九月、某日。
 青い空と白い雲が半々を締めている天井の下。煙突から黙々と黒い煙が出ているのを、建物の外のベンチから眺めている。


「大丈夫ですか?」


 室内から声をかけてきたのは榊原先生。いつもの白衣ではなく、黒いスーツと黒いネクタイ。つまりは……そういうことだ。
 優しそうな笑顔ではなく困り顔。両手に持ったコーヒーの内、片方を俺に差し出して隣に座った。


「……ありがとうございます。大丈夫かは……わかんないです」
「と、言いますと?」
「そのまんまです。大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか。大丈夫じゃないならなんなのか」
「そうですか」


 せっかくもらったコーヒーだが、飲む気にならない。
 最近はずっとそうだ。家での食事も、コンビニ弁当も、外食も、とりあえずは食べてもなにも味がしなかった。食事が美味しくないと、楽しくないと、何も食べる気がしない。体重はここ数日で2kg落ちた。
 先生は自分で持ってきたブラックコーヒーを少なめに飲んだ。


「外出日、辛城さんはどんな様子でしたか?」
「どんな……そうですね、沢山、話をしました」
「ああ、それは良いことだ」
「ココアも飲んでくれました。チョコレートも一口食べて。最期……さいごは、寒いって言うから、一緒の布団に入って……二人で寝ました」
「……そうですか」
「俺の方が先に起きてて、部屋は真冬の外みたいに冷え切ってました。泣いた跡を残したままの寝顔は……どこか笑ってるように見えて、いや、俺の都合のいい解釈だと思うんですけど。でも……こっちの気も知らないで、幸せそうな顔して眠てやがる、って思いました」
「幸せそう、ですか」
「はい。そんな辛城に、小さく「おはよう」って言いました。でもぐっすりだったので、起きることはなかったです」
「そうでしたか」


 淡々、淡々と。その時あったことを思い出しながら、先生に話していた。

 その目覚めた日は、外はまだ暑くて、冷房の中から出るのは良くないと思った。一応の報告として先生に連絡を入れて、一時退院の予定を確認して。大家さんにも一報を入れて、静かにその時を待った。迎えのタクシーが着く前に、私服姿の先生が来た。自宅で体調を確認しておきたいということだった。私服の先生は新鮮だなと思った記憶がある。


 隣の先生はまた一口、コーヒーを飲んだ。
「僕、嫌いな言葉があるんです」
「嫌いな言葉?」
「『運が悪かった』って、大っ嫌いなんですよ」


 先生の突然のカミングアウト。何を言い出すのかと思わず先生を見たが、別に何の変哲もない顔をしていた。何の変哲もない顔で、嫌いな言葉について語る。


「嫌いな言葉ではあるのですが、患者さんたちに対してはどうしても『運が悪かった』という場面がどうしてもあります。辛城さんもそうでした。事故にあわなければ。一緒に住む人がいたら。発見が早ければ。感染症を発症しなければ。もっと早く、病院に来てくれていれば。もっと早く、目覚めてくれていれば。これらはどうしても運が関係してしまう。努力ではどうしようもない。大っ嫌いです」
「そうですね……俺も、大っ嫌いです」
「でも、幸せそうにしていたのなら、それは君のおかげです」


 先生は俺を見た。優しい、慈愛に満ちた顔で。
 風が止まった。先生と目が合う。少し潤んでいる。


「俺の……?」
「はい。君だから辛城さんは沢山話をして、ココアを飲んで、チョコレートを食べて、一緒の布団に入った。君じゃないとできないことだったでしょう」
「そんなの……たまたま、俺が知り合いだったからですよ」
「そう。たまたま、知り合ったのが一石くんだった。けれど、そのたまたま知り合った一石くんだからこそ、手紙を残してやりたいことを伝えたんです。最期の願いを叶えてくれるかもしれないと思ったんですよ」
「俺じゃなくても、できたことですよ」
「誰が?」
「誰がって……先生とか、大家さんとか」
「僕たちはココアを飲む習慣は知りませんでした。チョコレートが食べたいと聞いたことがありませんでした。髪を染めたいとは知りませんでした。これらはすべて、君だからわかったことです。」
「俺、だから……」
「なぜ、君は彼女のやりたいことがわかったんですか?」
「それは……手紙……と」
「と?」


 ―― 俺があげた公式帳にも、書いてあったから……。