やどかり弁当は、自転車を二十分ほど走らせた場所にある。
 店は駅近くの繁華街にあり、朝早いこの時間に人の姿はほぼない。店から出たゴミを狙ってうろつくカラスや猫の姿が目立つ。
 漂う街の空気は、朝というより遅すぎる夜を引きずっているような気怠さを含んでいる。
 昔は東京に住んでいた理恵の言葉を借りれば、朝日と共に夜が撤退する街は、健全で牧歌的な証拠なのだとか。
 まあ駅近くの繁華街といっても、地方都市なので平和なものだ。
 顔なじみの客が多く、店の入れ替わりも少ない。定期的に店名が変わるキャバクラも、名前が変わるだけで、オーナーはずっと同じという店が多い。
 新幹線の『のぞみ』が停まらないのにひっかけて、『この土地には望みがない』と嘆くのは、お約束の自虐ネタである。

「そして猫も顔見知り」

 繁華街のメインストリートから離れた路地裏に、毅一(きいち)が営む居酒屋『いっこく』がある。この辺の方言で頑固者を意味する店名は、主の性格をそのまま反映させたものだ。
 そんな『いっこく』の店先の前では、顔見知りの野良猫がくつろいでいる。
 パタンパタンと、尻尾でリズムを取る茶トラの猫は、こちらを警戒するどころか、見せびらかすように毛繕いをしている。
 店に入られると大変なので、日葉里(ひより)は手をパンパン打ち鳴らして威嚇する。
 音に驚いた猫は、耳をピンと高くして体を起こし、そのまま一気に走り去る。でも三十メートルほど日葉里と距離ができると、その場で毛づくろいをはじめる。日葉里が店に入ったら、戻ってくるつもりなのだろう。

 猫の姿を視界の端に捕らえつつ、日葉里は店の鍵を開ける。
 人気のない店内は静かで、空気が濡れているような気がする。
 油や煙が染みついた店内のかおりに、毅一を思い出す。
 職場も住居も同じ場所なのに、生活サイクルが違うので、毅一と顔を合わせることはほとんどない。
 実の親子だけど、学生の頃から口数が少ない毅一と一緒にいるのは気詰まりだった。だから、今のこのくらいの距離感がありがたい。

「さてっ。まずはお米を……」

 日葉里は、扉を閉め調理場に回る。
 手を洗ってマスクをして、簡略化されたやどかりのイラストがついたエプロンを掛けると、頭が仕事モードに切り替わっていく。

 身支度を整えたら、まずはお米研ぎだ。
 やどかり弁当では、二種類の米を炊く。
 一つは白米、もう一つは女性に人気のヘルシー弁当に使う用の雑穀米だ。
 米を研ぐとは言っても、精米技術が発達した今の時代、あまりぬかが残っているわけではないので、揉むように洗う必要はない。逆に研ぎすぎると米粒を割ってしまうことがあるので、多めの水の中で濯ぐような気持ちで優しく水の中で米を混ぜては水を入れ変えていく。
 とくに最初の一回は、乾燥していた米が一気に水を吸収しようとするので、米に付着していた不純物を洗い流すために水は素早く変えたい。
 そのため日葉里は、ボウルにザルを重ねて、そこにお米を入れて水洗いし、ザルを浮かして水切りをして水を入れ替えるようにしている。

 とくに雑穀米に使う方は、丁寧に洗わないと匂いが気になるので最初が肝心だ。
 米を洗ったら、一時間ほど寝かせて水を吸収させる。炊く前に雑穀米の方には米と雑穀が均等になるようにかき混ぜる。

 白米の方は、水と一緒に少量の蜂蜜を入れておく。
 そうすることで時間が経ってもパサパサになりにくいと共に、蜂蜜に含まれているアミラーゼという酵素が、お米のブドウ糖を分解してお米の甘みを引き出してくれる。
 と、語れたらカッコいいのだけど、すべては、オーナーである理恵の受け売りだ。

「ご飯を作る、ご飯を食べるっていうのは、辛くても死なないっていう決意表明なんだから」

 ポツリと呟き、日葉里は卵焼きの準備を始める。