戦略は当たりだった。憑依型になったと言われるほど、王子の気持ちを捉えた芝居ができるようになった。何があったのかと監督らに問われたが、必死にはぐらかした。
 きっとこれは「メンバー仲が良い」の範疇を越えている。
 撮影の日から、歩には会っていない。歩は出演するドラマの宣伝のためにバラエティー番組出演が増え、スケジュールが合わなかった。それだけではなく、相手役に推しを重ねるなんて会わせる顔もなかった。
 そして今日を迎えてしまった。リハーサル室の窓から差し込む夕陽の光が、やけに眩しい。明日はきっと晴れる。
 明日の昼には東京を発ち、大阪の劇場でのリハーサルが始まる。それから約1か月は東京に戻れない。メンバーにはチケットを渡したけれど、来るかどうかは分からない。
 ちなみに今年の夏のコンサートは『SN―SKY』の出演はない。それぞれの別仕事を優先させるというのが主な理由だが、前例のない事態にファンの間では解散するのではないかなどと再び物議を醸していた。
「こんなもんかな」
 郁斗は今日一日オフだったのだが、落ち着かず事務所のレッスン室を借りて個人練習をしていた。舞台には魔物が棲んでいるという。台本は当然覚えていても、セリフを飛ばす時は飛ばしてしまう。それを少しでも減らしたい。
 連日の練習によって台本はボロボロになってしまった。これだけ練習したから大丈夫と言う確信はないが、それでも頑張るしかない。
 台本を鞄に仕舞い、帰り支度をしようと傍にあった水筒に手をかけた所でレッスン室の扉が開いた。
「郁斗くん」
「あ、歩……」
 いつもと変わらぬ歩がそこにいた。染めた髪が陽に照らされて少し透けている。
 歩の顔を見ると胸がジワリと痛んだ。何か話そうとする彼を遮るように荷物を纏める。
「また動画?悪いけど俺もう行かないとでさ。あ、舞台見に来てよ。いつでもいいから」
 自分でも違和感があるくらい早口で言い、「ははは」と笑いながら歩の脇を通り抜けようとした。
「郁斗くんは、俺の気持ち気づいてくれてる?」
 パシ、と腕を掴まれる。歩の表情がいつもと違うような気がした。
「え……気持ち?」
「郁斗くんは俺のこと好き?」
「そりゃあ……」
 推しなんだから、好きに決まっている。そう言おうとしたところで、再び歩が口を開いた。
「でも俺の『好き』とは違うよね」
 真剣なその眼差しに、郁斗はなんと答えて良いか分からなくなった。気軽に「好き」と言えない雰囲気が歩から発せられている。
「例え演技でも、本当にしてなくても、郁斗くんが他の誰かとキスなんてやだ……」
 郁斗の肩をギュッと掴み、俯きながら言うその声は段々と小さくなっていった。
「そういう、好きなの……」
——そういうって……
 そういう、恋愛的な?……え?
 衝撃的な告白に身が固まる感覚がする。そんな郁斗の肩から歩の手が離れ、歩の心臓がある辺りのシャツを掴んだ。
「俺、舞台観たら絶対嫉妬しちゃうよ。俺とはしたことないのにって」
 歩はシャツを掴む力を強め、握りしめている。呼吸も段々と荒くなっていく。
「だから、キスしてっ……」
 歩は目を真っ赤にしていて、今にも泣きそうだった。何故かそれに慌てた。自分のことのように辛くなった。歩の片手に触れると、恐る恐る指と指が絡んでいく。
——歩が泣くのは、いやだ
 俯いた歩に合わせて腰を屈める。歩の輪郭に空いた手で触れると、郁斗の手の上から歩の指先が重なった。
 郁斗は覗き込むように首を傾け、そっと唇を重ねた。
 歩の唇は、触れた手とは対照的に熱い。一度唇を離してまた触れると、途端に噛みつきたくなる衝動が襲ってきて、郁斗は慌てて唇を離した。
 目を開けると、歩は顔を真っ赤にしながら両目から涙を流し、震えていた。
 それでも触れた手を離せなかった。放したくなかった。何か言わないと。歩が行ってしまう。焦るばかりで言葉が出てこない。
 しかし呆気なく、歩は郁斗から離れていってしまった。視線が合わない。
「ごめん。こんなことさせて。俺最低だ……」
 そう呟いて、歩は出て行った。研修生たちの喧騒の中、パタパタという歩の足音だけが耳に残った。
 郁斗はただ茫然とその場に突っ立っていることしかできなかった。歩を失うのが怖いのに、追いかけられなかった。