわくわくして、幸せだと思えた。
 風に揺れた苦いも甘いも、なにもかも。
 今日も静かに、オレを満たしていくようだった。

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