卵を容器に割り入れて、白身と黄身が混ざり合うまで混ぜて、白だし、みりんの他に、マヨネーズと刻んだ大葉を加えてなじませる。
 卵焼きにマヨネーズを加えるのは、マヨネーズに含まれている酢や食塩の力で細菌の繁殖を防ぎたいから。
 大葉を入れるのも同じ理由からなのだけど、大葉は好き嫌いが分かれる味なので、ヘルシー弁当の方に一切れずつ入れるだけで、あとはプレーンの卵焼きにしている。
 熱したフライパンに油を引き、割りほぐした卵を流し込むと、白い煙と共に卵の焼ける柔らかい香りが立ちこめる。
 ぷつぷつと小さな気泡を造って焼けている卵の表面が固まる前に素早く巻いていく。

手前から奥に卵を巻いていく日葉里(ひより)のやり方が『関西巻き』や『京巻き』と言われるやり方だと知ったのは、やどかり弁当で働くようになってからだ。

 家で毅一(きいち)がやるのを見て覚えたからそれが普通のことだと思っていたけど、関東ではやり方が逆で、奥から手前に巻いていくものなのだという。
 後で知ったことだけど、毅一は、若い頃は京都の料亭で修行していたのだという。
 ただお弁当にいれる卵焼きの場合は、手前から奥に巻いた方が、身が詰まって型崩れしにくいからいいらしい。

 そのどちらも、やどかり弁当で働かなければ、知らずに終わったことなのかもしれない。

 黙々と卵焼きを作っていると、店の前で車が停まる気配がした。直後、慌ただしく車のドアが開く音に続いて店の扉が開く。

「日葉里ちゃん、手伝ってくれる?」
「はい」

 自分を呼ぶ女性の声に、ちょうど卵を巻き終わった日葉里は、火を止めてカウンターを出る。
 店の表に顔を出すと、プラスチック製のボックスを抱えた長身の女性とぶつかりそうになった。

「きゃっ」
「はい。これお願い」

 衝突しそうになって驚く日葉里に、女性は自分が手にしていたボックスを押し付ける。日葉里がそれを受け取ると、女性は、素早く身をひるがえして店の前に止めてある車から他の荷物を取り出す。
 テキパキと立ち動くこの女性が、ヤドカリ弁当のオーナーである佐久間理恵(さくまりえ)だ。

「理恵さん、おはようございます」

 荷物を店内に運び入れながら、朝の挨拶をする。
 ボックスの中身は理恵が仕入れてきた野菜で、持つと自然と腕が下がる。

「重いから気を付けてね」

 そう声をかけてくる理恵は、同じくらい野菜の詰まった箱を軽々と抱えカウンターへと運ぶ。

「それは、渡すときに言ってください」

 少々ふらつきながら荷物を運ぶ日葉里を見て理恵が言う。

「日葉里ちゃんがふらつく姿を見て、思い出した」

 理恵の方が日葉里より背が高いが、色白で細身で可憐な印象を受ける。ただそれは見た目だけで、その実かなりの力持ちだ。
 そして、容姿も含めモデルのような見た目をしているのに、かなりの大食らいときている。
 店で働き出した頃、料理の道に進んだ理由を聞いたときに「自分で作った方が、買うよりコスパがいいと思って」と冗談めかして笑っていたが、最近はそれが冗談ではなかったのかもしれないと思う。

(食べても太らない体質が羨ましい)

 日葉里は、摂取カロリーに素直な体質をしている。
 ちなみに理恵が、毅一から昼間だけ『いっこく』を間借りして弁当屋をやっているのも、コスパを重視してのことだ。

「車、駐車場に停めてくる」

 日葉里のもの言いたげな視線に肩をすくめて、理恵は外へと引き返していった。
 残された日葉里は、理恵が置いていったダンボールから野菜を取り出していく。
 小ぶりなジャガイモにアスパラ、白タマネギ、菜の花と、春を感じさせる野菜を並べつつ、今日の献立を予測していく。
 黄色い花の蕾がつく菜の花は、和食弁当ならお浸し、洋食弁当なら白タマネギとあえてサラダにするのかもしれない。

 やどかりの弁当メニューは、洋食弁当、和食弁当、ヘルシー弁当の他に、毎回具材が変わるおにぎり二つと小鉢サイズのおかずが着くおにぎり弁当の四種類がある。
 頼まれれば夜のオードブルや、祝いの席の仕出し弁当を作ることもあるが、基本はその四種類の弁当の昼間の販売がメインだ。

「ありがとう」

 野菜を並べていると、近くの駐車場に車を停めた理恵が戻って来た。
 毛先に緩いパーマをかけた長い髪を一つに束ねると、日葉里と同じやどかり印のエプロンを掛けて手を洗う。
 そうしている間に、彼女の顔から表情が消えていく。
 知らない人が見れば怒っているようにも見えるけど、別に怒っているわけじゃない。高速で頭を回転させ、手際よく作業を進行するための手順を組み立てているのだ。

「卵焼きは、できてる?」
「ちょうど作り終わったところです」

 日葉里の言葉に、理恵がよしよしと頷く。
 理恵はバッドに並べて粗熱を取っていた卵焼きを、店のテーブルに移動させる。
 そして日葉里とふたり、カウンターに入って調理を始める。
 理恵が野菜の表面を撫でるように包丁を動かすと、スルスルと皮が剥けていく。日葉里にはそれが、何度見ても手品のように思えてならない。

「デザートの準備は順調?」

 理恵の手際に見とれつつアスパラを茹でていた日葉里は、ギクリと肩を跳ねさせる。
 ある日突然、遠縁の毅一のもとを訪れ、昼間だけ『いっこく』を間借りさせてほしいと交渉する勇気と行動力のある理恵と違い、日葉里は、言われたことを言われたとおりにやる方が得意なのだ。
 それなのに突然、おやつ作りの全てを任されて、焦るばかりでなにも閃かない。なにを持って順調と判断すればいいかがわからないが、順調でないのは確かだ。

「模索中です」
「いざとなったらフォローするけど、チャレンジはしてみて」

 理恵の言葉にホッと息をつき、日葉里はアスパラを氷水が張られたボウルに移動させる。そうやって鮮やかな緑の色を閉じ込める。

「手が空いたら、冷蔵庫からひき肉と、昨日漬けておいた魚を出して」

 理恵がすかさず、次の指示を出す。
 日葉里はその言葉に従い、冷蔵庫に入れてあった挽肉と真空パックの容器を取り出す。容器の中には、昨日のうちに理恵が下味を付けた魚が入っている。

「挽肉は、松風焼きにするから」
「中になにか入れますか?」

 松風焼きとは、すり身の肉に卵やつなぎの粉を入れて型に詰め焼いたものだ。おせちで見かけるものは、表面にけしの実や胡麻をまぶし、細長い台形に切ったものに鉄砲串やのし串を刺している形の物が多いだろうか。
 おせちの松風を台形に切るのは、末広がりの願掛けと、表面をケシの実や胡麻で飾るのは、古典で松風が『うら寂しい海岸の情景』を現す言葉なので、『うら』と『裏』をかけた言葉遊びなのだとか。
 そんな知識を日葉里に与えた理恵は『ということにして、裏は手抜きしたと思われる』と、彼女らしい見解を添えていた。
 人生における費用対効果。というものを考えた結果、東京を引き払い地元に戻ってきたと語る理恵は、手抜きやコスパという言葉が好きだ。

「じゃあ、次は……」

 理恵は日葉里に次の指示を出しながら、自分は下味を付けておいた魚に片栗粉をまぶし、焼いていく。
 ふたりで忙しく立ち働いていると、いつの間にか夜の名残は消え、繁華街にも清浄な朝の空気が満ちていた。
 料理に夢中になっている間に、時間はどんどん過ぎていく。

『ご飯を作る、ご飯を食べるっていうのは、辛くても死なないっていう決意表明なの』

 料理の熱気を肌で感じていると、春樹を失い、途方にくれていた頃の理恵の言葉を思い出す。