私は緊急時なので靴のまま部屋に入った。
「ママ、火事かもしれないから避難しないと」

 私の母、木嶋翠は号泣をしながらアイスピックを握りしめている。
 目の前にはエプロン姿の鈴木さんを守るように抱きしめている父、木嶋隆がいた。
 父は来年50歳になる。

 もう、成人した娘までいるのに、どうして感情に走った恋をしているのだろう。
 21年連れ添った母を裏切って、彼は何をしているのだ。
 私の怒りは父に向いたが、明らかに母は鈴木さんを睨みつけていた。

 ブランド物の服に身を包んで、化粧をし髪も綺麗にしている母は43歳だ。
 母はいつも美しくあるのは父のためだと言っていた。

 確か、鈴木さんは母より4歳年上で、化粧っけもなく髪も白髪混じりだったりする。

 鈴木さんが母より美しく若かったら、母も警戒して家の出入りを自由にさせていなかったかもしれない。
 母は鈴木さんを信用し、家の鍵まで渡していた。
 信用していた家政婦に愛する夫を取られたからか、母は鬼の形相をしている。

「もう、おしまいよ。みんな死ねば良い!」
 いつも落ち着いている母が、アイスピックを持った手を振り回しだした。
 このような母は見たことがない。

「パパ、鈴木さんと先に避難して」
 緊急時はエレベーターが止まってしまう。
 しかも、火事なら火元は一階上の40階だ。
 ここにいたら危険だ。

 私は一瞬、爽やかな40階の「社長」の姿が脳裏に浮かんだ。
 社長業は忙しいだろうから、きっと今も留守にしているだろう。

 母方の祖父も社長業をしているが、「会社が家族」といっていて家にいないことが多い。
 私は、なぜか40階の社長ことが心配で、彼の無事を祈っていた。

 外から、サイレンの音が聞こえてくる。
 ここは消防署に近いから来るのが早くてホッとする。
 でも、消防車が来るということは、火災報知器は間違いで鳴ったわけではなさそうだ。

「防災センターより、40階の火災報知器が作動しました。速やかに避難してください」
 先程と同じ放送が流れる。
 ここに住んでいると、煙探知機や火災報知器により避難するよう放送があることは何度かあった。

 タワーマンションというのは火事になると一溜まりもない構造をしているらしいので、少しの探知でも作動するらしい。
 しかし、いずれもすぐに誤作動だったと訂正の放送が入った。

 気が付くと、私と母だけが部屋に残されていた。
 私が指示したことだが長年連れ添った妻と娘を置いて、不倫相手を連れていった父に嫌悪感がわく。

「ママ、お願いだから急いで!」

 私は、思いっきり母の手を引いて部屋から出て非常階段に向かった。
 非常階段はすでに煙が充満していた。

 私はポケットからハンカチを取り出し、母の口周りにまいた。
 自分は息を止めて必死に階段を降りた。

「ベビーカー、なんでここに」
 30階の踊り場にベビーカーが置き去りになっていて、赤ちゃんが乗っている。
 しかも、ベビーカーは海外製の大きなもので畳めるものではない。

「ママ、ごめん一人で降りて。」
 私はベビーカーを抱えて、階段を降り出した。
 母は呆然としていて、全くついて来ようとしてくれない。

「ママ、お願いだから言うことを聞いて」

 私はベビーカーの重さに気を取られ、足を踏み外してしまった。
 誰かが私を支えたのが分かり、ふと顔を上げる。

「アオさん、ベビーカーから赤ちゃんを外してくれる?」
 私を支えてくれていたのは鈴木さんだった。
「何しに来たの?」
 私は父の不倫相手の登場にキツイ言葉を吐いた。

「赤ちゃんが気になったから、戻ってきたのよ。アオさんは翠さんをお願いね」

 鈴木さんは私に目も合わさずベビーカーから赤ちゃんを外して抱っこすると、階段を降りて行った。

 父は鈴木さんも置いて一人で階段を降りてしまったのだろうか。
 確かに煙が充満して危険な感じがするが、自分の赤ちゃんを置いて逃げてしまう親も酷い。
 緊急時になると色々な人の本質が剥き出しになる。

「ママ、ほら急がないと」
 私は必死にママを抱えて階段を降りた。
 ふと、腕に痛みを感じると彼女の握っていたアイスピックが私の腕を掠っていた。

「もう、それは捨てて」

 私が母のアイスピックを握りしめる手を広げようとしても、母は呆然としながら首を振るだけだ。
 なんとか1階までたどりつくと、1階のロビーのソファーで寛いでいる父が見えた。
皆、1階にいればいつでも逃げられると思っているのか、緊急避難先になっている近くの小学校の校庭には行かないようだ。

「赤ちゃんのお母さんはいますか?」
 鈴木さんは赤ちゃんを抱えながら、色々な人に話しかけている。

「やばい、寛也に呼ばれて来てみたらすごいことになってる」

 聞き慣れた大学の友達の声がして思わず振り向くと、動画を撮影している藍子がいた。
 石川藍子は私とクラスもサークルも一緒で一番の仲良しだ。

 よく見ると隣には寛也がいて、恋人のように寄り添っている。
 私と先程別れてから、彼は自分の部屋に藍子を呼んだのだろうか。

 私が訝しげに見る視線に、寛也が気がついた。

「やべえ、藍子、アオにバレたわ。あいつに就職斡旋してもらうまでは、つまんねえ女だけど付き合っておきたかったんだけどな」
 私を馬鹿にするような寛也の言葉に絶句する。

「藍子も私を裏切っていたの?」

「裏切ってないよ。元から私あんたのこと友達だなんて思ってないし。いつも金持ちヅラで人を見下して、本当にウザかった」

 藍子の冷たい言葉に胸が引き裂かれそうになる。
 私のブログに誹謗中傷のコメントが続いていた時も、慰めてくれた優しい友達だと思っていた。

「いたー、鈴木美智子死ねー! この泥棒猫!」

 母が私から離れ、アイスピックを持ち上げたのが見えた。
 私は慌てて後ろから母に抱きつき、彼女を捕獲する。

「あれ、テーブルコーディネーターの木嶋翠じゃん」
 周りの人たちが、スマホのカメラを母に向けているのが見えた。

 母は家でテーブルコーディネートの教室を不定期で開催している。
 タワーマンションの中にも、付き合いで来てくれる生徒さんがいた。
 SNSのフォロワー数は相当なものだから、結構有名人だったようだ。

「やばい、楽しい。アオが悲惨すぎる」
 藍子が爆笑しながら、私と母の動画を撮っている。

 ドン!
 すごい音がしたと思うと、急に外が騒がしくなった。

「皆さんも、危ないので避難場所の校庭に避難してください」
 消防士さんが焦ったようにロビーにやってくる。

「親父に、マンションの資産価値が下がりそうって電話するわ」
 このような時に、寛也は藍子に断り電話を始めた。

「ママ、ほら行くよ」
 私は母を隠すようにマンションから出る。
外に出ると、頭から血を出している男性が地面に横たわっている。

「社長?」
 私はそれが40階の社長だとすぐに分かった。

「美智子ちゃんも、もう行こう」

 後ろから父の声が聞こえたと思って振り返ると、赤ちゃんを抱きしめた美智子さんを父が大切そうに抱えて連れ出そうとしている。
 赤ちゃんの両親はまだ見つからないようだ。

「鈴木美智子、死ねー!」

 母がまた私から離れて、鈴木さんの方に向かおうとした。
 私は咄嗟に母の行手を阻んだ途端、胸に鋭い痛みが走った。

 母が振り下ろしたアイスピックが私の胸を突き刺していた。
 薄れゆく意識の中で、母の絶望した顔を見た気がした。