客足が途切れたタイミングで、日葉里(ひより)はなんとはなしに自分のスマホを確認した。
 そして着信ありの表示に驚いた。
 メッセージアプリではなく、電話の着信に緊急性を察して履歴を開くと大洋の学校からだった。

「えっ!」
「どうかしたか?」

 思わず声を上げる日葉里に、榎波(えなみ)が聞く。
 それには答えず「一瞬、店番お願いします」と言い置いて、その場を離れた。
 大洋が学校にいる時間に連絡があるということは、本人になにか起きたのだ。
 人はそう簡単に死なないことぐらいわかっている。
 それでも働き盛りの夫をあっさり事故で亡くした日葉里は、冷静ではいられない。
 指先が冷たくなるのを感じつつ、日葉里は着信履歴から学校に電話をかけた。
 短いコール音ですぐに電話に出た女性職員は、不在着信を受けた旨を伝えると、一年生の学年主任という男性に電話を替わってくれた。

「お世話になります。一年の徳増大洋(とくますたいよう)の母ですが…………。あっ、どうもお世話になります。……えっ熱……。えっ、祖父に連絡した?」

 学年主任を名乗る男性は、登校してきた大洋が赤い顔でだるそうにしていたので熱を測ったところ、三十八度を超えていたことを教えてくれた。
 そして迎えに来てもらうために日葉里に電話したのだが、連絡がつかなかったので、第二連絡先の祖父、日葉里にとっては父親である毅一(きいち)に電話して迎えに来てもらい、すでに帰宅したことを教えてくれた。

「ご迷惑をおかけしました」

 お礼を言って電話を切った日葉里だけど、やり場のない苛立ちで心がざらつく。

(どうして、お父さんに電話しちゃうかな)

 居酒屋を営む毅一は、いつも昼過ぎまで寝ている。電話に出られなかった自分が悪いのはわかっているけど、毅一を起こした上に学校まで迎えに来させるなんて。
 履歴を見ると、着信があったのはちょうど車を運転しているくらいの時間だ。
 いつもは助手席に置いてある鞄が、今日は後部座席に移動していたので、音に気付きにくかったのだろうか
 それでもしつこく電話してくれれば、気付いたはずだ。それなのに一度切りの着信で、日葉里と連絡を取ることを諦めて毅一に電話されたことが恨めしい。
 弁当の販売をほっぽりだして大洋を迎えに行けるわけがないのに、それでも腹立たしく思ってしまうのは、毅一との約束があるからだ。

(甘えないって、約束してるのに)

 下唇を噛んで、榎波を見た。
 日葉里の接客を見てスマホ決済のやり方も理解しているらしく、愛想は悪いがそつなく対応している。もうしばらく、一人で店番をさせても問題ないだろう。
 日葉里は、毅一に電話を掛けた。

「もしもしお父さん、迷惑かけてごめんなさい。大洋は?」
『寝てるよ。昔でいうとこの、おたふくだとさ』

 電話の向こうの毅一は、酒焼けした擦れ声で答えた。
 病名を断言するということは、受診も済ませたのだろう。

「ごめんなさい」
『朝起きてきたときに、気付かなかったのか?』

 そう言われて、今朝、抱き上げた大洋の体が汗ばんでいたことを思い出す。
 それに大洋が抱っこを求めてきたのは、本人も無意識に体の不調を感じて、怠かったからなのかもしれない。
 あのとき大洋の体温を測っていれば、毅一に迷惑かけることはなかったはずだ。

(親なのに……)

 胃の下にジワリとした不快なものが込み上げてきて、親としての義務を果たせていないと、学校の先生や剛志に責められているような気分になる。
 再度榎波に視線を向けると、新たに訪れた客を接客している。
 お弁当の在庫は、残りわずかだ。
 数個の売れ残りには目を瞑り店を片付けて、引き上げてもいいだろうか。
 店に帰っても、もちろんそれで仕事が終わるわけじゃない。売り上げの集計をし、明日に向けての仕込みや釣り銭の補充といった仕事もある。
 だけどそれらの雑務は、理恵と智子のふたりだけでもやれるはず。幸い今日は、榎波もいる。
 事情を説明すれば、早退させてもらえるだろう。

(よく考えたら、榎波さんがいるんだから、ここを任せて帰っても大丈夫かな?)

 ただその場合、ここからバスかタクシーを使って家に帰る必要がある。
 そんなことを考えながら、日葉里は毅一に言う。

「ごめん。……早退できそうだったら帰るから、お父さんは、今からでも寝て……」
『甘えるなっ!』

 毅一の厳しい声に、日葉里は口を噤んだ。

「……」

 甘えたくないからこそ、急いで帰ると言っているのに。
 そう言い返す前に毅一が大きく息を吐いて言う。

『母子家庭の母親ってことに甘えるな。この状況は、目の前にあるやるべき仕事をほうりだしてまで駆けつけるほどの一大事か?』
「だって……」
『大洋は、受診もして薬を飲んで寝ている。オレも今からもう一度寝るが、赤ん坊じゃないんだから、なんかあったら起こすだろ。今からお前が帰ってきても、音で起こされて邪魔なだけだ』

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

「でも、甘えるわけには……」
『オレは、母親なんだから悲劇のヒロイン気取って不幸な状況に甘えるな。子供がいることを口実に仕事で甘えるなとは言ったが、頼るなと言った覚えはない。家族なんだから、必要なときは頼ればいいだろ』
「――!」

 家族という言葉が、日葉里の心の中で複雑な音をたてて響く。
 毅一はひとりで店を切り盛りしながら日葉里を育ててくれた。
 その苦労に感謝すべきなのに、母を家に引き留めることができなかった父を、心の底で頼りないと否定していた。
 思春期の頃には、消化しきれない思いから反抗的な態度を取っていたこともある。自分は決していい娘ではなかったが、毅一は、親だからという一言で日葉里の全てを受け止めてくれた。
 そして日葉里が大人になった今も、毅一は親として祖父として、自分や大洋を当然のように支えてくれる。
 複雑な感情が渦巻く日葉里に、毅一が諭すように言う。

『お前の生き方を、大洋が見ている。子供を言い訳に、目の前の仕事を投げ出すような恥ずかしい生き方はするな。お前が可哀想な親でいることで、大洋を可哀想な親の子にしてしまう。それだけはしてやるな』
「……」

 その言葉はきっと、毅一が、自分で自分に言い聞かせていたものなのだろう。
 母親になった今、記憶の中にある毅一の姿が子供の頃とは違ったものとして映る。
 あの頃の自分は、父の背中を見てもなにも学んでいなかった。
 甘えるなという毅一の気持ちを、今頃になってやっと理解する。

「……ごめん。大洋のことよろしく。まだ仕事あるから電話切るね」
『おう。じゃあな』

 素っ気なく答える毅一が、電話を切る間際に『頑張れよ』と、付け足してくれた。

「ありがとう」

 慌ててそう返したけど、すでに通話が切れた後だった。
 それでもいいと、日葉里はもう一度「ありがとう」と呟き、目尻に浮かんだ涙を拭う。
 スマホをしまって、両頬を軽く叩いて日葉里は小走りに榎波のもとに戻った。