翌日。郁斗は1人思い悩んでいた。
 朝の新幹線で大阪入りし、劇場でのリハーサルも終えて解散となった後、いつもなら会場に残って自主練習する所を、早々にホテルに帰った。なんの変哲もないただのホテルだが、今の郁斗にとっては大きな要塞と化していた。
 部屋の机に置かれた鏡に、郁斗の姿が映る。アイドルとは思えぬしかめ面だ。
——歩が、俺のことを恋愛の意味で好き……
 俺の「好き」と推しの「好き」は、果たして何が違うのだろうか。そんな疑問が脳内を巡る。
一説には、「推しは見ているだけでいい。付き合いたくない」という。郁斗は決して郁斗と付き合うのが嫌だとは思っていなかった。そんなことを考えるなんて烏滸がましいと。
——もし歩と付き合ったら
 アイドルだから、大っぴらには付き合えないけれど。『SN―SKY』のメンバーとしてだけじゃなく、ずっと歩が傍にいる。彼の特別としてずっと一緒にいられる。そこまで考えて、特別、というワードにどこかピンときた。
 郁斗にとって、歩はいつからか特別だった。
 新星と呼ばれて、ステージに立つと圧倒的なオーラを放つ紛れもない天才が、いつも自分に着いてきてくれるのが嬉しかった。どんどん近づいてくる歩に心がざわざわした。
——歩の特別になれるなら?
——いや、その相手は俺でも良いのか?
 胸のざわめきは早鐘になって身体を支配した。郁斗はこの感情が、恋愛だと認めて良いのか分からなくなった。
「う~……」
 郁斗はスマートフォンを操作し、神田の連絡先を表示する。
 神田はアイドルになったのも遅いし、普通の学生として過ごした期間が長い。何かヒントが得られるかもしれない。
——お兄ちゃん、だし
 郁斗は思い切って神田に電話を掛けた。神田は大分長いコールの後に出た。
「もしもし、侑真くん?」
『どしたの』
 電話越しに聞こえる神田の声はどこか気だるげで、掠れていた。
「恋愛の意味での好きってなに?」
『またそれかよ。芝居なら仲森に聞けよ』
 ベッドにでも寝ころんだのか、ドサッとのしかかる音がした。
「そうじゃなくて……」
『え、何お前まさか好きな奴できた?それか告られでもした?』
「……違うって!ただちょっと知りたいなって思って」
 違わないけれど、神田に言ったら無駄に茶化されるような気がした。
『ふーん。っ、おい仲森なんだよ』
『電話誰?』
 ドサリと、神田のすぐ近くに体重が掛かる音がして、聞き覚えのある声がした。
『郁斗』
『そうか!あそうだ、冷蔵庫の食材使っていいか?』
『いや良いけども。いらんこと言うなって』
 いつも比較的余裕のある神田が、慌てた声を上げている。ぶっきらぼうなその物言いも険悪な雰囲気はなく、仲森はむしろ楽しそうに笑っていた。
「え、仲森くん?2人どこいるの?」
『神田の家!よう郁斗、元気か?』
 スピーカーにしたのか、仲森も会話に参加してきた。
——侑真くんの家で、仲森くんがご飯を……?え?
 郁斗はその違和感にただただ困惑するばかりだった。
 2人は確かに最強のコンビと言われているけれど、それはビジネスパートナー的な意味であって。プライベートで遊びに行ったとか、仲が良い話は聞いたことがなかった。
「……あのさ、恋愛的に好きってなに?」
 考えても仕方ない、2人いるなら2人まとめて聞いてしまえばいいか、と郁斗は深く考えるのを辞めた。
『恋愛の好きかあ……。俺、神田がどうテーギするのか気になるなあ?』
『は?何言ってんだよ』
『俺は前言っただろー!胸が痛くなるとか、イライラするとか……ああでも付け加えるなら』
 神田の声は急に真面目なトーンに切り替わった。
『誰のモンって訳じゃねえけど、手放したくないんだよな。物理的な距離もそうだけど、ココロの距離が離れるのが一番キツイ』
 電話の向こう側がシンと静まった。一呼吸おいて、『で、神田はどうなんだよ?』と仲森は問いかけた。
『…………自分が自分じゃなくなる。らしくないことをしてしまったり、とかじゃねえの』
 長い沈黙の後に出てきた素っ気ない言い方は、段々とほぐれていく。
『でも、その人じゃなきゃダメなんだよなあ……』
『へえー!そうかそうか!!』
 仲森が神田の背中をバシバシと叩く音が響く。
『仲森、いてえよ。で、何作ってくれんの』
『そうだった!じゃ、郁斗頑張れよー』
 仲森の声が遠ざかり、ドアが閉まる音がする。それを見計らったように、神田は口を開いた。
『あのさ、葛藤とか遠慮ってのはさ、本人に伝えてみた方が良い。今のお前、なんか苦しそうなんだよな。自分の心に正直にならねえと、大事なもの傷つけんぞ』
 『じゃあな』と一言残して電話は切られた。
 郁斗は通話終了の画面をぼうっと見つめる。神田はきっと「大事なもの」がハッキリと分かっているのだろう。
「俺は……」
 郁斗にとっての傷つけたくない大事なものは、ひとつしかなかった。
 叶わない恋だとどこかで分かっていたから、「推し」という言葉で覆い隠した。穢したくないと言いながら、ずっと傍にいることを望んでしまった。
「本当に、どうしようもないな……」
 郁斗はベッドの上を転がり、シーツをギュッと握りしめた。
 どうして気づくのが今なんだ、歩とは当分会えないのに。その事実を思い出すと、昨日会ったのに寂しさがこみ上げてきた。ココロの距離が離れているからだろうか。
「あいたい……歩」
 呟いた声は部屋の中を巡った後に、郁斗の心臓に沁みわたった。