だいぶ暑くなってきた。そうなると、熱中症で倒れる1年生が出てくるのだ。
 日曜日。校庭での午後練習。あちこちで具合が悪くなる部員が出て、濡らしたタオルを渡したり、飲み物を渡したりと僕は大忙しだった。
 そんな中、ふと気がつくと、穂高が遼悠の豆の手当をしていた。がーん、という効果音が聞こえた気がした。いつも僕を呼ぶのに、僕にしてもらいたいって思っているはずなのに、遼悠が穂高を呼んだのだろうか。
 悶々としつつも、その日の部活を終え、今日も僕と遼悠は一緒に帰った。
「あのさ、今日、穂高に手当してもらってたよな?」
どう切り出そうかさんざん迷った末、とりあえずこのように尋ねてみた。
「ん?ああ、うん。」
歯切れが悪い、とはいえ、いつもの遼悠の返事だ。読めない。
「お前が穂高を呼んだの?」
変な風に取られると困るので、本当は聞かない方が良かったのだが、どうしても聞きたくて、抑えられなかった。すると、
「あー、どうだったかな。」
なんだよー、勇気を出して聞いたのにー。
「お前さ、もしかして……穂高の事が好きになった、とか?」
精一杯、冷静にそう言ったつもりだ。言った後にも深呼吸をする。すると、なんと遼悠はこんな事を言った。
「そうだと言ったら、どうする?」
絶句。そうなのか?僕の事を、さんざん悩ませておいて、振り回しておいて、こんな風にあっという間に乗り換えるのか?
 遼悠が僕の顔を見ているが、次になんて言っていいのか分からず、僕は思わず走り出した。
「お、おい、瀬那?」
遼悠は慌てた声を出したが、もう僕は止まれなかった。僕は走り続けた。苦しい。胸に何かが詰まっている気がする。どうしてこんなに苦しいのだろう。

 翌日、部活中も遼悠と会話をせず、しかも一緒に帰らなかった。僕はさっさと最寄り駅から電車に乗って帰宅したのだった。
 更にその翌日。僕はずっと胸に何かが詰まっているような感覚が消えなくて、ふさぎ込んでいた。ちょっと暇な授業中、またおとといの遼悠の言葉を思い出していた。
「そうだと言ったら、どうする?」
と言った、あの言葉。遼悠はもう、僕の事よりも穂高の事が好きになったのだ。そう考えると、苦しくて苦しくて、気がつくとノートにポタッと水滴が落ちていた。なんだこれは。汗?それほど暑くもないぞ。まさか、鼻水?それとも涙?

 授業が終わって休み時間になると、珍しく遼悠が僕の机の前に立った。部活以外ではほとんど会話もした事がないのに。
「なんで泣いてんだよ。」
遼悠はそう言うと、僕のおでこを指で突いた。
「泣いてなんか……。」
僕は言いかけたが、実際泣いていたみたいなので、それ以上は言えなかった。すると、遼悠は僕の後ろに回り、なんと後ろから僕を抱きしめた。バックハグだ。
「え?」
ぎゅっと抱きしめられて、心臓の辺りがモゾモゾっとした。モゾモゾ?ドキドキ?
「な、に、してんだよ。人が見るだろ。」
僕がそう言っても、遼悠は離れようとしない。
「お前、いつも教室では僕に近づかないじゃんか。なのに、なんで。」
僕がそう言うと、
「いつもは我慢してるんだよ。でも、今は我慢出来ないから。」
耳の近くで遼悠の声がする。こんなの、こんなの、ダメだよー。
 ハッとした。女子が何人かこっちを振り返ったりしながらキャッキャしているのが目に入ったのだ。
「人が見てるから!」
僕はそう言うと、遼悠の腕を力尽くで払いのけ、走ってトイレに行った。また逃げたのである。
 午後から雨が降り出した。部活は室内での筋トレで、短めに終わった。特に片付けもないので、僕たちマネージャーも選手と同時に解散だった。
「瀬那、傘持ってる?」
遼悠がそう聞いてきた。
「持ってる。」
「今日はお前の家まで行くから、傘に入れてくれ。」
「は?」
と言うことで、今日は一駅先まで歩かず、遼悠が僕の家の前まで行く事になった。僕らは相合い傘をして、僕の家の最寄り駅から一緒に歩いた。なんでこうなってるんだか。
「瀬那。」
「ん?」
「お前、誤解してるよ。」
「何が?」
「あいつ、穂高の事。」
「……。」
言葉を失った。
「ちょっとお前をからかっただけだから。」
「え?」
「別に、あいつの事なんて何とも思ってないから。」
何となく、二人して足を止めた。そして、しばらくの間見つめ合った。
「お前……もしかして、俺の事好きになったの?」
遼悠がそう聞いてきた。わかんない、わかんないよ。僕が答えずにいると、遼悠は傘を持っていない方の手を僕の腰に回した。僕がその手に気を取られて視線を外すと、
「キス、していいか?」
などと、言ってきた。こんなところで、ダメに決まっている。いや、そうじゃなくて、どこでも、ダメなのに、ダメだって思っているのに、
「いいよ。」
なぜか、そう答えていた。
 雨の音が回りの音をかき消す。遼悠は僕の腰をぐっと引き寄せ、キスをした。僕のまつげが、手が、胸が、震える。
 なぜだろう。嬉しいという気持ちがわき上がる。遼悠は、まだ僕の事が好きなんだ。穂高ではなく、僕の事が好き。それが嬉しくて……。

 「あれ、瀬那じゃね?」
いきなり声を掛けられて、飛び上がるほど驚いた。顔の前に傘があって、声を掛けてきた人物は足しか見えなかった。傘を持っていた遼悠が傘を上げたので、相手の顔が見えた。
「和宏?」
宮部和宏(みやべ かずひろ)だった。小、中と同じ学校で、野球仲間だった。っていうか、今の見られたのか?キスしてたとこ?えー!!いやいや、傘で顔は隠れていたはずだけど……だったらどうして僕だって分かったって言うんだよ!
 僕は混乱して、二の句が継げずにいると、和宏は、
「やっぱり瀬那だよな。お前の坊主じゃない顔初めて見たよ、アハハハ。」
「わ、笑うなよ。」
僕はいろいろあって、顔が熱くなった。たぶん赤面しているだろう。
「アハハハ、ハ、あ?あれ、戸田遼悠?そうだよね?」
和宏は、一緒にいた遼悠の顔を見て、笑いを引っ込め、遼悠を指さしてそう言った。指さしなんて、ちょっと失礼な感じなので、遼悠はむすっとしている。だが、
「そうだけど。」
と、答えた。
「うわあ、初めまして!宮部って言います。よろしく。」
和宏はそう言って、傘を持ち替え、右手を差し出して来た。握手を求めているのだ。元々左手で傘を持っていた遼悠は、右手を出して握手をしてやった。
「和宏、なんで遼悠を知ってるの?」
「お前バカか。彼ほどの有名なピッチャーを知らずして、東京で野球やってるなんて言ったらモグリだぜ。」
「あ、そっか。つまり、和宏は今も野球続けてるんだね?」
「ああ、一応な。瀬那は、髪を伸ばしてるって事は、マネージャーになったっていう話は本当なんだな?」
「うん。って、それも知ってるの?」
「ああ。中学の野球部仲間の間では有名だぜ。お前テレビに映ったしな。」
そうでした。マネージャーが男子っていうのも珍しいし。
「しっかし、久しぶりだなあ。ずいぶんイケメンになっちゃって。でも、坊主頭も可愛かったんだけどなぁ。」
和宏がそう言って目を細める。すると、隣の遼悠が咳払いをした。遼悠を見ると、遼悠は僕の事をじーっと見ている。
「あ、えーと、小中と同じ学校で野球仲間だった宮部和宏。」
遅ればせながら、和宏を紹介した。
「幼なじみか。」
「そう、だね。」
遼悠は和宏を見た。ちょっとちょっと、そんな挑戦的な目をして見たら、変に思われるぞ。
「それで、よく僕が分かったね。」
場の空気を変える為でもあるが、キスを見られたのかどうか心配で、恐る恐る聞いてみた。見られていたらどう言い訳するんだ?
「そのキーホルダーだよ。」
和宏はそう言って、僕のリュックに付いているキーホルダーを指さした。
 そうだった。僕の通学リュックには、キーホルダーが付けてあった。そのキーホルダーは、中学を卒業する時に部の後輩達からプレゼントしてもらったもので、野球のボールの形をしている。そこにイニシャルが印字してあるのだ。和宏ももちろん同じ物を持っている。
 そうか、これを見て僕だって分かったのか。顔を見られたわけではないのか。とりあえずホッとしたけれど、けっこう二人でくっついてたし、怪しいよなぁ。
「じゃ、お二人さんのお邪魔をしても何だから、俺は帰るわ。」
そう言って、和宏はニヤニヤしている。
「エースとマネージャーかぁ、なるほどねえ。」
などと、変な事を言っている。
「な、何だよ。」
「瀬那、今夜電話していい?」
「え?あ、うん、いいけど。」
「じゃ、また今夜!」
そう言うと、和宏は去って行った。今夜電話してくるだって?一体何を聞かれるやら。
「電話……。」
遼悠がそうつぶやいた。顔を見ると、すっごく険しい表情をしていた。
「あの……。」
「で、瀬那は俺の事が好きになったのか?」
「うっ。」
その質問、戻ってきたか!分からないのに!
「そっか、キスOKしたって事は、好きって事だよな?」
遼悠がたたみかける。ああ、そうなのか?僕、こいつの事が好きなのか?
「お前が俺を好きになってくれないなら、俺は穂高を好きになっちゃおうかなー。それでもいいのか?」
などと言うものだから、僕は思わず遼悠にしがみついた。
「……やだ。」
「ふっ。くー、たまらんな、こりゃ。」
遼悠は、そんならしくない事をつぶやくと、片手で僕の背中をぎゅっと抱いたのだった。
 僕と遼悠は、晴れて付き合う事と相成った。信じられない。だが、他の誰かに取られたくないのだから、仕方がない。
 とはいえ、何かが変わったわけではない。また一緒に帰るようになっただけだ。その時に、人がいないと手をつなぐくらい……ひゃあ、客観的に考えると恥ずかしい。
 そうそう、あの日の夜、和宏から電話がかかってきて、近況を報告し合った。そして、遼悠がどんな奴か、根掘り葉掘り聞かれた。あいつ、結局遼悠のファンなんだな。僕との関係を勘ぐろうとするよりも、自分が遼悠と仲良くなりたいみたいだった。お断りだけど。
 「瀬那先輩、それは僕が持って行きますよ。」
公式戦が入るようになってきて、そのたびに学校から荷物をたくさん持って帰る。今までは男子の僕ばかり大荷物だったけれど、これからは穂高が半分持ってくれるのだ。やっぱり頼りになるし、可愛い後輩だ。
「ありがと。じゃあ、これとこれは頼むな。後は僕が持って帰るから。」
 公式戦となると、校外の遼悠ファンが詰めかける。その人員整理はなんと花梨ちゃんと綾乃ちゃんが買って出て、警備員よろしく厳しく取り締まっていた。
「はい、ここから出ないでくださいねー。」
「写真撮影はご遠慮くださーい。」
などなど。それでもみんなスマホを出して写真を撮りまくっていたけれど。
 いくつかの公式戦をこなしたが、都大会での優勝が出来ず、夏の甲子園への課題が残った。もう、3年生最後の予選まで、あと少しだ。
 だいぶ練習にも熱が入って来た。練習の始めには、キャプテンの角谷正継が気合いを入れる。その白熱した雰囲気に、僕も少なからず興奮した。
「マネージャー、肩冷やしたいから、氷頼む。」
遼悠が、ベンチ付近にいる僕たちにそう声を掛けた。そう、最近遼悠は僕を名指ししなくなった。昔に戻ってマネージャー、と。そうなると、何となく僕が呼ばれているのではない気がしてしまう。だから、花梨ちゃんや綾乃ちゃんがいれば彼女たちが率先して遼悠の元に飛んでいくし、いなければ穂高が行く。穂高は、僕の顔をちらっと見てから行くのだ。それが、ちょっとだけ僕をいらっとさせる。
「じゃあ、僕氷もらってくるから、氷嚢用意しておいて。」
僕は穂高にそう言うと、事務室へ走った。走って行ったけれど、帰りは歩いて戻って来た。すると、水道場のところで正継に捕まった。
「瀬那、お前ちょっと元気ないんじゃないか?」
「え?そんな事ないよ……。」
そうは言ったものの、やはり僕を呼んでくれなかった遼悠に、ちょっとだけショックを受けていた。すぐに不安になる。いつも一緒に帰っているのに。どうしてだろう。あいつが他の人を好きになったのでは、僕に飽きたのでは、といつも考えてしまうのだ。
「今年の夏も、絶対に甲子園行こうな。俺たちみんな、お前のために頑張ろうって思ってるんだぜ。」
「正継……。」
それこそちょっと泣きそうになった。みんなと一緒に、絶対に甲子園に行きたい。
「俺はさ、穂高より瀬那の方が、線が細いし、綺麗だと思うけどな。」
いきなり正継がそう言った。
「え、え?何だって?」
「遼悠なんかより、俺の方を見てくれよ。」
正継はそう言って、僕の目の前の水道場の壁に手をついた。これは、壁ドンってやつですか?俺の方を見てくれって、どういう事?もっとマネージャーとして世話をしてくれって事なのか?
 僕が少しぼーっとしていると、
「こぉら、瀬那!何油売ってんだ!」
遼悠が、少し離れた所から怒鳴った。そしてこちらに歩いてくる。
「正継!お前、なに瀬那にちょっかい出してんだよ!」
そして目の前にやってきた。壁ドンしていた正継は、腕をどけて遼悠と向き合った。
「俺の勝手だろ。」
「瀬那は俺のモンだ。手を出すな。」
「ナニー?!いつからお前のモンになったんだよ。瀬名は俺たちみんなのモノだぜ。抜け駆けは許さん!」
喧嘩?喧嘩するのかよ!どうしよう、殴り合って怪我でもしたら……。
 と、思ったら、二人は同時に笑い出した。
「ふっ、あはははは。」
「ああははは。」
何なんだ?僕がきょとんとしていると、遼悠が僕の方に手を伸ばした。手を握られるのかと思ったら、僕が持っていた氷の入った袋をさっと奪い取った。
「氷、早くしろよな。」
遼悠はそう言うと、去って行った。なんだ?二人して僕をからかっただけなのか?正継は笑顔のまま、僕の肩をポンポンと叩くと、そのまま何も言わずに行ってしまった。なんだかなー。セクハラ受けた気分だぜ。
 7月になり、いよいよ夏の高校野球(全国高等学校野球選手権大会)の予選が始まった。
「瀬那先輩、これで遼悠先輩との賭けは終わりですね?」
芽衣ちゃんにそう言われて、僕は何も言えなかった。ただ、ははは、と空笑いしただけ。一緒に帰るのは、もう賭けじゃない。付き合ってるんだから……。

 一戦目は、無事勝ち上がった。これからは、負けたら僕たち3年生は部活を引退なのだ。だが、まだまだ終わるわけにはいかない。
 そんな緊張感からか、体力温存の為か、遼悠が一緒に帰っている時にこう切り出した。
「あのさ、部活引退するまで、一緒に帰るのやめようぜ。」
手をつなぎながら、そんな事を言うのだった。
「あ……うん。そうだな。」
僕は、そう言うしかなかった。ぶっ倒れるほどの練習をした後に、わざわざ一駅分歩く事はない。
 でも、それなら何か、付き合ってる証が欲しい……一緒に帰るのだけがそれだったから。だが、そんな事は言えなかった。これから、単に同じ野球部員だという事以外に、何か僕らの関係を証明するものがあるだろうか。

 期末テストも終わり、ほぼ部活一色の生活になった。朝から夜まで野球漬け。僕はみんなが怪我をしないか、体調を悪くしないか、それを気にしながら過ごしていた。そして、僕らマネージャーも暑さでやられないように、水分補給を忘れずにして。
 だが、炎天下の中、氷を何度も運んでいた時の事、事故が起きてしまった。
「瀬那、危ない!」
遼悠の声が聞こえたと思ったら、次の瞬間、目の前でパシッとグローブにボールが収まる音がした。と同時に、遼悠と僕は重なったまま、ベンチの上に倒れ込んだ。
「おい!大丈夫か!」
「遼悠!」
「遼悠先輩!」
僕は一瞬何が起こったのか、分からなかった。僕もベンチに背中を打ち付けて倒れたが、僕の上に乗っかって倒れている遼悠は、走ってきた勢いで思い切り肩をベンチに打ち付け、右肩を押さえて顔をしかめていた。
「りょ、遼悠……、おい、大丈夫か?おい。」
僕は震える声でそう言った。
「私、先生呼んで来ます!」
「僕、冷やす物持ってきます!」
芽衣ちゃんと穂高がそう言って走り出した。そして、花梨ちゃんと綾乃ちゃんが、
「きゃー、遼悠せんぱーい、大丈夫ですかー?」
と言いながら、遼悠を助け起こそうとしていた。

 それから、小野寺先生と遼悠は病院に行った。
「すみません!俺のせいで!」
2年生の町田将太(まちだ しょうた)がそう言って深々とみんなに頭を下げた。将太は控え投手だ。彼がピッチング練習をしていた時に、全く見当違いな方向に投げてしまい、僕の方へ球が飛んできたのだそうだ。見ていた遼悠が走ってきて、その球を僕の顔の前で捕ったのだが、勢いでベンチに突っ込んでしまったという訳だ。
「お前のせいじゃないよ。」
「そうだよ、事故だよ。誰だって失敗するんだから。」
部員達がそう慰めている。
「あ、あの、ごめん。僕がぼーっとしてたからイケないんだ。僕が気づいてよけていれば、遼悠だってそんなに無茶しなかっただろうし。」
僕はそう言って、言いながらとても悔しく、やるせない気持ちになって少し涙が出た。そうだ、僕が悪い。僕のせいで遼悠は怪我をした。大事な肩を。
「でも実際、どうなんだろ。もししばらく投げられないとなったら、予選、勝ち抜けられるのか?」
石田隆斗(いしだ りゅうと)がそう言った。
「まずいよな。」
相馬未来(そうま みらい)も暗い顔をしてそう言った。

 練習再開後しばらくして、小野寺先生と遼悠が病院から戻ってきた。
「遼悠!」
「どうだった?」
部員が集まってきた。僕も一緒に駆け寄った。
「大丈夫だよ。骨折はしてないってさ。」
遼悠はそう言った。努めて明るく言ったようだった。
「でも、投げられるのかよ。」
隆斗がそう言うと、
「まあ……今は無理だ。全治1ヶ月だと。」
遼悠は言いにくそうにそう言った。
「え……1ヶ月?」
「予選、終わってるじゃん……。」
部員がそう言うと、
「いやいや、俺はもっと早く治すぞ。3週間、いや、2週間で復活してみせる。だから将太、任せたぞ。」
遼悠がそう、控え投手の将太に声を掛けた。将太は急にピンっと背筋を伸ばしたかと思うと、また90度のお辞儀をした。
「ほんと、すんません!俺、どうしたらいいのか!」
「だから、予選を任せるんだよ。」
遼悠は優しく言った。
「でも、俺、俺、自信ないっす!」
「バーカ、大丈夫だよ。うちはピッチャーだけのチームじゃないし、打たせて取る野球をやってきただろ?」
未来がそう言って将太の肩に腕を掛けた。
「そうだ。それに、まだ相手が弱いから、大丈夫だよ。」
遼悠がそう言った。
「油断は出来ないが、まだ日にちもあるし、大丈夫だ。将太、俺と一緒に練習しような。」
正継がそう言った。頼もしいキャプテンだ。
 そんな、男達の友情ドラマを、僕はどこか遠巻きに見ていた。分かっている。もし球が飛んでいった先に僕がいなければ、遼悠はあんな無茶はしなかったはずだ。肩を大事にしていた遼悠。この夏の大会に賭けていたのは遼悠もみんなもそう。ああ、どうして僕はこんな……。役立たずなだけでなく、足を引っ張るような事を……。
 そうして、あまりにショックを受けた僕は、部活に出る事が出来なくなった。

 -元気か?学校休みだろ?一日ぐらい遊ぼうぜ-
幼なじみの和宏からLINEが入った。甲子園を目指していても、学校によって温度差はある。和宏は、本気で甲子園に行こうとは思っていない口だ。
-あ、でもお前は部活あるよな?-
和宏から、そう付け足しがあったので、
-もう部活に出ないから、大丈夫だよ-
僕はそう送った。
 だが、約束する前に、和宏はうちにやってきた。午前中である。
「お前、部活出ないってどういうことだ?マネージャー辞めたのか?」
和宏は慌てて来たという感じだった。
「辞めたわけでもないけど。でも、どうせもうすぐ引退だしな。」
「何か、あったのか?」
「え?いや、まあ……。」
僕は、和宏の直視に耐えられず目を反らした。
「話せよ。話すと楽になるぞ。」
そう言われて、当たり障りのない程度に話そうとした。
「僕のせいで、選手が怪我をしたんだよ。」
遼悠が怪我をした話をすると、
「それが、なんで瀬那のせいになるんだよ?」
当然そう聞かれる。
「だって、僕がぼーっとしてたからだし。」
「いや、それでも戸田が自主的にボールを取りに行ったんだからさ。」
「まあ、そうだけど。」
「お前が気にする事ないじゃん。それに、もし気になるんだったら、これからもあいつや、部員のために働く方が、むしろ償いになって、お前の気持ちだってすっきりするだろ。」
「いや、まあ、そうなんだけど……。でも僕がいるとまた同じ事が起こるかもしれないし。」
「そんなことないだろ。いや、しかしわかんねーな。どうして瀬那が部活を休む事になるんだ?」
堂々巡りになりそうだった。大事な事を話さずに、上手く説明できそうもない。はぐらかそうとしても、和宏はなかなか諦めてくれなかった。それで、結局僕は全てを話したのだった。遼悠が僕をかばうのは、ただの友情ではないからで、僕が野球部にいたら邪魔になるのだという事を。
「やっぱりそうか。お前ら、付き合ってたんだ。」
やっと合点がいったという風に、和宏が言った。
「やっぱりって?もしかして気づいてたの?」
「だってさ、この間会った時、完全に怪しかったもんな。」
あー、そうだった。キスしたところを見られたんだった。傘で顔は隠されていても、やっぱり怪しかったかぁ。
 僕が赤面していると、和宏は咳払いをした。
「まあ、それはさておきだ。これからどうするんだ?本当にこのまま野球部放っておいていいのか?」
「だって、僕がいたら、遼悠がまた無茶するし。それに、僕がいてもいなくても、野球部には何も関係ないよ。他にもマネージャーいるし。」
「そうかねえ。」
 僕らは、その話はそこで切り上げ、一緒に昼飯を買いに行く事にした。お互い家に家族はおらず、昼飯は用意されていなかった。二人でコンビニに向かって歩いていると、制服の高校生が足早に近づいてきた。坊主頭。あっ、僕は目を疑った。それは、戸田遼悠、その人だったのだ。
「りょ、遼悠?どうしてここにいるの?」
僕が声を掛けると、
「こっちが聞きたいね。お前は、どうしてここにいるんだ?なぜ部活に出てこないんだよ?俺のLINEにも返事しないし。」
完全に怒っている。そりゃそうだ。付き合っているはずなのに、LINEを無視し、勝手に部活を休んでいるのだから。
「ごめん。」
僕はそう言うしかなかった。
「まあ、こいつもいろいろ考えての事だし。」
和宏がそう言って僕を援護すると、遼悠はキッと和宏をにらんだ。
「あ、すんません。」
和宏は、それで黙ってしまった。
「とにかく、来い!」
遼悠は怪我していない方、左手で僕の腕をつかんだ。
「やだ、行かない!」
僕は和宏の後ろに隠れ、和宏の胴に片手でしがみついた。
「こら、俺の言うことを聞け!」
「やだよ!もう賭けは終わりなんだから!僕はもう、お前のモノじゃないんだから!」
僕が必死にそう叫ぶと、遼悠はパッと手を離した。
「そう、か。そうだな。もう賭けは終わりだな。」
遼悠はそう言うと、また元来た方へ帰って行った。僕は胸が苦しかった。遼悠には悪いと思っている。けれども、この方がいいんだ。僕は野球部からも、遼悠からも離れた方がいいんだ。
 僕は、暇な日々を過ごしていた。そして、期末テストの答案返却日がやってきた。この日は学校に行かなければならない。そして、翌日は野球部の試合だった。とうとう引退を掛けた予選が始まるのだ。
 1時間目が終わり、休み時間になると、いきなり目の前が白くなった。その白はワイシャツの白。僕の机の回りに、男子生徒がたくさん押し寄せてきたのだ。
「瀬那!」
「瀬那、戻ってきてくれよ!」
野球部員たちだった。申し合わせて来たのだろう。そして、キャプテンの正継が言った。
「瀬那、俺たち一緒に甲子園に行こうって約束しただろ?」
「正継……。」
「瀬那も一緒に、夏の甲子園で一勝しようって、誓ったじゃないか。」
僕は押し黙り、うつむいた。
「お前がいないと、俺たちみんなの士気が下がるんだよ。それに、将太のメンタルもサポートしてくれないと。」
と、正継が続ける。
「え?将太?」
控え投手の2年生。遼悠の怪我の原因となった球を投げた本人だ。
「将太は遼悠を怪我させた事に責任を感じている。お前までいなくなったら、あいつは救われないだろ?将太を励ましてやってくれよ、瀬那。」
正継がそう言った後、他の部員達も口々に、
「そうだよ、瀬那、お前がいないと困るんだよ。」
「一緒に甲子園行こうぜ!」
「ムードメーカーの瀬那がいないと、なんか暗いんだよ。出てきてくれよ!」
などと言った。僕は泣きそうになった。僕なんて、いなくても同じだと思っていたのに、みんな、そんな風に思ってくれていたなんて。
「みんな、ありがとう。でも、僕がいるとダメなんだよ。僕がいると遼悠がまた無茶するから。」
僕がそう言いかけると、
「バカか、お前。思い上がるな。別にお前じゃなくても俺は同じ事をしたんだよ。」
少し離れた所にいた遼悠が、突然そう言った。僕を取り囲んでいた部員達が一斉に遼悠を見たので、道が開けて僕にも遼悠が見えた。
 冷たい目。僕は思い上がっていた?自惚れていたのか?僕の目からは涙が流れ出た。これは悲しいからじゃない。みんなに嬉しい事を言われて、感動したから。僕はそう、思った。思う事にした。
「瀬那、頼むよ。今日からまた一緒にがんばろ?」
僕の後ろに立っていた部員が、僕を後ろから抱きしめた。
「瀬那。」
「瀬那ぁ。」
みんな、口々にそう言って、僕の頭をなでた。僕は唇を噛みしめ、うんうんと何度も頷いた。
 「瀬那センパーイ!」
泣きそうな顔で、将太が近くにやってきた。僕はその日の部活に久しぶりに出たのだった。まあ、なんだかんだ言って、ちゃんと部活の用意をしてきていたわけだけれど。
「将太、どうした?」
「本当に、すみませんでした。」
また謝っている。
「謝るなよ。僕にボールは当たってないんだからさ。」
僕が笑ってそう言うと、
「そうなんですけど……。」
まだ浮かぬ顔の将太である。
「もし、予選で負けるような事があったら、僕もう、先輩達に顔向けが出来ないっすよ。野球を続けていく自信がないっす。」
しょげまくっている。
「将太、大丈夫だよ。お前だって、秋からはうちのエースなんだからさ。最初の2、3試合くらい、余裕だって。」
「いや、そんな事ないっすよー。でもまあ、確かに秋からは俺がエース、ですよねえ。」
将太の顔がちょっとにやけている。
「そうそう、だから自信持って。まずはメンタル。あとは運だから。」
「はい!とにかく頑張って練習します!」
将太は元気を取り戻し、グランドへ走って行った。
「わあ、瀬那先輩流石ですねー。本当にマネージャーに向いてますよ。」
いつの間にか芽衣ちゃんがいて、そう言ってくれた。
「あ、芽衣ちゃん。あの、しばらく休んじゃってごめん。」
「いえいえ。でも良かった。明日瀬那先輩がいなかったら、誰がスコア付けるのかなーって、不安でしたよ。」
芽衣ちゃんはそう言って笑った。
「そっか、芽衣ちゃんと穂高にも、ちゃんとスコアの付け方教えなきゃね。」
ちなみに、花梨ちゃんと綾乃ちゃんには、去年教えたのだが、覚えられないと言われたのだった。

 翌日、雲行きが怪しい土曜の午後。我が東尾学園は夏の高校野球東東京大会予選の第一戦を迎えた。梅雨明け前の、どんよりとした空。
「雨が降らないといいけど。」
空を見上げて、僕はそうつぶやいた。
 ベンチに入り、スコアブックを持って座った。レギュラー以外はスタンドにいる。怪我をしている遼悠も、スタンドで見ているのだった。
「将太、リラックス、リラックス!」
将太が正継にそう言われていた。日焼けした顔ではあるが、心なしか青い顔をしているように見える将太。こりゃいかん。
「将太、まずは打たれてこい!」
僕がそう声を掛けると、え?という顔をして将太がこちらを見た。僕は親指を立ててニヤっと笑った。将太は照れたように笑った。
 試合が始まり、やはり途中からぽつぽつと雨が降り始めた。だが、試合を中断するほどは降らず、続いた。
「暑い日じゃなくて良かったですね。」
僕が監督に言うと、
「うん、そうだな。」
と、監督も言った。
 試合はしばらく膠着状態だったが、徐々に両校とも打ち始めた。だが、守備では断然うちが上回っており、打たれてもほとんどベースを踏ませないのだった。それに反して、うちの攻撃は徐々に塁を進めて行き、とうとう1点を取った。
 そして、9回に正継がホームランを打ち3-0で東尾学園が勝利したのだった。
「今日は固くなっていたな。3点くらいじゃ物足りないぞ。次の試合では8点くらい取れ!」
「はい!」
監督のお言葉があり、解散になった。雨がしとしとと降り、蒸し暑くなっていた。

 次の試合は、雲の切れ間から時々日差しが降り注ぎ、とにかく暑かった。僕は氷をたくさんベンチに持ち込み、タオルと一緒にしておいた。選手がベンチに戻ってくる度に冷たいタオルを手渡した。
「サンキュ、おー冷たい!生き返るぜ。」
そう言ってもらえると嬉しかった。
 だいぶ接戦になってハラハラしたが、辛うじて勝つことが出来た。勝った時には将太が泣いた。
「おいおい、まだ2回戦目だぞ。」
他の選手はそう言って笑った。

 遼悠が怪我をして2週間が経った。遼悠は最初の内こそ制服のまま部活を見学していたが、最近はあまり姿を見せなかった。だが、2週間経った今日、遼悠はユニフォームを着て部活に出てきた。
「遼悠先輩!もう肩はいいんですか?」
遼悠の姿を見た将太が、真っ先に駆けつけてそう聞いた。
「ああ、ぼちぼち投げてみようと思ってな。」
「良かったー!」
将太は心から安心した、という顔をした。
「センパーイ、良かったぁ。」
「はい、お水です!」
いつもつまらなそうにしていた花梨ちゃんと綾乃ちゃんも、嬉しそうに遼悠に寄っていった。だが、僕はあいつに近づけなかった。遼悠の方でも、僕の事を見ようともしなかった。
 僕は、フラれたのか。やっぱりそうなんだな。どうしてフラれたんだろう。僕のせいで怪我をしたから?いや、そうじゃない。僕を助けてくれたんだから、あの時は僕を好きだったはず。じゃあ、僕が遼悠のLINEを無視して部活を休んでいたから?きっとそれだな。僕の家に来てくれたのに、追い返しちゃったしな。
 絶望的な気分になった。だが、僕は遼悠のためにここにいるわけじゃない。野球部のため、自分のため。だから、もう遼悠のことは気にすまい。
 東東京大会3回戦目。雨で一日延期になった。そろそろ梅雨も明けるだろう。梅雨の末期は土砂降りが降る。そして、たまに晴れるとすごく暑い。
 今日からは、なんと遼悠が投げることになった。部活に復帰してからまだ1週間なのに、驚異的だ。だが、相変わらずの速球と、制球率。つまり、速い球を投げるし、コントロールも良いのだ。変化球も時々混ぜていた。
 マネージャーとして、遼悠を無視し続ける事は出来なかった。気まずいとはいえ、もともと遼悠はぶっきらぼうで無愛想な奴だ。あんなに綺麗な顔立ちをしているのに、無愛想とは勿体ない。
「キャー!戸田くーん!」
「りょうゆうー!!」
と、スタンドから歓声が聞こえても、全くそっちを見る素振りも見せない。で、無視は出来ないので、話しかけた。
「遼悠、手の豆は大丈夫か?」
「え?ああ、休んでる間に治った。」
遼悠は僕をちらっと見たが、自分の手は見ずにそう答えた。相変わらずのぶっきらぼうで。
 試合はだいぶ苦戦した。まだ本調子ではない遼悠は、思ったよりも打たれてしまい、何とか守備が頑張ってヒットを最小限に抑えたが、勝つには攻撃力が必須だった。
「とにかく打て。落ち着いてバットを振れば大丈夫だ。あのピッチャーは大した事ないぞ!」
監督がそう言って鼓舞した。僕も祈るような気持ちでバッターボックスを見つめた。試合は5回まで進んだが、両者得点無し。遼悠の肩も心配だった。
「そろそろピッチャーを替えるか。」
監督がそうつぶやいた時、
「ストラーイク、バッターアウト!」
と、三振を告げる主審の声が聞こえた。
「うーむ。」
腕組みをした監督は、思わず唸った。いいぞ遼悠、まだイケるよな。僕は心の中でそうつぶやいた。
 試合が終わってみれば、僕らは勝っていた。2-0という接戦だった。次勝てば準々決勝へ進める。甲子園まであと4戦だ。
 東東京大会4回戦目。相手が強くなってきたのは間違いない。しかし、遼悠の調子も上がってきていた。
 部員達は、元気ではあるが、顔つきが変わってきた。気合いが入るというのはこういう事かと、僕は改めて感じたのだった。
 この試合では、遼悠のピッチングが冴えていた。5回までは全く打たせず、ノーヒットノーランが出るのではないか、と思わせる内容だった。しかし、6回からは打たれ始め、そこからは守備が活躍。最後には3点に抑えて勝利した。こちらは5点取っていた。

 そうして、7月下旬に迎えた準々決勝。東京の梅雨も明け、毎日強い日差しが照りつける。蝉も鳴き始めた。
「暑ち~。瀬那、タオルちょうだい。」
「俺も!」
ベンチでは、冷たいタオルの売れ行きが良すぎる状態だった。途中で氷が溶けてしまい、穂高に連絡して買ってきてもらったのだった。控え選手に受け取りに行ってもらったりして。
 相手は甲子園出場経験のある強豪校だった。選手たちは、
「相手に不足はないぜ!」
などと言って強がっていた。もう、ここまで来たらみな強豪校だ。ベスト8に入ったのだから当然だろう。夏の大会でここまで来られた事は、僕から言わせれば万々歳だ。それくらい、東東京には実力の拮抗した学校が多い。遼悠の肩が間に合ってくれたお陰だろう。
 試合は波乱の幕開けだった。まず1回に1点を取られる展開から始まり、3回まではそのまま。4,5回でこちらが得点を入れて3-1とするも、6回で相手に3点取られてしまった。これで3-4の1点ビハインド。そして、8回終わりまでこのまま点数が動かなかった。
 僕はずっと心臓がバクバクしていた。選手もそうだろう。それでも、みな明るく元気に振る舞った。暗くなったら終わりだ、そう思っているように。遼悠でさえ、ベンチにいる時には笑顔を見せていた。そうだ、みんな頑張れ。大事なのはメンタルだぞ。
「瀬那、タオル!」
「俺も!」
相変わらず売れ行きの良いタオル。僕は、タオルをもらっていない選手がいないかどうか、確認する。遼悠がもらっていなかった。顔も冷やした方がいいが、肩も冷やすべきだろう。肩用には大きい保冷剤を持ってきていた。
 僕は保冷剤とタオルを持って、遼悠が座っている所へ持って行った。
「遼悠、これ。」
「ん?ああ、サンキュ。」
遼悠はそう言って、まず保冷剤を受け取り、右肩に付けた。そうすると手がふさがってしまってタオルの方を取れないようだった。なので、僕はタオルを遼悠の顔にそっと付けた。頬と首のところ、まず左側、そして右側に付けた。遼悠はじっとしていた。とくにこちらを見るでもなく。僕は最後におでこに付け、タオルを引き取って遼悠から離れた。

 9回表。相手の攻撃。ここを守り切らなければ可能性が薄くなる。僕は祈るようにして見ていた。
「バシ!」
ボールがミットに収まる音を聞くと、ため息が出る。とにかく打たれないように、とそればかり願って、息を詰めて見守っていたのだ。
「カキーン!」
バットがボールをとらえた音に、いちいちハッとする。そのほとんどがファウルなのだが。
「カキーン!」
もう一度ハッとさせられた。すると、バッターは走り出した。わーっと歓声が上がる。そして、バッターは2塁に止まった。
 まだドキドキしている。そうして次に迎えたバッターは運悪く4番。僕はもう、スコアボードを胸に抱え、実際に手と手を組み合わせて祈った。どうか、打たれませんように。
「カキーン!」
祈りも虚しく、球は鋭く打ち返され、高く上がった。
「あっ!」
「センター!」
センターの未来が走って走って、帽子が取れた。だが、球には追いつけなかった。地面に落ちてすぐに拾い、中継に入った隆斗に投げ、隆斗は状況を見て、3塁に投げた。3塁手の瑞樹のミットにボールは収まった。だが、4番バッターが滑り込み、判定は、
「セーフ!」
審判が両手を横に広げた。スタンドはワーっと沸いた。既に2塁にいた相手選手がホームベースを踏んでおり、これでまた1点取られてしまったのだ。
「遼悠、落ち着いて!」
僕は、わだかまりなど忘れてベンチから叫んだ。そうしたら、遼悠は一瞬帽子を取り、こっちを向いて頷いた。僕は座っていられずに立ち上がって、スコアボードを抱きしめていた。おっと、付けるのを忘れてはいけない。
 そうして、9回表は終わり、2点ビハインドで9回裏を迎えた。今度は我が東尾学園の攻撃だ。
「正継、頼む!」
うちは、4番からの打順だった。しかし、正継がホームランを打っても1点にしかならない。あまりいい打順とは言えなかった。だが、僕は正継に頼むと言った。何を頼むのか、僕自身にも分からないが。
「カキーン!」
期待通り、正継はホームランを打ってくれた。これで1点差にまで詰め寄ったのだ。