『美味しかった。ありがとう』
「お粗末様です」
数ミリだけ、マグカップの内側がココアで染まっている。一口分にも満たない誤差だった。辛城にはそれで満足だったのだろう。俺も自分の入れたココアを一口飲んでみた。記憶にあるのは温かいココアだったが、常温はまた新鮮な甘さだ。
『髪、染めてくれてありがとうね』
「何度目?」
『何度でも言うよ。埃かぶってるみたいだったでしょ』
「そんなこと思わなかったよ」
『本当に?』
「本当」
『凄く嬉しかったの。今まで灰色の髪が嫌いだったから。浦島太郎みたいで』
―― そっち?
なるほどそういう発想もあったのか。納得。
心を読まれたのか、じろりと睨みつけてくる。
「あ、チョコもあるよ」
そそくさと立ち上がって、冷蔵庫の中からギフト用にラッピングされたチョコを出す。バレンタイン用チョコはとうに売り切れていた。板チョコでは味気ないので、少しでも見た目も楽しめるものを選んだ。一口が大きいので小さく、薄いもの。口の中で溶かしてならば食べてもいいと言われた。
『一つ食べたい』
「はい」
包装を剥がし、くすんだ色の唇の隙間にチョコを入れた。抵抗なく入っていったそれは、辛城の口腔内の温度でじんわりと融けていく。目を閉じていた。味わっているのか、頬が動く。
『甘いね。でもくどくない』
「いいチョコレートだよ」
『バレンタインではいろんな種類でいっぱい売ってるんだよね。見て見たいな』
「……最近は、自分用にも買う人がいるんだよ」
『そうなんだ。楽しいだろうな』
言葉の節に感じる、他人事感。気付かないように振る舞った。迂闊ということももちろん、自分の恐怖心とも相まって、何も言えなかった。
チョコレートは一枚で満足と言うことで、また冷蔵庫に戻しに行く。冷蔵庫の扉を開けながら考える。
時刻は十七時を回る。まだ外は明るいが、さてどうしようかと。水分はとるが食事はしない、そしてお風呂も自宅では入れない辛城は、これからの時間は何に追われるでもない。だからひたすら俺と話していていいのだ。ただ、何でもとなると何から話そうかとなってしまった。
散歩……は疲れてしまうだろう。冷蔵庫を閉じて、ベッドの横に腰掛けた。
辛城がスマホを叩く。
『おうちは、大丈夫?』
それは、懐かしい質問だった。
辛城が見れない。辛城の手元のスマホの文字を舐めるように読んでしまう。
「大丈夫、って……?」
『家出するほどのことがあったでしょう」
去年のことを言っている。眠っている間に忘れてしまってもおかしくはないほどの年月が経っているが、辛城にとっては比較的最近の出来事なのだろうか。家族の話は気まずさがどうしても付きまとう。
どういう意図で聞いているのだろうかと、探るつもりで目線を上げた。辛城の黒い瞳に俺が写っている。 俺をまっすぐに見つめる瞳は、眠気を含んでいるように据わっている。見透かされていそうな力のない眼に吸い込まれて、ただ素直に答える以外の選択肢は考えられなかった。
「逃げ出したく、なるよ」
『うん』
「辛城の病室を借りて、家から離れて、勉強させてもらってる。大学受験のために」
『おうちは苦しい?」
「苦しい……ね。うん。苦しい」
水の中にいるみたいに。家の中は俺にとっては水槽だ。勉強して、成績を出していないと息継ぎの仕方を忘れてしまう。息継ぎを忘れると喋れないし、何を考えていたかもわからなくなる。言いたいことがあっても空気がなくて声が出ない。パニックになって、逃げ出したくなる。
だから。だからこそ。辛城という人工物が呼吸を教えてくれていたんだ。
辛城のゆっくりした瞬きをただ見つめる。首が傾いた。俺の下の死角から、辛城の手が伸びてきた。
「っ」
手の甲が俺の頬を撫でた。さらり、と静かに通り過ぎて、元の位置に戻る。
初めてのふれあいに鼓動が早まる。
「お粗末様です」
数ミリだけ、マグカップの内側がココアで染まっている。一口分にも満たない誤差だった。辛城にはそれで満足だったのだろう。俺も自分の入れたココアを一口飲んでみた。記憶にあるのは温かいココアだったが、常温はまた新鮮な甘さだ。
『髪、染めてくれてありがとうね』
「何度目?」
『何度でも言うよ。埃かぶってるみたいだったでしょ』
「そんなこと思わなかったよ」
『本当に?』
「本当」
『凄く嬉しかったの。今まで灰色の髪が嫌いだったから。浦島太郎みたいで』
―― そっち?
なるほどそういう発想もあったのか。納得。
心を読まれたのか、じろりと睨みつけてくる。
「あ、チョコもあるよ」
そそくさと立ち上がって、冷蔵庫の中からギフト用にラッピングされたチョコを出す。バレンタイン用チョコはとうに売り切れていた。板チョコでは味気ないので、少しでも見た目も楽しめるものを選んだ。一口が大きいので小さく、薄いもの。口の中で溶かしてならば食べてもいいと言われた。
『一つ食べたい』
「はい」
包装を剥がし、くすんだ色の唇の隙間にチョコを入れた。抵抗なく入っていったそれは、辛城の口腔内の温度でじんわりと融けていく。目を閉じていた。味わっているのか、頬が動く。
『甘いね。でもくどくない』
「いいチョコレートだよ」
『バレンタインではいろんな種類でいっぱい売ってるんだよね。見て見たいな』
「……最近は、自分用にも買う人がいるんだよ」
『そうなんだ。楽しいだろうな』
言葉の節に感じる、他人事感。気付かないように振る舞った。迂闊ということももちろん、自分の恐怖心とも相まって、何も言えなかった。
チョコレートは一枚で満足と言うことで、また冷蔵庫に戻しに行く。冷蔵庫の扉を開けながら考える。
時刻は十七時を回る。まだ外は明るいが、さてどうしようかと。水分はとるが食事はしない、そしてお風呂も自宅では入れない辛城は、これからの時間は何に追われるでもない。だからひたすら俺と話していていいのだ。ただ、何でもとなると何から話そうかとなってしまった。
散歩……は疲れてしまうだろう。冷蔵庫を閉じて、ベッドの横に腰掛けた。
辛城がスマホを叩く。
『おうちは、大丈夫?』
それは、懐かしい質問だった。
辛城が見れない。辛城の手元のスマホの文字を舐めるように読んでしまう。
「大丈夫、って……?」
『家出するほどのことがあったでしょう」
去年のことを言っている。眠っている間に忘れてしまってもおかしくはないほどの年月が経っているが、辛城にとっては比較的最近の出来事なのだろうか。家族の話は気まずさがどうしても付きまとう。
どういう意図で聞いているのだろうかと、探るつもりで目線を上げた。辛城の黒い瞳に俺が写っている。 俺をまっすぐに見つめる瞳は、眠気を含んでいるように据わっている。見透かされていそうな力のない眼に吸い込まれて、ただ素直に答える以外の選択肢は考えられなかった。
「逃げ出したく、なるよ」
『うん』
「辛城の病室を借りて、家から離れて、勉強させてもらってる。大学受験のために」
『おうちは苦しい?」
「苦しい……ね。うん。苦しい」
水の中にいるみたいに。家の中は俺にとっては水槽だ。勉強して、成績を出していないと息継ぎの仕方を忘れてしまう。息継ぎを忘れると喋れないし、何を考えていたかもわからなくなる。言いたいことがあっても空気がなくて声が出ない。パニックになって、逃げ出したくなる。
だから。だからこそ。辛城という人工物が呼吸を教えてくれていたんだ。
辛城のゆっくりした瞬きをただ見つめる。首が傾いた。俺の下の死角から、辛城の手が伸びてきた。
「っ」
手の甲が俺の頬を撫でた。さらり、と静かに通り過ぎて、元の位置に戻る。
初めてのふれあいに鼓動が早まる。