日葉里(ひより)ちゃん、ジャガイモ茹でて。お湯が沸くの待つ間に、ひき肉こねてくれる」

 理恵(りえ)の言葉に、日葉里の意識が現実に引き戻される。
 「はい」と、素早く返事をして、水をはった鍋を火に掛けた。
 そしてひき肉をこね始めると、記憶はまた過去へと引き戻されていく。

 大洋を自分で育てる覚悟をした日葉里を見かねたのか、毅一(きいち)がとりあえず家に戻ってこいと声をかけた。
 ただそうすると、今勤めている工場に通うのは難しくなる。
 でもそれでいいような気がした。
 大洋も小学生になる前だから、大きく環境を変えるには、今がいいタイミングに思えたのだ。
 それで仕事を辞めて実家に戻ることを決めたら、その話しを聞きつけた理恵が、ちょうど人を雇いたいと思っていたからと、日葉里にやどかり弁当で働かないかと声をかけてくれた。

『ご飯を作る、ご飯を食べるっていうのは、辛くても死なないっていう決意表明なの』

 その言葉が、日葉里の辛い時期を支えてくれた。
 だから調理の仕事に強く惹かれて、その話しを受けたのだ。
 調味料を混ぜてこねた挽肉を型に平らに馴らしていく。その途中、短く切ったアスパラを均等になるよう混ぜ込み、表面に芥子の実の代わりにゴマを散らしてオーブンで焼く。
 そして湯が沸いた鍋に、薄皮が残っているジャガイモを入れていく。

「おじさんの卵焼き食べたいな」

 調理の合間に、味見と称して日葉里の作った卵焼きを食べて理恵が言う。
 それは別に、日葉里の卵焼きに文句を言っている訳じゃない。

 『いっこく』と『やどかり弁当』は、どちらも同じ卵も道具を使っているのだけど、居酒屋で出す卵焼きと、お弁当屋のそれでは作り方に大きな違いが出てくる。
 『いっこく』の卵焼きは、ホクホクふわよろの状態で、大根おろしを添えて出す。
 かたや『やどかり弁当』の卵焼きは、水っぽくならないよう固めしっかり焼く。味付けも濃い。お弁当用なのだから、当然だ。

 卵焼き一つとってもそうだが、冷めている状態で食べることが前提のお弁当は、一般的な家庭料理と作る際に意識することが違ってくる。
 冷めても美味しく感じるように濃いめの味付け、型崩れしにくいもの、食中毒を避けるため痛みにくいもの、水っぽくならないよう水分がでにくいものと、縛りが多い。
 日葉里は、ここで働くようになってはじめて、弁当の唐揚げ弁当の下にパスタを敷く理由を知った。あのパスタが、余分な油を吸収してくれるのだ。

「そういえば今日、榎波(えなみ)が来るって」

 何の気なしに思い出した様子の理恵の言葉に、日葉里が嫌そうな顔をする。

「なんのために?」
「仕事でしょ」
「東京から?」

 日葉里のその言葉にはなにも応えず、理恵は次の作業に取りかかる。
 それで日葉里も、質問をあきらめて、手元の作業に意識を集中させる。彼が店を訪れる理由がなんであれ、店に来るという事実は変わらないのだ。

(榎波さん、苦手なんだよな)

 割り切っているつもりでも、そんな本音が内心でこぼれる。
 『やどかり弁当』には、日葉里の他にも従業員がいる。
 忙しい曜日だけ、販売の時間に店番に来てくれる主婦の鈴木智子(すずきさとこ)だ。

 その三人で回しているはずなのだが、もう一人、榎波という男性が時々現れる。
 スタッフではないのだけど、理恵に指示されるままに雑用を手伝い、理恵が溜め込んだ伝票処理を済ませ、日葉里が撮影しておいた弁当の写真を編集しウエブサイトにアップして帰っていく。
 帰り際、売れ残りの弁当を理恵に定価で売りつけられることもある。

 日葉里が彼について知っているのは、普段は東京で働いていて、この店には仕事の関係で訪れているということぐらいだ。
 長身で鼻筋がスッキリした整った顔立ちの彼は、見るからに頭が良さそうだし、いつも一見して上質そうなスーツと皮靴というスタイルで現れるので、東京ではちゃんとした仕事をしているのだと推測をしているが招待は不明である。
 きちんと確認したわけではないが、榎波に給料が支払われている気配はない。
 いつもひどく仏頂面で現れるので、理恵に好意を抱いて、無報酬でもいいから彼女のそばにいたくて店にやって来ているということもないだろう。
 それでいて、定期的に現れては店を手伝っているので謎な存在である。