「あっ、さっ……ごめんなさい」
「いえ、あの、こちらこそ」
勝手に触れてしまったことへの謝罪を口にすれば、彼女の顔がくっきりと視界に焼きつく。まんまるの瞳に、猫みたいな口。先ほどの猫が、人になったのかと思ってしまうような見た目をしていた。
茶色っぽいみたらし団子のような髪の毛の色も、相まって。
支えていた俺の腕からそっと離れていく、彼女に、少しだけ、引き止めたくなってしまう。だから、どうでもいい言葉を紡ぐ。
「猫がホームにいるって珍しいですよね」
「私は何回も見てるよー、電車が好きな猫なのかも、あの子」
助けられたことに気づきもせず、トタトタと走り去る猫を指さす。俺は指の先の猫よりも、ふふっと微笑んだ唇に目を奪われていた。
「あ、私は上月メグル。気軽にメグちゃんって呼んでいいよ」
急な自己紹介に、俺も明るく、印象よく返さなくちゃと思う。兄だったらきっとそうする。爽やかな笑顔で、自分の名前を名乗って、手を差し出して握手でもするだろう。
すんなり想像はできるのに、身体はギクシャクとロボットのように動く。兄のように生きようと決めてから、何年も経ってるのに、自分の意思じゃない動きはやっぱりうまくいかない。
「おにーさんの名前は?」
「あ、あぁ、原田サトル。覚えるって書いて、サトル」
「いい名前だねぇ、私は季節が巡る、のメグル」
握手をするために差し出そうとした手は、まだ、身体にピッタリとくっついていた。なのに、彼女は軽々と俺の手を取って、上下にブンブン振る。
「仲良くしようね」
当たり前のようにつぶやかれた言葉に、胸が熱くなる。そして、俺の手をぱっと離した彼女は、斜め上の電光掲示板に目を動かした。
「電車、見送っちゃったねぇ。あと十五分後……君が、サトルが良ければ、カフェでも行かない?」
「へ?」
「あ、嫌だった?」
思いもよらない提案に、声が上擦る。兄だったらスマートに、いいカフェでも紹介するんだろうか。
「それともカラオケ? ゲーセン? あとは、お好み焼きとか! 雑貨見るでもいいよ!」
「どこでもいいけど、帰らなくていいの?」
「せっかく、夏休みだから! 楽しもうよ」
この夏休みは宿題しかやることのない俺の予定を見通してるみたいな口ぶりで、つい、ふっと笑ってしまう。メグルと一緒に居たらきっと、楽しい夏になる。だって、メグルの周りだけキラキラと星が瞬くように輝いて見えていたから。
「カフェ、行ってみたい、かも?」
「本当? よし、じゃあ、出よう!」
右手を握られて、メグルは走り出す。引っ張られながらも追いかければ、メグルは躊躇なく階段を下っていく。
転ばないように慎重に階段を降りていれば、真っ白な歯の看板と目があった。良い笑顔だな。今更だけど。
改札階に降りれば、改札を通り抜ける高校生たちとすれ違う。中には同じ学校の生徒も居た。まぁ、クラスメイトすらあやふやな記憶だから、何年生か、知り合いか、もわからないけど。
改札を抜けて、駅の外に出る。外と繋がってる通路は、生ぬるい風を吹きつけた。頬をぬめりと撫でる風に気持ちの悪さを感じながら、急いでるメグルの後ろをついて行く。
手は変わらず、繋がれたままだった。
「そんな急ぐ必要ある?」
「だって、サトルの時間は有限でしょ」
メグルは走ったまま一瞬こちらを振り向いて、にししっと歯を見せる。真っ白な歯に、先ほどの看板よりも白いかもなんてどうでも良い感想が浮かんだ。
「それを言ったらメグルの時間も同じく有限だろ」
時間の価値が人によって違うのだとしたら、俺の時間は一番無価値だ。でも、限りは、等しくある。それでも、メグルは俺の言葉に、すうっと深く息だけを吸って答えなかった。複合施設の中に入ったと思えば、メグルのスピードが落ちる。
「さすがに、ここを走ったらぶつかっちゃうから」
小さく頷いて、メグルの後ろを歩く。まだ、夕方にも満たない時間だと言うのに、親子やスーツ姿を見つけた。この時間にも、色々な人がいるんだな。
寄り道というものを、中学生から一度もしたことがなかった。学校が終わればまっすぐ家に帰り、授業の予習復習をする。そして、兄に丸つけをしてもらうのが、俺の定番だった。
だから、今日は兄は「遅いな」と思ってるかもしれない。連絡を入れれば良いだけ……でも、遅くなると連絡をすれば、余計な詮索が始まりそうだから、ちょっとためらってしまう。