土曜日、八代は日向野と渋谷のスクランブル交差点近くにある交番横で待ち合わせをしていた。まだ午前中だというのにすでに人混みができている。
スマホの時間を確認すると、九時五十五分と約束の五分前になっていた。
ポチャチャカフェは十一時オープンだが、日向野はすでに二人分の入場券を取っているらしい。だから当日まで何もしなくていいと言われたので、とりあえず時間通りに待ち合わせ場所に来ただけだった。
「八代くん」
かき消されるほどの小さな声が背後で聞こえて振り返ると、無地の黒パーカーにデニム姿の日向野が立っていた。
相変わらず目元は隠れていて見えないため、服装の暗さと相まってとんでもなく陰気に見える。
「なんかなぁ」
「なに?」
「いや、別に」
人が自分の意思でやっていることに対してとやかくいうのも気が引けたので、それ以上の発言は避けた。
これからあのメルヘンな空間に行くというのに険悪な雰囲気になるのも嫌だし。
十分ほど歩きポチャチャカフェに着くとすでに入場の待機列ができていた。カップルを除いたら百パーセントの女子率に苦笑いする。
「これスッテカー貰えそう?」
「今日から配布だから大丈夫」
「第一弾の特典は貰えたの?」
「もちろん」
日向野は自分のリュックから大切そうにビニールのポーチに入れられたポチャチャのアクリルスタンドを見せてきた。
「へぇー。可愛いね」
見た目からは想像できないポチャチャ愛に八代は思わずたじろぐ。
日向野は「でしょ」と満足気に言うとアクリルスタンドをリュックに戻した。
わずかに日向野の口元が引き上がっている。
これは笑っているのだろうか。そのうざったい前髪が邪魔をして表情がうまく読み取れない。
自分がポチャチャを可愛いと言ったことに嬉しくなったのだろうか。共感してもらったことが嬉しかったのだろうか。
会ってから一度だって笑うことなど無くて、何に感情が揺さぶられるのか分からなかったけれど、今少しだけヒントを得た気がする。

「もう入れるね」
日向野の言葉に我に帰る。
列はあったもののオープン時間になるとカフェへはすぐに入ることができた。
特典のステッカーも無事に貰うことができた八代と日向野は、店の奥にある横並びのカウンター席のような場所に通された。
男二人で横並びはいかがなものかと思ったが、隅に座れたことで目立つこともなかったので、これはこれで良かったかと納得した。
「八代くんなにか食べたい物ある?」
日向野がメニューを開いて八代に見せる。
「んーこの間オムライスは食べたからそれ以外かな」
「じゃあこのパンケーキとハンバーガーセット食べない?」
日向野が指差す写真を見ると、それはポチャチャのがパンケーキに書かれているだけのなんの変哲もない物だった。
「別にいいけど」
どうせ姉の奢りだし。
メニューは日向野に任せ、パンケーキとハンバーガーセットをあのとんでもなく高いドリンク二つを頼んだ。
日向野の目当てはパンケーキに付いてくるポチャチャのイラストが描かれたランチョンマットと、ハンバーガーセットに刺さっていたプラスチック製のポチャチャの顔型の旗だった。
「あ、でもお姉さん欲しいよね」
「大丈夫でしょ。前回友達と行った時にフード結構頼んだらしいし」
姉の金だが問題ない。特典のステッカーを貰うという役割はきちんと果たしたのだから、ぐちぐち言われたら適当に誤魔化そう。
「じゃあ貰おうかな」
「どうぞどうぞ」
「ありがとう」
日向野が顔を上げて八代を見た。
そういえ学校でもここに来るまでも、日向野を隣で見ていることが多かったが、こんな近い距離で顔を見るのは初めてかもしれない。
「前髪って邪魔じゃないの?」
ポチャチャグッズとフードをテーブルに並べて写真を撮る日向野の何気なく聞いてみた。
「あると安心する」
「目悪くなるよ」
「お母さんみたいなこと言わないでよ」
「ポチャチャもよく見えないんじゃない?」
「全然見えるし」
「でもさー」
それは自分でも意識してないほど思わずだった。八代はふと日向野の前髪を手でかき上げていた。
驚いた日向野が八代を見る。
ついさっきまで、人が自分の意思でやっていることに対してとやかくいうのは気が引けていたはずなのに。
日向野は手を振り払うことも顔を背けることもなく、驚いたままに八代を見つめている。
日向野の顔は八代が思っていた十倍は綺麗な顔立ちをしていた。
それこそきちんと身なりを整えれば、どこかのアイドルグループの一員になれそうなほどには原石だと思う。
「ごめん、勝手に」
パッと手を離すと、再び日向野の目元は長い前髪で覆われた。
気まずさを払拭するために八百円のコーラを飲んで誤魔化す。
日向野はすぐさま手で前髪を直しながら「別に」と呟いた。
「えっと……日向野はいつからポチャチャ好きなの?」
あからさますぎるだろ、と自分でも突っ込みたくなるほど動揺していた。
「……保育園の頃から」
けれど日向野は特に突っ込むこともなく質問にしっかりと答えてくれた。
「保育園って、え? ポチャチャって最近でしょ?」
「八代くん知らないの? ポチャチャって二十年前のキャラクターなんだよ」
「俺たちより年上じゃん」
「最近イラストレーター変わってイラストが現代風のタッチになったから再ブームになったらしいよ。ほら、これが昔のポチャチャ」
日向野はリュックからポチャチャのポーチを取り出して見せる。
確かにイラストのタッチが違う気がする。今はシュッとしてメリハリのある二頭身だが、十年前は全体的にボテっとしたフォルムだ。それも可愛らしといえばそうだが、どこか古さは感じる。
そういえば幼稚園の頃ポチャチャのハンカチやコップなんかを持ってきていた女の子がいたなとうっすらと思い出した。
「すごいな。十年以上も好きでい続けるって」
「そうかな。別に十年好きで居続ける努力をしてるわけじゃないから」
「日向野は一途なんだな」
「ポチャチャにはね」
日向野の口角が上がる。
学校では一度も笑っている姿を見たことないのに、案外ちゃんと笑うんだなと思った。
それはきっとポチャチャのおかげだし、逆に言うとポチャチャでしか笑ってくれないのだろうか。
「また一緒にお昼食べようよ」
「やだ」
たった今の笑みが嘘かのように引いて即答された。
「またポチャチャの話し聞かせてよ。あ、ちゃんと自分のお弁当持ってくから大丈夫」
「でもやだ」
「なんで?」
「八代くん友達いっぱいいるじゃん」
「まぁいるけど……」
それとなにが関係あるのかと続けようとしたが、日向野の顔が曇ってしまいむすっとしながらハンバーガーをちびちびと食べ始めたのでやめた。
だめだ。初心に戻ろう。自分は人の嫌がることは極力しないし、距離を取られたらそれ以上近づかない。
ボーダーラインは守ってそれ以上は踏み込まない。そうしなければ。
「ごめん。忘れて」
「……」
「今日は付き合ってくれただけでも嬉しかったよ。ありがとう」
当たり障りのない言葉を吐いて日向野の様子を伺う。
日向野はなにか言いたそうにしていたけれど、しばらくするとコクリと小さく頷いてハンバーガーを最後まで食べ終えた。
初めて人に心を閉ざされた気がする。
二人で過ごしてもなお心の壁は厚いまま。誰かと仲良くなるのってこんなに難しかったっけ。
少し悲しくもなったが、八代はそれでも日向野を尊敬していた。
きっと日向野は凄く人間味あふれる人なのだ。簡単に人に流されないで自分を持っている。嫌なことは嫌と言えて、簡単には頷かない。自分とは完全に真逆だし、そりゃ受け入れられないはずだ。
「もう出る?」
ハンバーガーを食べ終えた日向野に聞く。
「その前にあそこで写真撮って欲しくて……」
そう言って日向野が店内に設置されたフォトスポットを指差した。
「うん、いいよ」
二人で移動して、ポチャチャのパネルの横にいそいそと並ぶ日向野にカメラを向けた。
「顔全然見えないよ」
「いいよ、見えなくて」
「せっかくの写真なのにポチャチャに失礼だろ」
そう言ってやると、日向野は渋々前髪を分けて顔を出した。
改めて見ても綺麗な顔してるなと思う。
「撮るよ。はい、ポーズ」
八代の掛け声に日向野が笑う。その笑顔は無邪気で屈託なくて、自分に向けられたわけではないのに妙に心拍数が上がった。
そんなに笑えるのってポチャチャ以外にないのだろうか。
その笑顔を見せられる人は? その無邪気さをさらけ出せる人は?
「ありがとう、八代くん。撮るの上手」
「いつも一人の時どうやって撮ってるの?」
「自分は映らないでパネルだけ撮る」
「ふーん」
「今日のこと絶対誰にも言わないでね」
それは日向野がポチャチャファンであるということをバラさないようにという忠告だろう。
「好きなら堂々としてればいいのに。別に恥ずかしいことじゃないんだから」
踏み込まないってさっき自分の中で決めたはずなのに。
何故だか日向野を見ているとお節介な、踏み込んだ発言が意に反して出てきてしまうことに自分でも驚いた。
「日向野が好きなものを否定する権利は誰にもないんだし。人の好きなもにゴタゴタ言う人間なんてほっとけばいいんだよ」
ただの憶測で話した。今まで嫌なことがあったんだろうなと、友達から揶揄われたりしたんだろうなと。
気づくと日向野はなんとも言えない顔で八代を見ていた。返答に困っている顔だった。
「まぁだから、公にするかしないかは日向野の自由だからもちろん口外しないけど、俺は別に気にならないよってこと」
そう会話を切って八代はレジへと向かう。
日向野から拒絶の言葉を吐かれるかもしれないと思った。
ほっといてくれと、お前には関係ないだろと。けれど日向野は八代に言及することなく着いてきて、「じゃあまた学校で」と駅で何事もなかったかのように解散した。
帰りの電車の中、一人熱くなってしまった自分を思い出す。
もうたいして関わらないだろうに、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。
でも日向野に向けた言葉はカッコつけて言ったことでもないし、嘘でもない。本心から思って出た言葉だった。
それでもあんなに熱くなってしまった自分が恥ずかしくて、八代は電車の隅っこでただ項垂れるのだった。