そうして一か八かに賭けた初日の公演が終わった。
 リハーサル室での全体反省会が終わって解散となった後も、郁斗は1人今日引っかかった箇所の自主練習をして楽屋に戻っていた。
 その途中、楽屋前で立ち尽くす歩がいた。
 理由はすぐに判った。静かな廊下と対照的な、楽屋から楽しそうに談笑する研修生たちの声。その内容は歩への苦言だった。内容はなんてことない、ただの嫉妬のようなものだったが、何かと精神を摩耗させているであろう歩には堪えるものだと思う。
「ちょっと、行こうか」
 声を掛け、振り返った歩の顔は無表情だった。それでも揺らぐ瞳の中に色々抱え込んでいるのはよく分かる。
 郁斗は歩の手を引いて楽屋から正反対の方向へ進んだ。廊下の突きあたりにある非常扉を開けて外階段に出る。そこは隣のビルが間近にあり、外からも見えない場所だ。去年、淀んだ空気に耐えられなくなった郁斗は、ここで時間を潰していた。
 今日は着替え終わるとすぐに全体の反省会が行われ、その取り仕切りも歩がやっていた。演出家たちの意見をメモした紙を手にしながら。時折仲森や西園寺が少しずつ補足を入れるなどして、想定以上に雰囲気は良く終わったと思っていた。
「……」
 歩は何を言うでもなく黙っている。
 連れてきたはいいものの、何と声を掛けてやればいいものか。しばし逡巡して出た言葉は頼れる前任者らしくないものだった。
「リーダーも増やせたら良いのにな」
 去年、郁斗がリーダーをやった時も今と同じことが起こった。最初こそ波風が立つことはなかったが、公演を重ねる内にそれぞれのキャパシティーが小さくなっていき、「グループ入れないくせに」というような声が上がるようになった。さすがにあれはキツかった。ただでさえグループのメンバーという仲間のいない郁斗の孤独感をさらに強めたものだった。
 それでも今、歩にはグループがある。その中でも近くにいて気にかけてやれるのはきっと俺しかいない。郁斗は曲りなりにも歩のお世話係としての使命感に駆られていた。
 郁斗は去年あったことを話した。良い事も悪いことも全部。今まで誰にも話していないものまで。歩の為になるとか、そんな耳あたりの良いことは考えなかった。ただ、彼には話しても良いんじゃないかと思えた。
 内容は普段のかわいいキャラを捨てたような泥臭く、荒んだものばかりだったけれど、きっともう俺のそんな面も歩にはお見通しだろう。郁斗にはそう思えた。
「俺、全然ダメだ……」
 ふと、歩がポツリと呟いた。
「え?」
「悔しい。今日の録画見たけれど、他の4人と比べて身体の動かし方も表情の作り方もダメだった。せっかくファンの人が来てくれているのに……」
 歩はそう言ってその場に座り込んだ。
 さっきの苦言よりも、そっちなのか。郁斗は拍子抜けしつつも、歩の落ち込みは本物なのだから向き合ってみるしかない。
「俺だって、消化不良は沢山あったよ」
「そんなの、俺と比較したら大したことじゃ……」
 歩の前に自分もしゃがみ込み、彼と目線を合わせる。
「大したことだよ、俺にとっては。歩も、他の人と比較するんじゃなくて前の自分や、自分がなりたいアイドル像と比較してみたら?」
——張り合ってどうする
 郁斗は何やら考えこんでしまった歩から、半ば逃げるように外階段を後にした。
「……聞いていたんですか?」
「敬語」
「あ……」
 非常扉を開けた所で仲森が壁に背を預けて立っていた。
「楽屋戻るぞ。みんな帰ったし」
 「な?」とバシバシ俺の肩を叩いて言う仲森はやけに頼もしかった。歴が長い分、1人の同期がデビューしては1人の同期が去っていく経験を誰よりもしている彼は、ナーバスになりやすい研修生の気持ちをよく分かっているのだろう。
 去年、郁斗がリーダーを務めていた時に気に掛けてくれたのも仲森だ。あの場所を教えたのも彼で。
 俺は彼のやり方を踏襲することしか出来なかった。
「後で歩が戻ってきたら褒めてやらないとな。特に、歌」
「仲森くんに褒めてもらえたら絶対喜ぶよ」
 緊張で裏返るか、外すか、歌詞を飛ばすか、と危惧していた歩の踊りながらの歌唱は、何一つミスなく終わった。何より、開演直前にも周りに声を掛けるなどリーダーとして立ち回り、緊張している素振りがまるでなかった。
 終演後こそ項垂れていたが、パフォーマンス中は不安げな様子を見せず堂々とステージに立っていた。あの夜、夕飯を共にした時のようなオーラを発していて、彼は間違いなくステージに立つ人間だと思った。
 いつも自分のパフォーマンスに全神経を集中させている郁斗が一瞬、目を奪われるほどに。
 いくつかのペンライトが、段々と白色に変わっていく理由を郁斗自身よく分かってしまった。
「ま、その前に郁斗を褒めないとな!『ピチカート!』のセリフ、郁斗のやつ痺れたぞー!」
 背中を強い力で押されて楽屋の扉を開けると、神田と西園寺が待っていた。横目で仲森を見ると、ジメジメとした空気など容易に吹き飛ばしてしまいそうな程笑っていた。
——『SN―SKY』のリーダーはやっぱり仲森くんしかいない
 ワシャワシャと自分の頭を撫でる強い力を感じると、郁斗はそう思った。