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「……来ない」


 何十分。一時間近くは待った。家を出たのが星が見え始めた二十時前。携帯を見れば、二十一時を回っていた。
 辛城もとい、トオルと呼ばれていた人らしき人は見えない。
 平日なのに、人であふれかえっている。もしかしたら、来たけど見つけてもらえなかったのだろうか。それとも来れなくなってしまったのか。ここで待っていても無駄だろうか。
 本音は、もう少し待ちたい。けど、本当の本音は、来るまで待ちたい。


「……帰るか」


 理想と現実は仲が悪い。現実では叶わないから、理想というものができてしまうのか。
 高校生である俺は、あまり外をうろつくことはできない。特に、今日は父親が家にいる。いつもは病院で寝泊まりしているくせに、何故今日に限って帰ってきているのか。後ろ髪をこれでもかと引っ張られるが、家に鎮座する影に吸い寄せられるように帰路につく。足が進み始めた、その時。


「君、高校生?」


 大人の女性の声に反応して、俺であるとは限らないのに勢いよく振り向く。


「こんな時間に何してるの?」


 青い制服を着た、女性警察官さん。ペアの人だろうか、後ろに男性警察官もいる。
 内心、がっかり。


「君。どうしたの?」
「あ、はい。いえ。散歩してたんですけど、いつの間にかここまで来ちゃって」
「だめじゃない、しっかり周りを見てないと」
「すみません……」


 むしろしっかり周りは見てました。なんてことは言うはずもなく。怒られたこと。人違いだったこと。やっぱり期待していたこと。トリプルパンチで、顔は上にも前にも向けない。後ろ向きな気持ちで、足元しか向けないまま、今度こそ諦めようと警察官のお二人に背中を向けた。


「あっ! もーどこ行ってたの!?」
「ぅえ!? えっ」
「ほらっ、迎えに来たよ! タクシー待たせてるから早く帰るよ!」
「え、えっ」
「あ! ちょっと待ちなさい!」
「ほらーっ、走って走って!」


 強引に腕をひかれる。長い髪が腕に当たって、優しく撫でる。火照っていた体はとうに冷めていたはずなのに、引かれる腕と髪が触れている部分だけが、熱い。後ろからの静止の声に聞く耳を持たず、ただただ急かす声が、足の回転を強制する。


「ほらっ! 乗った乗った!」
「は、はいっ。うわっ」
「行ってください! 道案内します」
「はいよー」


 押し込まれた車内で、動き出したのを感じ取る。圧されて姿勢を崩したのを直せたのは、時計台がもう見えなくなってからだ。タクシーの後ろの窓を見ても、警察車両は……ない。


「はぁ」


 息が漏れる。何やら怒涛な時間が過ぎた気がする。


「何をしていたんですか?」


 さっきまでの明るというか、元気というか、ポップな声はどこへやら。学校で聞いた時のような、低く、暗く、淡々とした声が、隣の人物から発せられた。
そして、今度こそ確信する。


「やっぱり、辛城?」
「……はい」


 ―― ああ、あってた。


「なにしてんの?」
「私が聞きたいのですが」


 隣で背筋を伸ばし、前を向いて、時折運転手に方向を示す。学校にいる時よりも幾重にも綺麗で、可愛くて、生き生きしているその姿は、正直知らない人と言われたらそうかもしれない。それでも。そうだとしても。この目は、変わらず真っ黒で、淀んでいる。
 俺が顔を見ていることに気付いている、とは思う。けれど辛城は、知らないふりをして少しだけ黒目を揺らし、口を開く。


「いきなり私の苗字を呼ばないでください」
「あ……ごめん、なさい」
「……何をしていたんですか? 二度目です」
「いや、散歩してたら、辛城がいて……つい」
「つい……」


 呆気にとられたように、上下の瞼を合わせる。長いまつげが重なり合って邪魔そう。
 ふわーっ、と、欠伸を一つ漏らした彼女、辛城は。自身の頬っぺたを摘む。


「だめだ……一回じゃ……」


 ずっと見続けていたからわかる。目が据わっている。それでも綺麗だと思うのは、俺特有の弱みだ。


「……あの」
「ん?」
「あなたはこの後、時間ありますか?」
「え、……少しなら、大丈夫だと思う」


 連絡を入れないとわからないけど……大丈夫と言いたい。ようやく、夜の辛城と話せたんだから。そう答えると、頬をつまんだ手を離し、ようやく俺を見る。


「そうですか。でしたら、私を助けてください」
「たすける……?」
「あ、ここで大丈夫です」
「はいよー」


 不意に止められた場所で、辛城がひらりと歴史上の人物が書かれた札を出す。それを受け取った運転手は、別の歴史上人物が書かれた札を何枚かと、小銭を合わせて器に乗せた。


「こちらへ」


 片手をひかれる。車から離れ、小さな川にかかった橋を渡る。ちょっとした坂を二種類上がって、少し行った先。街灯はあるがちょっと少ない。畑の横のアパート。三段の段差を登って、突き当りの扉の鍵穴に相性のいいそれを挿す。「どうぞ」
 明るい玄関に通される。誰かいるのかと思ったが、人の気配はない。扉の数や向き的には、キッチンの他に三部屋あるようだ。そのうちの一つの部屋に行くと、ミニマリストなのか、物は極端に少ない。ベッド。テレビ。テーブル。本棚。クローゼット。娯楽のようなものはない。生活感があるというのは、どれほどのものなのだろうか。


「そこ、座っててください」
「え」


 そこ、とさされた場所。それは高校生の俺の勘違いだということにして、ベッドを背もたれにして床に座った。
 特に表情を変えることなく、真顔というか、無表情のまま。キッチンに消えて行ったと思いきや、コップを持って戻ってきた。


「はい」
「あ、ありが……と」


 コップを受け取ると、辛城も座った。隣に。車内とは別の意味で、辛城をガン見する。
 後ろから存在を主張する質素なベッド。辛城を見かけた時、どちらから歩いてきたか。よく見たら色っぽい恰好。艶やかな髪。眠そうに緩んだ目元。甘い香り。
意識しない方が無理だと思う。


「ねぇ」
「っはい!」


 不意に使われる上目遣いは、くる。


「ちょっと立ってくれませんか?」
「……ん、うん」


 少し間が空いたのは、立ってくれと言われるとは思わなかったから。いや、なんと言われても間が開いていたかもしれない。いやいや。この際理由なんてどうでもいいだろう。
 煩悩をかき消すように、勢いよく立ち上がる。


「背、高いですね」
「そう、でもないよ」


 正面に辛城が立ち上がって、目を合わせようとしているのに、どうしても体の中で突出しやすい部分が目に入る。目に入ると、さっきたぶん触れていたときの感触を思い出す。
 顔に熱が籠る。


「目を閉じてください」
「……はい」


 目の周りを、温かい何かが包む。瞼越しに透けていたはずの光が弱くなって、体が揺れる。ぴ、と音がする。腰に何かが添えられる。


「座ってください」


 床にか。と思った。 けど、腰に当たる何かが、向きを変えようと力を込めてくる。それに抵抗せずいれば、床よりも椅子に近い、椅子よりも柔らかい、スプリングが利いた何かに座らされた。


「お願いがあります」


 目元を何かで包まれたまま辛城が言う。声はドクドクと雑音の響く耳元近くで聞こえて、声に匂いはないはずなのに、甘い。膝の間に何かが入ってきて、閉じられない。
 片足に重さが乗る。一方の肩に何かが触れる。耳元で息が吐かれる。


「私を、抱いてください」