「美術館、楽しかった?」

 メグルが不意に振り返るから、風が吹き抜けたような感覚に陥る。目があって、つい口元が緩む。楽しかった。すげー楽しかった。どんな描き方をしてるんだろう。何のテーマで描いてるんだろう。考えるたびに、胸がワクワクとした。

「やっぱり、サトルはさ、絵が好きなんじゃない?」
「そうかも、しれないな」
「ちなみに、隣に大学あるんだよ、知ってた?」

 水が流れる音を聞きながら、メグルは木々の先を見つめる。それは、知らなかった。

「何の大学?」
「デザイン」

 へぇ……。
 デザイン、か。正直芸術とデザインの違いはイマイチわからないけど、気にはなる。また、メグルは俺の心を読んだのか、まっすぐ指さす。

「ちょっとだけ、見てみようよ」
「いいね」

 二人で、木々の間をすり抜ければ、近代的な建物が出てきた。建物の前には、学芸祭の看板が立っている。どうやらここが、大学らしい。

 近づいていけば、九月の第ニ週だ。あと少しくらいか。メグルを誘おうと思えば、看板の裏からみたらし色した猫がトテトテと歩いてくる姿が目に入った。

「あっ、君こんなところで遊んでるの」

 メグルは看板の近くに、すっと近寄ってしゃがみ込む。静かに手を差し伸べたかと思えば、わしゃわしゃと豪快に撫で始めた。猫も嫌がるそぶりはなく、メグルの手に身を任せている。

「サトルも、撫でる?」
「俺はいいよ」
「えー」

 猫は好きだけど、ひっかかれた記憶があるから得意じゃない。いつのこと、だったけ? 遠い記憶のような、最近のような。それにしては、曖昧な記憶が。手が痺れるような、痛みだけが微かに思い浮かんだ。

 そんなことよりも、俺の中では学芸祭の方だ。メグルを誘ったら、夏休みが終わっても、付き合ってくれるだろうか。本当の恋人だったら、そんなこと気にしなくていいのかもしれない。

 本当に付き合おう。そう言ったら、メグルはどんな表情をするんだろうか? 困った顔? 喜んでくれる?

 ぐるぐると頭で考えても答えは、出ない。メグルの心が読めればいいのに、と心の底から思った。きっとそんなことすら、今日家に帰ったら俺は下書きに書き記す。そして、いつか思い出して、恥ずかしくなるんだ。

「気持ちいいですか、そうですねぇ」

 猫に話しかけるメグルに、くすくす笑えば、じろっとこちらを見る。

「なあーに!」
「なんでも」

 刹那、強い風が吹いて、看板が煽られる。ゴォオオオという音は看板を押して、メグルに襲い掛からせた。

 心臓がバクバクと音を立てて、肩にはしっかりとした重みを感じる。メグルは俺の下で、目をぱちぱちとさせているし、猫は驚いたのか「ふぎゃあ」っと大きな鳴き声をあげて逃げていった。

「あぶね」
「だ、大丈夫?」

 ぐんっと押し返せば、看板は反対方向に倒れていく。このこと大学に伝えなきゃとか、猫逃げちゃったなとか、いろいろ言いたいことはあったのに。喉の奥が、張り付いたみたいな。口が動かない。

 メグルは、ポロポロ泣き出してるし。そりゃ、怖いよな。こんな大きなもの倒れ込んできたら。

「私は、大丈夫なのに」
「俺も大丈夫だよ、これくらい」
「違う、私は本当に大丈夫なんだよ、私のためにケガしないで」

 心配させてしまったと都合よく解釈するには、メグルの表情はあまりにも痛々しい。どうして。なんで。
 そんなに泣き出しそうな、顔をしてるんだよ。
 口を開こうとした瞬間、大学生らしき男の人に声を掛けられた。

「すみません! まだ仮止めで!」
「倒れてきたんで……あっちに倒しちゃいました、すいません」

 ぺこっと謝れば、ケガの心配をされた。どこにも何もケガはしてないから、「大丈夫です」とだけ答えて、メグルの手を引く。そして、逃げるように大学前の道を歩いた。

「大丈夫か? って俺が聞くのも変だけど」
「うん、ありがとう。私は、大丈夫」

 さっきの、あの表情はどういう意味?
 考えてるんだから、心を読んで答えてくれればいいのに。そういうところは、メグルは答える気がないらしい。