「死ぬ予定がないなら、ご飯を食べなさい」

 春樹(はるき)の葬儀の日、精進落としの料理を前に茫然自失となっていた日葉里(ひより)に、理恵(りえ)はそう声をかけてきた。
 正直に言うと声をかけられた時、日葉里には相手が誰なのかわからなかった。
 泣き疲れてほうけていた頭では、子供の頃に数回会ったことがあるだけの理恵が誰なのかわからず、春樹側の親戚と勘違いしていた。

 祖父母が健在だった頃に親戚の集まりで数回会ったことがあるだけの理恵が式に出席してくれたのは、毅一(きいち)の店を間借りしているからだろう。理恵が『いっこく』を間借りしていることは聞いていたが、本人に会うことはなかった。
 おぼろげな記憶でも姉御肌だった印象のある理恵は、日葉里に強引に茶碗蒸しとスプーンを持たせた。
 その有無を言わさぬ勢いに押され、茶碗蒸しを一口食べると、出汁のきいた柔らかな触感が喉を撫でていくのが感じられた。

「冷たい」

 日葉里はポツリと呟く。
 茶碗蒸しは冷めていたが、声がかれるほど泣いた喉には、それがかえって気持ちいい。
 それでもそれ以上食べる気にはなれない。

 茶碗蒸しとスプーンを手にしたまま日葉里がうつむいて黙り込むと、理恵は無言でその場を離れていった。
 残された日葉里は、並べた座布団を布団代わりにして眠る大洋(たいよう)の顔をぼんやり眺めた。幼いなりに父親の死を理解して散々泣いた大洋の頬には、涙の筋が残っている。
 春樹の両親とは、さっきやんわりとだが『こちらで大洋を引き取るから、ひとりで人生をやり直してはどうか』と提案され、険悪な雰囲気になったばかりなので、こちらに話しかけてくる気配はない。

 夫を失ったばかりなのに、子供まで取り上げようとする春樹の両親が鬼のように思えて、感情的な言葉を散々わめき散らしてしまった。
 彼らだって、息子を亡くしたばかりなのに。
 そのやり取りを見ていたこともあり、他の親族も話しかけては来ない。
 毅一は酔っ払った親戚の相手をしている。
 周囲が自分に向ける同情や哀れみの声に、その不幸が自分でなくてよかったと安堵している本音が見え隠れしていているようで耳障りだ。
 頭の冷静な部分では、それが被害妄想に近い感覚だという自覚はある。
 そんなふうに考えてしまうのは、過去に誰かの不幸を耳にした時に、自分がそう思っていたからだ。
 不幸は予測困難なゲリラ豪雨のようなもので、誰かがその災難に見舞われても、同情はするが自分の頭の上では降らなかったことに安堵する方が強かった。
 そして根拠もないのに、自分の上には雨は降らないと決めつけていた。
 今、そんな脳天気な自分をあざ笑っているのは、他でもない過去の自分だ。

(気持ち悪い……)

 日葉里は、ざらつきを覚えで胃を撫でる。
 さっき口にした茶碗蒸しが、上手く消化できずにいるみたいだ。

(食べない方が楽だったかも)

 そう思うと同時に、このまま全ての食事を拒絶したら、死ねるのだろうかという考えが頭を過ぎった。
 別に死にたいわけじゃない。大洋を残して、死ねるわけがない。
 そう思う反面、大洋には春樹の両親が付いているから大丈夫ではないかという思いも働く。
 さきほど、大洋を引き取ろうかと言われたばかりだ。
 違う。死にたいわけじゃない。
 ただ、ひたすらにネガテブに作用するこの思考回路をストップさせたいだけなのだ。

「……」

 やるせない息苦しさに胸を押さえていると、隣に再び理恵が腰を下ろした。
 その手には、お椀が一つ握られていた。

「無理矢理、給湯室借りてきた」

 悪戯の成功を自慢するような口調で話す理恵は、手にしていたお椀を日葉里の手に握らせる。
 お椀から伝わる温度が日葉里の心に染みる。

「これは?」
「おじや。そこに並んでいるお寿司をばらして作ってきた。給湯室には調味料まではないから、ガリと醤油だけの味付けになっちゃったけど」

 そう言われて、手にした椀に視線と落とした。
 刻んだ白身魚や卵焼きが見え隠れするおじやは、寝付くまで抱いていた大洋の体温を思い出させる。
 ぼんやりとそれを眺める日葉里の肩を、理恵がポンッと叩く。

「落ち込んでるときに冷たいもの食べてると、心の温度がよけいに下がるから。まずは温かいものを食べて」

 理恵は日葉里を励ますために、急いでこれを作ってくれたのだ。
 それなら、むげに拒むのは気が引ける。

 胃は、さっきの茶碗蒸のせいで消化不良を起こしてムカムカしているけど、彼女の手前、しぶしぶおじやを口に運んだ。
 匙で少量すくって嚥下する。その瞬間、甘みと酸味がほどよく混ざった酢飯の味にホッと息が漏れた。

 調味料がなかったと話していたから、給湯室に出汁があるとは思えない。だからこの柔らかな味は、寿司ネタの魚介類から出たものなのだろう。
 それにところどころに黒いものが浮いているから、海苔巻きの海苔も、味付けに一役買っているのかもしれない。

「美味しい。春樹が好きそうな味……」

 魚介類の味が、釣り好きの春樹の記憶を呼び起こす。

「食事は、家族の思い出を繋ぐ作業だから」

 日葉里の呟きに、理恵が言う。
 なにを言われてもネガティブな方向へ意識が傾いていた日葉里の心に、その言葉が深く染み渡る。
 春樹が死んでから今日まで、こんな穏やかな気持ちで彼の存在を感じたのは初めてのことだ。
 彼女に見守られながら、日葉里は一口、二口とゆっくりおじやを口に運ぶ。

「起きたら、大洋にも作ってあげようかな」

 泣き疲れて眠る大洋の胃も、自分同様に疲れているはずだ。
 日葉里の言葉に、理恵が頷く。

「それは良い考えだよ。ご飯を作る、ご飯を食べるっていうのは、辛くても死なないっていう決意表明なんだから」

 素っ気ない彼女の言葉に日葉里が視線を上げると、理恵が言う。

「怖くても、大丈夫じゃなくても、私たちは死ぬまで生きるしかないの。そして生きるためには、美味しいご飯が欠かせない。だから生きるといことを決意表明するために、ちゃんとご飯を食べて」

 その言葉が、お椀の温かさが、押し寄せてきた不幸に飲み込まれていた日葉里の心を浮上させてくれる。
 そうだ。自分は怖いのだ。
 夫が死んだのだ。子供はまだ小学校にも上がっていない。高卒でなんの資格もない自分一人で、これから大洋を育てていかなきゃいけないのだ。
 どう考えたって大変で、ちっとも大丈夫だなんて思えない。
 それでも自分は、死にたくない。
 大洋のために生きていきたい。
 だからご飯を食べて、不幸に怯えることなく生きる力を蓄えなきゃいけない。
 春樹が食べられない分、大洋と一緒にご飯を食べて家族の思い出を繋いで生きて行くのだ。
 そんな覚悟を固めるように、日葉里はゆっくりおじやを食べた。