月曜日の朝、八代は頭を悩ませながら自宅を出て何も解決せずに昇降口に着いた。
日向野にどう声を掛けようかと柄にも無く考えていたのだ。自分は初対面の人にも適当に話題を振って話すことができるタイプの人間だ。なにを聞こうかとか、なにを話そうかとかあまり深く考えることなくその場のノリで行けてしまう。大抵の人はそれで打ち解けてくれるが、きっと日向野はそう簡単にはいかないだろうと想定していた。そもそも自分みたいなタイプは苦手なのだろうと始業式の日に感じ取ったのだから、声など掛けない方がいいのではないか。非常に悩ましいところだった。
「ちょっと」
聞こえた声に咄嗟に振り向くと、八代の後ろに日向野が俯きがちに立っていた。
「え、あっおはよう」
反射的に挨拶して八代が退く。日向野は気まずそうに自分の靴箱を開けて上履きに履き替えると、小さく八代に会釈してそそくさと去って行ってしまった。その姿はまるで門限を破って帰ってきた娘が親に見つかった時のようなやましさを醸し出していた。
どうせ向かう先は同じなのだからと、八代は日向野に追いつき隣に並んで歩く。
「日向野ってさ、ポチャチャとアキラどっちのファンなの?」
さりげなく質問してみると、日向野が突然立ち止まって八代の肩を掴んだ。
想定していなかった反応に思わず身構える。ヤンキーが喧嘩相手に凄む様をこんな形で自分が体験するとは思わなかった。
日向野は前髪越しでもわかるほど鋭い目つきで八代を見ている。ポチャチャのカフェで見えたあの澄んだ目の男と一緒なのだろうかと疑問に思うほどに。
「ポチャチャ一択だから」
小さくはっきりと発せられた声に八代はコクコクと首を縦に振る。
野暮なことを聞くなと、くだらないことを聞いてくれるなと言っているのが伝わった。
「なんか……ごめんね」
日向野の中にある地雷を無意識に踏んでしまったことにとりあえず謝る。
「もう俺に絡まないでよ」
ヤンキーのような凄みが嘘のように、日向野はさっと目を伏せて八代から離れた。
怒り慣れてない子供が感情に任せてつい怒っちゃった、というような具合の日向野は取り乱したことに自分で動揺しながら足早に歩いて行ってしまった。
あの質問のなにが地雷だったのか。あの質問のどこにそんなに怒る要素があったのか。
“もう俺に絡まないでよ”と言った日向野の顔が頭に浮かぶ。
押すなと言われたら押したくなる。触ると言われたら触りたくなる。そりゃ絡むなと言われたら絡みたくもなるのが、人間の性分だろう。
その後もさりげなく声を掛けようと何度か試みた。けれど日向野はそれを察してするりと居なくなってしまったり、顔を見ようものなら徹底的に視線をどこかへ逃がしてしまう。これは誰がどう見ても意図的に避けられているこは明白で、席が近い花岡には不審な目で見られることも多々あった。でも関係ない。せっかく新しい交友関係が築けそうだというのに。
だがそれから三日間は頑張ってみたが、巧妙に避けられ続けた八代の心は早々に折れた。
自分が日向野の立場だったらうざいだろうな。よし、もう辞めよう。
八代は自分自身に完敗を言い渡し、それから学校ではいつも通り安達や花岡たちと過ごす日々に戻った。
完敗を受け入れたその日の夜、八代はベッドに寝転がりながらスマホをいじっていた。
『陰キャに声を掛ける方法』『陰キャが嫌う人』なんて言葉をネットで検索してみたが、当然まともな解決方法が書いてある記事などヒットするはずもない。
検索を辞めて就寝の体勢に入ろうとしたところ、突然ノックもせずに姉が入って来た。
「純人、あんた週末暇してるよね?」
姉の第一声に八代は項垂れる。
「あのさ、姉ちゃん社会人なのに入室時のマナー知らないの?」
六歳も年上のくせに。とは言わなかった。
姉は「失礼しました」とドアをコンコンと二回ノックする。
「で、どうなの?」
いましがた失礼しましたと反省した人間が言うセリフではないだろ。だがこれも心に留めておく。
「別に予定は何もないけど」
「本当に何もないの? 高校で友達できなかった?」
答えたら答えたで以外そうな顔して言われたもんだから、さすがに腹が立つ。だがここで言い返したら、強かな姉には口では勝てないためにぐっと怒りを飲み込んだ。
「むしろ一年生の時に友達作りすぎて友達じゃない奴がいないの」
「あぁそういうこと。まぁあんた外面いいもんね」
「ねぇ、頼み事断るよ?」
「冗談じゃん」
姉には何度もチクチクと嫌味を言われて育った。
楽しく無いのにヘラヘラしてバカみたいとか、人に合わせてばかりで中身が無いとか。
多少なりとも傷つくことはあったが、それでも自分には無いはっきりとしたと物を言うところはすごいなと思う。真似をしようとはならないけれど。
「でさ、お願いなんだけど週末ポチャチャカフェ行って来てくれない? 今渋谷でやってるからさ」
それはおそらくこの間花岡と一緒に行ったところだろう。
「えー何で?」
一度行ったことは隠してとりあえず理由を聞いてみることにした。絶対行きたくないけど。
「これ! 入場者特典第二弾が出るの!」
姉に意気揚々とスマホの画面を見せられ、八代は仕方なく画面を覗き込んだ。
どうやら特典はポチャチャのステッカーでランダムに五種類も出るらしい。
姉がポチャチャ好きなのは知らなかったが、どうせミーハー心だろう。何かと流行りに敏感なのだ。
「ねぇお願い! あたし仕事で地方行かなきゃ行けないからさ」
「実はこの前クラスメイトに誘われて行ったんだよね」
「行ったの!?」
「うん。でもあそこ食べ物高いし、女子ばっかだし」
「じゃあまたその子誘って行って来てよ。お金出すから!」
「えー無理」
なんでわざわざ自分がポチャチャカフェに花岡を誘わないといけないのか。あれは誰かに誘われなければ行かないところだ。
あのメルヘンに蜂の衣装を着たポチャチャで溢れかえるパステルカラーのカフェを脳裏で回想していると、その景色の中に違和感を覚えた。そういえば居たじゃないか。あの空間で一人異色を放っていた人物が、自分がわざわざ誘って行ってもいいかもと思える人物が。
「やっぱ姉ちゃんの全奢りならいいよ」
そう言うと、拗ねていた姉の顔が瞬時に笑顔に変わり、隠し持っていた財布から一万円札を抜いて手渡された。
自分が行くことは想定内ですかと内心呆れたが、それでもこれは良いタイミングだ。
完敗宣言は撤回しよう。