メグルの手を取って、今度は俺が走り出す番だった。少しでも、長くメグルと。多くの時間を過ごす。思い出を増やして、思い出せる可能性を増やしたかった。

 *  *  *

 まだ夕方には早い時間なのに、空は夜の色に近づいてきている。歩き慣れた道をメグルの手を、引いて走った。息が上がるし、汗は吹き出ている。

 自宅が見えてきて、灯る灯りに少しだけ安堵した。今日は母さんも父さんも、まだ帰ってきていない時間のはずだ。帰ってきていても、胸を張って紹介しよう。俺の恋人です、って。覚えててくれる人は、一人でも多い方がいい。

「ただいま!」

 わざとらしく張り上げた声で玄関を開ければ、驚いた兄ちゃんのが部屋から顔を出した。そして、俺の後ろにいるメグルと目が合ってる。微かな記憶でもいい、もっと、思い出してくれ。そして、メグルを少しでも安心させてくれればいい。

「初めまして」

 メグルの不安そうな言葉に、被せるように兄ちゃんに紹介の言葉を投げつけた。

「俺の恋人!」
「メグルちゃん」

 兄ちゃんは、ぽつりとメグルの名前を呼んで、そして、小さな声で「ごめんね」と口にした。メグルはわぁっと泣き出して、玄関にへたり込んでしまった。

「メグル?」
「メグルちゃん?」

 俺と兄ちゃんの言葉が、重なる。部屋から顔だけ出していたのに、慌てて駆け寄って兄ちゃんはメグルの前で膝をついた。

「メグルちゃん、汚れちゃうからとりあえず、立って」

 手を差し出す兄ちゃんにちょっとだけ、嫉妬心が芽生えてしまう。だから、俺がメグルの手を優しく引いた。崩れ落ちそうなメグルの肩をしっかり抱きしめて、並ぶ。

「覚えてるんですか」
「微かに、ね。サトルのことが心配だって言ったら仲を取り持ってくれようとしなかった?」
「毎回、毎回、してました」

 ぐっと詰まる声で答えるメグルに、俺の声まで詰まってしまう。あぁ、俺の記憶に残っていないだけで、メグルはいつだって、俺と兄ちゃんの縁を結び直してくれていたんだ。

 兄ちゃんの目にも、うっすらと雫が見えた気がした。バレていると気づかれたらきっと、兄ちゃんは隠すだろう。だから、見えていないふりをして、メグルの震える肩だけ見つめていた。

「そっかぁ、いつも、ありがとうメグルちゃん」
「いえ、でも、今回は」

 ちらりと俺と兄ちゃんを見比べてから、メグルは首を横に振った。今回はとか、今までは、とか、どうでもいいよ。いつも、メグルが俺と兄ちゃんを繋げてくれていたのは事実だ。兄ちゃんも同じ考えだったようで、メグルの手を握りしめて「ありがとう」と力強く答えた。

 そして……

「そんなメグルちゃんに、プレゼント」

 スッと差し出されたのは、A4サイズの何か印刷された用紙。俺も覗き込めば、小樽の駅中にあるホテルの予約履歴だった。

「二人きりの時間を過ごしなよ」

 日付は、ちょうど、メグルが消える前日だった。最後の時間を二人きりで過ごせる。メグルが嫌じゃなければだけど。

「受け取れません」
「どうして」
「だって、私は消えちゃうだけで。そんな私にお金も時間も使わせたくないです」

 メグルはフルフルと力なく、首を横に振る。俺は、メグルと二人の時間を過ごしたい。兄ちゃんに全部甘えるのは、嫌だけど。

「この日しかないんだ、父さんも母さんも出かける都合のいい日。だから、メグルちゃん、そんな理由なら、お願いだからサトルに思い出を残してあげてほしい」

 兄ちゃんの言葉に、メグルはすうっと息を吸い込む。困ったように俺の顔を見るから、紙を奪い取った。

「最後のお願い。一緒に行ってくれませんか」
「サトルまで」
「違う理由でメグルが嫌なら諦める。宿泊代は、バイトでもして俺が兄ちゃんに返す」
「返さなくていいって」

 兄ちゃんはそういうと思った。それでも、どんな理由でも、条件でも、付けてでも、メグルには頷いてほしい。
 
「メグルが甘えたくないっていうなら、それくらいする。だから、お願いです。一緒に行ってくれませんか」
「わかった……」

 メグルがやっと首を、縦に振ってくれる。どっと力が抜けて、身体が軽くなった。よかった。これでも、断られたらどうしようかすごく考え込んでしまっていたから。

「よし、じゃあ楽しんで」

 兄ちゃんも安心したように、満面の笑みになっていく。メグルは何度も、何度も「ありがとうございます」と呟いた。

「兄ちゃん、ありがと。父さんと母さん帰ってくるまで、ちょっとメグルと部屋にいるよ」
「今日は遅いみたいだけど、ほどほどにな。母さんは余計なこと言いそうだし」
「兄ちゃんもそう思うんだ」

 ふっと笑って答えれば、兄ちゃんは「当たり前だろ」と肯定した。メグルはよくわからなそうな顔をしていたけど、別に知らなくていい。メグルの手を引いて、自室に向かう。俺の部屋に入ればメグルは「変わってないね」と口にした。

「いつもこんな感じ?」
「そんな感じ」

 口を緩めて笑うから、クッションを手渡す。ラグが引いてある上に、ためらいなくメグルは座って、クッションを抱きしめた。その仕草すら、可愛くて、胸がきゅうっと締め付けられる。

 深呼吸してから、机の引き出しに閉まってあったスケッチブックを取り出す。さすがに本人に見せるのは、緊張する。

「これ、見てくれないか」
「なーに?」

 メグルは丸い目で、俺を見上げた。自分の部屋なのに、自分の部屋じゃないみたいな違和感。メグルがここにいて、微かに甘い香りがして。目の前がぐるぐると回りそうだった。

 俺のスケッチブックを開いて、メグルはじいっと見つめる。そして、黙ったまま、ペラペラと捲り始めた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。一生のように感じた気もする。メグルは最後まで見終わり、パタンと閉じてから俺を見上げた。

「すごいね」
「すごい?」
「こんなにたくさん描いてると思わなかった。それに、サトルの絵を見るの初めてだから……すごくうまくてびっくりした!」
「初めてなの?」

 俺がまた絵を描き始める理由はきっと、メグルだったと思う。それでも、恥が優って今までの俺はメグルに見せてなかったんだろうか。

「うん、見せてくれなかったから」
「そっか。これに、文字を書いてくれる……?」
「このスケッチブック、借りてもいい?」

 一瞬、悩む。それでも、貸すよりもメグルにあげるほうがいい気がした。だから……