『何か抱えてることがあるなら、打ち明けた方がいいよ』
「え……」
『今に不満があるから家出したんでしょう? 相手や現状を変えるには、自分が今までやってなかったことをやってみるのがいいよ』
「今までやってなかったこと……?」
『私が……一石くんを頼ったように』
「……」
『君は立派で、私なんかよりもずっとずっとすごい人。そんな人でも辛そうにしてて、心配で、でも、同時に嫉妬してた。家族も友人も学力も持ってる人が何を悩んでるんだって。平気そうに笑ってるくせにって、思ってた』
「平気そう、に、見えたんだ」
『うん。謝らなきゃって思ってた。辛い思いをしてるってわかってるのに、平気なわけがない』
「別に……こんなこと、言わなきゃわかんなかったのに」
『わかんなかったろうけど、言わなきゃ前に進めない』


 前に進む、ためと。そのために言わなくてもいいことを言ったのか。
 いつのまにか寄っていた眉根が解ける。『言わなきゃ前に進めない』というのは、小さい棘を残したまま喉奥に入っていく。

 言うことが難しい俺にとってはとてもハードルが高い。ただ、辛城が今言ったのは、俺に言わせるためというのもあるだろう。俺が多少なりとも不快感を覚えるのもわかっていたんだろう。

 俺を見つめ続ける辛城を見つめ、ゆっくり、視線で追えるスピードで抱きしめた。

 温かいような、冷たいような体だった。どうして抱きしめているのかはわからない。何故か抱きしめたくなった。なんで今更そんなことを言うのか、わかりたくなかった。

 彼女は抵抗しない。抵抗できない。抵抗する気がないのか、全身に力が入る様子もない。

 辛城の肩口にある俺の頭。辛城の香りとベッドに挟まれて息が苦しい。肩に頭を乗せた。薄目を開ければ辛城の鎖骨と、その下に垂れる腕が見える。顔が空気に触れて、息がしやすくなった。

 息を溜めた。貯めて溜めて、溜め込んで。けれどいくら溜め込んでいても、吐き出さなければ呼吸はできない。水の中に潜ったときのように、どれだけ息を貯めても、いずれは吐き出さなければならない。出したくないのと、出してしまいたいのと真逆の欲求の戦いに、俺は今まで抱えていた『我慢』と名のついた空気を吐きだした。


「俺だって辛いことぐらいあるさ!! あるけど見せないように努力してきた! 見せないようにするのも辛い!! だけど「辛い」と言ったところで何になる! 誰に伝わる! 誰が助かる!? 誰が何をしてくれるっていうんだ! 誰に何を言ったらいいかわからない! 言った側はなんて思うかわからない! そこまで言うほどの間柄なのか!? そう思ってるのは俺だけじゃないのか!? 言ったところで負担になるだけかもしれない! 言ってみないとわからないだろうけど! 言ったところでもう遅いんだよ!!」


 貯め込んだ息以上の言葉を吐き出して、息切れが止まらない。
 頭がボーっとする。酸欠だ。息を吸わなきゃ。


「……ある程度の理解力がある。だからこそ、自分が中途半端なんだって自覚できるんだ。どれだけ努力しても、成功者を参考にしても、その域には行けない。それがわかってても受け入れたくない。足掻いてることを知られたくない。だから虚勢を張って、ただ笑ってるんだよ。誰にも頼らず、ただ自分が悪いって思ってるのが、一番息がしやすいんだ」


 荒らげた呼吸をただ静かに聞いている、俺に囚われている君。

 腕を緩めて、辛城のことを恨めしく睨んだ。ただ見つめるだけなのに。いつもの、光を宿さない死んだ目をしているそれが、何事も吸い込んでいくような黒い渦にも見える。感情がないようにも、なぜか満たされているようにも見えてしまって、より悔しく、恥ずかしく、嫌だった。

 まだまだ呼吸は落ち着かない。肩で息をして、体が酸素を求めてる。
 のに。


『苦しいね』


 ―― わかった気になるな。


『表面しか見てなかった、ごめんね』


 ―― わかってほしくなんてない。謝る必要なんてない。


『知りたかったな。もっと。きみのこと』


 ―― 知られたく、なかったよ。


 胸元の、少し乾燥した肌を口元に押し付けられる。頭の後ろから両腕で抑えられ、呼吸がしにくくなる。体が密着して、温かいような、冷たいような温度を、全身で感じとる。

 ベッドの上は、静かだった。声も、涙も、息も。何も聞こえず。ただ、耳元にだけ、心臓の音がゆっくりと聞こえてた。

 息を吸う音が、聞こえた。