「本当に、次からは私のことなんか気にしないで。お願いだから」
「なんだよ、それ」
「私は大丈夫なの。こう見えても強いから!」
力こぶを作って、メグルは笑うけど。いつもの満面の笑みではなくて、強がってるみたいな、何かを我慢してるような笑顔だった。
それでも、深く踏み込めるほどの関係性はない。だから、「そう」と冷たく言葉にする。自分で吐き出した言葉なのに、あまりの感情のこもってなさに、自分で寒さに凍えてしまった。
「あ、ちょうどバス来てるよ! 行こう!」
メグルはいつものように、バタバタと走り出してバスに向かう。元気を取り戻したというより、何かを焦ってるような姿に、胸の奥がモヤモヤと焼けついた。太陽と胸の奥の暑さのせいで、額から汗が吹き出している。
バスに乗り込めば、冷房が効いていて、汗が引いていく。
「ちょうどよかったねぇ」
「そうだな。メグルは、何か食べたいものでもある?」
「今日は、帰ろうかな」
シィンと二人の間に、静寂が流れていく。いつもだったら、あれが食べたいこれが食べたいって言うだろうに。やっぱり今日は何か変だ。今日は調子が良くないのかもしれないし、何か用事があるのかもしれない。また次会う時に、元気になってたらいい。
夜中に通話してれば、ぽろっとこぼしてくれるかもしれないし。そんな淡い期待を抱いて「わかった」と、頷いてしまった。
バスと地下鉄を乗り継いで、札幌駅にたどり着く。高校生のグループだろうか。ガヤガヤと駅内を騒ぎ立てる集団を横目に見ながら、通り過ぎた。メグルは、バス以来静かだ。
それでも、相変わらず、急いでるように走っていく。俺の右手を引いて。
「じゃあ、私違う電車だから、ここでバイバイだね」
離れがたくて、もう少しだけそばにいたい。そう思うのに、素直になれない。あ、展望室のアイスキャラメルマキアート。約束だったら、メグルは頷いてくれるかもしれない。
脳裏によぎって、声を出そうとした瞬間には、メグルは小さく手を振って、離れていく。気づいた時には、もう、背中は小さくなっていた。何をそんなに生き急いでるんだよ。
文句を言いたくなった気持ちを、押さえきれずに、ため息を吐き出した。モヤモヤを消化するには、何がいいだろうか。考えながら、改札を通り抜ける。
電光掲示板を見上げれば俺の乗る電車はちょうど出たばかりで、まだ十五分ほど時間があった。ホームまでエスカレーターを上がれば、むわっと蒸された空気がこもっている。
札幌駅は行き交う人が多く、楽しそうに笑い合う友だち同士。仕事てどこかへ向かうような社会人。手を繋いで歩く親子も居た。
みな、それぞれの場所に向かっていく姿を見て、メグルの後ろ姿を思い出す。毎回、走ってる人なんていないよ。メグルは何をそんなに急いでるんだよ。
ずっと出会った時からの違和感を、ホームのイスに座って下書きに打ち込む。あの日から始めた下書きは今では、数十件に膨れ上がっていた。
メグルとのデートの日々。兄ちゃんも仲直りした日。絵に心がワクワクするって気づいたこと。全部、メグルのおかげだ。メグルに、俺は何を返せてるんだろう。メグルは、俺に何を求めてるんだろう。
どうして、俺だったんだろう。本当に、たまたま、あの時、俺が背中を支えたから誘ってくれたんだったとしたら。運が良かった。メグルに出会わなければ、こんなに好きになれる人、知らなかった。
そこまで書き込んで、顔が熱くなる。消そうか迷ったけど、下書きだから残そう。いつか思い出して、小っ恥ずかしくなって消す日が来るとしても。
スマホと向き合ってるうちに、電車はホームに滑り込んでくる。多くの乗客を吐き出すのを見送ってから、飲み込まれるように電車の中に入り込む。
夏休みの終わりは、もうそこまで来ていた。こんなに充実した夏休みは、一生で今回しかないかもしれない。去年までの俺には想像も付かなかったような、夏休みだったな。ぼんやりと思い浮かべてから、夏期講習の日にノートを忘れてきたことを思い出す。
絵が好きだったことを忘れても、落書きばっかりしていたノートだ。
そもそも、学生の本分は勉強といえど、夏期講習長すぎだよな。夏休みの半分以上を結局、学校で過ごしてるんだもん。それを選んだのは、俺だったけど。
兄ちゃんはもう、帰ってきてるだろうか?
また俺が絵を描いたら、兄ちゃんは多分褒めてくれる。とりあえず今日のメグルと猫を、一枚描いてみようか。そしたら、俺の絵に対する気持ちも、はっきりするかもしれない。
そんな決意を胸に、電車は家へと俺を運んで行った。多くの押し寄せるような乗客を、乗せて。