日向野の手を振り払ったあの日以来、八代と日向野の間にはガラスの壁ができてしまっていた。
全く無視するわけでも完全に避けるわけでもなく、日向野のことは見ていたし視界にも入ってはいたが、日向野はまるで水槽の中を優雅に泳ぐ金魚のようにこちらに関心を向けなくなったのだ。
八代はただその金魚を眺めてはなす術なく、ただ時間だけが過ぎていった。
本来は日向野の方からあの時の事を謝ってきたり、何か釈明してきたりするべきだろう。
なのになぜこちらが様子を伺わなければいけないのかと疑問に思ったが、そんなことを気にしている余裕が無いほど、関心を向けられなくなったことに動揺してしまっていた。
あのキスに答えなかったからなのか。拒絶したと思われたからなのか。いずれにせよ、日向野から行動してもらわないとどう距離を戻して良いのか分からない。
「八代くん、今日お昼時間ある?」
それから三日後、移動教室へ向かう途中に日向野に声をかけられた。
それはいつもの飄々とした声色で、この数日間の壁はなんだったのかと拍子抜けする。
「あぁ……大丈夫。屋上のとこ行けばいい?」
釣られてこちらもいつも通りに返すと、日向野は「うん、待ってる」と答えて先に行ってしまった。
あまりにもあっさりしすぎていて逆に怖い。
案の定それからの授業の内容など何一つとして頭には入ってこなかった。
待ちに待った昼休み。安達たちにはまた適当な嘘をついてすぐさま踊り場へと向かった。
数段飛び出階段を駆け上がりながら登ると、日向野が階段に足を放り出しながら踊り場に座っているのが見えた。日向野がこちらに目を向ける。
「安達くんたちに嘘ついて来た?」
「まぁ適当に」
今日は隣には座らず、日向野の座る五段ほど下に立って日向野を見上げる形で壁に背をもたれさせた。
「ごめんね。今日まで上手く話せなくて」
お互い少しの沈黙の後、日向野がゆっくりと口を開いた。
日向野から出た声は少し掠れていて緊張していることが伝わってくる。
「別に俺は気にしてないけど」
無関心な態度に心乱れたなんて恥ずかいこと言えるはずもない。
「あぁでも、月曜日のことは気になってるよ」
「……ごめん」
「その、どういう意味があったのかなって」
一度喋り出してしまえば、自分が悪いわけではないからなのか、不思議と今まで聞きたかった疑問の数々が決壊したダムの水のように溢れ出した。
「なんの前触れもなくあんなことされたら、そりゃ逃げたくもなるじゃん」
「正直、あの時は八代くんうるさいなって思った」
「はぁ?」
「まぁ確かに俺の言い方も悪かったけど、でも八代くん自分でなんか完結してどんどん離れて行こうとするんだもん」
「でもだからってあんな……」
「手っ取り早く、俺の言いたいこと伝わるかなって」
「どんな理由でも、あぁいうことは簡単にするな」
「それは確かに、ごめんなさい」
そもそもなんだ手っ取り早くって。ものすごく雑じゃないか。
呆れる八代を見て、申し訳なさそうに日向野が階段を降りてきた。
「なに?」
目の前にやってきた日向野に思わず態度が悪くなる。
「俺は、八代くんのこと好きだよ」
まさかとは思ったが“好き”という言葉をダイレクトに言われて、恥ずかしさで俯いた。
日向野の言葉や行動から、さすがにそれが“友達として”ではないことくらい理解できる。
「それって俺と付き合いたいってこと?」
「うん、そういうこと」
「日向野って、その、同性の人好きになったことあるの?」
「八代くんが初めてだよ」
簡単に言われて頭がバグりそうになる。
告白は何度かされたことはあるし、受け入れたことも断ったこともある。けれど、こうもう答えに迷ったことなどない。
それは同性に告白されたことが初めてだからか、それとも自分自身ノーとは言えない何かがあるのか。
「いや、ちょっと待って」
そもそもよく考えたら、一度だって人を好きになどなったことない。
今まで断れたのは恋愛感情がないとはっきりとした状態だったからだ。受け入れて来たのは自分を知りたいがためで、そこに“恋人としての好き”はなかったと確実に言える。
なら今こうして答えに迷ってしまっているということは、少なからず自分は恋愛感情を日向野に持っているということなのか。
いやでも……。
「いいよ、答えなくても」
熟考していると、優しい声色で日向野が言った。
「すぐどうにかなりたいわけじゃないし、気持ちを知ってくれていればそれでいいよ」
「……俺が答えない間はどうすんの? 普通にするの?」
「普通にするよ。もちろん断られても普通にするけど。あ、でも二人きりにはならないかな」
それは嫌だなとなんとなく思う。
日向野の言葉は八代にとって半ば脅しのようにも聞こえた。
「ずるい言い方するなよ」
「ずるいかな? 気持ちを知ってて二人で居ようとする方がよっぽどずるいと思うけど。こっちは苦しいのに、そっちは居心地がいいんだけなんて」
日向野の言葉は鋭利な刃物のように心臓を抉っていく。
「適度に離れてくれた方が優しいよ」
そうだった。過去にそれで自分は何度も人を悲しませたことがある。
応えられないならはっきりとしないといけないのに。
「答え出すまでの間は一緒にいていいわけ?」
「それはね。だってそうしないと分からないでしょ。 俺のこと恋愛感情でみれるかどうかなんて」
「それはそうだけど……」
言い淀む八代に一歩、二歩と近づく日向野。
壁を背にした状態で動くことができない。
「だから避けないでね、八代くん」
目の前で優しく微笑むと、日向野はそのまま階段を降りていってしまった。
緊張から解放された八代の体は、大量の酸素を求めていた。
運動もしていないのになぜだかドッと疲れている。
体は重く熱く、足が動かない。
これからどうしようかと頭を抱える。告白されてしまったらこれはイエスかノーどちらかを応えなくてはいけない。
どうして即答できなかったのか。それは緊張からではない。混乱からではないと、八代自身も気付きつつあった。
こんなに誰かに“好き”という感情を向けられて、戸惑うと同じくらいに高揚しているのは初めてだった。