◆
「――んっ」
肉体へ戻って来たような感覚に、瑠衣は微かに呻いてゆっくりと瞼を開けた。いつの間にか布団の上に寝かされている。横を見れば白銀が心配そうな表情で座っていた。それほど時間は経過していないのかもしれない。
「上手くいかねえな……呪力だけでも戻っていればいいが。気分はどうだ?」
「……いろいろと思い出しました」
政重の言葉にまんまと乗せられて初任務へ赴いた。今思えば、あれは瑠衣を葬るための口実だったに違いない。
そこで妖の大群に襲われ、次々と妖狩りが倒されるのを目にした。次は自分の番だと覚悟を決めたのだが、目が覚めると政重の妖狩り屋敷の中だった。その時には既に、自分の身体には毒が埋め込まれていた。
「白銀が、わたしの記憶に封印をしていたのですか?」
「オレがそんなことをするわけねえだろ。まだ寝ぼけてるのか?」
起き上がろうとすると、激しく眩暈がした。倒れかけたところを白銀の手が彼女の身体をすくい、膝の上に乗せてくれた。
「たしかに、オレも封印をかけたが、それは匂いに対してだな。あのままじゃ、わんさと妖に襲われて、長生きできねえと思ったんだ。だがな、その術を悪用されて、お前の記憶まで封じられちまった……いや、都合のいいように塗り替えられちまったんだ」
「……もしかして、わたしが呪力を失っていたのは」
「オレのせいだな」
とんでもないことを、さらりと白銀は言った。
「妖狩りなんぞ、危険なことはさせたくなかったからな。それがオレも予想外の方向へ転がっちまってな。こうして、お前を手に入れるまでに五年もかかっちまった」
大切な者を危険な目に遭わせたくない。そんな白銀の想いは痛いほどに理解できる。自分だって舞衣を投げ飛ばしてまでして、任務に行かせるのを阻止したのだ。あの時には心を鬼にしていた。たとえそれで嫌われてしまったとしても。
「呪力を封じたのは白銀……では、記憶を封じたのは……」
考えるまでもなかった。
「政重様ですか」
「その通りだ。お前が毎日浴びていたという香が鍵だった。無理やり解除すると瑠衣の身体が耐えられない可能性があったからな。少しずつ解除していったんだ」
なるほど、と瑠衣は納得する。だから二度目、三度目と繰り返す度に、徐々に情報量が増えていったのだ。
それから、五年間を白銀は教えてくれた。
呪力さえ失えば、瑠衣は妖狩りを止める。白銀はそう思っていたらしい。ところが、妖狩りの屋敷に留められ、何やら怪しげな術を掛けられたという情報を得て大いに慌てた。己の目論見とは別方向に物事が動き、瑠衣が窮地に追いやられてしまった。
それからは瑠衣を取り戻したい一心で白銀は動いた。村へ横暴を働いていた悪徳領主へ戦いを挑み、派遣されてきた妖狩りもろとも退けた。そして、和睦の証として瑠衣が派遣されるように仕向けたのだ。
半ば予想していた経緯だったが、それでも瑠衣は呆れてしまった。
「無茶なことをしましたね……」
「妖狩りの屋敷に殴り込みをかけるよりはマシだと思うがなあ?」
「うっ……」
一度目の状況を思い出し、瑠衣は視線を彷徨わせた。こっそりと政重の元へ戻ったがために、白銀に無理なことをさせてしまった。
(もしかして……この繰り返しも政重様が?)
ふと、そんなことを考えるも、どうもそちらは辻褄が合わない。
瑠衣を始末するだけなら、一回目の出来事でいいはずだ。妖に魅入られたとして、斬り殺すには十分な理由である。白銀と一緒に始末できなければ意味がないと考えているのだろうか。それにしては術が大掛かりすぎる。同じ時間を繰り返すなんて瑠衣には絶対に無理だし、果たして政重にそれだけの呪力があるのだろうか。
「白銀には目星がついているのですか? この繰り返しの原因について」
「あー、それはなー……」
嫌なことを聞かれた。そんな風情で白銀が視線を逸らした。
「何か知っているのですか? 呪力を封じたのは許しましたけど、これ以上わたしに隠し事をするなら許しませんよ」
自分の知らないところで事件が進むのはもうこりごりだ。それに、この繰り返しから抜け出さなければ、元の生活をすることができない。
はぐらかされたりはしたくないと、白銀をしっかりと見据えていると、根負けしたように白銀が鼻の横を掻いた。
「妖狩りの屋敷に襲撃をかけたとき、お前はもう虫の息だった」
すみません、と小さくなる瑠衣の肩を叩きながら白銀は続ける。
「オレも手傷を負ってヤバイ状況になった。さすがに妖狩り屋敷の結界じゃ、本来の力は発揮できねえからな。その時にお前は何をした?」
「ええと……願いました。わたしに構わず逃げてほしいと」
そして――来世では一緒になりたい。
それはもう、全身全霊をかけて願った。滅茶苦茶に願った。呪力のない自分にはそれくらいしかできることがなかったのだから。
「そこで問題だ。オレは何の妖だ?」
「白銀はみなさんの願いから生まれた妖……あっ」
そこまで言ってから瑠衣は目を見張る。薄っすらと先の展開が読めた気がした。
「お前の願いは、オレに力を与えてくれた。オレも経験したことがないくらい膨大な力だ。だがな、それには問題があった」
「問題?」
「瑠衣の身体には、オレと政重の術が掛けられていたからな。その二つと、お前の願いが変に干渉しあった結果、力が暴走しちまって妙な空間に囚われちまった」
「それは、もしかして……」
冷や汗をかきながら、瑠衣は自分の出した結論を口にする。
「わたしの願いが、この繰り返しを引き起こしてしまった……?」
「お前だけのせいじゃないぞ。お前が願ってくれなきゃ、あの場で二人ともお陀仏の可能性だってあったんだからな」
慰めるような白銀の言葉だったが、瑠衣はそれどころではない。
繰り返しの原因は政重でも白銀でもない。自分自身だった。その事実はさすがに衝撃的で、このまま失神してしまいたかった。もう一度繰り返したら、別の理由に変わったりはしないだろうか。
「政重のつけた匂いも弱くなってきてたからな。繰り返しが解けねえかって、さっきも試してみたんだが、やっぱり駄目だった」
悔しそうに顔を歪める白銀を前にして、瑠衣も途方に暮れる。あれは記憶の封印を解いてくれるためだけではなかったのだ。
うーん、と頭を捻っていると、天啓のように一つの案を閃いた。
「繰り返すたびに香が弱くなっているのなら、もう何度か繰り返せばよいのでは?」
「……お前、何を言ってんだ?」
「だから、わたしが死ねばよいのですよ。そうすれば、繰り返しが起きて、今度こそ白銀が術を――」
「阿呆」
容赦のない手刀が脳天に振り下ろされ、瑠衣はその場で見悶えた。頭が二つに割れたかと思った。抗議の声を上げようとすると、そのまま布団に押し倒される。頭の両側に手を置かれ、完全に逃げられないような体勢にされた。
「何をするのです、白銀」
「そりゃ、こっちの台詞だ。いくら繰り返しから抜けるためとはいえ、お前を殺すわけねえだろ! 次にそんなことぬかしたら、ぶっ飛ばすぞ!」
額と額がくっつかんばかりに顔を近づけて白銀が怒鳴った。その剣幕に瑠衣は思わず首をすくめる。これは本気で怒っている。
「すみません……」
視線を横に逸らしながら瑠衣は謝った。白銀の言う通りだ。如何なる理由があろうとも、自分の大切な者が死ぬのを見たいわけがない。たとえ繰り返すとわかっていてもだ。さすがに混乱して馬鹿なことを言ったと反省する。
本当に瑠衣が後悔しているのを理解したのだろう、白銀の手が優しく髪を梳いた。横を向いたままの彼女へ小さな声が届く。
「それにな。オレの妖力も無限じゃねえ。空間が崩壊しないよう維持しているが、それももう限界だ。この繰り返しで終わりだろうな。次に瑠衣が死ねば、この空間ごとオレの命も終わる。それだけじゃねえ。美桜や舞衣、政重の野郎……は、どうでもいいが。とにかく、この空間は崩壊してみんな死ぬ」
「そんな……」
「いや、残りの妖力を全部お前に注ぎ込めば、もしかしたら生き残れるかもしれないな。それがオレの本当の願いだしな。よし、そうと決まれば今から……イデデ」
白銀が悲鳴を上げたのは、瑠衣が下から手を伸ばし彼の頬を思いっきりつねったからだ。低い声で怒りを露にしながら告げる。
「さっきのわたしのようなことを言わないでください」
「……悪かった」
しょんぼりと白銀。耳と尻尾があれば垂れ下がっているに違いない。瑠衣が手を背中に回すと、白銀が覆いかぶさるようにして強く抱きしめてくる。少しだけ震えているのは、大切な者を守り切れない恐怖だろうか。
(白銀……)
出会った頃の雪景色が、頭の中に鮮やかに蘇る。
あの時は、彼の酷い怪我を治療するために、自分の呪力を分け与えていたものだ。怪我が完治してからも白銀はしばらく留まってくれていた。鍛錬に疲れたら、ふさふさとした白い犬の腹に身体を埋めるのが至福の瞬間だった。それは、彼が人型となっていても同じだ。今も同じ匂いがする。
このまま、最後となるかもしれない一夜を過ごしても――
「……匂い?」
「どうした?」
ただならぬ瑠衣の呟きに、白銀が身体を起こして顔を覗き込んでくる。
瑠衣は胸元の首飾りを手にして鼻へと近づけた。白銀の妖の気配が色濃く残っており、これが初任務で救ってくれたのだと今ならわかる。彼が持ち去ったのは、それこそ他の妖狩りに見咎められればおしまいだったからだ。しかし、このさらに奥に、別の何かがあるような気がする。それこそ、白銀すら見落としている何かが。
(美味しい呪力……使い方……)
諦めかけていた瑠衣の心に希望の光が灯る。白銀と一緒にこの空間から抜けられるかもしれない。もちろん、舞衣や美桜も助けられる。
「まだ諦めるのは早いようですよ」
首飾りを握り締めながら瑠衣は、自分に言い聞かせるように言った。
「一つ、手を思いつきました。この繰り返しで終わるなら、賭けてみませんか?」
◆
その翌日から、さっそく瑠衣と白銀の行動は変わった。
まず最初にしたことは、妖達を集めて現状を共有したことだった。
「――というわけで、この空間は繰り返している。鍵は瑠衣の死だ。瑠衣を守りながら繰り返しから脱出する。お前らにどうか協力してもらいたい」
白銀が現状を伝えたとき、妖達の動揺は少なくなかった。二人の予想通り、他に繰り返しを認識していた妖はいなかったからだ。それでも、主の苦境に対して、助けるのを否と言う者はいなかった。
瑠衣の死が鍵という事実も、驚きの一つとなっていたようだ。それはそうだろう。主の嫁が実はもう何度も死んでいるというのだから。
「なーんか、あたしも変だとは思っていたんですよねー。瑠衣様を以前から知ってるような気がしてたんですが、繰り返してるならそれはそうですよねー」
一番動揺の少なかったのは、やはりと言うべきか美桜だった。妖達の前で「どうか、お願いします」と頭を下げ続けている瑠衣の肩へしっかりと手を置く。
「瑠衣様、顔を上げてください。何度も死んでしまって、さぞかし怖かったですよね? あたしこそお守りできなくて謝るべきです」
「美桜様……」
ニコニコと笑う美桜が頼もしい。他の妖を見回しても、繰り返しを知らなければ初対面だろうに、真摯な表情で瑠衣を見ていた。
「みなさまも、本当にありがとうございます」
もう一度、感謝の言葉を口にしてから続ける。
「もちろん、ただでとは申しません。これが上手くいった暁には、わたしの呪力を報酬としてお渡しします」
「お、おい! 瑠衣、それは……」
慌てたように制止してきた白銀に微笑んで見せた。
「もう、決めました」
妖達の間に戸惑いが広がる。いくら美味しそうとはいえ、主の嫁なのだから。
母から受け継いだ、妖から好かれる呪力。それが復活した今、最大限に活用する。妖に魅入られていると思われても構わない。妖の生贄として育てられ、白銀へと捧げられた。その結果まで政重の思い通りになるつもりはなかった。
最後まで渋る白銀へ向けて、瑠衣は微笑んだ。
「わたしを独占したいのは理解できます。ですが、これは必要なことです。少しでもわたしが生きる可能性を上げるために」
「ちぃっとばかし、露骨すぎると思うんだがなあ」
「ふふふ。では、もう一つ露骨なものを」
白銀の手を取り、自分の胸に押し当てる。
「わたしは白銀が好きです。愛しております。この繰り返しから脱出できたら、一生を白銀に捧げることをお約束します。妖狩りの元には――人間の元には戻りません。呪力だけではなく、魂まであなたに喰らい尽くされとうございます」
凛とした瑠衣の告白に、騒めいていた妖達が静まり返った。見上げる目の前で、白銀の表情が様々に変化した。驚きから喜びへ、そこから怒りへと変わり、最後には何かを決意したように強い視線が瑠衣を射抜いた。
「……言ったな?」
不意に白銀の手が伸びてきて、瑠衣の腰を力強く引き寄せた。つま先立ちのようにされて、白銀の顔が近くなる。
「こいつは前借りだ」
「何を……んっ――」
問答無用で唇を塞がれ、反射的に引きかけた身体を、力強い腕が抵抗を封じる。観念して力を抜くも、なかなか放してもらえない。そろそろ息が苦しくなってきた。たっぷりと唇を吸われてから、やっと瑠衣は解放された。
「ぷはっ……白銀、みなの前でやり過ぎです!」
さすがにこれほど深い口づけは恥ずかしい。ほっぺたくらいで許してほしかった。
白銀は抗議の声もなんのその。瑠衣の腰を抱いたまま、配下の妖へと叫んだ。
「ようし、お前ら! オレの嫁がここまでお願いしてくれてんだ。しっかり励めよ! おこぼれはちゃんと分けてやる!」
うおお、と妖達の間で雄叫びが上がる。呪力欲しさだけではない。主君の嫁を守るという思いが強く伝わってくる。
「あーあ、瑠衣様。これは完全に火を点けちゃいましたね」
くすくすと笑いながら美桜が言った。
「あそこまで言われたら、白銀様だけではなく、誰だって助けたいと思います。白銀様との口づけも、眼福眼福。ごちそうさまでした」
「そ、それは、何より……です?」
自分自身に対する決意表明でもあったのだが、これで正真正銘、妖の嫁になったということだろう。もう、後には戻れない。白銀とともに生きるか、もしくは滅びるか。二つに一つだ。願わくは前者でありたい。
「さあって、ご褒美のためにも頑張らねえとな! 作戦会議といこうぜ!」
やる気に満ち溢れた白銀を中心として、作戦会議が始まる。
「繰り返しだけじゃなく、妖狩りのほうも何とかしねえとな。どこまでの人間がこの繰り返しを知っていると思う?」
「政重様は、たぶん知っているのではないかと」
気を取り直して瑠衣は思考を働かせる。
「確実に三回目は知っていたと思います。なぜなら、わたしが送った文は、二回目も三回目も大きく内容は変わらなかったのですから。それなのに、二回目では毒を送り、三回目は舞衣を派遣してきました。これは大きな違いではないでしょうか」
「なるほど。いい答えだ」
納得したように白銀が笑みを浮かべた。
今思えば、二回目の時から、白銀が繰り返しを把握していたという素振りはあった。瑠衣が屋敷を抜け出そうとした日、白銀は布団の中でずっと離してくれなかったではないか。瑠衣が政重の屋敷で殺されてしまわないよう防いでくれていたのだ。
(もっと早くにわたしが気が付いていれば……)
こんなに切羽詰まった状況になることもなかっただろう。悔やむ気持ちもあるが、もう前を向くしかない。死んだらこれで終わり。本来はそれが当たり前のことだ。瑠衣の願いと白銀の妖、政重の術、様々な要因が絡み合いこの空間ができた。こんなにたくさんの機会を貰ったのだから、自分の願いを通すためにも失敗するわけにはいかない。
妖達の視線を集めながら、瑠衣は考えていたことを伝える。
「白銀を直接見ていない政重様は、力が弱まっていることを知らないはず。ここは、繰り返していることを妖狩りに知らせ、あちらが動かざるを得ない状況を作り出すほうが得策だと思うのですが、どうでしょう」
尽きようとしている白銀の妖力。持久戦は辛いはずだ。動くのであれば積極的にこちらから仕掛けて、短期戦を挑むべきだ。
「だがなあ、それは危険な賭けになるぜ?」
「待っていてもあちらに準備の時間を与えるだけでしょう」
身を乗り出しながら、一生懸命に瑠衣は訴えた。
「それならば、対決の意思を明確にしたほうがいいとは思いませんか? 政重様だっていつまでもここに囚われているわけにはいかない。必ず乗ってきます。いえ、むしろ、こちらから攻めるという手も――」
「……お前」
気が付けば白銀が目を丸くして圧倒されたようになっていた。何か変なことを言っただろうかと不安になっていると、感心したように白銀が息を吐いた。
「前向きになったようなあ」
「そ、そうですか……?」
戸惑いながら瑠衣は首を傾げると、繰り返しを知らなかった美桜も笑いながら同意する。
「たしかに! 昨日と比べても、瑠衣様全然違いますよ!」
「そうだな。そこだけでも違うぜ。オレに喰われようとしていた日々なんざ、毎日悲壮な顔してたもんなー」
「それは……よしてください」
自覚させられると死にたくなってしまいそうだ。そのくらい恥ずかしい。もう一回くらい繰り返せるのであれば、ちょっと無かったことにしてもらいたい。ついでに、白銀の記憶も抹消してもらえないだろうか。
「この話でしばらくお前をからかえそうだな。覚悟しとけよ」
「白銀も趣味が悪いですよ! あまり言っているとわたしも怒り――きゃぁっ!?」
突如として、屋敷が地震に見舞われたかのように大きく揺れた。倒れそうになった瑠衣を、白銀が素早く引き寄せる。パラパラと天井から埃が落ちてきた。
「一体、なにが……」
「こいつは、先手を取られたな」
厳しい表情で呟いたのは白銀。屋敷の表から、犬の姿をした妖が駆けてきた。
「白銀様! 妖狩りが!」
最後まで言い終わらないうちに、再び屋敷が大きく揺れた。それと同時に、大きな破砕音が聞こえた気がした。妖達の間に動揺が走る。ちっ、と白銀が舌打ちする。
「結界が破られたか。お前ら、狼狽えんな! 攪乱しながら展開しろ」
(妖狩りが……攻めてきた!?)
そのときには瑠衣も、妖狩りの呪力や、表のほうで争う物音が聞こえていた。人数は把握できないが、鬨の声を聞く限り、一人や二人ではない。妖狩りが総力を挙げて攻めてきたのかもしれない。
「美桜は、瑠衣を頼めるか?」
白銀に背中を押され、冗談じゃないとばかりに瑠衣はかぶりを振った。
「わたしも戦います。白銀一人を危険な目に遭わせて、後ろで隠れて震えているなど、できるわけがありません!」
「馬鹿野郎! 何もできねえくせに、どうやって戦おうっつんだ!」
「白銀が封印を解いてくれましたから、呪力はありますよ!」
本気の白銀の怒声に、瑠衣も負けじと声を張った。
右手をかざして光の玉を生み出して見せるも、一瞬で弾けて消えてしまう。それを見て白銀が鼻を鳴らした。
「ほうれみろ。呪力が戻ったところで、五年も封印されてたんだぜ? 使いこなせるわけねえだろうが。お願いだから大人しくしておいてくれ!」
「嫌です。無理です。絶対に嫌です!」
だんだん、と子供のように地団太を踏む。
自分のためにみんなが協力してくれるのだ。それを後ろから見ているしかできないなど、瑠衣には我慢できない。微力でも……たとえ足手まといだったとしても、同じ場所に立ちたい。説得する言葉や力を持たなくても、この場から逃げたら、繰り返しを脱出する機会を一生逃してしまう気がした。
「しょうがねえ。一発食らわせて……」
白銀の右手が握られるのを見て、瑠衣は慌てて距離を取ろうとした。気絶させられてはかなわない。
「駄目です、白銀!」
「うるせえ!」
拳が瑠衣の腹に突き立てられようとした瞬間、美桜が風のように動いた。
「お二人とも、注意してください!」
迸る呪力の感覚に、はっと白銀が顔を上げる。握った拳をそのまま中庭のへと向けた。美桜が生み出した風に、白銀の打ち出した氷がキラキラと舞って結界を作った。そこへ鞭のようにしなる刃がぶつかり、次いで紅蓮の炎が巻き起こった。互いの力が相殺されたように弾け、突風が吹き荒れる。瑠衣は両腕を前に組んで顔を庇った。
「政重様……舞衣」
風が収まりそこにいたのは、やはりというか、予想通りの二人だった。
「奇襲をかけたつもりだったが」
政重が炎の刃を持つ刀を振った。
「これだけの力があれば、そうは簡単にはいかんか」
「そりゃ、どーも。しっかし、おかしいなあ。瑠衣は和睦の証じゃなかったのか?」
瑠衣を背後に庇いながら、白銀が右手に氷の刃を作り出した。
「せっかく平和的に解決しようと思ったのによう、結局こうなっちまうのかよ」
「妖風情が世迷言を。我々を面妖な空間に閉じ込めておいてよく言うわ」
やはり政重は気が付いていたのだ。この中では時間が繰り返していること。そして、それに関係している一人が白銀であることを。
「あー、それは悪い。オレもそんなつもりじゃなかったんだぜ? ただな、瑠衣がちいっとばかし無謀な……」
「ふざけないで!」
おどけて見せる白銀へ、叩きつけるように叫んだのは舞衣だ。
「政重様から聞いたんだから! 白銀がお姉ちゃんに酷いことをして、それが原因でこの繰り返しが起きちゃったって! 村の人まで巻き込んで、どういうつもり!?」
「舞衣! それは違いますよ!」
瑠衣は負けないように言い返した。三回目に話した内容を、瑠衣はもう一度繰り返す。
「以前の領主こそが悪いのです。白銀は村によくしてくれているのですよ。わたしにだって同じです。いえ、それ以上に大切に扱われて、白銀にこの身を捧げようと思っているのですから。酷いことなど一つもありません」
「お姉ちゃん……」
痛ましいものを見るかのように、舞衣は目を細めた。涙すら浮かべて言う。
「酷いことされて、思い出したくなくて自分で記憶を歪めちゃったんだね。あたしが来たからには安心して。一緒に帰ろう? あたしが白銀を倒せば、お姉ちゃんにいい暮らしをさせてあげられる」
(この匂いは……)
風向きが変わり、漂ってきた香で瑠衣は確信する。
自分の身体に染み込まされていたものと同じ香だ。白銀がそれを洗い落とし、術を解いてくれた。これこそが政重の術の種。瑠衣の記憶を封じ、今は舞衣の記憶を操っている。瑠衣を想う気持ちが人一倍強いのは知っていた。さぞかしやりやすかったことだろう。
「美桜、他のヤツらの援護を頼めるか? この二人はオレが相手をする」
氷の刃を構えたまま白銀が言った。瑠衣達の周囲では、妖狩りと屋敷の妖との間で乱戦になっていた。奇襲をされた分、こちらのほうの分が悪い。
「承知ですよー! 白銀様もお気をつけて!」
美桜は風を操ると、大きな呪力を放とうとしていた妖狩りを一人吹き飛ばす。そのまま、敵味方入り乱れるど真ん中へと飛び込んでいく。
それを横目に見ながら、白銀は妖力を操り、無数の氷の刃を自らの周囲に展開した。
「瑠衣を散々な目に遭わせてくれたよな。その礼はたっぷりとしてやるぜ」
「その娘は役目を果たせず、妖狩りとして失格の烙印をおされていたのだがな。それを殺さずにいて感謝してもらいたいくらいだ」
政重の台詞に、瑠衣はすっと刃のように視線を鋭くする。
「うそばかり。わたしは全てを思い出しましたよ」
「思い出した? ああ、そうか」
政重も気付いたようで薄ら笑いを浮かべた。明確な殺意が瑠衣を貫く。
「そろそろ術が解ける頃合いだと思ってはいたが、やはり思い出してしまったか。勝負をかけて正解だった」
呪力が溢れ、政重の刀が赤い炎に包まれる。
「ここで全てを終わらせてやろう。舞衣、姉を救いたいのなら、決めた通りに動くのだな」
「うん! 当然っ!」
舞衣の持つ刀が長い鞭へと変化し、まるで蛇のように地面を走って来たところが戦闘開始の合図となった。
「しゃくらせえ!」
地面を抉りながら迫る鞭を、白銀の氷が障壁を作って防ぐ。すると、その上を超えるようにして政重の放った炎が広がった。
「甘いぜ」
白銀が手元の氷の刃を一閃。真っ二つに炎が割れる。その間を舞衣が縫うようにして接近しながら再び鞭を振るうのを見て、白銀が瑠衣の身体を抱えた。
「舌を噛むなよ!」
鞭を素早く躱して庭へ出ると、そのまま軽やかに屋敷の屋根へ。
(やっぱり弱まってる)
屋根の上に下ろしてもらいながら瑠衣は感じていた。
三回目ならば、今の攻撃くらいは妖力で一蹴していた。それが正面から圧倒するのではなく、避けることを選択した。妖力の残りが少なくなっているというのは間違いない。繰り返しのおかげで、瑠衣の思っている以上に白銀は消耗しているのだ。
次の攻撃を仕掛けようと呪力を溜める二人を警戒しながら瑠衣は提案する。
「白銀。舞衣はわたしにまかせてください」
「はあ? まだそんなことを……」
「白銀こそ強がりはもう終わりです」
静かだが怒りを孕んだ口調に白銀が口をつぐむ。
「力が弱まっているのに、わたしを守りながら二人の相手をするのは無理ですよね?」
「だがよう……」
「大丈夫です。わたしは殺されないはず」
瑠衣には確信があった。繰り返しを知っているならば、その鍵も理解しているだろう。さきほど、政重は勝負をかけたと言っていたではないか。
ならば、瑠衣を殺せばまた繰り返してしまうと考えているはず。白銀の妖力が尽きようとしているのは知らないかもしれないが、絶対に瑠衣は殺せない。
「封印くらいはされるかもしれないですが、呪力が戻ったのですから、それくらいは何とかしますよ。白銀のほうこそ、政重に勝てるかを心配したほうがいいのでは?」
「……ったく、この嫁は……!」
瑠衣の挑発に、わかりやすいくらい白銀の表情が歪んだ。持っていた氷の刃を瑠衣に押し付けて、自らは別の刃を生み出す。
「さっさと終わらせて助けにいくからな」
「期待して待っていますよ」
政重と舞衣は準備が終わったようだ。白銀が万全の状態ならば、先制攻撃をしかけていたはず。瑠衣という足枷がなくなれば、もっと自由に戦えるはずだ。
庭で膨れ上がる呪力を見て二人は頷き合うと、ぱっと二手に別れたのだった。
◆
「――舞衣! あなたの相手はわたしがします!」
何間もの長さに伸びた鞭が、屋敷の屋根を破壊する。瑠衣はそれを自分へと誘導しながら屋根を飛び降りた。受け身を取ってごろりと転がり、素早く体勢を立て直す。
「お姉ちゃん……」
くるくると蔓のように巻かれて、舞衣の武器が手元へと戻る。
「痛いことはなるべくしたくないんだ。ぜーんぶ終わるまで大人しくしててよ」
「舞衣こそおやめなさい。白銀を倒したら、みんな死んでしまいますよ?」
「そんな嘘は効かないよ。お姉ちゃんが術の要だって政重様が。だから、ここでお姉ちゃんを足止めすれば、あたしたちが勝つんだから」
瑠衣の視線の先では、白銀と政重が戦っている。こちらは妖力と呪力のぶつかり合いで、派手な戦いとなっていた。志乃と争っていただけあり、さすがに政重は強い。妖力の弱まった白銀では厳しいのではないかと思われた。
「そう……」
瑠衣は氷の刃を両手で握って正眼に構え、対決の意思を明確にする。
「わたしはこの繰り返しの中で、すでに三度死んでいますから。少々の痛みくらいでは止まりませんよ」
「……よかった」
「よかった?」
意外な返答に瑠衣の眉が上がる。
「うん。この前、お姉ちゃんにこてんぱんにされちゃったじゃん? 負けたままってあたしも面白くないし。今日はあたしがお姉ちゃんをこてんぱんにする番だよ」
なるほど……と苦笑する。
舞衣からすれば、時系列的にはまだ数日しか経過していないのだ。彼女を投げ飛ばしたのが、はるか遠い日のように思える。それほどの時間をこの屋敷で過ごした。白銀と心を通わせてきたのだ。
(この先、たとえ何度死んだとしても白銀を選ぶ)
それが瑠衣の決意であり願いだ。それを阻む者であれば、例え妹であっても倒さないわけにはいかない。
「覚悟してっ!」
舞衣が放った鞭が呪力に反応して、うねりながら瑠衣へと迫った。
(右……いえ、左!)
最後の一瞬まで見極めて、瑠衣の両手が残像を残すように動いた。正確な太刀筋で鞭の先を払うだけでなく、同時に張った結界は不規則な軌道での鞭の攻撃を全て防いだ。
「えっ……!?」
驚きで舞衣の動きが止まった隙を逃さず、素早く瑠衣は肉薄した。
「はっ!」
武器を叩き落としてやろうと振るった刃は、ぎりぎりのところで躱された。追撃を仕掛けようとすると、地面から蔦が生えてきて慌てて飛び退いた。これに足を取られれば動きを止められてしまう。
「呪力……戻ってたんだ」
舞衣の表情から余裕が消える。それは焦りではなく、警戒すべき相手として認識したということだ。己を守るように球状に蔦を展開して、ゆっくりと近づいてくる。
「驚いてくれたようね」
瑠衣は詰められた間合いの分、円を描くように下がった。
(今ので決められなかったのは痛い……)
平静を装っているものの、心の中では焦っていた。舞衣が油断しているうちに勝負をつけたかった。
呪力は戻ったが、やはり五年の空白期間は大きい。今のは攻撃を読んで、待ち構えていたから結界が間に合っただけで、戦いの流れの中で呪力を行使するのは無理だ。正面からぶつかれば、軽く捻られるのは瑠衣のほうだ。
散発的に足元へ生えてくる蔦を切り払いながら瑠衣は言った。
「聞いて、舞衣。お母様が亡くなったのは、妖のせいではないの」
「何を言ってんだか。そこまでお姉ちゃんおかしくなっちゃったの?」
薄ら笑いを浮かべながら舞衣が迫る。瑠衣は次の一手を考えながら続けた。
「わたしが十三の歳で初任務をもらったのには理由があるのですよ」
「……どういうこと?」
舞衣の瞳が揺れた。瑠衣が傷だらけで戻って来た昔を思い出したのだろう。
「それは、知ってしまったから」
ちらりと政重へ視線を移してから、彼へも聞こえるよう大きな声で言った。
「お母さまが亡くなったのは、妖にやられたからではありませんよ。政重こそがその犯人なのですから。それを知ったわたしを無謀な任務に赴かせ殺そうとした」
「はあ? やっぱりお姉ちゃん、白銀に……」
「証拠はあなたが身に纏っている香!」
舞衣の言葉を遮り、瑠衣は氷の刃を突き付けた。
「亡くなった母の身体にも微かに残っていた。その時に舞衣も気が付くべきでした。いえ……わたしのような目に遭わなかったから、それが正解だったのかもしれない」
舞衣の振るった鞭の刃が目前に迫るも、瑠衣は動かなかった。避けるまでもない。攻撃の目標が甘くなっているのは動揺しているからだろうか。
「どうして、わたしに香を浴び続けさせたのか。妖に喰らわせるため? いいえ、それはただの隠れ蓑。本当の目的は、わたしの記憶を封じること。そして、この身に毒を埋め込んだ。妖に好まれるわたしの呪力を餌にして、妖の餌食にすれば、真実を知ったわたしを、誰にも疑われず始末することができる」
白銀に封印を解かれてから、思い出した事実を告げる。
本来なら、自分は初任務で死んでいるはずだった。それが白銀に助けられ、呪力は封じられたものの妖狩りの元へ戻された。政重にとって、これは誤算だっただろう。何としてでも始末したかったはずだ。それこそ、妖に魅入られたと理由を付けて。
しかし、妖狩りも大損害を出した直後で、生きて戻った瑠衣は貴重な戦力だったに違いない。政重の意見は退けられた代わりに、折衷案として毒を埋め込み、妖に対する生身の武器とされた。それを管理するという名目で政重は手元に置き、瑠衣の記憶を封じ続けた。
「嘘だよ。そんな馬鹿なことが……」
「香が政重の術の種です」
呆然とする舞衣へきっぱりと告げる。
「それが証拠に、香の匂いが消えたわたしは全てを思い出しました。あなただって、その香が消えれば元に戻るはず」
説得する言葉に、舞衣の視線が少しだけ落ちた。敵意を向けられていた呪力が少しだけ弱まる。説得に応じてほしい。瑠衣はそう願いながら待ち続けた。
「最初、あたしはわからなかったんだ」
やがて、俯いたまま舞衣がポツリと呟いた。
「お母様を見る政重様は、いつも怖かった。どうしてだか最初はわからなかったけど、お母様と妖狩りの長の座を争っていたからなんだよね」
「舞衣……」
「でもね、あたしにはどうすればいいかわからなかった。残ったのはお姉ちゃんと二人きり。助けてくれるなら疑っててもその手を取るしかなかったよね」
舞衣の言葉が理解できないわけではない。
政重はその弱みにこそ付け込んだのだ。幼い姉妹を恩着せがましく引き取り、成長する過程で教育をして、志乃に対する疑いのことなど忘れさせようとした。その策略に乗らなかった小賢しい小娘が瑠衣だったというわけだ。
「お姉ちゃんが呪力を無くしてから、あたしが守らなきゃって思って、ずっと頑張ってきた。でもね――」
少しだけ舞衣が顔を上げる。その表情を見て、瑠衣はギクリと背筋が冷えた。どこか達観したようでいて、話す内容とは裏腹に危ういほど明るい。
「守られているのはあたしの方だった。全てを失っても、お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんだった。俯かずに凛としていて……そんなお姉ちゃんが眩しかった」
「舞衣、わたしは……」
「今回だって、あたしの代わりにお姉ちゃんは行っちゃった」
詰るような口調に、瑠衣は反射的に反論した。
「それは……あなたを守るために!」
「ほうら、やっぱりそうじゃん」
すっと刃のように舞衣の視線が鋭くなり、瑠衣は自分の失言を後悔する。本心から出た言葉だったが、それがいかに舞衣を傷つけたか。
何もできない無力さは自分だって知っている。母を亡くした時、呪力を失った時……結局は誰も守れなかった。せめて舞衣だけでも守れるのであれば……身体に埋め込まれた毒は、自分の心の平穏を保つための唯一の拠り所でもあったのだ。
舞衣の呪力がこれまでになく高まった。両手で持つ鞭の武器がわさわさと揺れた。凄絶な笑みを浮かべて構える。
「一回くらいお姉ちゃんに勝ちたいよ。お姉ちゃんを守りたいよ。守らせてよ。ううん。何も言わなくていいよ。これはあたしの我が儘だから」
「……舞衣」
これ以上の説得は無理だと悟り、瑠衣は氷の刃を構えた。
自分にだって守りたいものがある。妥協できないものがある。それが相反するものであるならば、たとえ妹であっても譲るわけにはいかない。
(白銀を守り、舞衣を守り、屋敷の妖を守り……そして、お母様の仇を討つ!)
なんと贅沢な願いだろう。自分でも笑ってしまいたくなるほどに。
けれど、その全てを叶えるために、こうして刃を取った。立ち向かうことを選んだ。
「行くよ――お姉ちゃん」
舞衣の足元で土煙が上がった。瑠衣へ向かって放射状に茨が走った。それに乗るように移動しながら、舞衣の右手が鞭を生き物のように操る。
「舞衣っ!」
何度か鞭を切り払うも、その攻撃は重く、氷の刃が手から弾き飛ばされそうになる。茨に突っ込んでもずたずたにされそうだが、守ってばかりでは絶対に勝機は見えない。危険を覚悟して瑠衣は地面を蹴った。
呪力で足の裏を守ると、茨を踏みつけて疾走する。チクチクと伸びてくる茨に捕らえられぬよう、常に動き回り少しずつ舞衣との距離を詰めた。
(あと少し……これで!)
間合いに入るか否かといった瞬間、舞衣の持つ鞭が無数に枝分かれした。
「甘いよ、お姉ちゃん」
「くっ……このっ!」
網目のように広がり、瑠衣を絡めとらんと覆いかぶさってくる。氷の刃を振り回すも捌き切れず、右手に蔦が巻き付いた。
「しまっ……!?」
後はもう抵抗する暇もない。足元から爆発的に伸びてきた蔦が瑠衣の下半身に巻き付き、立ちながらにして彼女の動きを奪っていく。すぐに上半身も縛められ、骨が軋まんばかりの強烈な締め付けに、瑠衣の喉から苦悶の喘ぎが漏れた。
「これ以上、痛いのは嫌だよね? 抵抗は無駄だよ」
しばらくしてから舞衣が鞭を引くと、全身を蔦に覆われてミノムシのようにされた瑠衣がその足元へ転がってきた。頭だけがかろうじて出ている。瞳を閉じたその表情は、眠っているかのようにピクリとも動かない。
「お姉ちゃんに……勝った!」
勝利を確信した舞衣が唇を綻ばせた。
「あたしが守るんだよ。誰にも指一本触れさせない。このまま堕ちててね、お姉ちゃん」
「――ふふ。かかった」
「……え?」
気を失ったかと思われた瑠衣の瞳がかっ、と見開いた。直後、全身から強烈な呪力が膨れ上がり、束縛していた蔦が四散した。
「なっ……お姉ちゃん!?」
慌てて逃れようとした舞衣の袖を掴み、そのまま思いっきり背中越しに投げ飛ばす。したたかに背中を打ち付けたその上に馬乗りになると、両手で小袖の襟を掴み、ぐいっと交差して締め上げた。
「騙し討ちでごめんなさい。五年も呪力を使ってないわたしが勝つには、こうするしかなかったの」
「お姉ちゃ……ぐぅっ……」
足をバタつかせ、瑠衣の手首を握って抵抗しようとしてくる。
舞衣のように自在に呪力を操れない。できることといえば、あらかじめ決めていた結界を自分の周囲に張ることだけ。
蔦に縛られたと思わせて、その内側に結界を張っていたのだ。気絶した振りをして舞衣が近づいてくるかは賭けだった。だが、ここへ来る前日に、舞衣はこっぴどく負かされている。ここまでの会話でも、舞衣の目的は明白だ。勝利の余韻に浸り、致命的な隙を晒す可能性は高いはずだと思っていた。
これは、自分が殺されないと確信していたからこそできた作戦。無謀と思われた特攻も計算してのものだった。
「舞衣のことが嫌いなわけではない。けれど、白銀のことは絶対に諦められないの」
「はな……して……っ!」
振り回した舞衣の手が頬を打つも、瑠衣はさらに体重をかけた。中途半端に締まっていた襟が、今度こそ完全に頸動脈に入る。舞衣の抵抗が急速に弱まり、瑠衣の手首を掴んでいた手が、ぷるぷると震えて虚空を泳いだ。
「お姉ちゃん……死なないで……」
ぱたり。
軽い音を立てて舞衣の手が落ちる。
「はあっ……はあっ……」
荒い息を吐きながら瑠衣は締めていた手を緩めた。目覚めても動けないよう、舞衣の持っていた鞭で縛ってから額の汗を拭う。気を失った舞衣の目尻からは、透明な何かが流れているようにも見えた。
(死なないで……か)
政重の術の影響を受けていても、姉を想う舞衣の気持ちは本物だった。それを裏切って、すでに三度も死んでしまった。四度も失望させるわけにはいかない。
(あなたの願いも持っていく)
と、思ったところで、背後からの大きな爆発音に、思わず首をすくめた。
◆
「し、白銀!?」
「――あっちーな、くっそ!」
ゴロゴロと、少し離れた場所に人影が転がり、受け身を取って起き上がったのは白銀だ。
背中からぷすぷすと煙が上がっている。髪も少し焼けたようで、ちりちりになっている部分がある。瑠衣は慌てて駆け寄った。
「白銀、その怪我は……」
「嫁にいいところを見せてやろうと思ったのに、情けねえよなあ」
手傷を負ってはいるが、軽口をたたく余裕はあるらしい。少しだけ瑠衣はほっとする。
「舞衣は負けたか。五年間、封じ続けていたが、志乃の長女はさすがだな」
強い殺気に振り向くと、政重が不満そうな表情で立っていた。こちらは肩から血を流し、袴の一部がうっすらと白く凍っていた。
「政重様……いえ、政重。あなたがお母さまを殺したのですね」
「そうだ。儂が志乃を殺した」
あっさりと政重はそれを認めた。五年前は、この任務が終わったら話してやる。そう逃げて、瑠衣を妖の大群へと放り込んだ。
「儂こそが長の座にふさわしかったのだ。妖が全て敵なわけではない。仲間になる者もいると、世迷言を抜かしておったからな。それを、妖狩りの連中の中にも危険視する者がいたのだ。その者達のために暗殺してやっただけのことよ」
「ですが……お母様はきちんと一線を引いておりました!」
たまらず瑠衣は叫んだ。
「人に害を成す妖は討ち取っていたはずです。わたしの知る限り、任務の失敗はなかった。妖の被害を受けていた人々は感謝していたと聞きます。これで、どうして危険と思われなければいけないのですか! それに、この村だって――」
盆地の方角を指差しながら続ける。
「政重は知っていたのでは? 白銀の前の領主が悪行を積み重ねていたことを。それなのに、どうしてそちらは罰せられないのですか? 村の現状を良くしていた白銀が、どうして討たれなければいけないのでしょう」
「……やはり、お主は志乃の娘なのだな」
その主張を黙って聞いていた政重が、苦笑いで応じる。
「昔の話であるが、志乃も同じことを言っておったよ……妖狩りとしては失格であるな。いかなる相手であろうと、妖は敵だ。人間の生存を脅かし、土地を奪っていく。妖を倒すことこそが、我ら妖狩りの存在意義」
政重の頬が引き締まり、彼の全身から呪力が溢れ出した。炎の塊が幾つも生み出され、ふわふわと政重の周囲に展開された。
「年端も行かぬ娘を殺すことに躊躇した腰抜け共が、お主を生かすことを選択した。しかし、やはりそれは間違った選択だったな。五年前に殺しておくべきだった。白銀とやらを討伐し、その後お主も後を追わせてやろう」
「……そうですか」
真実を――政重の考えを知れてよかった。これで自分も、何のためらいもなく敵対することができる。瑠衣にとって白銀は、大切な妖なのだから。
「瑠衣! オレの後ろに隠れていろ!」
放たれた炎の塊を、白銀が無数の氷を生み出して迎撃する。
(誰か、援護を……!)
瑠衣は周囲を見回して、その言葉を飲み込んだ。
精鋭を政重は連れて来たようで、戦っている妖達に余裕はない。美桜はさすがに強かったが、危なくなっている妖を助けるために、あちこちに走り回っている。美桜がいなければ、すでに大きな犠牲が出ていたことだろう。これ以上の負担をかけるのは無理だ。
「瑠衣、上だ!」
白銀の眼前で炎の塊が直角に曲がる。白銀の氷をかいくぐって、瑠衣へと襲った。
「きゃああっ!」
避けきれずにもらって、瑠衣は地面をごろごろと転がった。白銀が妖力の一部を瑠衣に回し、その炎を消す。追撃がきたところを、白銀が素早く移動して氷の結界で庇った。
「あ、ありがとうございます」
「くそったれが」
厳しい顔で白銀が舌打ちをする。
明らかに瑠衣を狙った攻撃だった。直前で結界が間に合ったおかげで、身体を焼かれるのだけは免れたものの、これが手加減されたものということはすぐに直感した。死なない程度に瑠衣を痛めつけ、白銀の意識と妖力を削ぐ。
「白銀とやらも酔狂な妖よ。人間を守り、ましてや、その娘を娶ろうとするのだからな。まともにやり合えば、儂に万が一の勝ちもなかっただろうに。その弱まった力では、次の繰り返しはないかもしれんな」
「へえ? そう思うなら、瑠衣を殺して試してみるか?」
白銀の挑発に、政重がニヤリと笑った。
「それは止めておこう。我々まで巻き添えになりそうであるからな。試すには少しばかり危険すぎる」
「ちぇー、冷静で面白くねえヤツだな」
さすがに、志乃と長の座を争った政重は、正確に判断していた。もしかすると配下に探らせていたのかもしれない。三回目の繰り返しで、白銀がしょっちゅう屋敷を開けていたのは、それに対応するためだったのだろう。
「とはいえ、弱点は利用させてもらうぞ!」
政重の攻撃が激しくなり、徐々に白銀が押されていく。
瑠衣の死が鍵となっているこの空間。彼女を即死はさせずに、再起不能なほどの重傷を負わせる。簡単なことではないが、白銀相手にとっては有効な手段だった。瑠衣を守るのに手一杯になり、反撃への道筋を見つけられない。
(わたしが何とかしなければ)
今や二人を襲う炎は嵐のように激しく、白銀の結界に守られていても熱波が肌を焼くほどだ。
いっそのこと、炎へと身を投げ出し、白銀の隙を作りだせないだろうか。いや、舞衣のように甘い攻撃ではない。自分の操る呪力では、政重の目論見通りにされてしまう。
(いえ……これなら)
危険な賭けにはなる。あとは白銀が頷いてくれるかどうか。
「白銀。わたしに手があります」
「どんな手だ? オレは忙しいからさっさと言え!」
政重に唇を読み取られないよう、白銀の背中に隠れたまま小声で作戦を告げる。
「……お前は、馬鹿か?」
予想通りと言うべきか、盛大に嫌そうな声が返ってきた。瑠衣はすぐ側に着弾した炎の塊の音に負けないよう、少しだけ声を大きくした。
「ですが、このままではじり貧だとは思いませんか。これなら必ず隙を作れるはずです。わたしは白銀を信じていますから」
「……わーったよ。仕方ねえな」
その熱意に根負けしたように、渋々ながら白銀は頷いたのだった。
◆
(さすがに、粘るな)
白銀とその背後で守られている瑠衣へ、無数の炎の塊を投げつけながら、政重はそう思っていた。
妖を倒す生餌として送ったはずの瑠衣。それが妖の元から戻り、前領主の悪行を並べ立てるとは思ってもいなかった。いや、志乃の娘だ。少しも予想していなかったと言えば嘘になる。
それは好機でもあった。妖に魅入られたという大義名分を手に入れられる。政重の本当の目的は、相手の妖を殺すことではなく、正当な理由で瑠衣を葬ることだったのだから。それがまさか、このような繰り返しになるとは夢にも思わなかった。
二回目では、何が起きたのかしばらく理解できなかった。同じような日々を繰り返すうちに、これは妖の仕業だと思うようになった。瑠衣から送られてきた、前領主の悪行を並べ立てる文を読んで、もしや彼女にも記憶があるのではと怪しんだ。逃がすことは許されない。そう考えて、舞衣を人質として、妖を殺す毒を送った。
ところが、またもや時間が巻き戻ってしまった。
妖に露見して殺し損ねたのかと思い、舞衣に様子を探りに行かせたのが三回目。この時は、密かに別の妖狩りも派遣して、周囲の結界や村の状況の把握にも努めた。瑠衣が白銀に篭絡された姿に、舞衣は憤っていた。舞衣ならば瑠衣は手を出せず、瑠衣の妹ということもあり白銀も油断するだろうと思い襲撃させた。しかし、それも失敗してしまった。
そして――四回目。
三回目の報告で、白銀の妖力が弱まっている事実を把握していた。倒すのであればここしかないと、今までのような手順は踏まずに奇襲をかけたのだった。
(もう一匹、強い妖がいるが、主を倒せば逃げるだろう)
戦況を把握しながら政重はそう判断する。ならば、出し惜しみはせずに、一気に押し切るべきだろう。
「そろそろ諦めるがいい!」
轟音とともに熱波が吹き荒れ、白銀が守る結界を引き剥がしていく。炎が収まった後には、傷ついて息を荒げる白銀と、それに寄り添うような瑠衣の姿。
「勝負あったな」
刀に炎を纏わせて政重は一歩近づいた。非常識な繰り返しの妖術といい、今までにないほど強い妖だったが、何とか勝てそうだ。
「くそったれが!」
悔し気に顔を歪めて白銀が吐き出した。
「オレもただじゃ死なねえぜ。どうせならお前らも道連れにしてやらあ!」
白銀の身体から白い妖力が放たれる。最後の足掻きを警戒して足を止めて構える。ところが、その妖力の行き先に、一瞬だけ唖然としてしまった。
「えっ……し、白銀!?」
驚いたような声を上げたのは瑠衣だ。なぜなら、妖力に縛られた彼女の身体が宙に浮き、足元からピシピシと氷に包まれていったからだ。
「い、いやああああっ!」
甲高い悲鳴が周囲に響くも、容赦のない妖力は瑠衣の全身を覆う。信じていた妖に裏切られた少女は、あっという間に氷の彫像と化していた。
「へへ……これで、お前も終わりだな」
捨て鉢になったような白銀の笑い声に弾かれたようにして政重は走った。
先に瑠衣が死んでしまえば、また繰り返しが発生し、せっかく奇襲をした優位性が崩れてしまう。尤も、白銀にそこまでの力は残っていないかもしれない。この空間を脱出するより先に崩壊が起こり、この場にいる全員が巻き添えになって死んでしまう可能性だってある。
「貴様ぁっ!」
政重の振るった刃はわずかに届かず、白銀は遠く間合いを取ると、強固な氷の結界を張り巡らせた。すぐにあれは破れない。そう判断した政重は、氷の彫像へと炎を放った。
「燃えろ!」
まずは溶かして瑠衣の命を確保する。やっていることが逆転してしまったが、あの追い詰められた妖は、次に何をするかわからない。
「オレを放っておいていいのかよ?」
その隙を逃さず、結界を解いた白銀が肉薄してくる。危ういところで政重は刀で防ぎ、再び瑠衣を救出すべく炎を放った。
「小癪な真似を!」
政重は憎々しく舌打ちをした。
「やはり妖だな。己が生き残るなら、人間の娘の命などどうでもいい」
「お前に言われたくはねえぜ。だがな――」
白銀がニヤリと笑みを浮かべる。その表情に政重の背筋に悪寒が走った。
何か致命的な失敗を犯した気がする。それに気付く前に白銀が叫んだ。
「かかったぜ。やれ! 瑠衣!」
――パリン。
政重の背後で氷の割れる音。
背後を振り向いた政重は、己の負けを悟ったのだった。
◆
「――お母様の仇っ!」
氷を内部から呪力で粉々に砕いた瑠衣は、両手に氷の刃を持って政重へと突撃した。驚いた様子の政重は、明らかに迎撃が遅れる。
これが最初で最後の機会。自分と白銀で作り出した隙だ。
全身全霊をかけるつもりで、政重の刃をかいくぐり、身体ごと瑠衣はぶつかった。
「はああああっ!」
手の平に肉を刺す感触。
瑠衣の突き出した刃は、政重の胸を正確に刺し貫いていた。
「おのれ……貴様ら……」
ごぽり。血の塊を吐き出して、政重の身体が傾いでいき、やがて大きな音を立てて地面に倒れ伏した。
「お母様、舞衣……やりましたよ」
肩で息をしながら、瑠衣は戦いの続いている周囲を見回した。氷の刃を振って血を落とすと、それを頭上高くに掲げる。
「わたしたちの勝ちです! 武器を納めなさい! 無益な殺生は望みません」
押され気味だった妖達の士気が上がる。逆に、妖狩りは倒れた政重の姿を見て大いに動揺した。美桜がその隙を逃さず、妖狩りを下がらせていく。
(これなら何とかなりそう)
大きく息を吐いて戦況を見詰める。さすがに瑠衣自身も疲れ果てていた。自分が参戦したところで、あまり大勢に影響はなさそうだ。
「ようやく終わりそうですね、白銀。ですが、あれほど手加減の必要はないと言いましたのに、わたしへの氷が甘くて、策を見破られないかと冷や冷やしていました」
「馬鹿野郎。自分を氷らせろとか、そんなふざけたことをぬかす嫁はお前くらいだ。政重が乗ってこなけりゃ、お前がお陀仏だったんだぞ?」
白銀が心中を選べば、きっと政重は瑠衣を助けようとする。
それが、瑠衣の立てた作戦だった。
余力のあるうちに、政重の攻撃を敢えて一撃受ける。白銀は勝てないと演技をして、瑠衣を氷らせて殺そうとする。氷の中で瑠衣は、自分の呪力を結集して耐えていたのだ。政重が慌てて溶かしにくることも見越して。
政重は二人の予想通りの行動を取った。後は、自力で破れるほどに氷が溶けた頃合いと、政重の隙を見計らって氷から飛び出した。
母の仇を討つ――その強い意思とともに。
「……ぐっ……」
突然、その場に膝をついた白銀を見て、瑠衣は慌てて側に駆け寄った。
「どうしたのですか! どこか酷い怪我でも!?」
見た目はボロボロだが、致命傷のような傷は見当たらない。見えない場所にあるのだろうか。白銀を支えながら、ゆっくりと地面に横たえたその時、頭上で激しい雷のようなものが鳴った。
「こ、これは……」
空に黒々とした渦が出現していた。突風が吹き、木々が騒めく。何度も何度も稲光が不気味に走る。明らかに自然現象ではない。一体、誰がこのようなものを起こしたのか。他にまだ敵がいたのだろうか。
「う、うあわあああ!?」
恐怖に満ちた悲鳴にそちらを向くと、妖狩りの一人が宙に浮いていた。そのままぐるぐると空中を回り、断末魔とともに空の渦へと飲み込まれていく。周囲に視線を向ければ、石くれがめくれ上がり、屋敷もミシミシと鳴っている。妖達は空へ飛ばされまいと、地面へ必死にしがみついていた。
「あー、こりゃ、力を使い過ぎたな」
どこか呑気な声は白銀だった。瑠衣を膝枕にして達観したようにそれを見詰める。
「力を使い過ぎたとは?」
「言葉通りの意味さ。もうすぐ、この空間の全てが崩れる」
その本当の意味を悟り、瑠衣は愕然と白銀を見下ろした。
瑠衣を閉じ込めた氷が甘かったことにも説明がついた。もう白銀にはほとんど妖力が残っていなかったのだ。自分を心配して手加減してくれたのではなく、あれ以上のことができなかったのだ。
「白銀、しっかりしてください!」
必死に呼びかけるも、白銀はどこか眠そうだ。
「安心しろ。お前くらいは助けてやる」
ゆらりと白銀の手が上がり瑠衣の腰へ触れると、そこからピシピシと氷が生み出されていった。それはゆっくりと瑠衣の身体を侵食するように上がっていく。白銀もろとも氷に閉じ込めるかのように。
「し、白銀! それはいけません!」
己の命でもって自分を生かそうとするつもりだ。氷の中に封じ込め、この空間の崩壊から瑠衣を守る。それを悟り逃れようとするも、既に座った足元は氷に包まれて動けなくなっていた。
「お願いです! やめてください!」
白銀の身体も氷に包まれていく。逃げられないと感じた瑠衣は、逆に白銀を抱えるようにして自分の胸へと抱き寄せた。自分の呪力を展開し、白銀の妖力に抗う。
「眠ってはなりません! 目を開けてください!」
「瑠衣……抵抗するんじゃねえ」
弱々しく白銀の口元が動いた。
「どうにもならねえときは、こうしようと思ってたんだ。政重の野郎に気付かれないように、妖力を残しておくのは大変だったんだぜ?」
「世迷言もいい加減にしてください! わたしを後家にするつもりですか!」
「そうだな。それは悪いと思ってる」
氷が侵食してきて、座っていた下半身は完全に埋まってしまった。少しでも時間を稼ごうと白銀を抱え起こすも、それを支えている手にも徐々に氷が伸びてきた。命をかけた白銀の妖力は強く、とても瑠衣の呪力では防ぎきれない。
胸のあたりまで氷が上がってきたところで、白銀が静かに目を閉じた。
「オレは後悔していたんだ」
「後悔?」
「お前を助けたあとに、妖狩りへ戻したことだ」
白銀の声は囁くようで、よく聞き取れない。瑠衣は苦労してその口元へ顔を寄せた。
「オレがそのまま攫っちまえば、お前がこんなに酷い目に遭うこともなかっただろうによ。だがな、人間の世界の娘だからと思ったんだ。オレが欲望に任せて自分の物にしていれば、今日だってこんなことにはならなかったかもしれねえ」
「何を勝手なことを言っているのですか」
もう腕も氷の中へ埋没してしまって動かない。それでも白銀を支えたつもりになりながら瑠衣は必死に訴えかけた。
「わたしはそれでよかったと思っていますよ。たしかにわたしは苦労をしました。けれど、わたしがいなければ、次に利用されたのは舞衣だったでしょう。わたしと舞衣。二人を助けてくれたのは、紛れもないあなたなのですよ!」
激しく訴える瑠衣へ、白銀の唇が少しだけ笑みの形になる。
「そいつは……よかったぜ」
「白銀……白銀っ!」
氷に包まれた腕の中で、白銀の身体から力が失われたのを感じる。それと同時に、爆発的に氷が生み出され、問答無用で瑠衣を包み込んでいく。
「くっ……白銀……っ!」
もう抑えきれない。そう感じた瑠衣は、白銀の唇へ自分の唇を押し当てた。少しでも彼に触れている面積を増やしたい。
この気持ちを伝えたい。
そして――そのままの姿で、二人は氷に包まれた。
(白銀、白銀……!)
氷に包まれた中で、まだ瑠衣は意識を保っていた。
身体はピクリとも動かない。呼吸も出来ない。呪力だけで持たせているが、それも長くはないだろう。
そんな絶望的な状況で、瑠衣は必死に願っていた。
白銀は人々の願いから生まれた妖だと言っていた。
今までに、どれほど多くの人々の願いを叶えてきたのだろう。
健康、豊穣、子宝……そのようなものだけでなく、もっと即物的なものだってあっただろう。お金や、落とし物を見つけたいといった。
それらの願いや祈りを聞くたびに、白銀の妖力の源となった。
(みんな、願っていますよ)
妖屋敷の妖達は、白銀の幸せを願っている。瑠衣がその隣で笑っていることを願っている。そこに、瑠衣の呪力のおこぼれをもらいたい。そんな邪な思いがあったとしてもだ。
美桜だって願っている。白銀を主君と仰ぐ姿は、まるで兄妹のようではないか。
死なないで、という願いを残したのは舞衣だ。このまま白銀がいなくなってしまえば、自分は間違いなく自死を選ぶ。
――そして。
(わたしは、白銀とともにありたいと願いました)
そうして三度も繰り返したのだ。
繰り返すたびにその願いは強くなり、今ではどうしようもなく瑠衣の中心に鎮座している。他のものは何を譲ってもいい。けれど、この願いだけは誰にも……白銀にすら譲ることはできない願いだ。
(何より、あなたの嫁のお願いですよ?)
通りすがりの村人の願いも叶えただろう。
それなのに、最も大切なはずの者の願いを叶えないとは何事ですか。
自分は通りすがりの者以下となってしまう。もしも、白銀がその程度しか思っていないのであれば、この空間なんて全て破滅して無くなってしまえばいい。
(叶えてください。わたしの一生のお願いです)
いくら願っても白銀は黙ったまま。次第に呼吸は苦しくなり、呪力も尽きてきた。このまま果てるしかないのだろうか。
(――お母様……)
意識を失いかけ、最後に志乃の顔が脳裏に浮かんだ。
同じ呪力を持ち、それを扱う術を教えてもらった。妖狩りの中では異端だったかもしれないが、瑠衣にとっては偉大な母だった。
(いえ、まだです……!)
志乃に封じられた最後の力が残っている。その封印こそが、この苦境を抜け出す最後の鍵だと思っていた。白銀ですら見逃した、我が身に掛けられた香。いつも身に纏っていた香と同じ匂いだったからこそ見落とした。
まだ早い――そう、あの時はまだ早かった。あの歳で全てを捧げるには、まだ。
必死に意識を繋ぎ留めながら、瑠衣は自分の奥深くへと潜っていく。呪力が湧きだす源とも呼べる心の臓は、禍々しい毒に覆われていた。けれど、その奥に少しだけ感じる匂いで、自分の考えは間違っていなかったと確信する。
(今のわたしなら!)
最後の呪力を振り絞り、少しずつ毒を浄化していく。その奥から現れた命の源は、春の息吹のような強烈な匂いを放っていた。これだ、これが本当の自分の呪力だ。ただ美味しいだけの呪力ではない。一緒に生きるという願いを届けるための呪力だ。
これこそ、志乃が封じた一番の理由。今なら理解できる。
重傷を負っていた白銀が、どうして何も治療をしていないのに傷が癒えたのか。あの時の瑠衣に、そんな治癒の力などなかった。できたのは白銀を隠すことだけ。それにもかかわらず回復したのは、瑠衣が無意識に白銀に呪力を与えたからだ。彼の妖力を増幅させるための呪力を。
このようなものを妖に見せたら喰らい尽くされるに違いない。たしかに十三の歳ではまだ早かった。けれど、今ならば――自分の覚悟は決まっている。
(白銀、お願いです。目を覚ましてください)
それをもって白銀へ呼びかける。
本当に、一生に一度のお願いなのだから。
そのために全てを捧げる。
生贄?
上等ではないか。
白銀の生贄になれるのであれば本望だ。
(白銀……)
今度こそ息が続かなくなり、意識が遠のいていく中、瑠衣は一心不乱に願った。
それは、いつしか光となり、氷ついた二人を暖かく包み込んでいく。瑠衣の中心から滲み出た呪力が、命の輝きのように黒々とした空へ伸びて――
「――ったく。なんて匂いをさせてんだ?」
はっ、と目覚めた時は白銀の腕の中だった。
いつの間にか意識を失っていたらしい。二人を氷らせていたはずの氷は無くなり、薄い膜のような結界が張られていた。
それは徐々に大きく広がっていき、意識を失って倒れている舞衣や美桜、妖達や、妖狩りをも包んでいく。今や空を覆っている黒い渦と拮抗するようになっていた。
「オレの口元で、あんな美味そうな匂いさせるんだぜ? そりゃ、死者でも蘇っちまうってもんだ」
「白銀……」
願いが届いたのだ。じわりと目の前が滲みそうになる。
「おっと、泣くのはまだ早いぜ」
白銀は立ち上がると右手を頭上に掲げた。その上には黒い渦の中心がある。
「お前も手伝ってくれるよな? まさか願うだけ願って、後のことはオレ一人にさせるつもりじゃねえだろうなあ?」
「わたしはあなたの嫁ですよ。当り前です!」
瑠衣は勢い込んで頷いた。白銀の隣に立つと、背伸びをしてその手に自分の手を重ねようとする。届かないと見るや、白銀が腰を抱えてくれた。
「行くぜ?」
「いつでもどうぞ」
同じ高さの位置に白銀の顔がある。それだけでとても心強く感じた。
瑠衣は瞳を閉じると、願いを――己の呪力を白銀に注ぎ込んでいく。
「お前の呪力はやっぱり美味いな。全部喰っちまいそうだ」
「あなたの側にいたいのですから、半分くらいは残しておいてください」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑った瑠衣を見て、白銀が思わず吹き出した。
「そうだな。これでもう、十分だ」
白銀の右手に妖力が収束していく。計り知れないほどの力を集めているというのに、白銀はどこか楽しそうな表情。
「さあ、このくそったれな空間をぶっ壊すぜ!」
笑いながら放った白銀の妖力が、黒い渦の中心を貫いた。まばゆい太陽がその向こうから現れ、黒い渦は急速に霧散していく。いくらも経たないうちに、繰り返しとなっていた空間は消えていき、通常の――本当の世界が戻ってくる。
その様を、呆然と瑠衣は見詰めていた。信じられないといった思いが強い。また死んだら戻ってしまうのではないだろうか。そんな焦りもあって前を向くと、微笑みを浮かべる白銀の顔があった。
「白銀……」
「ありがとよ。お前のおかげで助かった。他のヤツらもな」
促されて周囲を見回すと、倒れている人や妖達。舞衣と美桜も気を失っているが、その胸が微かに上下しているのを見て、やっと安心する。
「白銀、わたし……わたし……っ!」
じわじわと実感が広がってくる。再び目の前が滲みそうになったところで、瑠衣の身体を抱え直して白銀が真正面から見据えてきた。
「お前の願いを叶えたんだ。オレの願いも叶えてくれるか?」
真摯な瞳だ。何か本気の願いがある。
それを感じて瑠衣は気を引き締めて頷いた。
「もちろんです」
「一生、オレの側にいてくれるか?」
そこで――瑠衣の涙腺は一気に崩壊した。
「白銀ぇっ……!」
わんわん泣きながら、白銀の首へと腕を回す。
もう、自分が何をしているか、何を叫んでいるかも理解できていない。ただひたすらに、白銀の名を叫び、絶対に離すまいと必死にしがみつくしかできなかった。
「だから、そんないい匂いをオレに押し付けるんじゃねえ!」
少しばかり怒ったような口調すら、瑠衣にとっては心地よい。やがて、白銀も諦めたのか、瑠衣の背中に腕を回すと痛いくらいに抱きしめる。夢見心地になりながら瑠衣はそれを受け入れた。
「それで、返事くらいもらってもいいと思うんだがなあ?」
耳元で囁かれ、収まりかけていた涙が再び頬を伝った。
返事などもう決まっている。言うまでもない。
けれど、その願いに対して、瑠衣は言葉にしてこたえるべきだと思った。
「……はい! わたしのほうこそ、お願い致します!」
「ありがとよ」
白銀の唇が近づいてきて、瑠衣の目尻の涙を吸った。くすぐったくて、反射的に首をすくめてしまう。それにも構わず何度も唇が触れた。
「お、美味しいのですか?」
「しょっぱい」
正直な感想に、思わず瑠衣は笑ってしまうも、続けられた言葉に慌てる羽目になる。
「お前の口の中は甘かったよなあ。まさか、氷の中で口付けしてくるとは思わなかったんだぜ?」
「そ、それは……んっ!」
言い訳をしかけた瑠衣は、問答無用で唇を塞がれた。
(白銀のほうこそ、甘いではないですか)
しばらくは離してもらえそうもない。
そんな予感を覚えながら、瑠衣は己の全てを委ねる。
これからは、繰り返しなどせずに白銀の隣にいるのだ。
それこそ、死が二人を分かつまで。
繰り返さない日々を、一日も無駄にせず過ごすのだ。
その決意を見せつけるかのように、白銀を抱く腕に力を込めたのだった。
繰り返しの空間を破ってからひと月が経過した。
外の世界では、突如として現れた結界――要するに、瑠衣と白銀が起こした妖力の暴走に驚いていたようだ。何をしても破ることができず、内部の様子を窺い知ることもできない。他の地域の妖狩りの総力を結集してもどうにもならず、中にいる者は全て死んだと思われていたらしい。
それが、出現したときと同じように、これまた突然消失した。しばらくは不気味過ぎて、妖狩りも用心して近づけなかった。
繰り返しの空間内に捕らえられていた妖狩り達は、何が起きたかきれいさっぱり忘れていたようだった。それは、舞衣や美桜、他の妖達も同様で、どうして白銀の屋敷で倒れているのか全員把握していなかった。たしかなのは政重が倒れたことだけ。
他の者達が起きる前に、舞衣だけには先に真実を伝えていた。本当に悪事を働いていたのは、盆地の村を治めていた前の領主であり、この屋敷に住んでいた妖は、むしろ村を守ろうとしていたのだと。そして、政重は前の領主と通じており、その悪事を瑠衣が成敗した、と。
さすがに瑠衣と血を分けた妹。おぼろげながら記憶が残っていたのも説明を早くした。瑠衣は白銀の側にいる都合上、もう表舞台に立つことはできない。後始末を舞衣に拝み倒して押し付けて、その場から離れたのだった。
そして、後始末も終わったころ、村の近くの森の中で、瑠衣は別れを惜しんでいた。
「お姉ちゃん、行っちゃうんだ」
「いつまでもここへ留まるわけにはいきません。何しろわたしは死んだのですから」
「……ほんとは、そんな風にはしたくなかったんだけど」
寂しそうな舞衣の声に、瑠衣は努めて明るく笑った。
舞衣の考えた筋書きの中では、瑠衣は政重と協力して妖と戦い、そして相討ったことになっていた。それが一番誰もが納得する内容であり、余計な波風も立てなくてすむ。
「それに――」
瑠衣の背後に立つ白銀を見て、舞衣は小さく肩をすくめた。
「お姉ちゃんのそんな幸せそうな顔。見てたら邪魔するなんて絶対にできないし」
完全に不貞腐れた表情。拗ねていると表現してもいい。白銀に姉を取られて面白くないと全身で表現している。
「ごめんなさい。本当はわたしも舞衣を残していくのは心が痛いの」
「わかってるよ。あたしだってお姉ちゃんが生きていてくれて嬉しいんだから」
繰り返しの部分の記憶は、やはり一回目に瑠衣が斬られたあたりはないらしい。舞衣にはそこも含めて話していたので、大いに泣かれたものだ。
「ま、今生の別れってわけでもねえからな」
白銀が頭の後ろで腕を組んで呑気に言う。
「頃合いを見てまた会いに来るさ。お前こそ、妖にやられて瑠衣を悲しませたら承知しねえからな」
「あったり前じゃん!」
むっ、としたように舞衣が眉間に皺を寄せた。びしっとばかりに白銀を指差してまくし立てる。
「白銀こそお姉ちゃんを悲しませたりしないでよね。一回でも泣かせたら、絶対に成敗しに行ってやるんだから!」
「おお、怖い怖い」
大げさに白銀が肩をすくめる。
そんな二人のやり取りを、いつまでも見ていたいと瑠衣は思ったが、太陽の位置を確認してそろそろ時間だと判断する。
「では、舞衣。わたしたちはこのあたりで」
「うん。またね!」
泣きそうな顔になるも、舞衣はそれを堪えて大きく手を振った。涙を見られる前にと言わんばかりに素早く背中を向け、森の外の街道へと走っていく。その姿が見えなくなってから瑠衣は反対側へ足を進めた。
「行きますよ、白銀」
「そうだな」
人里を敢えて離れて、山の中の獣道を選んで進む。
街道を使わないのは全ての封印が解けたからだ。白銀曰く、今の瑠衣は「とても美味しそう」な匂いを振りまいており、妖を引き寄せやすい体質になってしまっているそうだ。何も考えずに村へ下りると、妖に襲われて迷惑をかけるかもしれない。
「よいしょ……っと」
白銀が差し出してくれた手を握り、苦労しながら急な坂を登る。少し上がった息を整えていると白銀が言ってきた。
「なあ、本当に封じなくていいのかよ」
「呪力がないと白銀のただのお荷物ですからね。五年間の空白を取り戻して、白銀を守れるだけの力をわたしもつけませんと」
「いや、だから、そこはオレが守ってやるって」
それこそ、繰り返しの空間でもないのに、何度も繰り返したやり取り。瑠衣は毅然としてその申し出を突っぱねた。
「白銀こそ。わたしの呪力を封じたら、美味しい匂いとやらが嗅げなくなってしまうのではないですか?」
「そりゃ、そうだがなあ……だからって、他の妖にお前の呪力を見せたくないっつーか」
子供っぽい独占欲を発露する白銀だが、それに付き合う義理はない。ふふふ、と笑いながら瑠衣は続けた。
「それに、白銀の妖とも約束しましたからね。繰り返しを抜けるのに協力してくれたら、わたしの呪力を報酬に、と」
「それこそ、誰も覚えてねえから無効じゃねえのか? 美桜ですら忘れてるぞ」
本当に面白くなさそうに白銀が唇を尖らす。
「だからといって、約束を反故にするわけには参りませんよ」
白銀は人々の願いから生まれた妖だ。繰り返しの空間の中で、みんながそれぞれ願えば、白銀の妖力が増幅され、繰り返しを脱出できるのではないか。
それが瑠衣の考えていた作戦だった。政重の奇襲や白銀の妖力の枯渇などで、思い描いていた経過ではなかったが、結果としてはその目論見は見事に当たった。
たしかに瑠衣が約束した、呪力の件を覚えている妖は誰もいない。だが、白銀の配下の妖は、二人の進む道に危険な妖がいないか偵察してくれているのだ。その恩をただで受け取るのは瑠衣も気が引ける。
「――ふう。やっと到着しました」
小高い丘を登り切り、瑠衣はうっすらと額に浮いた汗を拭った。
眼下に広がるは盆地の村。白銀が悪徳領主を追い出して守った村だ。
「村ではたくさんお世話になりました」
繰り返しの中で、何度も何度も祝ってもらえた。その恩は何も返せていない。その心中を読み取ったのか白銀の手が瑠衣の肩に触れた。
「舞衣が上手くやってくれたろ」
「はい」
悪徳領主を告発したのは舞衣だ。新たな領主が派遣されたと聞いている。どうか今度はよい領主でありますように。瑠衣としてはそう願うしかない。
「それで、これからどうする?」
白銀の問いかけに、瑠衣は小首を傾げた。
「どう、とは?」
「いつまでもここに突っ立ってるわけにはいかねえだろ。寝床を探して結界を張らねえとな。お前の望む場所に作ってやるぜ? 川の側がいいか、それとも海の側か? 山の上も涼しくていい感じだぞ。二人きりで朝までべったりだ」
あからさまな愛の巣を作るぞ発言に、瑠衣の頬が赤く染まるも、次に何をしたいかはすでに結論が出ていた。白銀を正面に見て、宣言するように口を開く。
「わたしは、旅をしたいと思います」
ほう、と白銀の眉が上がる。
「白銀は多くの人々の願いを叶えてきたのですよね。それはとても素敵なことではないでしょうか。わたしも困っている人々を助けたい」
「瑠衣……」
「五年間。香のおかげもあって、屋敷で軟禁生活をしておりました。ですから、あまり外のことを知らないのですよ。外ではどのようなことがあり、誰が困っているのか。きっと楽しいことも辛いことも、同じくらいあるのでしょう。それらを、わたしは白銀と一緒に見たいのです」
どこかの山奥に定住して、白銀の腕に抱かれて一生を終えるのも選択肢の一つだろう。だが、白銀の話にこそ、瑠衣は魅力を覚えていた。
多くの助けがあったからこそ、こうして白銀の隣にいられるのだ。同じような助けを待っている人も絶対にいるだろう。幸いにも呪力は戻り、鍛錬をすれば白銀の足を引っ張らない程度にはなれるはず。白銀の望みとは違う行動かもしれないが、この気持ちは絶対に理解してくれるはずだ。
「……そうか」
白銀の大きな手が瑠衣の頭を撫でた。
「やっぱりお前はいい嫁だな!」
「そ、そうですか?」
ぐらぐらと意外に強い力で頭が揺さぶられる。少し目が回ってしまい、白銀の胸にもたれかかる形になってしまった。
「ああ、オレの自慢の嫁だ」
さすがにそれは照れてしまう。
「……褒めても何もありませんよ」
「えー? それはおかしいだろ」
不服そうな声音に顔を上げると、そのまま顎に手を添えられ、顔の位置が固定される。
「お前の願いは叶えてやるが、オレの願いも少しは考えて欲しいんだがなあ?」
「……もちろんです」
逃げるつもりはない。
自分だって少し期待していたのだから。
瞳を閉じると、そっと白銀の唇が重なった。
この先には、自分の知らない世界ばかりだろう。さまざまな人に出会い、大きな事件に巻き込まれるかもしれない。それでも、白銀が隣にいるなら、どんな苦難でも乗り越えられる気がした。
(白銀……ありがとう)
優しい抱擁を受けながら、瑠衣は期待に心が高鳴るのだった。
〈了〉