兄ちゃんの部屋には、明かりがついてる。車はないから、両親はまだ帰ってきていない。当たり前か、昼飯も食べずに解散してしまったんだから。家の扉をあげて「ただいまー」と口にすれば、リビングから兄ちゃんは顔を覗かせる。微かに鼻に残る、ソースの匂い。

「おう、早かったな」

 時計はまだ、十四時を指し示していた。兄ちゃんはどうやら、昼食の時間だったらしい。焦げたようなソースの匂いに、口元の青のり。また、お好み焼きをしてるのか、と思って近づけば、リビングには焼きそばが皿に乗って置かれていた。

「ごはんは?」
「まだ」
「一緒に食べて来なかったのかよ」
「メグルが、なんか急いで帰ったから」

 理由もわからず、今日は帰るって、手を振って振り返りもせずに走ってたよ。少しだけの俺の自尊心は、ボコボコになってしまっている。ちょっとは、仲良くなったと思っていた。それでも、メグルは手を振って走り去っていた。

 癖なのかも、しれないけど。

「じゃあ、焼きそば食うか?」
「あんの?」
「あるある、すぐ作るよ」
「じゃあ、食べる」

 ぐぅうっと音を鳴らす、お腹を撫でる。正直、お腹は空いていた。メグルのこととか、考えることはいっぱいあるのに、お腹は勝手に空いてしまう。

「お腹が空くのは良いことだぞ」
「なんだよそれ」
「生きてるって、実感するだろ」

 確かに。素直に頷くのは癪に触るから、「ふーん」と興味なさそうに相槌だけを打っておいた。あれだけ憧れてて、ならなきゃいけない遠い存在だと思い込もうとしていたのに。今では普通のやりとりができる、兄弟になってる。

 その事実に、口元がだらしなく緩んだ。兄ちゃんには、まだ、言いたくないけど。

「夏休みもあと少しだろ。宿題とか終わったのか?」

 ジュウウっという音を立てながら、兄ちゃんはフライパンを振るう。宿題は、とっくに終わらせていた。だって、それ以外の勉強がたくさんあったから。

「終わってるよ」
「さすが、俺の弟は出来が違う」
「兄ちゃんだって、ちゃんとやってただろ」

 そんな兄ちゃんの姿を俺は、母に教え込まれていたんだから。呟いた言葉に、兄ちゃんは目を丸める。そして、不思議そうに首を傾げた。

「宿題の計画性なんてねーよ、いつだって、最後の一週間に詰め込み」
「えっ?」
「ヒィヒィ言ってたよ。知らなかった?」

 兄ちゃんの言葉に、記憶を辿る。それでも、兄ちゃんのそんな姿は見たことがない気がした。いつだって、飄々としてて、何事も余裕そうな顔をしてやり過ごしている。それが、兄ちゃんだと俺は、思っていた。

「本当に?」
「んな嘘ついて何になんだよ。ほい、出来上がり。目玉焼き乗せる?」
「乗せる……」

 母に教え込まれていた理想の兄は、誰だったんだろう。言われてみれば、俺は兄ちゃんの勉強の姿を見たことはなかった。それでも、必死にやってると思っていたし、計画性もあると思い込んでいた。だって、母さんがそう言っていたから。

「お兄ちゃんは計画的に終わらせてるんだから」「サトルも甘えずに、きちんと毎日やりなさい」「お兄ちゃんだったら、もう終わってるよ」

 脳内によぎる母の言葉に、うっと喉の奥から何かが迫り上がってきた。母さんなりの、俺はの激励だったのかもしれない。それでも、事実とは異なる兄になるように、思って生きてきた俺を思い出して、また、息が詰まりそうになった。

 メグルと出会ってなかったら、今でも、きっとそのままだったけど。

「兄ちゃん、いつもありがと」

 素直に口に出せば、驚いたように笑って俺の頭を撫でる。温かい手に、心が少しだけ落ち着いた。でも、兄ちゃんの焼きそばは、麺はボソボソだし、マヨネーズはかかり過ぎだし、お世辞にもおいしいとは言えない味で。

 完璧だと思っていた兄の、完璧じゃない姿に、つい、口が緩む。麦茶で飲み干せば、兄は目の前のイスに座って、それなりに美味しそうに焼きそばを食べ進めていた。

「メグルちゃん、不思議な子だよな」
「本当にな」
「可愛いけど、不思議ちゃんみたいな」
「超能力があるんだよ」

 至って真剣に、メグルの心が読める話と、未来が見える話をすれば、兄は喉に詰まらせてしまったらしい。ごほごほっと咳き込みながら、麦茶を探している。

 差し出せば、一息にコップ一杯の麦茶を飲み込んだ。

「超能力少女かぁ……非科学的だな」
「なぁ、兄ちゃんは、科学で証明できないことって、あると思う?」
「メグルちゃんの超能力を信じてないって話か?」

 違う。メグルが、青少年科学館で呟いた「科学で証明できない現象に巻き込まれてる」という言葉が、頭を占め尽くしてる。巻き込まれているからには、自分の意思ではないのだろう。

「超能力もでも、科学で証明できないかぁ」

 あまりにも当たり前のように受け入れていたけど、言われてみればそうだ。メグルの超能力だって、科学では証明できないだろう。

「心が読めるはある程度、できそうだけどな」
「へ?」
「本当に全部を読めるわけじゃないだろうけど。心拍数とか、顔色とか、だいたい誰にでも当てはまりそうなこととか、そういうので、考えてることを当てるのはできるんじゃないのか?」

 確かに。それでも、メグルが言い当てる言葉は、あまりにも具体的すぎた。もうメグルには会わないようにしようとか、ジンジャエールの苦味なら大丈夫なのに、とか。俺の顔に書いてあったんだろうか。そこまで、表情に出てはいないと、自負している。

「わかんないや」
「まぁでも、メグルちゃんなら本当にそういう能力があっても不思議じゃないかな」

 兄は一人で納得したように、焼きそばを平らげる。白いお皿には、茶色のソースのシミがこびりついていた。俺も、目の前のマヨネーズ大盛りの焼きそばを口に運んで、麦茶で流し込むを繰り返す。次は俺が兄にご飯を作ってあげよう。そんなことを考えながら。

「じゃ、俺洗い物してくるから。皿」

 ソースのシミが点々と残る白い皿を見つめてから、手渡すのをやめる。作ってもらったから、俺が洗おう。