「クマノミ」という魚がいる。オレンジと白の縞模様をした熱帯魚で、この魚を主人公にした映画もあったから知っている人も多いだろう。
 そのクマノミは、集団の中に常に一匹だけメスがいてそのメスが死ぬとオスの中の一匹がメスに転化するのだそうだ。
 オスが、メスに。子孫を残すためにできたシステムなのだろう。自然とは不思議なものだ。
 人間の場合もある一定の環境下ではそんなことが起こり得る。もちろんクマノミのように身体や生殖機能が変化することはない。したがって子孫を残すことなどできない。でも……それでも、そんなんことが起こることを、俺は身を持って体験した。
 ある一定の環境下……例えば、男子校……

 俺の名前は駒田(こまだ)春翔(はると)。私立西北学園高校の一年生。
 二週間前の入学式。
 新入生の俺はパイプ椅子に行儀よく座ったまま左右を見回していた。目に入って来る景色の、違和感。そう。女子が、いない。当たり前だ。西北学園は男子校なのだから。
 大学受験のことを考えると高校は公立よりも私立の進学校に行っておいた方がいいと思った。公立に行ってもどうせ塾か予備校に通わなければならなくなるだろうし、それなら最初からしっかりと大学受験対策をしてくれる私立高校へ行った方がいい、そう思った。親も同じ意見だった。
 合格した高校の中で一番偏差値が高かった西北学園に入学することにした。その時は共学か別学かなんて、頭になかった。でも……今更ながら覚える、この、違和感。
 美結(みゆ)のことを思った。
 高野美結。同じ中学の同級生。女子。
 美結とは中二の頃一年くらい付き合っていた。中三になってすぐに振られた。他に好きな男子ができたと言われた。俺の方もそろそろ受験勉強に集中しなくちゃいけないと思っていた時期だったから丁度いいと思った。でもそれからも美結とは「友達」として結構仲良くやっている。引きずっては……いない。
 美結は女子高に進学した。美結が行った女子高も同じ日が入学式だった。
 女子しかいない入学式に美結も違和感を覚えているだろうか……そんなことを思っていた。

 あれから二週間が過ぎた。
 学校の、そしてクラスの雰囲気にも慣れて……来るどころか、俺の中の違和感は増加する一方だった。
 西北学園は中高併設校だった。高校と同じ敷地内に中学もあった。中学を受験して、中学からずっと西北にいる生徒もいる。いや、そっちの方が多い。
 一学年の生徒数は360人。そのうち中入生が300人、高入生は60人だ。中入生と高入生はバランスよく各クラスに振り分けられていた。俺のクラスは全部で36人。中入生が30人、高入生が6人だ。
 そして……西北学園中学は、高校と同じく男子校だった。つまりクラスの36人のうち30人は、既に三年間、女子のいない学園生活に慣れ親しんでいるのだ。
 塾にでも行けば他校の女子と接する機会もあっただろうが、西北中学から西北高校へは無受験で行けたから高校受験のために塾へ行く必要はなかった。授業に付いて行けない生徒のためには放課後の補習もあった。高校からは大学受験用の講義も開設されるという。したがって塾へ行く必要は、ない。
 西北中は部活動も盛んだった。特に野球部やサッカー部といった運動部ではそれなりに厳しい練習をしていたようだ。放課後や休日を部活動に費やしてきた彼らにも外部の女子と接する機会は当然ない。
 西北の中入生――
 彼らは思春期の三年間を純粋に学校内部の男子の世界で過ごしてきたのだ。そしてその結果は――

 俺はクラスのメンバーを三種類に分類してみた。
 まずは、運動部のやつら。男らしい、活発な、溌剌とした、悪く言えば粗野な雰囲気を醸し出している。身体を鍛えているから体格もいい。このグループをAグループと呼ぼう。
 次に文化部、あるいは帰宅部のやつら。彼らも運動部ほどハードではないにしろ、真面目に部活動、あるいは勉強に取り組んでいる。ごく普通の、平凡な高校生たちだ。彼らをBグループとしよう。
 そして、その残り。Cグループ。中には文化部に所属している者もいるが、帰宅部のやつが多い。いや、部活に所属しているかどうかが問題ではない。問題は、その雰囲気だ。
 ナヨナヨと、弱々しい。か弱い。差別的な言い方になるかもしれないが、女子的。そう、女子化している。ヘアースタイルも共通して長め、女子的だ。
 女子化――差別するつもりはない。人それぞれの個性は尊重する。俺はジェンダーレスを否定しない。しかし……
 中入生30のうち、Aグループが12名、Bグループが10名、Cグループが8名、俺はそう分類した。
 Cグループが、8名! これはちょっと無視できない数だ。
 クマノミは集団の中で一匹だけがメス化する。しかし俺のクラスでは、はるかに高い確率でメス化が進行しているということだ。

 で、俺はというと、まったくのBグループ人間だ。小学生の時は野球のクラブに入っていた。中学でもいったんは野球部に入ったが、すぐにやめた。野球の素質がないことがわかったから。その後は帰宅部。高校でも運動部に入るつもりはない。
 ちなみ俺以外の高入生五人はどうかというと、そのうちの二人は中学で野球とバスケやっていたという。Aグループだ。あとの三人は、特に特徴のない平凡な高校生。俺と同じBグループだ。

 ところで、高一の俺たちは今思春期真っただ中にいる。当たり前に恋愛したいし、する。俺も、美結のことを……いや、それはいい。
 ではその恋愛対象はというと――

 クラスの中。
 休み時間になると、いつも机の上で手を握り合っている二人組がいた。自分の椅子をわざわざもう一方の机の脇まで持って行って。
 腕相撲をしているわけではない。お互いがお互いの両手を絡めるようにして、二人でジッと見つめ合っていたりする。ちょっと近寄り難い雰囲気だ。
 この二人の一人はBグループ、もう一人はCグループのやつだった。
 休み時間になると手を繋いでいっしょにトイレに行く二人組もいた。男同士がつるんでトイレへ行ってもかまわない。よくあることだ。しかし、手を繋いでとなると……
 二人のうち一人はAグループ、体格のいい柔道部、一人はCグループだった。胸を張って大股で歩く柔道部にCグループのやつが恥ずかしそうにうつむきながら付いて行く。まるでトイレに連れ込まれるみたいに……
 休み時間のたびに隣のクラスに行って、そのクラスの男子と次の授業開始時間ギリギリまで廊下で話し込んでるやつもいた。そいつもCグループのやつだ。相手は他のクラスだが分類すればBグループに見える。
 他のクラスのやつと話しても別にかまわない。中学では同じクラスだったのかもしれない。しかし……二人でクスクスと笑いながら、ヒソヒソと小声で話す様子は、どうみても……
 休み時間になるとさらにその向こう教室まで行って教室の中を覗き込んでいるやつもいた。そいつもCグループだった。
 そのクラスに学年でも有名なイケメンの男子がいるらしい。休み時間のたびにその男子を見に行っているのだ。話し掛けるわけでもなく、ただ、遠くから見るだけのために。まるでアイドルに対する推し活だ。

 繰り返す。差別するつもりはない。人それぞれの個性は尊重する。俺はジェンダーレスを否定はしない。しかし……
 あと三年間、ここで、この西北学園で過ごすと思うと、俺はそこはかとない不安を感じざるを得なかった。

 そんなある日。
 体育の授業前だった。俺は自分の席で制服を脱ぎ始めていた。体育着に着替えるためだ。
 着替えは教室でするように言われていた。体育館に更衣室もあったが、男子校だから教室で一斉に着替えても特に問題はない。他人の視線を気にする必要はない。はずだった。
 その、視線を感じた。すぐ近くで。
 俺の席の右隣り。今村直也(いまむらなおや)というやつだった。
 席順は五十音順で決められていた。教壇に向かって右端、一番廊下側の列の前から青木、井上、三番目が今村。二番目の列は前から加藤、小林、そして俺、駒田。
 色白で細身。前髪を目の少し上で切り揃えて、前髪以外はストレートに落として顎の高さで揃えていた。オカッパ、あるいはボブカット、ていうのだろうか。
 おとなしいやつだった。隣りの席に座って二週間になるが、俺はまだ一度も今村と話をしていなかった。
 休み時間はいつも自分の席で本を読んでいた。クラスの他の誰かと話しているのを見たこともなかった。部活もやっていないようで、授業が終わるとそそくさと帰宅していた。
 男らしい、雰囲気はなかった。一般的な男子……よりも、女子に近い。俺は今村をCグループに分類していた。
 その今村が、俺を見ていた。裸になった俺の上半身をじっと見ていた。
 体育の授業はその日が初めてではなかった。前回の体育の授業では今村は制服のまま見学していた。見た目どおり身体が弱いのかもしれない。体育の授業前の休み時間には姿が見えなかった。

「何見てんだよ‼」
 それが俺が今村に言った最初の言葉だった。
「ご……ごめんなさい」
 そう言って今村は視線を逸らせた。
 それから今村は自分の着替えを始めた。
 腰にバスタオルを巻いて、制服のズボンを脱いで体育着のジャージを履いていた。ワイシャツの上からジャージを着て、ジャージの下からワイシャツを器用に引っ張り出していた。それも、俺に背中を向けて。
 そんなことするか……?
「何やってんだ?」
 それが俺が今村に言った二言目。
「……見ないでください」
 振り向いた今村が答えた。色白の顔が赤くなっていた。

 その日の授業が終わった。俺はバッグを背負って教室を出た。
 まだ部活は決めていなかった。クラスの中の俺以外の高入生五人のうち一人は元野球部、一人は元バスケ部だった。この二人はそのまま野球、バスケを続けるという。後の三人のうち一人は早々に帰宅部を決めていた。
 残りの二人といっしょにいくつか文化部を回ってみたが、これといって興味を魅かれるような部活はなかった。
 前の日、俺以外の二人はそろって生物部への入部を決めていた。今日はそっちに行くと言っていた。
 クマノミの話も生物部へ見学へ行った時に聞いた話だ。面白い話だとは思ったが、それを研究したいとは思わなかった。俺はこのまま帰宅部でもいいかと思い始めていた。
 放課後の講習もまだ始まっていなかった。俺は一人で校門に向かって歩いた。

「駒田君」
 後ろから声がした。振り向くと、今村がいた。
「いっしょに帰らない?」
 今村が言った。断る……のも悪いと思った。断る理由を思い付かなかった。
「いいけど」
 俺がそう言うと、今村は俺の右側に並んできた。
 今村の表情は、少し恥ずかしそうで、少し笑っているようにも見えた。今村のそんな顔は初めて見た。そもそも今まで今村の顔なんて見てなかったが。
「駅までか?」
 訊いてみた。
「うん」
「上り? 下り?」
「下り」
 俺は駅から上り電車だ。少しほっとした。
「部活は? やんねえのか?」
「うん」
「クラスに中学からの友だちとかいねえのか?」
「うん、いない」
 それから……話が続かなかった。何か話題がないかと考えたが、俺の方が考えるのもバカらしい気がした。そのまま黙って歩いた。どうせ駅までだ。そう思った。
 その時。
 今村の左手が、俺の右手にぶつかった。次の瞬間、今村が俺の右手を握ってきた。
 俺は思わずその手を振り払った。
「何すんだよ!」
 大声を出していた。
「ご……ごめん」
 今村はそう言ってうつむいた。
 予感はあった、ように思う。そうじゃないかと思っていた。やっぱりこいつも……
 俺はそれからしばらくそのまま黙って歩いた。
 今村は俺の右斜め後方から付いて来ていた。
 駅が見えてきた頃。
 いきなり、後ろから、今村がまた俺の右手を握ってきた。
 俺はまたその手を振り払った。
「何だよ! 手え握んじゃねえよ‼」
 俺はまた大声を出していた。
 今村はまた黙ってうつむいた。
 気まずい雰囲気のまま駅に着いた。
 改札に入ったところで、「じゃあな」とだけ声を掛けた。黙ったまま別れるのも悪いかと思って。
「うん、また明日」
 そう言って、今村は少しだけ笑顔を見せた。

 翌日。俺が教室に入ると今村はもう自分の席に座っていた。
「駒田君、おはよう」
 席に座ろうとした俺に今村の方からあいさつしてきた。
「ああ……おはよう」
 無視するのも悪いと思ったからあいさつを返した。
 今村が嬉しそうな笑顔を見せた。
 何が嬉しいんだ……?
 俺は今村から視線を逸らした。

 休み時間。俺は席を立ってトイレへ向かった。
 生徒たちが行き交うリノリウムの廊下。気が付くと、右隣に今村がいた。
「何だよ」
 俺は今村を睨みつけた。
「トイレ」
 今村がまた嬉しそうな顔をしている。
「近づくなよ」
 俺は一歩左側に寄った。今村が一歩俺に近づく。
「何だよ!」
 俺は声を大きくした。
 その時。今村が俺の右手を握って来た。俺はその手を振り払った。
「手え握んじゃねえよ‼」
 まただ。前の日のことを思い出した。まるでデジャヴだ。
 そのまま俺は速足でトイレへ向かった。トイレの入り口で少しだけ振り返ってみた。今村は廊下の真ん中に立ったままうつむいていた。

 昼休み。
 私立の西北には給食はない。俺は自分の席に持参した弁当を広げていた。
 皆、弁当は自分の席で食っていた。さすがに女子のように机をくっつけておしゃべりしながら食ったりはしない。あの、手を握り合っていた二組以外は。
 隣から視線を感じた。今村だ。今村は購買かコンビニで買ってきたパンを食っていた。食いながら、俺を見ていた。弁当を食ってる俺のことをジッと見ていた。俺の弁当の中身を覗き込んでいるようにも見えた。俺はかまわずに飯を口の中に放り込み続けた。弁当の味がわからなかくなっていた。

 その日の授業が終わった。あの後今村とは一言も話をしなかった。
 俺は今村と目を合わさないようにして教室を出た。
「駒田君」
 校門を出たところで声を掛けられた。今村だ。
「何だよ!」
 反射的に答えていた。無視するべきだった。
「……僕のこと、嫌い?」
 今村が訊いてきた。
 ああ……恐れていた展開だ。
「だ、か、ら! 好きとか嫌いとか、そういうんじゃねえだろ!! 俺たち男同士なんだから!!」
 思いっきり大きな声を出していた。
 下校途中の他の生徒の視線が集まるのがわかった。ニヤニヤしながら見てるやつもいた。
「……でも、僕は好き。駒田君が好き」
 ああ……とうとう来た。絶対に聞きたくなかった、告白。
 俺は自分の額に手を当てた。
「俺は、お前のことは好きじゃない!」
 そう返した。好きとか好きじゃないとか、そもそもそういうことじゃないのだが。
「他に好きな人がいるの?」
 今村がまた訊いてきて来た。一瞬、美結の顔が浮かんだ。しかし今は話を複雑にしたくない。
「いねえよ!」
 そう答えた。
「だったら、僕のこと好きになってくれる可能性はあるよね?」
 今村が言った。めげない奴だ。全然折れない。
「そんな可能性は、ない!」
「そうかな?」
「そうだよ!」
 俺は歩く速度を上げた。今村を引き離したかった。今村は半分走りながら付いてきた。
「それ、誰からもらったの?」
 後ろから今村の声がした。今村は俺がバッグに付けていたキーホルダーを指さしていた。
 キーホルダーには手作りの小さなぬいぐるみが着いていた。緑色の、トカゲのような、ワニのような生き物のぬいぐるみ。
 付き合って頃、美結からもらった物だった。美結の手作りだった。美結は恐竜だと言っていた。
「うるせえな! 関係ねえだろ!」
 俺は怒鳴り声を上げていた。今村は黙り込んだ。
 駅に着いた。今村はしっかりと俺に付いてきていた。俺は黙って上りのホームへ向かった。
「また明日」
 後ろから今村の声がした。

 次の日の朝。やっぱり今村はもう自分の席に座っていた。
「おはよう」
 今村があいさつしてきた。笑顔で。
 俺は「ああ」とだけ答えた。
 授業中。隣りに座る今村の視線を感じた。もちろん俺のことをガン見してるわけじゃない。そんなことしてたら先生から注意されるだろう。でも、チラ、チラっと俺を見る視線を俺は感じていた。
 休み時間になると、遠慮なく、椅子を俺の方に向けて俺を見てきた。俺は席を立ってトイレへ向かった。案の定、今村は俺を追ってきた。俺は今村に追いつかれないように思いっきり速足でトイレへ向かった。
 昼休みも今村は弁当を食う俺をガン見してきた。それも、机に肘を突いて、両手の上に顎を乗せて。うっとりとした表情で。
 俺は机を横にして今村に背中を向けた。

 何で俺なんだ? 俺のどこが気に入ったんだ? たまたま席が隣だったからか?
 弁当を食いながら考えた。
 そうだ。今村の関心を俺以外の誰か向ければいいんだ。クラスには、いやこの学校には男子がたくさんいる。俺でなければならない理由はないはずだ。
 顔を上げてクラスの中を見回してみた。
 中入生のやつらのことはまだよくわからない。何となく壁があって入り込めないでいた。Cグループとは俺の方が距離を置いていた。
 ひとつだけ言えるのは、このクラスにアイドル級のイケメンはいないということ。
 そもそも今村は中入生とはすでに三年間いっしょに過ごしている。クラスに友だちはいないと言っていた。あいつらは今村の選択肢にないということか?
 だとしたら……やっぱり高入生だ。
 俺は教室の後ろの方に目を遣った。
 生物部に入部した二人は……見るからに地味だ。
 早々に帰宅部決め込んだ一人は机に参考書を広げていた。勉強一筋、取りつく島もないと言った雰囲気を醸し出していた。
 野球部とバスケ部は……二人とも机に突っ伏して寝入っていた。
 運動部のやつらは入学当初こそ溌剌とした雰囲気を発散させていたが、現在は昼休みを、いや授業時間全部を放課後の部活に備えての休養時間にあてている。
 しかし……あの二人は部活になれば復活するはずだ。あいつらのカッコいいところを見れば今村も……
「おい、今村」
 俺は今村に声を掛けた。
「はい」
「放課後、俺に付き合え」
「は、はい!」
 何を思ったのか、今村は嬉しそうに顔を輝かせた。

 放課後。俺たちはグラウンドへ向かった。
 グラウンドでは野球部が練習を始めていた。
 俺はグラウンドの周囲に張られたネットの裏側、ファーストベースの真後ろあたりに立った。
「来いよ」
 少し後ろにいた今村に声を掛けた。
「何これ?」
 今村が不満そうに言った。
「野球部」
「……わかるけど」
 そう言いながら今村が俺の隣に立った。
 マウンドの前に二メートル四方くらいのネットが置かれ、その向こうから白いユニフォームを来たピッチャーがボールを投げるのが見えた。ホームベースあたりには大きなケージが置かれ、その中に立ったバッターがボールを打ち返していた。バッティング練習だ。
 俺は同じクラスの高入生の野球部員、松本の姿を探した。
 いた。外野の後ろの方。しかしその姿は、カッコいい……とは思えない。遠い上に皆同じ白いユニフォーム着ているから識別するのすら難しい。なかなか打球が飛んでこないから膝に手をあてた姿勢でただ声を張り上げてしているだけだ。
 それなら……
「あのピッチャー、どうだ? カッコよくね?」
 言ってみた。
「別に……」
 今村が答えた。
 ピッチャーはただ淡々と投げているだけで、俺自身、けしてカッコいいとは思わなかった。バッティング練習用のピッチャーなのだろう。
「カキーン」という金属バットの高い音とともにゲージの中から鋭い打球が飛んだ。
「あのバッターはどうだ?」
 言ってみたが、ケージが邪魔でバッターの顔はよく見えない。
「……」
 今村は答えない。
 打球がショートに飛んだ。ショートの選手が軽快な動きで捕球したボールをファーストに送球した。
 あのショートなら……
「あのショートはどうだ? 上手いよな?」
「……ショートって、何? 短い、ていうこと?」
 俺はため息を吐いた。
「僕、野球のことはよくわからないし、わかろうとも思わない。興味ない」
 今村が言った。
「次……行こ」
 俺は今村に声を掛けた。

 俺たちは体育館へ向かった。
 二階のギャラリーに上がると体育館の全体が見渡せた。
 バスケ部が練習していた。
 同じくクラスのバスケ部、吉川。
 今度はすぐに見つかった。
 背が高い。上級生と思われる部員たちに混じっても十分目立っていた。
「あれ、同じクラスの吉川。わかる?」
「うん……わかるけど」
 今村は相変わらず浮かない顔をしている。
「かっこよくね?」
 野球部の時と同じことを言ってみた。事実、吉川は上級生に負けないくらい上手かった。
「別に……」
 今村の反応は野球部の時と同じだった。
「駒田君……」
 今村が俺に方に向き直った。
「どういうつもり?」
「どういうって……」
 回答に困った。
「僕さ、スポーツ苦手だし、興味ない。当然入部する気もないよ」
「いや……入部とかそういうんじゃなくて……」
「じゃ、なに?」
「その……スポーツできるやつに憧れねえかな、て思って。ファン、ていうか、押し、ていうか……」
「全然」
 今村はきっぱりと言った。
 そうか……スポーツじゃだめか……。じゃ、どうすれば……
「駒田君、何がしたいの?」
「え?」
 今村が真剣な目で俺を見ていた。
「部活に勧誘してるわけじゃないでしょ? そもそも駒田君、部活入ってないし」
 言葉に詰まった。こうなったら本気(マジ)で話すしかない。
「……今村、お前昨日、俺のこと好きだって言ったよな」
「うん」
「何で俺なんだ? 俺でなきゃだめなんだ?」 
「何でって、好きになるのに理由がいるの?」
「いや……でも、他にもカッコいいやついるだろ?」
「カッコいいかどうかなんて、僕には関係ない」
 そう……なのか。
 先入観があった。Cグループのやつらは、いや、女子は一般的にカッコいいやつ、それもスポーツマンに惚れる。今村もカッコいいスポーツマンを目の前にすれば……そう思った。
 思えばクラスのカップルの片方もけしてかっこいいスポーツマンというわけではない。
 でも……美結の彼氏は……俺じゃない、新しい彼氏は、カッコいいスポーツマンだった……

「わかった……とりあえず、今日は帰ろ」
 俺たちは校門から駅に向かった。
 俺は考えていた。
 カッコいいスポーツマンでないとすると……こいつの好みの基準は何なんだ? クラスに男子はたくさんいる。その中で、何で俺なんだ? 
 改めて訊いてみた。
「なあ、何で俺なんだ? 俺でなきゃダメなのか?」
「うん……駒田君が、好き」
「何でだ? たまたま隣の席だったからか? それともあの日、体育の授業前に俺が……」
 着替えてるところを見たからか? と、言いかけてやめた。ますます変な方向に話が進んでしまうような気がした。
 今村が黙ってうつむいた。顔が赤くなっていた。俺は額に手をあてた。
 そうだ! 
 思い付いた。女子だ。
 今村が俺のことを好きになったのは、この男ばかりの環境のせいだ。今村に女子の友だちができれば……
 ――美結。元カノ。俺が振られた相手。でも美結とは今も友達だ。美結に頼めば……
 気が付くと、今村が俺の右手を握っていた。
「だから! 手え握んじゃねえよ‼」
 俺はまた大きな声を出していた。

 その夜。俺は自分の部屋のベッドに寝転んで久し振りに美結にLINEをした。
 美結と連絡を取るのは中学の卒業式依頼だ。
『ちょっと相談したおことがあるんだが』
『今電話してもいいか』
 LINEではなく電話で話した方がいいと思った。
『久し振り』
『いいよ』
 すぐに返事が来た。
 俺は起き上がってスマホの電話をタップしようとした。その指が、止まった。俺の心臓が大きな音を立てていた。自分が緊張しているのに気がついた。
 美結に、電話する。美結の、声を聞く。美結と、話す。それだけのことなのに……
 スマホの着信音が鳴った。美結からだった。美結の方から電話してくれた。あわてて受電をタップした。
『春翔? 久し振り』
 美結の声がした。
『ああ、久し振り。悪いな、電話させて』
『ううん。元気にしてた』
『ああ。美結は?』
『元気だよ』
 話し出せば、ちゃんと話せた。中学の時のように。
『何相談って?』
 美結が続けてきた。
『ああ……実は……その、女子を一人、紹介して欲しいんだ』
 言い方を考えてなかった。変な言い方になってしまった。
『春翔に?』
『いや! 俺じゃ無くて!』
 あわてて否定した。
『俺のクラスの男子なんだけど』
『ふ~ん。彼女募集ってわけ?』
『まあ……そんなとこだ』
 詳しい事情は話せなかった。一瞬、断られる予感がした。いくら友達、元カノとはいえ、ぶしつけな相談だった。
『いいよ!』
 スマホから美結の明るい声が聞こえた。
『ホントか!』
 俺は片手でガッツポーズをしていた。
『で、どんな子がいいわけ? 女子は腐るほどいるけど』
『ああ……そうだな』
 次の展開を考えてなかった。
 活発で元気が良過ぎる子には今村が付いて行けない気がした。おとなしめで……でも今村を引っ張ってくれるような……
 美結に漠然としたイメージを伝えた。
『難しいな……どっちかに振り切ってれば探しやすいんだけど。ま、見つくろってみるわ』
 美結が言ってくれた。やっぱ頼りになる。
『そっちはどんな人?』
 今村のことだ。
『う~ん、おとなしめ。部活とかもしてない。でも、意外と芯の強いところもあるかな? 折れないっていうか……』
 悪口は言えない。
『なるほどね。それで、私と春翔を入れて二対二の合コンみたいな感じでいいのかな?』
 そうだ。俺も、久し振りに美結と会うことになるんだ。俺の心臓の音が一段と大きくなった。
『ああ、それで頼む』
『じゃ、場所と時間は……』
 西北も美結の行っている女子校も土曜の午前に授業があった。次の土曜、学校が終わった後、二人の学校の中間にある大きな駅の駅ビルの中のファミレスで一緒に昼飯を食うことにした。
『ありがと。助かったよ』
 美結に礼を言った。
『いいよ。春翔からの頼みだもの。でも、春翔も変わったね。友達の面倒看てやるなんて』
『え?』
 高鳴っていた心臓が止まった、ような気がした。
 今村の面倒を看てやってるわけじゃない。俺自身が、今村から逃げるために……
『じゃ、土曜日!』
 美結の明るい声が聞こえた。
『……ああ、土曜。よろしく』
『おやすみ!』
『おやすみ……』
 美結の言葉が、小さな棘みたいに胸の奥の方に刺さったような気がした。

 翌日、俺は今村に「今度の土曜、いっしょに昼飯食いに行こ」とだけ言った。女子を紹介するとか、そんなことは一切言わなかった。
「ほんと⁉ いいの⁉」
 今村がまた嬉しそうな顔をした。

 土曜日。俺は今村といっしょに美結と約束したファミレスへ向かった。
 歩いている間も電車の中でも今村は何もしゃべらなかった。でも、本当に嬉しそうな顔をしていた。
 一度だけ俺の手を握ろうとしてきたが、今村の方から途中で手を引き戻していた。俺は気付かない振りをしていた。

 ファミレスへ入ると、入り口からよく見える席から美結が手を振っていた。美結の隣にもう一人、美結と同じ制服を着た女子が座っていた。
 俺は真っ直ぐに美結たちが座る席へ向かった。
「悪い。待った?」
 四人掛けの席の前で美結に声を掛けた。
「大丈夫。私たちも今来たとこ」
 久し振りに見る美結の笑顔がまぶしかった。
「……どういうこと?」
 後ろから付いて来ていた今村が言った。今村の顔からはさっきまでの笑顔が消えていた。
「あ、いや、今日は、四人で飯食おうと思って」
「そう……だったんだ」
 今村の顔が曇った。
 その様子を見ていた美結が立ち上がった。
「春翔……いえ、駒田君の中学の同級生の高野美結です。桜雲女子の一年です」
 美結が頭を下げた。隣りにいた女子も美結に合わせて立ち上がった。
「美結と同じ桜雲女子一年の佐々木双葉です。よろしくお願いします」
 その子も頭を下げた。
「俺は、西北学園一年の駒田春翔。こいつは同じクラスの今村直也」
 俺は今村の肩に手を乗せた。
「……今村です」
 しぶしぶといった様子で今村も頭を下げた。
「そこ、いっか?」
 そう言って俺は、バッグを肩から下ろしながら美結の前の席に座った。
「あれ? それまだ付けてるの?」
 美結が俺のバッグを指さした。トカゲのような、ワニのような、緑色の恐竜が付いたキーホルダーだ。
「あ……ああ」
 俺は曖昧に答えながらバッグを足元に下ろした。
「いい加減他のにしなよ。作った私も恥ずかしいし。下手くそで」
「そうだな……でも、代わりないし……」
「買いなよ。自分で」
「あ……あそうだな」
 俺はまた曖昧に答えた。
 今村は席の横に立ったままだった。
「お前も座れよ」
「う……うん」
 今村がもう一人の女子、佐々木双葉、さん、の向かいの席に腰を下ろした。
「……どういうこと?」
 今村が俺の方を向いて小さな声で言った。声は小さかったが美結と双葉さんにも聞こえていた。二人は微妙な顔をしていた。
「いや……あのな」
 俺は言い訳がましく話し始めた。
「今村、中学からずっと男子校だから女子の友だちいねえだろ。だから、女子校行ってる美結に頼んで女子を紹介してもらおうと思って……女子の友だちができれば、今村も、その、何て言うか、世界が広がるんじゃねえかと思って……」
「そういう……ことだったの……」
 今村が言った。
 佐々木さんが少し顔を曇らせた、ような気がした。
 美結は何て言って佐々木さんを連れてきたのだろうか。
「ま、いいじゃない。まずは何か食べよう。お腹減っちゃった」
 美結が助け舟を出してくれた。

 四人がそれぞれのランチとドリンクバーを注文した。今村はサンドイッチだけだ。
「アニメとか好き?」
 さっそく佐々木さんが今村に話し掛けてくれた。きっと美結が言い含めておいてくれたのだろう。
「……いえ」
「映画は? 見る?」
「……いえ、あまり……」
「音楽は? 聞く?」
「たまには……」
「どんなジャンル聞くの?」
「クラッシック……」
 話は少しも盛り上がらない。
「高校、どう?」
 美結が俺に話し掛けてきた。
「……まあまあかな」
 今村に付きまとわれて困ってる、とは言えない。
「そっちは?」
 訊いてみた。
「楽しいよ」
 美結が答えた。
「美結ね、クラスですごい人気者なんだよ」
 佐々木さんが話に割り込んできた。
「美結のこと推してる子もたくさんいるんだよ」
「推してる?」
「そう。もう、芸能人並みだよ」
「女子が、同じクラスの女子を?」
「そう。女子校ならではだよね」
 女子校にはそういうことがあるのか……
 心の中で思った。
「ちょっと、やめてよ」
 美結が佐々木さんに向かって両手を突き出した。
「そしたらさ、女子同士で、その、手とか握り合ってる二人とか、いる?」
 佐々木さんに訊いてみた。
「いるいる!」
 佐々木さんが俺の方に身を乗り出してきた。
「美結もこの前、握られてたよ!」
「そ、そうなのか!」
 思わず大きな声が出ていた。
「大丈夫よ。私、誘惑に乗ったりしないから」
 美結が笑いながら言った。
 そうだった。美結には彼氏がいる。
「なにを心配してんのよ。そんな顔して」
 自分が赤面してるのがわかった。
「でもさ、男子はどうなの? そういうのあるの?」
 佐々木さんが訊いてきた。
「いや……いるよ。男子校にも。男子同士で……」
「ほんと⁉」
 それから、俺と佐々木さん、それに美結の三人は、それぞれ男子校、女子校ならではのあるある話で盛り上がっていた。
 今村はその話の中に入られずにいた。
 いつの間にか今村は……今村だけが、一人取り残されていた。

「僕、帰ります」
 今村が言った。突然。いや、俺たち三人にとっては突然だったが、今村はもっと前から言い出すタイミングを見はからっていたのかもしれない。
「あ……ごめん」
 美結が言った。
「待てよ。まだ……」
 言いかけた俺を見向きもせずに今村は立ち上がった。俺は今村の手を掴んだ。今村がその手を振り払った。
「おい……」
 言いかけたけど、言葉が続かなかった。今村の目には、涙が溜まっていた。
 財布から千円札を一枚取り出してテーブルの上に置くと、今村はそのまま出口へ向かって歩き出した。
「春翔! 追いかけな!!」
 美結が言った。
「でも……」
「私が会計しとくから! 早く!!」
 俺は美結の言葉に従った。
「悪い!」
 そう言って俺は今村を追った。

 改札階へ向かう下り階段で今村に追いついた。
「おい! 今村! どうしたんだよ!」
 後ろから今村に声を掛けた。今村が振り向いた。
「駒田君……高野さんのことが好きなんだね……」
 今村が言った。
「なに言ってんだよ! そんなんじゃ……」
「わかるよ」
 今村の視線が俺の顔から肩に掛けたバッグに移った。
「そのキーホルダーも高野さんにもらったんだね」
 今村はバッグに付けた恐竜のキーホルダーを見ていた。
「だから! そんなんじゃ……」
 言いきれなかった。
「今日は、それを僕にわからせるために僕を呼んだの?」
 違う。そんなつもりじゃなかった。俺は、本当に、今村に女子を紹介したくて……
 俺の思いは言葉にならなかった。
 何やってんだ、俺は……
 今村は黙って階段を降りて行った。俺は……今村を追いかけることができなかった。

 その夜。美結に電話した。
『今日、は悪かったな』
『いいよ』」
『俺の分、後で払うから』
『いいよ。貸しにしておく』
『佐々木さんも、気悪くしただろ』
『大丈夫』
『謝っておいてくれるか?』
『謝っといたよ』
『……悪いな』
『うん』
 それから……言葉が続かなかった。
『あのさ』
 美結が切り出した。
『今村君、春翔のことが好きなんだね』
『……わかるか?』
『わかるよ』
 それなら……また、言葉が続かなかった。
 俺は黙り込んだ。その先に続くはずの美結の言葉を待った。でも、美結は何も言わなかった。
 少しの間、俺は自分の息づかいだけを聞いていた。
 唐突に、美結が言った。
『人生の目的は、すぐそばにいて愛されること待っている誰かを愛することだ』
『何だそれ?』
 反射的に声が出ていた。
『私が好きな小説の中の言葉』
『……そうか』
 美結が言おうとしていることは、わかった。
『美結さ……』
『なに?』
『その……今の彼氏とは、まだ付き合ってるのか?』
『もちろん』
『うまく行ってるのか?』
『もちろん』
 すぐそばにいて、愛されること待っている誰かを愛すること……
 美結の言葉を胸の奥で反芻した。
 だったら、どうして俺とは……
『春翔からは、愛して欲しい、ていう気持ちが感じられなかった』
 美結が言った。
 考えてることを見透かさていた。
 そういう気持ちがなかったわけじゃない。ただ、言葉や態度にできなかっただけで……
 今村は……ちゃんと、言葉と態度にしてた。
『じゃね。おやすみ』
 美結の声が、やけに遠かった。
『おやすみ。今日は、ありがと』
 それだけ答えた。

 翌週、月曜の朝。
 教室に入ると、今村はいつものように自分の席に座っていた。
 今村は何も言わなかった。いつもなら「おはよう、駒田君」と笑顔であいさつしてくる今村が、何も言わなかった。黙って前を、黒板の方を見ていた。
 俺も黙ったままバッグを下ろして席に座ろうとした。
 その時。
「あれ?」
 今村が声を上げた。
「駒田君、キーホルダーの恐竜は?」
 俺は机の上に置いたバッグを見た。
 バッグに付けていたキーホルダーの恐竜が、なかった。
 金属でできたキーホルダーの部分はそのままバッグに付いていた。その先に付いていた、緑色の恐竜。美結が作ってくれた、恐竜。トカゲのような、ワニのような、恐竜。
 それが、なかった。キーホルダーに結んでいた紐の部分がちぎれてしまったのだ。
「落としたみたいだ」
 今村に答えたわけではないが、声に出ていた。
「どこに?」
 今村が訊いてきた。
 思い返した。駅で改札を出る時、バッグから定期を取り出した。その時は、恐竜は確かにバッグに付いていた。だとすると、駅から学校に来る間に……
「わからん。たぶん、駅と学校の間」
 そう答えていた。
「探さないと……」
 今村が心配そうな声を出した。少し考えてから、答えた。
「いいよ……もう」
 そう。もう……いい。
「でも、だいじな物でしょ? 高野さんからもらった……」
「だから! いいって!!」
 俺は声を大きくした。今村は黙り込んだ。

 始業のチャイムが鳴った。担任が教室に入って来た。
「先生!」
 朝のあいさつもしないうちに今村が手を上げていた。
「どうした? 今村」
 担任が今村に顔を向けた。
「すみません。体調が悪いので帰ります」
 そう言って、今村は立ち上がった。
「そ……そうか。気を付けてな……」
 あっけに取られた担任がまぬけた声を出した。
 クラス全員が注目する中、今村はそそくさと教室を出て行った。

 授業が始まった。
 俺の隣に、今村は、いない。入学以来初めての状況だ。
 うっとうしさが、ない。せいせいした。とは……言い難かった。
 授業中、ちらちらと俺を見る視線が、ない。
 昼休み、俺が弁当を食べる様子をじっと見ている視線が、ない。
 休み時間、トイレに付いて来るやつもいない……
 なんて言うか、この、物足りなさ。空白感。
 気が付くと、俺の方が隣の席に視線を送っていた。でもそこには……誰もいない。今村は、いない。
 認めよう。正直に言おう。
 淋しい。隣りに今村がいないと、淋しい。
 でもなぜ……? どうして……?
 俺は一日中、自分でもつかみきれない、整理しきれない感情に囚われていた。

 授業が終わった。
 俺は一人で校門へ向かって歩いた。
 校門を出てところで、後ろから声を掛けられた。
「駒田君」
 今村だった。
「今村……」
 俺は声に出していた。
 さっきまで感じていた感情とはまったく違う、これもまた自分でもわからない、整理できない感情が胸の奥から湧き出てきた。
 懐かしい、のか……? 今朝からまだ数時間しかたってないのに……
 それとも……嬉しいのか? 今村に会えて……
「何してたんだよ!」
 俺は大きな声を出していた。
「……これ」
 今村が両手を差し出してきた。今村の手に乗っていたのは……緑色の、恐竜。
「やっと見つかったよ」
 今村が言った。笑顔で。
 俺はそれを今村の手のひらから掴み取った。
 間違いなかった。俺が落とした、美結からもらった恐竜だった。
「お前、これを探すために、一日中……」
 言いかけて、言葉に詰まった。鼻の奥がツンと痛くなった。今村の顔が滲んで見えた。
 俺、泣いてる?
 俺は今村に見られないらように後ろを向いた。
「あって、よかったね」
 背中の方から今村の声がした。
 少しの間、俺はその恐竜を見つめた。緑色の、トカゲのような、ワニのような、恐竜。
 俺はそのままその恐竜をバッグの中に仕舞いこんだ。
 俺の初恋は……ここで終わりだ。
 そう思った。

 俺は駅に向かって歩き始めた。今村は黙って俺に付いてきた。
 俺は右手を後ろに突き出した。
「今村! 手!!」
 大声で言った。
「え⁉」
 今村の声がした。
「手だよ! 手! 握りえんだろ!!」
 俺は立ち止まった。今村が、俺の隣に並んだ。
「……いいの?」
 そう言って、今村はそっと、俺の手を握ってきた。
「帰るぞ!!」
 俺たちはそのまま歩き始めた。

 初めて気付いた。今村の手は、とっても、温かかった。

(完)