芸能界に入ったのは、両親の勧めがきっかけだった。「かわいい顔だから」とか、そんな理由だったと思う。色々なことをさせたい、と言う両親の言うままに当時はまだ大きくはなかったアルタイル・エンタープライズのオーディションを何も考えずに受けたら、通ってしまった。
 その名古屋支部に入りたての頃、郁斗はその顔と幼さと事務所最年少という肩書きで注目を浴びた。子役としてドラマに出たり、バラエティー番組に呼んでもらえたりすることも多く、郁斗も両親も充実していた。
 しかし長くは続かなかった。小学6年生、周りより少しだけ早く来た成長期。
小さかった身長はどんどん伸び、声も低くなっていった。顔だけは可愛いまま。しかしその顔も肌荒れが酷くなり、郁斗は以前の可愛さの欠片も見えなくなってしまった。
 中学生になると、沢山来ていた仕事も来なくなった。短い夢を見ていた間に壮大な夢を描いてしまった両親は、郁斗に失望した。
「そのナリで可愛いは無理だな」
そう、昼間から酒を飲んだ父に言われたことは今でもよく覚えている。
 西園寺も最初は名古屋支部にいた。レッスンでよく見かける歳の近い同期という印象で、一緒にいることが多くなった。けれど次第に舞台やドラマの仕事に加え、バラエティー番組のレギュラーまで決まったことで、家族全員で東京へ引っ越していった。郁斗が中学1年の終わり頃だった。
 その後も得意なダンスだけは手放さないよう、歌も衰えないようにと、それだけを考えてレッスンに通い続けた。芸能事務所というよりも養成所に近い名古屋支部では、同期や後輩がグループに所属し、東京へ行くのを見送り続けた。
 両親は完全に郁斗のことを見なくなり、現実逃避するかのように小さな頃に郁斗が稼いだ金で遊ぶようになった。中学2年の夏の公演期間中、旅行に出ていた両親はその旅行先で事故に遭い、そのまま帰らなかった。
 開演直前に一報が入り、事情を話すと郁斗の出番は西園寺に移された。その日公演をたまたま見学に来ていたスポンサーによって西園寺の新しいCMが決まり、そのCMによって西園寺は老若男女に名前が知られるようになった。
 葬式を終え、郁斗は家や車だけでなく両親が買った高級ブランドの時計や鞄も全て売り払った。その後に引き取られた親戚の家は田畑に囲まれた、一番近い支部まで1時間かかる田舎だった。とても芸能活動などできそうにない場所で、郁斗は今後どうするかの壁に当たった。
 ものを売った金が入ってくる中で、ふと父の言った「そのナリでかわいいは無理だな」という言葉を思い出した。その時、両親に対して初めて憎悪が沸いた。
 それは「絶対に『かわいい』で成功してやる」と、郁斗の闘争心に火を付けた。
 その頃、「あざとかわいい」の概念がブームになり始めていて、それに乗りこなそうと決めた。
 事務所には「もう少し頑張る」と意思を伝え、高校入学と共に上京し、1人暮らしを始めた。色々なものを売り払った金と自分で稼いだ金、事務所からの支援によって郁斗は生活している。