「あーやばい……」
世間はゴールデンウィークだが、郁斗は事務所のレッスン室にいた。デビュー期限まであと1年を目前にし、最短記録まではあと7か月。1日も休む暇なんてない。
朝10時に始まった演技のレッスンは、昼を挟んで夜9時に終わった。共にレッスンを受けていた研修生たちが早々に部屋を後にした途端、床に崩れ落ちた。詰めすぎたのか、頭がグラグラする。
2月頭に、例の研修生グループが正式にデビューした。
関係者やクラスの子たちにはすこぶる心配されたけれど、『SN―SKY』メンバーにとってはもう騒ぐほどのことじゃない。
春になって西園寺は社会人になり、今までの倍以上の仕事をこなすようになった。その中でも一番大きいのは朝のニュース番組のレギュラーメンバーになったことだ。郁斗を含む『SN―SKY』のメンバーも時折中継先のリポーターや、西園寺が別仕事で出られない時の代打として出演させてもらえるようになった。
仲森も着々とドラマだけでなくCMを持つようになり、バラエティー番組にも出るなど、活躍の幅を伸ばしている。
神田がレギュラー出演していたバラエティー番組がゴールデン帯に移動し、さらに7月期のドラマも決まった。
郁斗も歩も、ドラマと舞台に向けて演技のレッスンに励んでいる。
もちろん、ファンクラブコンテンツも充実させていた。歩の1人語りをする動画シリーズは、天然なようで実は頭の良い歩の、的を得た話が時々バズるようになった。双子アピールも良好で、「いくあゆ」というコンビ名がトレンド入りする日も多くなった。
そんな有難くも忙しくなった日々に、郁斗は一抹の寂しさを感じるようになっていた。コンサートを終えてしまったから、メンバーと顔を合わせる機会が極端に減ってしまったからだ。
それに、学校もある。歩となら顔を合わせられるかと思っていたが、彼のドラマ撮影と郁斗の仕事のタイミングが上手く合わず、学校に行っても会えないことが多い。ドラマ撮影のため、歩が茶髪にしたことすら1週間も気づかないことだってあった。
演技のレッスンも、カメラに映るための芝居と舞台での芝居は勝手が違うため、一緒になることもない。それが降り積もって、寂しさとなった。
——愛着も湧くもんだなあ
いつの間にか、『SN―SKY』が大好きになっていた。初めのうちは売れている人たちと才能のある同級生に挟まれて焦り、荒み、ネガティブに振れていたメンタルもだいぶ良くなった。
が、ここに来ての寂しさである。こればかりは会わないことにはどうにもならないが、「会おう」なんて言えない。
想定以上に舞台上での芝居に行き詰っている。
舞台は8月、大阪の劇場で20日間行われる。
役者全員の合同稽古が来月から始まるが、俺が劇中で歌う5曲の歌稽古の進みが良くない。歌は苦手ではないが、いつもの歌い方と大きく違う歌い方を習得しなければならないのだ。これまで舞台に出たことはあるため、立ち方や基本の発声だけは身につけていたが、歌い方となるとそうはいかない。
相手役の俳優は3つ年上で、尚且つ舞台一本でやってきた、生粋の舞台俳優だ。当然、舞台用の歌い方も完璧だ。
この舞台の指導役を務める演出家はとても優しい。主演の郁斗が学生であることを考えて稽古期間は長めにとってくれたし、イマイチ芽が出ない郁斗に失望を見せることもなかった。それが余計に自分を惨めにさせていた。
——どうして、一向に上手くならないのか
考えても仕方ないと分かっていても、つい考えてしまう。今日は特に、メンタルが下振れていた。
合同稽古の時までには歌は完璧にしておかなければいけない。あと1か月で、それができるのか、考え出したら止まらない。
会えない寂しさが、ネガティブ思考に拍車を掛けている自覚はある。けれど、こんな醜態なんか晒せない。
——どうしたもんかなあ……
「あれ、郁斗くん?」
レッスン室の扉が開き、歩が顔を出した。
「歩。久しぶりだね……」
重い身体をあげて、床に座り込む。流石に、立ち上がる体力も気力もなかった。歩はそんな俺の隣に座り、背負っていたリュックサックの中を探っている。
「迷ったの?」
「ううん。動画撮ろうと思って場所探してた」
「じゃーん!」と歩はリュックサックからファンクラブコンテンツを撮る用のスマートフォンを取り出した。
「ほんと、歩かわいいなあ……」
郁斗は歩の後ろから抱きつき、背中に顔を埋めた。急速に心が休まっていくのを感じる。歩を推しだと思ってから、彼からマイナスイオンが発せられているような気がする。
「回すよー」
歩は慣れた手つきで自撮り棒を装着し、動画を回し始めた。それでも、郁斗は歩から離れなかった。
「郁斗くんがめっちゃくっついてきてまーす」
「いえーい」
メンバーという特権を利用して推しにくっついているなんて、歩ファンが知ったら怒るだろう。大炎上だ。
「珍しいね。どしたの~?」
——かわいいキャラなら……
許されるかもしれない。今日は何故だかいつもより理性が働かない。
「ちょっとねえ、歌が上手くいかなくて……」
「歌?」
「うん。俺もうダメダメだあ……」
「……。そんなことないよ。郁斗くんは頑張ってるんだから絶対上手くいく」
歩のお腹側に回してた手に、彼の手が重なった。自撮り棒を持っているから、片手だけ。
「だいじょーぶ。ね?」
「歩ほんとかわいいから、元気出てきたかも……」
顔を上げると、ちょうど振り返って俺を見ていた歩と視線が絡み合った。歩の瞳に郁斗が映った途端、彼は静かに笑った。
どこの天使かと思った。
天使、いや歩はすぐに視線をカメラに戻して再び話し始める。
「郁斗くんに会うの久しぶりだなあ」
「……うん」
キュッと歩を抱きしめる力をこめ、再び彼の背中に強く、強く顔を押し付ける。
今なら何を言っても許されるかもしれない。
「さみしかった」
「……」
ポンッと録画が止まる音がする。
——?
喋らなくなってしまった歩が気になり顔を上げると、自撮り棒付きのスマートフォンをそっと床に置いた所だった。
「あゆ……」
歩の頭が郁斗の胸に向かって飛び込んでくる。
「俺も、郁斗くんに会いたかった……!」
正面から、痛いくらい抱き締められた。それが心地良かった。が、歩はすぐに離れていってしまった。
「なんか熱くない!?」
——え?
歩の冷たい手が郁斗の額に触れる。歩の手はいつも冷たいが、今日は一段と気持ちいい。これは……
「ちょっと、郁斗くんだいじょう……」
自分の熱さを自覚した途端に頭が重くなる。ガムテープを貼った床が目の前に迫った所で、記憶が途切れた。
世間はゴールデンウィークだが、郁斗は事務所のレッスン室にいた。デビュー期限まであと1年を目前にし、最短記録まではあと7か月。1日も休む暇なんてない。
朝10時に始まった演技のレッスンは、昼を挟んで夜9時に終わった。共にレッスンを受けていた研修生たちが早々に部屋を後にした途端、床に崩れ落ちた。詰めすぎたのか、頭がグラグラする。
2月頭に、例の研修生グループが正式にデビューした。
関係者やクラスの子たちにはすこぶる心配されたけれど、『SN―SKY』メンバーにとってはもう騒ぐほどのことじゃない。
春になって西園寺は社会人になり、今までの倍以上の仕事をこなすようになった。その中でも一番大きいのは朝のニュース番組のレギュラーメンバーになったことだ。郁斗を含む『SN―SKY』のメンバーも時折中継先のリポーターや、西園寺が別仕事で出られない時の代打として出演させてもらえるようになった。
仲森も着々とドラマだけでなくCMを持つようになり、バラエティー番組にも出るなど、活躍の幅を伸ばしている。
神田がレギュラー出演していたバラエティー番組がゴールデン帯に移動し、さらに7月期のドラマも決まった。
郁斗も歩も、ドラマと舞台に向けて演技のレッスンに励んでいる。
もちろん、ファンクラブコンテンツも充実させていた。歩の1人語りをする動画シリーズは、天然なようで実は頭の良い歩の、的を得た話が時々バズるようになった。双子アピールも良好で、「いくあゆ」というコンビ名がトレンド入りする日も多くなった。
そんな有難くも忙しくなった日々に、郁斗は一抹の寂しさを感じるようになっていた。コンサートを終えてしまったから、メンバーと顔を合わせる機会が極端に減ってしまったからだ。
それに、学校もある。歩となら顔を合わせられるかと思っていたが、彼のドラマ撮影と郁斗の仕事のタイミングが上手く合わず、学校に行っても会えないことが多い。ドラマ撮影のため、歩が茶髪にしたことすら1週間も気づかないことだってあった。
演技のレッスンも、カメラに映るための芝居と舞台での芝居は勝手が違うため、一緒になることもない。それが降り積もって、寂しさとなった。
——愛着も湧くもんだなあ
いつの間にか、『SN―SKY』が大好きになっていた。初めのうちは売れている人たちと才能のある同級生に挟まれて焦り、荒み、ネガティブに振れていたメンタルもだいぶ良くなった。
が、ここに来ての寂しさである。こればかりは会わないことにはどうにもならないが、「会おう」なんて言えない。
想定以上に舞台上での芝居に行き詰っている。
舞台は8月、大阪の劇場で20日間行われる。
役者全員の合同稽古が来月から始まるが、俺が劇中で歌う5曲の歌稽古の進みが良くない。歌は苦手ではないが、いつもの歌い方と大きく違う歌い方を習得しなければならないのだ。これまで舞台に出たことはあるため、立ち方や基本の発声だけは身につけていたが、歌い方となるとそうはいかない。
相手役の俳優は3つ年上で、尚且つ舞台一本でやってきた、生粋の舞台俳優だ。当然、舞台用の歌い方も完璧だ。
この舞台の指導役を務める演出家はとても優しい。主演の郁斗が学生であることを考えて稽古期間は長めにとってくれたし、イマイチ芽が出ない郁斗に失望を見せることもなかった。それが余計に自分を惨めにさせていた。
——どうして、一向に上手くならないのか
考えても仕方ないと分かっていても、つい考えてしまう。今日は特に、メンタルが下振れていた。
合同稽古の時までには歌は完璧にしておかなければいけない。あと1か月で、それができるのか、考え出したら止まらない。
会えない寂しさが、ネガティブ思考に拍車を掛けている自覚はある。けれど、こんな醜態なんか晒せない。
——どうしたもんかなあ……
「あれ、郁斗くん?」
レッスン室の扉が開き、歩が顔を出した。
「歩。久しぶりだね……」
重い身体をあげて、床に座り込む。流石に、立ち上がる体力も気力もなかった。歩はそんな俺の隣に座り、背負っていたリュックサックの中を探っている。
「迷ったの?」
「ううん。動画撮ろうと思って場所探してた」
「じゃーん!」と歩はリュックサックからファンクラブコンテンツを撮る用のスマートフォンを取り出した。
「ほんと、歩かわいいなあ……」
郁斗は歩の後ろから抱きつき、背中に顔を埋めた。急速に心が休まっていくのを感じる。歩を推しだと思ってから、彼からマイナスイオンが発せられているような気がする。
「回すよー」
歩は慣れた手つきで自撮り棒を装着し、動画を回し始めた。それでも、郁斗は歩から離れなかった。
「郁斗くんがめっちゃくっついてきてまーす」
「いえーい」
メンバーという特権を利用して推しにくっついているなんて、歩ファンが知ったら怒るだろう。大炎上だ。
「珍しいね。どしたの~?」
——かわいいキャラなら……
許されるかもしれない。今日は何故だかいつもより理性が働かない。
「ちょっとねえ、歌が上手くいかなくて……」
「歌?」
「うん。俺もうダメダメだあ……」
「……。そんなことないよ。郁斗くんは頑張ってるんだから絶対上手くいく」
歩のお腹側に回してた手に、彼の手が重なった。自撮り棒を持っているから、片手だけ。
「だいじょーぶ。ね?」
「歩ほんとかわいいから、元気出てきたかも……」
顔を上げると、ちょうど振り返って俺を見ていた歩と視線が絡み合った。歩の瞳に郁斗が映った途端、彼は静かに笑った。
どこの天使かと思った。
天使、いや歩はすぐに視線をカメラに戻して再び話し始める。
「郁斗くんに会うの久しぶりだなあ」
「……うん」
キュッと歩を抱きしめる力をこめ、再び彼の背中に強く、強く顔を押し付ける。
今なら何を言っても許されるかもしれない。
「さみしかった」
「……」
ポンッと録画が止まる音がする。
——?
喋らなくなってしまった歩が気になり顔を上げると、自撮り棒付きのスマートフォンをそっと床に置いた所だった。
「あゆ……」
歩の頭が郁斗の胸に向かって飛び込んでくる。
「俺も、郁斗くんに会いたかった……!」
正面から、痛いくらい抱き締められた。それが心地良かった。が、歩はすぐに離れていってしまった。
「なんか熱くない!?」
——え?
歩の冷たい手が郁斗の額に触れる。歩の手はいつも冷たいが、今日は一段と気持ちいい。これは……
「ちょっと、郁斗くんだいじょう……」
自分の熱さを自覚した途端に頭が重くなる。ガムテープを貼った床が目の前に迫った所で、記憶が途切れた。