放課後、人気の引いた昇降口。遠くに吹奏楽部の奏でるマーチが聴こえる。
下駄箱から少しくたびれたローファーを取り出した。

「———和詞?」

後ろから声がして振り返る。

「あ、秋人」

久しぶりに見る幼馴染みだ。近所に住む、小学校からの友達。
黒縁の眼鏡をかけた一重まぶたは少し冷たい印象だが、実は人望厚く頼れる男だってことは、よく知っている。
別にそこまで気が合うわけでもないが、付かず離れず、ずっと近くにいる。学力の差から高校は別になるかと思いきや、何故か同じ男子校。とはいえこいつは特進クラスだから、今まであまり接点はなかったのだけど。

「帰るの?」
「おう」
「一緒に帰っていい?」
「もちろん」
秋人は嬉しそうに表情を緩ませた。
「俺、和詞に話があるんだ」
「話?なんだよ」

校門に向かって歩きながら、秋人は真剣な目を向けた。
あ、この顔、見覚えがある。
こいつがこの顔をした時は、茶化したりしてはいけない。ちゃんと話を聞かなくちゃ。

「今度の学園祭で、有志の演劇をやるつもりだ。俺が脚本を書いて、演出もする。和詞、手伝ってくれないか?」
「はあ?」

突然すぎる情報に頭がついていかない。
演劇?秋人が?俺が手伝うって?

「……おまえ、そういう趣味あったっけ」
「うん。実は舞台観たりするのすごい好き。文章書くのも好き。高校生活の思い出に何かやりたいなーって思った時、演劇が一番に思い浮かんだ」
「演劇部とか入ったら?」
「もう二年生だし、そういうんじゃないの。俺が一から作ってみたくて」
「……へえ……」
「もう何人かの友達は協力するって言ってくれてるし、放送部や美術部なんかも手を貸してくれることになってる」
「さすが顔が広いな」

秋人は秀才で努力家で、友達が多い。なんせ中学時代も今も、生徒会長サマだ。

「和詞、陸上部辞めてから暇だろ?俺にその時間、少しくれないか」
「おお、直球きた」
「……ストレートにしか言えなくてごめん」

高校一年生の秋まで、陸上選手だった。
短距離ランナーとして真面目に練習してきたし、それなりにいい成績も残してきた。まだまだ伸びると信じていた。
なのに、夏頃小さな違和感を感じ始めた膝が、季節が変わる頃には限界を迎えていた。いろんな病院を回ったが、どこに行ってもこれ以上は無理だと言われた。幸い日常生活には何の支障もなかったが、激しい運動はできなくなった。
秋の体育祭でリレーのアンカーを走り、華々しく優勝できた。その日を最後に、完全に引退した。
辞めてから思い知ったが、自分には走ること以外何もなかった。
他にやりたいことが思いつかず、毎日なんとなくボーッと過ごしてきて、今、高二の九月。
その間特に接点はなかったが、秋人は魂の抜けた俺を少しは心配してくれていたのだろうか。

「俺にできることなんてあるかな」

演劇なんてちゃんと観たことないから、どんなことをすればいいのかわからない。色んな友達が参加してくれるなら、俺など必要とも思えないんだが。
背は高いほうだから、力仕事?大道具とか?そんなに器用ではないぞ。

「あるある!和詞には、和詞しかできない役割を用意してあるんだ」
「役者なら断るけど」
「違う。舞台には乗らなくていいから。お願いだ、やるって言って」

よくわからないが大事な幼馴染みにこんなに頼まれたら、嫌とは言えるまい。暇なのは事実だしな。

「……わかった。やるよ」
「やった!」
「はは、しょうがないな。できることなら何でもするから言ってくれ」
「ありがとう!早速来週、みんなで顔合わせするから、よろしくな!」

それから秋人は、家に着くまで演劇の構想を話し続けた。その壮大な物語に、自分の胸も少し高鳴っていくのを感じた。



顔合わせの日。放課後の空き教室に集められたのは、同学年の十人ほどだった。
ざっと見渡したところ、秋人の他によく知っている人はいない。何となく皆賢そうだから、特進クラスが多いのかもしれない。
配られた台本には、表紙に大きく丸秘のマークが描かれていた。
一枚ページをめくると、
『dear my space egg』と書いてある。

「スペース、エッグ?」
「それ、タイトルね」

少し騒めいた教室を見渡し、いつもより二割り増しに高揚した顔で、秋人が言った。

「ふーん……」

次のページは、配役だった。

『少女ソラ———遊馬叶多(あすまかなた)
『宇宙人———高嶺望(たかねのぞむ)
『ナレーション———北澤和詞(きたざわかずし)

見開きの次のページには、脚本演出の松田秋人(まつだあきと)を筆頭に、スタッフの名前が連なっている。

「……は?ちょっと待って」
「発言は挙手してね、和詞」
「ナレーションて何?俺、聞いてないよ」
「何でもするって言ってくれたでしょ。適材適所だよ」
「え?ええっ?!」

教壇に立つ秋人がニヤリとした。

「今回は少数精鋭のメンバーに声をかけさせてもらいました。みんながそれぞれの場所で力を発揮すれば、最高のチームになると確信しています。
この北澤くんは、お聞きの通り声が非常にいい!低音でよく通る声は、流行りの揺らぎ声といいますか、人に癒やしを与える素敵なバリトンです。
ナレーションはこの人以外考えられません。」
「はあ?!」

突然の誉め殺しに戸惑う。
声がいい?そうかな。自分の声は嫌いじゃない。授業中、音読を当てられると結構な頻度で褒めてもらえる。カラオケで歌うのも好きなほうだ。
ナレーションか。そんな重要そうな役、荷が重いけど。顔を出して演技する訳じゃないから俺にもできそう……なのか?

「確かに!いい声してる」

ほぼ初対面の周りの人達も賛同してくれて、反論する気は失せた。
秋人が言葉を続ける。

「今回の劇には、登場人物が二人しかいません。
少女と、宇宙人。二人とも演技は初めてだし、できるだけ台詞のボリュームを抑えることにしました。その分をナレーションやSEでカバーしていきます」
「ほほう」
「ま、それでもかなり台詞はある訳だけど、二人ならきっといい舞台にしてくれると思います。
紹介します。まず宇宙人役の高嶺くん」

秋人の右隣に座っていた高身長イケメンが立ち上がった。

「高嶺です。演技は初めてだけど、興味は前からあったので、生徒会長から誘われてすぐに、やる!って決めました。
一緒に最高の思い出作りましょう。よろしく!」

パチパチパチ。拍手が巻き起こった。
パッと人目を引くハンサム。彫りの深い顔に、明るい髪色がよく似合っている。王子様っぽい容姿が舞台で映えそうだ。

「そして、唯一無二のヒロイン役、遊馬叶多」

秋人が左隣に座る人物の手を取り、立ち上がるのをサポートした。お姫様か。

「……遊馬です。緊張してます。よろしくお願いします」

パチパチパチパチ。大きな拍手が起こる。
ペコリと頭を下げる仕草がなんともかわいらしい。
高嶺くんや秋人と並ぶと身長も体型も一回り小さくて、華奢だ。
二重まぶたの大きな瞳がキョロっと動く。整った顔立ちは愛らしく……確かに、化粧でもすれば少女のようになるだろう。しかもかなりの美少女に。

「さっき少し紹介しちゃったけど、ナレーションの北澤和詞」
「はい」

仕方がないので、俺も立ち上がる。

「北澤です。ナレーションなんて大役にビビってますけど……がんばります。よろしくお願いします」

パチパチパチ。
ふと遊馬くんのほうを見ると、しっかりと目が合った。ニコっと笑いかけてくれたような気がして、自分もニヤける。仲良くなれたらいいな、なんて。

少数精鋭という秋人の言葉通り、その後紹介されたスタッフの面々も強者ばかりだった。これだけの人達を集められたのは、秋人の人望が厚い証拠だろう。
本番まで二か月ほど。
短い期間だが、このメンバーならいい舞台を作れそうな気がしてきた。
各自で台本を読んでくるように言われ、その日は解散となった。



『dear my space egg』の舞台は現代日本。
主人公の少女がある時道端で光る卵を見つけ、家に持ち帰り押入れで孵化させる。誕生したのは宇宙人。宇宙人はすぐに少女の理想的な男性に育つ。やがて二人が恋に落ち、別れるまでの話だ。

台本を読み進めながら、少女と宇宙人を思い浮かべる。
中性的な魅力のある遊馬くんと理想の王子様のような高嶺くんは、この役にぴったりなビジュアルだと思った。
どんな舞台になるのだろう。ワクワクしながら何度も読み返した。こんなに気持ちが昂るのは、陸上を辞めて以来初めてのことだった。



翌週、美術係の生徒が早速光る卵を試作してきた。これから色を付けたりして完成まではまだかかるらしいが、妖しく光る卵は想像以上によくできていた。
音響係もBGMやSEを作り始めていて、皆ヤル気に満ちている。いい雰囲気だ。

演者の二人とナレーターは、台本の読み合わせをした。
秋人が時間を測りながら、指導をしていく。最終的には四十分ぐらいの長さにまとめたいらしい。
俺の声はゆったりペースだと聴いている人の眠気を誘ってしまうと言われ、少し速めに読んでいくことにした。その代わりに、聴き取りやすいように滑舌には気をつける。
読んでいる間、遊馬くんがニコニコと微笑みながら聴いてくれているのが目に入り、少し緊張が解れるような気がした。
その遊馬くんは、なんと台詞をほとんど覚えてきていた。長い一人芝居の場面がいくつもあり、俺にはとても覚えられない量の台詞。それを一週間でとは、驚きでしかない。
男性としては少し高めのアルトの声が、よく通る。感情の乗せ方が自然で、変に芝居がかっていない感じが好みだと思った。
一方高嶺くんは、やたらオーラを放つイケメンだが、イケメン過ぎて何を考えているのかわからないところが宇宙人ぽくて良い。
芝居は少々大袈裟になりがちなので、秋人に何度か注意されていた。
それにしてもこの二人は絵になる。
物語が進むと、二人は恋仲になり、キスシーンなんかもあったりする。
まだ読み合わせの段階では実際に動くことはないので、このシーンが今後どのように表現されるのかが気になってしまう。
本当にしたりも……するのかな。いや、フリだけだよな。
少しモヤモヤするが、秋人に尋ねることもできず、その場面も普通にスルーして最後まで読み終えた。

本読みの後、教室の片付けをしていると、高嶺くんが遊馬くんを誘っている声が聞こえてきた。

「遊馬っち、このあとどこかで練習しねえ?」
「え、二人で?」
「そう、役的にも俺ら、仲良くなったほうがいいっしょ?親睦深めようぜ」
「……でも、」
「あ、高嶺くん!」

そこへ秋人が割って入った。
何故か俺はホッとする。

「このあと高嶺くんはちょっと残ってくれる?衣装のことで打ち合わせしたい」
「あー、そうか」
「ごめんな、早めにお姉さんにお願いしておきたいから」
「んー、わかった。遊馬っち、また今度な」
「叶多、お疲れさま」

高嶺くんは残念そうに遊馬くんへ手をヒラヒラさせながら、秋人に連行されていった。
男子校故に衣装を貸してくれる女子が見つからず、流石の秋人も困っていたら、話を伝え聞いた高嶺くんのお姉さんが手を挙げてくれたらしい。
お姉さんは読モもしている女子大生で、文化祭当日もメイクや衣装の着付けを手伝うと張り切っているということだ。
「うちの姉貴、言い出したら聞かねーからさ、衣装係やらせてやってくれる?」といつになく下手からものを言う高嶺くんが、意外にシスコンぽくて可愛かったと秋人がコッソリ教えてくれた。
秋人はもちろん、お姉さんの参加をありがたいと大歓迎している。

「北澤くん」

え?と振り向くと、遊馬くんがすぐ後ろに立っていた。

「秋人も高嶺くんも忙しそうだし、一緒に帰らない?」

上目遣いの視線がクリンと揺れる。
ビー玉みたいで綺麗だな、と思った。

「あ、うん。いいよ」
「やった」

イケメンの誘いにはそれほど乗り気には見えなかったのに、今は何だか嬉しそうに見える。って思う俺はただの馬鹿だ。
路線は違うが駅までは同じ帰路だとわかったので、連れ立って歩き出す。
何を話したらいいんだろう。

「……遊馬、台本もう覚えてんのな。すげー、驚いた」
「あー、うん。何回も読んでたら、大体覚えちゃった」
「ホントすげえよ。遊馬って特進クラスだろ?やっぱ頭いいのな」
「いや、そうでもないよ。秋人のほうが全然成績いいし。俺はギリギリ特進。バリバリのギリ特」
「ギリ特」

はは、遊馬くん、意外に面白いかも。

「てか、北澤くんもすごいよ!俺、北澤くんの声好きだから、ナレーションしてくれてすごく嬉しい。読むの上手いし、聴いてて心地いいというか、ずっと聴いていたくなる声だよね」
「……そう?」

やば。また顔がニヤける。

「そういえば遊馬は、なんでこの役引き受けたの?そんなに前に出たがるタイプには見えねーし、高嶺みたいに俳優志望って訳ではないんだろ?」

高嶺くんは将来俳優になるのもいいかもって言っていた。軽い感じだったから本心かどうかはわからないけど、彼なら実現も夢じゃないのかもと思う。

「うん」
「もしかして秋人に誘われて、強引に押し切られたとか?」
「え、そんなことないよ!確かに人前に出るのは苦手で、一度は断ったんだけど……。
俺、帰宅部だし無趣味だし、このままじゃ高校生活、何の面白味もなく終わっちゃいそうだから。秋人がこの企画考えてくれて、どうしても俺に出てほしいって言ってもらえたのは嬉しかったんだ」
「へえー」

俺と状況は似てるかも。でも、秋人は遊馬くんのために企画を考えたのか?そんなに仲良かったとは知らなかった。

「もらった役が女の子だってわかった時は、首絞めたくなったけどな」
「ははは」
「まーでも、俺にしかできない役だって言ってもらって……ちゃんと演じたいって、今は思ってる」

『俺にしかできない役割』って、同じこと俺も秋人に言われたな。この人たらしが。

「俺も。せっかくの機会だからな。一緒にがんばろうぜ」
「うん」

駅に着き改札をくぐった所で、じゃあ俺こっちの電車だから、と言って遊馬くんがニコッと手を振った。
もう少し話したいって言ったらどうするかなと思いながら、自分も手を振りかえした。



翌週からいよいよ、立ち稽古が始まった。
ナレーションの自分は座って台本を見ながらできるが、演者の二人はなかなか大変そうだ。
立ち位置から動き方、表情や目線まで、秋人の細かい注文が入っていく。
気づいたことを全部書き込んでいくので、秋人の台本は既に真っ黒になっている。それ読めるの?と聴いたら、読めないところもあると言って笑っていた。

劇の序盤は、ほぼ遊馬くんの一人舞台だ。

ソラという名の少女が道端で偶然拾った光る卵。
その卵から産まれたのは、人のような、獣のような、爬虫類のような、得体の知れない不思議な生き物。それは地球上の何にも似ていなかった。
ただキラキラした二つの目が合った瞬間、少女は本能的にそれを愛しいと感じた。
その生き物も、孵化したヒナ鳥のすり込みのように、少女だけを頼り、全てを信じ、身を委ねた。
少女はその生き物にランと名付けた。
ミルクと食べ物を与え、押入れで密かに育て続けた。
毎晩好きなアイドルの話をし、お気に入りの少女漫画を読み聞かせた。
ランはあっという間に成長する。その姿は、まるでソラの理想の王子様そのものだった。

ここで高嶺くんの登場だ。
キラキラ王子様に成長したランとソラは、いつの間にか恋に落ちていく。
幸せな時間を過ごす二人。
そしてキスシーン。

稽古中のそれは、たぶん唇は、触れてはいなかった、と、思う。
高嶺くんが遊馬くんにぐっと近づいた瞬間、遊馬くんの肩が後ろに引いたように見えた。
劇中のキス。しかも男同士の。
触れたのかそうじゃないのか、こんなに気になるのは何故だろう。
わからないが、それは自分にとって案外重要な問題なのかもしれない。

本日の稽古が終わり、道具を倉庫に片付けて教室に戻る途中、階段の踊り場で、二人の人影を見た。
西陽が照らすシルエットが逆光に浮かび上がる。
遊馬くんと高嶺くんだ。
心臓がドクドクと音を立てる。
二人の影は重なり、今度こそ本当に、キスをしていた。
やばい、見てはいけない。身を隠そうとしたその時、「……いやだ、はなして」という小さな声が聞こえた。

「何してんの?」

咄嗟に声が出る。
二人がサッと身体を離した。

「ビビった、北澤かー」

高嶺くんが笑う。

「芝居の練習だよ。ただの練習」
「……そうなん?遊馬」

俯いていた遊馬くんがコクリと頷いた。

「それでも、そういうのは稽古場だけにしといたほうがいいんじゃねーの?知らねーけど」
「だよなー、そうする。じゃあな、お疲れさん!」

高嶺くんが階段をタタタッと降りて行く。
遊馬くんはその場を離れなかった。

「大丈夫?」と声をかける。
「うん」
「無理矢理された?」
「ううん、大丈夫。北澤くん、ありがとね」
「いや、俺は別に……」

言い終わらないうちに、ふと唇に柔らかいものが当たった。

「……んん?」
「ありがとう」
「はあ?!」

キス?俺に?なんで?

「ふふ」

遊馬くんはパニクる俺を揶揄うように、微笑みながら眺めている。ホント何なんだよ。

「おまえ、アメリカ人なの?ありがとうでこんな……」
「ふふふ、違うよ。北澤くんで上書きしたかったから。ごめんね」
「……?」
「じゃあ、またね」

遊馬くんはスキップでもしそうな軽い足取りで去って行った。
一人残された俺は、顔から火を吹けそうなくらいに熱く、その場から動けなくなってしまった。



少女ソラとランの幸せな時間は長くは続かなかった。
宇宙からランを取り返しに来た使者たちが、二人の仲を割こうとする。
家族や周りの人達を巻き込み、必死で抵抗するソラ。ソラを守るラン。
彼女の幸せを願ったランは、身を引くことを決め、満月の夜にとうとう別れを告げる。
泣きながらもランを見送るソラ。
少女から一歩成長し、強く決意を秘めた表情にスポットライトが当たり、幕は閉じる。
その胎内には新しい卵が宿っているのだった。



「和詞、大丈夫か?」

練習の後、秋人から一緒に帰ろうと言われた。秋人は劇の準備や生徒会の仕事で毎日忙しそうだ。家は近いが一緒に帰るのは最初に劇に誘われた日以来か。

「え?なにが」
「今日ちょっとボーッとしてなかった?ナレーション入るタイミングが何回か遅れた」
「そうかな、悪りい」
「何かあった?」
「いや別に……」

思い浮かぶのはもちろん、あのキスのこと。
つい遊馬くんの顔を眺めてしまい、タイミングが遅れてしまったのも確かだ。
眺めて……というか、白状すると、見惚れていたというのが正しいかもしれない。
だって、見れば見るほどかわいいじゃないか。
あの大きな瞳、長いまつ毛、サラサラの黒髪。
顔だけじゃない。透き通る声。白く細い手足。一挙手一投足まで見逃せない。

「当ててみようか」

眼鏡の奥の瞳が光った。何でも見透かされてしまいそうな、嫌な目だ。

「叶多と何かあっただろ」

は、と息を呑んだ。

「な……んで」
「はは、わかりやすすぎ」

秋人が髪をかき上げ、おかしそうに笑う。

「俺は、叶多と和詞の一番の理解者だからな。おまえらが考えてることは、全部お見通しだ」
「……俺には、遊馬の考えてることは全然わからない。俺自身のこともよくわからない」
「そっか。まだそこか」
「どう言う意味?」
「教えないよ」
「ええー」
「俺は案外性格が悪いんだ。教えてたまるか」

ニヤリと笑って、秋人は横を向いた。

「……代わりに少し、俺の話をしようか」
「秋人の?」
「そう。恋バナだよ」
「ええ?!」

秋人と恋。想像がつかない。

「好きな人が、いたんだ」
「え……」
「その人のことは、高校に入ってからすぐに気になるようになった。見た目も好きだけど、中身も……知れば知るほど他の誰とも違って……とにかく大好きだった」
「……へえ」

いやうち、男子校だよな。え、そういうこと?
他校の女子という線もあるけど……。

「好きな気持ちが止まらなくて、押して押して押しまくって、オーケーもらった時は最高に嬉しかった」
「すごいな。秋人、好きになるとそうなんだ」
「そうそう。全然クールキャラ忘れる」
「はは」
「付き合ったのは数か月だけだったけどな」
「なんで?」
「家に呼んだ時、俺の家族にバレて……めちゃくちゃ反対された。母は心労で倒れるし、まあまあの修羅場。俺はそれでも続けたかったんだけど、相手が引いちゃって」
「ああ……」
「秋の、体育祭が終わった頃かな、他に好きな人ができたって言われて、別れた」

俺が陸上を辞めた頃、秋人の恋も終わったのか。
それぞれの人生。

「以上、松田秋人の恋バナでした」

パチパチパチ。反応に困って、何故か小さく拍手した。

「初めて人に話したー。なんかスッキリ」
「……なんで、俺に話したの?」
「んーーー、同じ轍を踏んでほしくなくて」
「……」

重い荷物を下ろしたようにスッキリした秋人の横顔は、やたらカッコよく見えた。
最後まで、相手は誰?とは聞けなかった。
聞いても教えてはくれないだろうし、聞かなくても答えはわかっているような気がした。


 

次の練習日、高嶺くんはなんと、みんなの前で「キスはしません」宣言をした。

「なんっかいも聞かれるから言っとくけど、本当には、しないから!姉貴にも、メイクが崩れるから絶対するなって言われてるし、そう見える角度研究してっから。正直俺は、遊馬っちなら全然できるけどな!」
「お断りします」

間髪入れず真顔で返した遊馬くんが可笑しくて、みんなで大笑いした。

それからは自分なりに気を引き締めて、練習に集中するようにした。
数日後には、俺のナレーションと演者二人の息が合ってきて、通しで目標時間に収まるようになった。
美術の道具やSEも徐々に加わり、だんだんと完成の形が見えてくると、俄然稽古も楽しくなってきた。いいチーム関係が築けてきたのではないかと思う。
当初少し苦手意識のあった高嶺くんも、案外単純でいい奴だとわかってきた。芝居に対する姿勢も真面目で、本気で取り組んでいるのが伝わってくる。

しかし一方、遊馬くんはなんだか元気がなくなっていた。
練習中は気を張っているのか、台詞が飛ぶこともないし、いつもの魅力をキラキラと放っている。
でもよく見るとその目の下にはクマができており、ここ数日は、練習が終わるとみんなと談笑することもなく、すぐに一人で帰ってしまう。
そんな様子が気になって、教室を出る姿を急いで追いかけた。

「遊馬!」

特進クラスの下駄箱の前で、ようやくその背中を捕まえる。

「え?北澤くん!びっくりした……」
「おまえ最近、すぐ帰っちゃうよな」
「あ……うん、ごめん」
「駅まで一緒に行ってもいい?一人のほうがいい?」
「……いいよ。一緒に帰ろ」

遊馬くんは、クマのかかった目を細めて笑って見せた。

「最近元気ないな。疲れてる?」
「んー、ごめんね。なるべくみんなには迷惑かけないようにしてるつもりなんだけど、バレてた?」
「練習中はちゃんとしてるし、全然大丈夫だけど。もしかして具合悪い?」
「大したことじゃないんだけど……夜、寝られなくて。不眠症かな」
「眠れないのか」
「寝てないから、昼間、気を抜くとフラフラしちゃって。やばいよねー」
「危ないじゃん。原因は何?緊張?」
「そう。学祭本番まであと一か月ないでしょ。なんか、だんだん、ホントに舞台に立つんだなーって実感が湧いてきて。俺、ちゃんとできるのかなって不安で」

大きな目に涙が溜まるのが見えた。

「主演がこんな弱気じゃダメだよね。せっかく皆んながまとまって、いい舞台にしようって頑張ってるのに」
「そんなこと……」
「少し眠っても、悪夢ばっかり見るんだ。声が出せなくなったり、台詞を忘れたり、客席に誰もいなかったり」
「つらいな」
「俺、おかしいのかな。病院行って、薬もらったほうがいい?睡眠薬とかって、すぐくれるものなのかな」
「遊馬」
「……」

涙が一粒ポロリとこぼれた。
思わず手を伸ばす。
伸ばした先に迷い、頭の上に置く。そのままポンポンと叩くと、遊馬くんはくすぐったそうな顔をした。

「スマホ出して」
「?……うん」
「スペースエッグのグループライン開いて」
「……これ?」
「これ、俺のライン。夜電話しよ」
「え」
「布団に入ったらメッセージして。俺から電話するから」
「……」
「俺の声って、誘眠効果あるらしいよ。試してみてよ」
「いいの?」
「おう。薬に頼るのは、その後でいいじゃん」
「……ありがとう」

今日は改札までではなく、遊馬くんが電車に乗るまで見届けた。
電車の窓から控えめに手を振ってくれる。その顔は、ほんの少しだけ明るくなったように見えた。



『ベッドに入りました』

スマホにメッセージが届いたのは午後十時半だった。
何時でも対応できるように待機していた俺は、すぐに電話をかけた。

『もしもし、遊馬?』
『北澤くん、こんばんは』
『おー、遊馬だ』
『ふふ、電話ありがとう』
『もうベッド入ってるの?』
『うん。ふふふ』 
『なに笑ってんの』 
『その言い方、なんかやらしいね』
『はあ?!なんだよそれ』

電話で良かった。たぶん今、俺の顔赤い。

『ふふ、北澤くん、俺を寝かせてくれるんでしょ?』
『そうだよ。何話そうか』
『リクエストしてもいい?』
『リクエスト?なに?』
『名前呼んでほしい』
『名前?下の?』
『そう。……ダメかな?』
『んん、ダメじゃねーけど』

どうしよう、さらに顔が赤くなる。小悪魔め。

『……叶多?』
『うん』 
『叶多、叶多、か、な、た、』
『わーーー、嬉しい。イケボの破壊力、すご!』

やばい。これはやばい。
ちょっと調子に乗ってもいいかな。

『じゃあ俺も呼んでよ』
『……かずし?』
『……いいね』

うう、心臓が痛い。つきあいたてのバカップルかよ。最高。

『和詞、何か眠くなる話して』
『羊でも数える?』
『んー、却下』
『じゃあ、古典文学でも読もうか。今は昔……竹取物語とか?』
『いいかも』
『そういや、スペースエッグって、竹取物語に少し似てるよな』
『うん。現代版竹取物語だって、秋人が言ってた』
『やっぱりそうなのかあ。全体のストーリーもだし、ランが満月の夜に宇宙へ還るところなんか、そのままだよな。
俺、あの場面好きなんだー。叶多と高嶺の演技見てると、グッときて胸が痛くなる。
ランはソラとずっと一緒にいたいのに、ソラや周りの人達の幸せを思うと、絶対に一緒にはいられない。自分が異端の存在であることの苦悩がよく表現されてるよな。秋人、やっぱりすげえよ……』

話しながら、大変なことに気付いてしまった。
これは、秋人自身の恋物語だ。
しまった。こんなこと、話すべきではなかった。
不眠症のヒロインには特に。

『ふふ、そうだね』

電話の向こうの叶多は、静かに笑っていた。
俺は大馬鹿者だ。自分を殴りたい。

『……やっぱり、古典も却下だな。うまく読める自信ないや』
『そうなの?聞きたかったけど』
『歴史の教科書とかにしようか。叶多は社会、何選択してる?』
『世界史』
『お、俺もだ。これは絶対眠くなるよ!勉強にもなるし、いいんじゃない?』
『うん。いいね』
『じゃあ、中世ヨーロッパあたりにしようか。眠くなれそう』

俺は世界史の教科書をゆっくり読み聞かせた。二十分ほどで、電話口からは微かな寝息が聞こえてきた。スマホはずっと通話中にしたまま、俺はやらかしてしまった失態のことを悔やみ続けた。



翌朝、ピョコンピョコンというラインの通知で目が覚めた。
『おはよう』
『昨夜はありがと 寝落ちしてごめんね』
『なんと!7時間爆睡しました!夢も見てない!』
『ホントにありがとうね!!!』

「ははっ」

よかった、叶多が元気そうで。

『おはよー、眠れてよかったな。またいつでも寝落ち電話つきあうよ』

ピョコン

『ありがとう!!毎日お願いしたいくらい笑』

毎日って、おいおい、まじか。
返信に迷って、結局OKのスタンプだけを送った。

それから叶多は本当に、劇の練習がある日もない日も、毎夜『電話いい?』とラインを送ってきた。
少し雑談をしてから、眠くなりそうな文を読む。
教科書だったり、小難しそうな小説だったり。
劇の話やプレッシャーになりそうな話題は避けて、どうでもいいような話もたくさんした。
叶多は俺のつまらない話にも耳を傾け、楽しそうに笑ってくれた。
叶多の寝息を確認して、俺も眠りにつく。
それは俺にとって、かけがえのない大切な時間となっていた。



学園祭は十一月だが、その前の十月には、毎年恒例の体育祭がある。
俺は密かにその日を恐れていた。
案の定、選手決めの話し合いでは事情を知らない奴に、「今年もリレーは北澤で決まりだよな!」と言われる。

「ごめん。俺はパス」
「え!そうなん?でもクラスリレーは北澤がいないとなーーー」
「いや、ドクターストップだから」
「またまた〜」
「玉入れだけでもいい?」
「えー、そりゃないでしょー」

周りの笑い声が不快で、居たたまれなくなる。
こんな時、そばに秋人や叶多がいてくれたらいいのに。
いつの間にか、体育祭よりも学園祭のほうが何倍も楽しみになっている自分がいる。
こんな時あいつらだったら……と思うと、自然に体が動いた。

「力になれなくて悪いけど、膝を壊してから激しい運動はダメになったんだ。できることはやるし、みんなの応援頑張るから……勘弁して」

立ち上がって頭を下げた俺に、周囲の目が変わった。「知らなかった、ごめんな」という声。
少し前の自分なら、ここは適当にやり過ごして、当日は欠席でもして逃げていたかもしれない。
自分にできることをしよう。俺にしかできないことをしたい。そう思わせてくれた仲間に感謝した。



学園祭が一週間後に迫り、準備が佳境に入ってきた。
演劇の舞台は校内のホールを借りることになっている。四百人ほどのキャパがあり、コンサートなどにも使われるなかなか立派なホールだ。
ホールの使用料はかからないが、機材のレンタルや美術の材料、衣装などなど、諸々の経費は当然必要だ。そのため入場料として数百円のチケットを売ることになった。前売り分のチケットは、既にソールドアウトしているそうだ。ちなみにその辺のお金の管理も、秋人の優秀な友達がやってくれている。
関係者用として、チームのメンバーには二枚ずつのチケットが配られた。

「和詞はチケットおばさん達に渡す?」秋人にそっと聞かれた。

「うーん、そうだね……。陸上辞めてからずっと心配かけてきたから……観てもらおうかな」

両親には長い間応援してもらっていたのに、辞めてしまって申し訳ないという気持ちもある。陸上から離れても、俺はちゃんと楽しくやれてるんだとわかってほしい。

「秋人は?」
「俺んちは、絶対無理。こんなん観せたら、また母さん倒れる」
「ああ……」
「生徒会の後輩にでも渡すかな」

そう言った横顔が、寂しそうに見えた。

「秋人、今少し時間ある?」
「ん?なに」
「ちょっと話そうぜ」

旧校舎へ続く遊歩道のベンチは、生徒たちの喧騒から離れ、木々の木漏れ日が気持ちよかった。

「おばさん、大丈夫?」

秋人のお母さんは、小学生の頃はよく学校にきていたから知っている。たしかPTAの何かをしていて、そこらの教師よりもしっかりした感じの人だった。

「あー、うん。大丈夫。今は弟の中学でPTA会長になって、生き生きとやってるよ」
「へえ」
「あの頃の修羅場は、母の中では無かったことになってる。寝た子を起こすような真似はしないほうがいいんだ」
「……」
「主演に危険が及ぶようなことがあったら困るしな。ああでも、いろんな年代の人に観てほしいから、和詞のご両親は大歓迎。あとで感想教えてって言っといて」
「……やっぱ叶多なの?相手」

秋人は俺の顔を5秒ほど凝視し、ため息をついた。

「いつのまにか名前呼びになってるし。妬けちゃうな」 
「……」
「俺いろんな人から、この主人公は遊馬くんにピッタリの役だねーって言われたんだけど、そりゃそうだよな。あいつに当て書きしたんだから」
「当て書き?」
「そう。最初から、俺の中で主人公は叶多以外いないの。
これは、俺からあいつへのラブレターであり、あいつを守れなかった俺への戒めの物語。どう?引いた?」
「……おまえ、重すぎだろ」

だってそれじゃ、呪いだ。叶多は一生秋人を忘れられなくなる。
秋人から贈られた物語と、舞台で主役を務める経験。
物語のラスト、少女に宿る小さな卵がこの演劇そのものなのだとしたら。

「残酷なことをしてるって自覚はある。でも、俺にはこの方法しかなかったんだ」

秋人にとってのスペースエッグは、ただの希望の卵じゃないんだ。
愛する人の中で生き続けるための、呪い。

ブブブブ、と秋人のスマホが鳴った。

「音響さんが、レンタルする機材の確認してくれって。行ってくる」
「うん」
「……和詞」
「ん?」
「ひとつ、教えてやる。
最初に叶多に舞台に出てくれって頼んだ時、俺はバッサリ断られてる。でもしつこく粘ったら、ある条件を出されたんだ」
「条件?」
「おまえだよ」

指で強く胸を押された。

「は?俺?」
「そう。おまえが出てくれるならって、オーケーしてくれたの。この意味わかる?」
「わかんない」

だって、叶多とは舞台の顔合わせの日に初めて会ったはず。俺が関係しているわけがない。

「わかんなきゃいいんだ。それで俺の失恋が確定したって話」
「はあ?」
「じゃ、行くな」

秋人は小走りで去って行った。
俺が出るならオーケーって、どういう意味だろう。
いくら考えても、答えはわからなかった。



その日の夜も、叶多に電話をかけた。
どうしても昼間の秋人の言葉が気になる俺は、雑談のついでのフリをして、尋ねてみることにした。

『そういえば叶多、俺のことっていつから知ってた?あの顔合わせの日より前ってことある?』
『え、なんで?』
『んー、なんとなく?気になったから』
『……和詞、一年生の時の体育祭で、最終種目、リレーのアンカーだったでしょ。カッコよかったの覚えてる』
『え?!そうなの?』
『俺は応援席から観てただけだけど、何人か抜いてぶっちぎりでゴールしたよね』
『マジか、すげー覚えてんじゃん。恥ず』

もう走るのは最後だとわかっていたから、全力でゴールを目指した。
叶多の記憶に残れたのなら、本望だ。

『……そのあと俺、熱中症みたいになって保健室で横になってたんだよね』
『保健室?』
『その頃色々……悩んでて、具合も悪いし、なんかワーってなって、一人で静かに泣いてた』

あ、少し思い出したかも。
保健室、俺も行った。

『そしたら誰かが来て、保健室の先生に、君は頑張りすぎだよーって怒られながら、足をアイシングしてもらってた』
『ああ……』
『いいんです、俺の足はこれまでめちゃくちゃ頑張ってきたから、もう終わりでもいいんですって、その人も泣いてた』
『……』
『その人は保健室を出る時、俺のベッドの方へ大丈夫ですか?って声をかけてくれた。あなたも具合悪いのに、騒がしくしてごめん。お大事にって』

記憶が蘇ってくる。
とっくに限界を迎えていた膝だが、あのリレーの間は全く痛みを感じなかった。
終わったとたんに信じられない位の激痛が走り、保健室のお世話になった。
あの時ベッドにいたのが、まさか叶多だったなんて。

『すごく優しい声だった。その声を聞いたら俺はまた涙が止まらなくなって、持ってたタオルが絞れるくらい泣いた。
閉会式が終わる頃、やっと涙が枯れて‥‥保健室の先生は俺のひどい顔を見て、早退させてくれた』
『……』
『俺はその日、恋人と別れる決心をしたんだ』

秋人の言葉を思い出す。
あいつはたしか、
「体育祭が終わった頃、他に好きな人ができたって言われて、別れた」と。
パズルのピースがはまったような気がする。
何と言っていいのか言葉が見つからず、俺は黙り込んでしまった。

『……話したらなんか、目が冴えちゃったよ。今日はそうだな、和詞の好きな本を読んでほしい』
『……眠くなるやつ?』
『眠くなるやつ』
『んーと、じゃあ、詩集とかどう?ゆっくり読んだら眠くなれるかも……俺、好きなのあるんだ』
『へえー意外。それがいい!』

叶多の明るい声に救われる気がしながら、俺は本棚から長田弘の詩集を取り出した。



学園祭前日、ゲネプロの日がやってきた。
本番と同じホールを借りて通し稽古ができる唯一の日だ。
朝から慌ただしくスタッフが行き交い、急ピッチで準備が進められた。俺も道具の搬入を手伝ったり、舞台袖にナレーション用のマイクをセッティングしたり、やることは尽きない。
衣装担当をしてくれる高嶺くんのお姉さんも既に来校し、演者の二人に着付けやメイクを施しているらしい。ソワソワと落ち着かない気持ちでその出来上がりを待っていると、

「じゃーーーん!どおよ?!」

とハイテンションのお姉さんが登場した。
横には、白いスーツに身を包み、メルヘンの世界から抜け出したような出立ちの高嶺くん。
その後ろには、水色のワンピースを着た、黒髪ロングの美少女が。

「おおおおおぉぉ……」
周りにいた人達がどよめく。

「素材が良すぎてびっくりしたわー、お陰でめちゃめちゃいい仕上がりじゃない?衣装似合ってるよね?ソラちゃん超かわいいっしょ?!
ちょっと、会長の松田くん!どこ?」
「あ、はい」

秋人が手を挙げて前に進み出る。

「どーお?感想は」
「……イメージ通り。最高です」
「でしょー?本番はもう少し、望にラメ足して宇宙人っぽくキラキラにしてみようかな」
「いいと思います」
「じゃ、そういうことで!本番よろしくねえ」
「はい、よろしくお願いします」

クールに平静を装っているが、言葉がいつもよりぎこちない。叶多を直視できない位には動揺しているのが俺には丸わかりだ。
二人は大勢に囲まれて、「カッコいい」「かわいい」「付き合って」などと称賛されている。
俺は少し離れたところから、それを眺めていた。

「はいはい、衣装に触らない!写真も禁止!もちろんSNSにもあげないでね!」

秋人がみんなを蹴散らす。

「二人はあんまり衣装でウロウロしないでね。楽屋で待機」
「はい」
「おう」
「和詞も楽屋にいて」

突然名前を呼ばれて焦る。

「お、おう」

叶多がこちらを見た。まつ毛をクルンとカールした大きな目が、いつもより色気を増している。ドキ、と心臓が跳ねた。
高嶺くんはお姉さんと話していたので、二人で楽屋へ移動する。

「和詞」
「うん」
「どおかな?」
「……いいんじゃない」
「ふふふ」
「それ、ウィッグ?」
「そう。結構自然でしょ?」

叶多が首をかしげると、肩より長い髪がさらりと揺れた。

「似合ってる」
「ふふ、こんだけ変わるとさ、なんか自分じゃないみたいだし、もういいかーって開き直ってる」
「うん」
「だから、緊張してないよ」
「よかった……」
「昨日もよく眠れたし、絶好調」

叶多は笑顔でピースサインをした。
かわいい。超かわいい。

「今日の夜、昨日の本の続きを読んでくれる?」
「もちろん」
「やった」
「自信持って、がんばれよ」
「うん」
「舞台袖から、ずっと観てるから」
「うん」
「めちゃくちゃ可愛いよ」
「ふふっ」

叶多が艶やかに微笑んだ。その姿が女神のように神々しく、跪いてキスしたいと思った。



ゲネプロは滞りなく、順調に終わった。
初見の高嶺くんのお姉さんが「すっっっごく良かった!感動したよぉーーー!」と泣いてくれていたのが嬉しかった。俺ももらい泣きしたくなるほどに、心が震えていた。

適材適所という意味が、今ならよくわかる。
チームの誰が欠けてもできなかったことだ。
秋人の采配には、改めて舌を巻く。
完成だ。これなら誰に見せてもいいと思える舞台になった。
あとは明日と明後日の、本番を残すのみ。

自分には、陸上しかないと思っていた。
辞めてしまったら、何の価値もない人間なのだと。
でもそれは違った。
進む先はいくらでもある。それこそ無限に。
願わくは、その道を好きな人と歩いていきたい。

終わってしまった、なくしてしまったと思っていたものも、心の中で小さな卵となり生き続けている。
その人の中にある、全てを俺は愛そう。

もうすぐ幕は上がる。
その幕が再び下りた時、君に伝えたいことがあるんだ。