「俺が上げた単語帳に、書いてあったから」
「単語帳、ですか。大事なことを覚えるものですね」
「大事なこと」
「そこに書かれていたことを読み取れたのは、それをあげたのが一石くんだったからですね」


 返事もできないほど、疑惑が圧し掛かった。本当に先生の言う通りなのだろうか。俺は辛城のやりたいことを、やり遂げる手伝いをできたのか。あれでよかったのか。
 結果論でしかない疑問が頭の中をぐるぐると回っている。

 残りのコーヒーを飲み干すように、先生は煽った。はぁ、と息を吐いて、勢いよく立ち上がる。


「主治医としてお礼を言わせてください。辛城さんを幸せにしてくれて、ありがとうございます」


 返事はできなかった。先生は大きく、深く頭を下げて、室内に戻って行った。

 一人、ベンチで空を見上げた。
 辛城がいなくなった世界がこんなにもつまらなく感じるとは思わなかった。辛城がいる時間帯は、まだ生きた心地がしていたのだと失ってから気付く。これからどうしようかと、この数日悩み続けている。


「……「やりたいことのために、頑張れ」、か」


 そう言って背中を押してくれたのも懐かしい。
 自分のやりたいことが曖昧だったあの頃、ひとまず敷かれたレールに乗っていくしか思いつかなかった。


「悩んで苦しんで、逃げて踠いた結果なら、それらは幸せに必要なもの」
 それなら、今この無為な時間も、これからのために必要なのかな。俺の幸せがどんなものか、想像もつかないけれど、でも、この悩んでいること自体、幸せの糧になるのかな。


「俺は何がしたいかな」


 いろんな職業を見た。
 美容師。リハビリ。介護士。医者。看護師。タクシー運転手。大家。福祉用具業者。医療事務。多かれ少なかれ、辛城がいてくれたから知ることのできた職業。俺の経験となった『辛城』。やりたいものは、この中にあるかな。

 空を見た。何もなかった。周りを見た。誰もいなかった。言うだけ言ってみようか。聞こえないかもしれないけど、聞くだけ聞いてくれないかな。


「俺、今までやりたいことなかったんだよ。やれって言われることしかできなかった。そんな状況で、苦しくて、本気で溺れるかと思ってたんだよ。自分一人じゃどうしようもない圧迫感で、誰かに助けを求めたかった。けど、誰に助けを求めたらいいかわからなかった。言う相手のない愚痴や文句に、声を宿すという気力は無駄でしかないと思ってた。みんなと同じところに行きたいだけなのに、みんなと同じようにできない。自分がだめなんだって思って、思い込んで、それが一番楽なんだと水を吸って生きてきた。人間は息を吸わないと生きていけないのにね」


 コーヒーに手を伸ばした。カチ、とプルタブを開けると、茶色い液体が見える。無意味に一気飲みした。甘い。


「辛城といるときは息ができていたよ。ありがとう」


 ベンチから立った。煙突からでる煙は消えていた。そろそろまた集まる頃だろう。


「俺、やりたいこと、できたよ。辛城の一生を『運が悪かった』で終わらせない。終わらせて溜まるか」


 空の缶コーヒーを掲げた。それは誓い。解くことが大好きな俺の、宿敵に任命した奴を倒すための。


「俺は医者になる。医者になって、病気を知り尽くして、暴いてやる。病気(てき)を知らなきゃ戦えない。知って、公式を覚えて、冷静に、ミスを見つけるんだ。ミスが見つかれば治せるかもしれない。治すにはどうしたらいいか、また公式を見つけるんだ。一生懸命戦っている患者(ひと)の助けになれるよう――病理医になる」


 空に浮かぶ雲は太陽を隠した。隙間から光が漏れて、眼が陰って、また隠れる。うっすらと開いた瞳のような輝きにも思えた。もしくは、光の中に浮かぶ黒い何かを見た。


「いってきます」


 飲み切った缶を片手に、足は交互に進みだす。風が優しく吹いている。黒い煙が上がっていた煙突の近くに、黒い鳥が止まっていて、眼があったと思ったら飛んで行った。
 艶やかな黒を見て、口角が上がった。