弁当屋で働く徳増日葉里の朝は早い。
午前五時半。スマホのアラームが鳴る。
一緒に眠る息子の大洋を起こさないよう、素早くそれを止める。
隣を確認すると、小学校一年生の大洋は、健やかな寝息を立てている。
まだまだ幼い顔立ちだけど、それでも父親である春樹の面影が見て取れる。とくに耳の形なんてソックリだ。
それがうれしくて、日葉里は、起こさないよう気をつけながら大洋の耳たぶを指先でつついてから寝床を抜け出す。
(そういえば春ちゃんの実家の地域は、遠州大念仏やるよね。初盆七月にやるって言ってたし、春ちゃんの家で大念仏やるかな?)
寝ぼけた頭でそんなことを考えるのは、昨日、義母の優子から受け取ったメッセージのせいだ。
床板が軋む狭い廊下を歩く日葉里は、左手の結婚指輪に視線を落とす。
優子から届いたメッセージには
【お弁当屋さんの仕事も忙しいとは思うけど、七月の初盆に大洋と一緒に参加してもらえますか?】
と書かれていた。
今はまだ5月の末、耳の奥にはたこ祭りのラッパの音が残っているのに気が早い。
「そうでもしてないと、お義母さんも落ち着かないんだよね」
一応の理解を示すけど、どこか他人行儀なその文面に、自分は徳増家の嫁ではないと言われているようで悔しい。
義母が、若すぎる自分たちの結婚を反対していたことは重々承知している。
そして春樹がいなくなった今、義母にとって日葉里はもう、徳増家の嫁ではないのだろう。
こみ上げる感情を飲み込んで、大洋と一緒に参加させてもらうと連絡を返したのは、息子を亡くした彼女も深く傷付いていると感じるからだ。
昨日はそこまで意識していなかったけど、大洋の実家がある地域は、大念仏で支社を弔う習慣があったはず。
日葉里も大洋も同じ遠州の生まれだけど、この地域は山や湖が多く昔は交通アクセスが悪かったせいか、地区にごとに文化が分断されている。そのため同じ土地で育ったはずなのに、日葉里は二十七歳になるこの年まで大念仏なるものを見たことはない。
「ニュースで観たことはあるけど、初めて実際に見る大念仏が、自分の夫の初盆っていうのも、どうかと思う」
ポソリと呟き、玄関の新聞受けから郵便受けの新聞を回収して台所へと向かう。
築三十五年、そこそこ年季の入った平屋の一戸建ての錆びた郵便受けには、【中村】と擦れた文字が表記され、その横に真新しい文字で【徳増】とある。
日葉里が一度この家を出たのは八年前、十九歳になる秋だった。
家を出た理由はいたってシンプル。高校を卒業して、近くの工場に就職した日葉里が、同じ職場の二つ年上の春樹と結婚するためだ。
両親が早くに離婚し、日葉里は無口な父・中村毅一に育てられた。
片親で育てた負い目があったせいか、毅一が早すぎるふたりの結婚に反対することはなかった。
だけど春樹が海の事故で亡くなったことで、日葉里は大洋を連れて再び毅一と暮らしたこの家に戻ってきたのだ。
間取りの関係で、台所に入るには居間を抜ける必要がある。
「おはよう」
通り抜けるとき、いつも居間の棚に飾られている春樹の写真に挨拶をする。
春樹の遺骨は、彼の両親が入る予定の中村家の墓に収められ、仏壇も位牌も両親のもとにある。分骨も認めてはもらえなかった。
だから写真と一緒に置かれているのは、春樹の結婚指だけだ。
この家の主である毅一のる毅一に禁じられているので、陰膳や花や線香といったものも備えていない。
毅一曰く、別々に供養されては、死者が落ち着かず成仏出来ないだろうし、中村の家でちゃんと供養をしていないと暗に批難しているようで向こうの家に失礼とのことだ。
毅一が、どこまで本気でそう考えているかはわからない。昔から花を家に飾る習慣のないので、ただ単純に面倒くさく感じてとりあえず禁じただけかもしれない。
居候の身といては反論できないし、まだ危なっかしい大洋が勝手に線香を上げようとして火事にでもなるといけないので、その意見に従っている。
本音を言えば、鮮やかな笑顔でこちらに視線を向ける春樹の写真に、花や線香を供えられるほど、感情の整理が着いていない。
日葉里の中で、たくさんの思いが難しく絡み合っている。
新聞を居間の机の上に置き、台所に入った日葉里は、なるべく音を立てないよう注意しながら朝の準備をしていく。
毅一は駅近くの繁華街で居酒屋を営んでいるため、昼夜逆転の生活をしているからだ。